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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/18 戸塚伝道師:サマリア・ストーリーF(終)福音、それはいのちの泉 ヨハネ4章39〜43節
☆聖書箇所  ヨハネ4:39〜43
 39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。
40それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。
41そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
42彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」
 43さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。

☆説教  サマリア・ストーリーF最終回 福音、それはいのちの泉
皆さんおはようございます。高津キリスト教会の礼拝によくお出でくださいました。会堂は寂しいんですけれども、オンラインではもう100名以上の方々が来てくださっているということ、本当に感謝いたします。

オンライン礼拝の良いところは、教会の敷居がすごく低くなってしまったということです。
今日初めてこの高津教会のオンラインに参加されている方、もう何の気兼ねもなしに、どうぞこの時間共にお過ごしいただきたいと思います。また他の教会の方々も大歓迎です。とにかくこのオンライン礼拝が祝福され、多くの方々に神さまの恵みが届けられているということ、心から感謝したいと思います。

それでは早速みことばに心を留めたいと思いますけれども、ヨハネの福音書第4章からずっと読んでまいりました「サマリア・ストーリー」今日はその最終回を迎えることです。
「福音、それはいのちの泉」と題して、3つのポイントで恵みを分かち合いたいと思います。

1)イエスさまの語られたことばは実現したということです

サマリアの女性がイエスさまを信じて救われましたけれども、その救いを預言するかのようなイエスさまのみことばがありました。
今日お読みいたしませんでしたけれども、ヨハネの福音書の第4章の10節にこういうことばが書かれています。

10イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

そしてその預言するかのような、イエスさまのみことばはさらに続きます。13〜14節をお読みいたします。

13イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
14しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

とイエスさまは仰いました。
女性はその水を求めました。15節にこうあります。

15彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

水を求めた女性、その結果として渇くことがなくなりました。
28節をご覧いただきますと「彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き」と、水がめを置いて町へ行く程、
そのようなイエスさまとの出会いの喜びに満たされて、心に神さまの恵みが溢れる経験をしたわけですね。
さらに永遠のいのちへの水が湧き出て、人々に伝え、そして人々もその水を飲みたいと言い、多くのサマリア人がイエスさまを信じました。

まさにこのイエスさまの語られたおことば、「わたしが与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがない。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出る」(ヨハネ4:14)というこのイエスさまのおことばは実現したわけです。

2)サマリアの女性が、そして町の人々が、イエスをメシア・キリスト・救い主であると信じた根拠は一体何だったんだろうか?

それをみことばから見たいと思うんですね。
先ず女性にとって、イエスさまを救い主であると信じた根拠、それは何か?
それは29節にこう書いてあります。

29「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」

「私がしたことを、すべて私に話した人がいる。もしかしたら、この人がキリストかも知れない」――そういう思いから出発して「イエスを救い主である」と信じました。

町の多くのサマリア人にとっての根拠は、一体何だったのでしょうか?
それはサマリアの女性の語ることばでした。
今日読んでいただきました39節をご覧いただきますと、こう書いてあります。

   39さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。

サマリア人がイエスさまを信じた、その根拠、理由は、女性の語ることばでした。
「あの方は、私がしたことをすべて私に話しましたよ」と、そのことばを信じて、その証言を信じて、イエスさまを信じたのですね。
そしてその後、40節を見ますと――

40それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。

とありますが、41節をご覧いただきますと、「さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた」とあります。
ここに、さらに多くの人々が、イエスさまを信じたんですけれども、このさらに多くの人々が信じた根拠というのは、「イエスのことばによって」と書いてありますが、イエスさまのことばが根拠でした。
イエスさまのことばを直接聞いて分かった。
42節に、多くの人々がこのように女性に言っています。

42彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」

と、こうあります。
いずれにしても、女性も、多くのサマリアの人たちも、そして二日間イエスさまが滞在した後、イエスさまと共に過ごし、そしてイエスさまのことばを聞いて信じたサマリアの人たちも皆、イエスさまを救い主だと信じる恵みにあずかることができました。

これらのサマリア人がイエスさまを救い主だと信じたケースに、共通している三つのことがあるんです。
@「神・罪・救い」の個人伝道の三つのプロセスは全くない。

「神・罪・救い」のプロセス、それはどういうことかと申しますと――
・私たちを創造し、私たちを愛し、私たちにすばらしい恵みをくださる神さまが、この世に存在している――これが神ですね。
・しかし、人はこの神さまを忘れ、自分勝手な生活、生き方をしてしまった。的外れな生き方――これが罪ですね。
・でもそのような人たちを憐れんで、神さまは救い主イエスさまをこの世に遣わし、そして私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、罪を贖い、三日目に復活した救い主となった――これが救いですね。
あなたはその救いを、この恵みを信じるならば救われますよ、というこの「神・罪・救い」の個人伝道の三つのプロセスです。

でもそのようなことは、一言もサマリアの人たちには伝えられていない、ということが分かります。
この当時、十字架・復活もまだだったし、聖霊降臨もこれからの時代でした。
ですから十字架も復活もまだ実現していない状況の中でしたけれども、そのような個人伝道のプロセス、あるいは個人伝道をした、というようなそういうケースは全くなかった。

A25節に、「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう」という、心から待ち望んでいたメシア・キリストとの明確な出会いがあった。

明確な出会いがあった。
「自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです」(42節)と言える位の明確な出会いでした。

B心の変化、生活の変化がはっきりしていました。
サマリアの女性にとって、どんな変化を求めていたか?
それは「私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもいいように、その水を私に下さい」と、そういう切実な願いでしたけれども、それが実現したのです。
このように、このサマリアの人たちの救いというのは、今私たちが考えているような救いのプロセスとは、全くかけ離れた所で為されていたということが分かります。

ここで私(戸塚伝道師)ふと考えたんですけれども、このサマリアの女性は、イエスさまが提供し、自分がそれを欲しいと思っていたイエスさまのその与える水を、いつ飲んだのでしょうか?
聖書を何回も読んでいますと、この女性はいつの間にか飲んでいたのではないだろうかと思うんです。
どこかで決断して、決心してイエスさまが与えてくださるその水を飲んだ、その場面というのはどこにも書かれていない。
恐らくこの女性は、「いのちの水」というのが一体何なのか、その本質的なことは恐らく分かっていなかったのではないかと思うんです。

でもそのきっかけがありました。
女性が「私もほしい、その水を私にも下さい」とイエスさまに言った時、イエスさまは彼女にこう言われました。16節――

   16イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

このことばはこの女性にとって、大きなインパクトがあった。
「私には夫がいません」と彼女は答えます。しかしイエスさまは言われました。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました」と。(17〜18節)

このイエスさまとのやり取りで、「目の前にいるユダヤ人はただ者ではないお方なんだ」という、何かこう言葉では言い表すことができないような、そういう思いがこの女性の心に沸き上がって来たのではないかと想像いたします。
とっさに触れられたくない話題ですから、この女性はその話題を変えようとするわけですけれども、
しかしこの目の前のユダヤ人の男性、何か自分にとってすごく気になる存在になってしまった。
自分の人生の失敗や、苦しみや、弱さや、心の傷や、恐れや、自分の醜さや罪、それを何かこう丸ごと受け止められていたような感じ。
私のこと全部知っているんだ。私のしたこと全部分かっておられるんだ。「この方は私のしたことを全部私に話した」(29節)。
自分が丸ごと受け止められ、包まれ、許され、癒されたような体験がここで味わったような気がしたのでしょう。
この何とも言えない心の平安。何とも言えない良い気持ち。たましいの渇きが癒され、心が満たされるような体験をし始めていたのかもしれません。

