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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/25 ガラテヤ(14)私たちはみな、キリストにあって一つ ガラテヤ3:23〜29
☆聖書箇所  ガラテヤ3:23〜29
  23信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
24こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
25しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
   26あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
27キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
28ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

☆説教  ガラテヤ(14)あなたがたはみな、キリストにあって一つ
しばらくガラテヤ書の学びを飛ばしてしまいました。
でもここまで聞いていてくださった方にとっては、パウロが繰り返してきたことを容易に思い出してくださるんだろうと思います。

パウロはガラテヤの教会に入って来た「割礼派」と呼ばれる人々と戦っていました。
「割礼派」というのは、ユダヤ人キリスト者であります。
「割礼派」は、私たちみな、キリストの十字架の贖いによって救われる、とは言いましたけれども、
割礼派にとってはそれは単なる入り口に過ぎませんでした。

割礼派は、旧約聖書のイスラエルという「神の民」を中心に考えています。
そもそも、神はイスラエルを神の民として選ばれた。
ということは、イスラエル人でなければ、どうすることもできません。
神の祝福にあずかることはできません。
イスラエル人であれば、生まれた時から割礼を受け、小さな頃からユダヤ教の律法の中を生きて来ます。
食事習慣、生活習慣すべて違います。
そこに異邦人(つまりイスラエルでない人)が「加わりたい」と言ったらどうなるのか?
そう簡単にはいきません。まずは律法を守ります。
十年位してきよめの儀式を通ります。それからまた何年もしてから
ようやく割礼を受けて、ユダヤ人(