この女性は目の前のユダヤ人である男の人がただものではないということが分かったのでしょう。鎌(かま)をかけたんですね。25節――

25女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

このようにイエスさまに女性は申し上げたのです。すると26節――

26イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

え〜!もしかしたら、もしかしたら、この方が?私たちが待ち望んでいたメシア・キリスト?私のことを全部分かっておられ、私のことを100%理解してくださり、私のことを全部赦してくださるこの方が、メシア・キリスト?
この時点で、恐らくサマリアの女性の心の底から、いのちの泉のようなものがこんこんと湧き上がり始めるような体験をしたのではないかと思うんです。
ここでイエスさまが与えてくださる「いのちの水」を、飲んだ結果が現れたのかもしれない。
女性は居ても立ってもいられなくなりました。
そして水がめを置いてスカルの町へ出かけて行きました。

もう恐らくこれは無意識的な行動だったんじゃないかと思うんですね。
自分が「いのちの水」をいただいたっていう意識もなかったかもしれない。
でも何だ何だ!この喜びは。何だ何だ!この平安は。
そして目の前にあるあの方が、「もしかしたらキリストかもしれない」というこの興奮。抑え切れないこの思い。
ああ、これは私一人だけじゃもったいない。「知らせなくっちゃ!」という思いに駆られたのでしょう。
心を変え、行動を変え、生活を変えてしまう恵み、そしてその恵みは自分だけではない。多くの方々に伝わって行くんですね――これが福音なんです。
福音、良き知らせです。
救い主イエスさまからのいのちの泉、イエスさまご自身と言ってもいいことでしょう。福音です。

誤解を恐れずに申し上げるならば、福音というのは、キリスト教という宗教ではないと思うんです。
この時、この時代、キリスト教と呼ばれるものはまだ存在していませんでした。
キリストの単なる教えでもない。
福音とは心の渇きが癒され、安らぎが与えられ、いい気分にさせてくださる、「いのちの水」がここにありますよ、という知らせです。
「福音を宣べ伝えよ」(***マルコ16:15、同13:10)とイエスさまは仰いました。
キリスト教を宣べ伝えよ、と仰ってはいません。
「『いのちの水』を宣べ伝えよ、ここに希望と安らぎの泉があるんだ」――そういう良い知らせです――福音。

スカルの町の人たちはその福音を聞いたんです。
そして「その水を私にも下さい」「私にも下さい」とイエスさまのところに人々が押し寄せて来る程のものを、人々は求めていた、イエスさまのところに。
そして人々は資格なしに、無条件で、その「いのちの水」をイエスさまのところからいただいて飲んだんですね。

誰でもこの水は飲めるんです。渇いている人なら、欲しいと思っている人ならば。飲みたいと思っている人ならば、誰でも飲めるイエスさまが下さる水です。
サマリア人でも、ユダヤ人でも、仏教徒でも、イスラムの方々でも、飲みたいと思う人は誰でも飲める「いのちの水」。
そして飲んだ人は、今までとは同じではなくなるんです。
スカルの町全体が変えられてしまった程の「いのちの水」なんですね。

今もイエスさまの十字架・復活の恵みによって、「いのちの水」、天の真清水、天(あま)つ真清水、すべての人に備えられている。
今日も賛美しますけれども、教会福音讃美歌471番「あまつましみず」。
明治時代の讃美歌の作詞者、永井ゑい子さんが、ものの見事にイエスさまの救いを表現したこの歌詞――「♪あまつましみず 流れ来て、あまねく世をぞ うるおせる。」
「あまねく世をぞ 潤せる」――もう既にいのちの水が、イエスさまの十字架・復活によって、あまねく世をぞ、潤せるような状態になっているんですよ、ということです。
もう神さまの方では、イエスさまの方では、準備万端なんです。
誰でも飲める水がそこにあるんです。
「(♪続き」長く渇きし わがたましいも、汲みていのちに 帰りけり。」
救い主イエスさまと出会って、サマリアの女性は飲んだ。
サマリアのスカルの町の人たちも飲んだ。
そして私たちもイエスさまと出会って、飲ませていただきました。今も飲み続けています。

今日初めて教会に来た方や、今日初めてこのインターネットにいらした方、この聖書のお話、難しいかも知れませんけれども、
でもイエスさまが準備されているいのちの水がある、ということだけは知っていただきたいんですよ。
飲む、飲まないは、ご自由です。でもそういう水が、もうあるんです。
心は満たされています、何となく。何となくでもいいですよ。でも理屈は抜きに、心満たされているんですよ。
問題課題はいっぱいあります。悩みはあります。避けられない様々な色々なことはあります。
だけど、それをはるかに超えるような平安、喜び、なんか言葉では言えないような安心感みたいなものがあるんです(笑)。
「個人の感想です」じゃないです(笑)。個人の感想だ、じゃなくてこれは本当です。
誰でも、表現は違うかもしれないけれども、体験することができる。
気休めじゃないの?思い込みじゃないの?ま、そう言われてもいいです。
でも飲ませていただきました、私(戸塚伝道師)も。

多くの人々はキリスト教は求めてないかもしれない。宗教は求めてないかもしれない。
単なるイエス・キリストの教えは「ああ、いい話ですね」で終わっちゃうかもしれない。
でもこの「いのちの水」は欲しい、と思っているんじゃないでしょうか?

3つ目、最後に「いのちの泉」について考えさせられたことがありました。
最後にこれをご紹介して終わりにしたいと思います。

3)イエスさまが私たちに、すべての人たちに与えられた「いのちの水」を、私たちは本当の意味で大切にして来たのだろうか?

と最近、私は問われたことがありました。
それは、一冊の本を読んだことがきっかけです。
カナダの神学者、聖公会の司祭であられるトム・ハーパー先生という方がいますけれども、この先生が『いのちの水』という本を書かれました。
日本でももう出版されました、薄〜い絵本です。消しゴム版画がこうきれいにデザインされている挿絵の薄〜い絵本。

【※以下の絵本が手元にありましたので、情報および文章については、子どもに理解し易く 書かれているその絵本の文字で、ルビがあるものは( )に表示し改行し、そしてページごとの段落に直しました。T・Y4/21】

2017年87歳で既に召されていますけれども、この本の前半部分を紹介したいと思うんです。
少し長くなるかもしれませんけれども、お読みいたします。

 「いのちの水」
むかしあるところに、岩だらけの広い荒野(あれの)があった。
茨(いばら)を除けば、地には何も生えていなかった。

この荒野に一本の長い道があった。
巡礼者が通る道だった。
巡礼の途上、人々は足の痛みとのどの渇きに苦しみ、
疲れ果て、不安と恐怖におびえた。

この荒野に、岩から水が湧(わ)き出ている場所があった。
誰がこの泉を発見したのか知られていない。

何世代も前から、旅人たちは決まってその湧き水で
立ちどまり、その水を飲んで力を取り戻した。
彼らはただ単にのどの渇きが潤(うるお)されるだけでなく、
より深い欠乏が満たされることを体感して驚き、喜んだ。

すなわち、その水を飲むと体も心もいやされ、
希望と勇気がふたたび強められたのだ。
人々は生きることに新鮮な意味と豊かさを発見した。
それぞれの重荷をふたたび担い、新たな思いで歩き
だすことができるようになった。

巡礼者たちはこの泉を「生ける水が溢(あふ)れる場所」と
名づけ、この水を「いのちの水」と呼んだ。

時を経て、さまざまな人がこの泉に感謝を表す
ため、石を持ち寄って積み重ね、記念碑を建てる
ようになった。

それからさらに何百年かの時を経て、
記念碑はだんだん大袈裟になり……

ついには泉の上に要塞のような大聖堂が建てられ、
周囲は高い壁で完全に囲まれてしまった。

そして泉の純粋さを守るために、特別な祭服を
まとい、仲間内でしか通用しない特別な言葉を
話す、特別な階級の人たちが、さまざまな規則
を定めた。

これによって水を飲める人が限定され、
いままでのように誰もが自由に近づく
ことはできなくなった。

その水を誰が飲めるのか、いつ飲めるのか、
どうやって飲めるのかについて、意見の相
違が生じ、そのため激しい争いに至ること
もしばしばあった。

戦いに勝った人たちは記念碑を建て増し、
勝利のしるしとして、もっと頑丈な壁を造った。

泉は完全に覆(おお)われ、ついには見えなくなってしまった。
それがいつ誰によってなされたかを記憶する者はいない。

巡礼者たちがどんなにこの有り様を非難しようと、
また、どれほど多くの人々が倒れて死に瀕(ひん)してい
ようと、壁の内側で泉を守っている人たちは、彼
らの叫びを嘲(あざけ)るか、端的に無視するかのどちらか
だった。
そして聖所(せいじょ)の中では、「いのちの水」が遠いむか
し巡礼者たちにもたらした恵みを記念する、麗(うるわ)し
い礼拝が行われていた。

そのかたわら、壁の外では、人々がのどの渇きで
死に瀕していた。

――続く、です。引用はここまでです。――

ここで言われている「いのちの水」、イエスさまの語られた「いのちの水」と、もしかしたら本質的には同じものだと思われます。
この物語はイエスさまからの「いのちの水」を、皮肉にもキリスト者が、教会が、キリスト教という宗教が私物化していく、とても残念なプロセスを描いているように読み取れます。
この世の旅人である私たちが、ひたすら求めて止まないのは、「いのちの水」なんですよ。
《その水を飲むと、身体も心も癒され、希望と勇気が再び強められ、人々は生きることに新鮮な意味と豊かさを発見し、それぞれの重荷を再び担い、新たな思いで歩き出すことができるような》「いのちの水」。
その水をくださるのは、キリスト教ではなく、キリストです。救い主イエスさまです。
この方がキリストだと分かり、信じた時に与えられる恵みです。
それが「いのちの水」という福音――良い知らせです。

サマリア・ストーリーこれで終わりますが、サマリアの女性はイエスさまに出会いました。
「いのちの水」を飲みたいと思った。イエスさまに「その水をください」と言った。
そしていつの間にか飲んだ。そして気づかされた――目の前にいる男性はキリストなんだ。
変えられ、多くの人々に知らせ、町中が信じ、変えられた。
これがサマリア・ストーリーの恵みです。

今を生きる私たち。
この泉の存在・福音・救い主イエスさまをどのように証しし、お知らせしたらいいのでしょうか?
イエスさまから私たち一人ひとりに出された、提出期限のない大きな宿題なのかもしれません。

☆お祈りいたします――戸塚伝道師
イエスさま、感謝いたします。あなたはサマリアのスカルの井戸端で一人の女性に出会って以来、2000年もの間、招き続けてくださいました。「わたしが与える水を是非飲んでご覧」と。多くの人の心は飢え渇いています。しかし人々が求めているのは、人間がまとめ上げたキリスト教という特定の宗教システムではなく、その人の内で泉となり、心も身体も癒され、安らぎと希望と勇気が与えられる、あなたからの「いのちの水」・福音です。

どうか今もう一度、あなたの「いのちの水」を飲ませてください。そして私たちの心にも新たなる泉を湧き上がらせてください。そしてこの一週間の歩みの中で、こんな私を通して、どなたかの心にあなたの「いのちの水」が届けられますように。聖霊のとりなしの内に、イエスさま、あなたのお名前で天の父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2021.04.18 - 21:14
LAST UPDATE: 2021.04.21 - 18:06

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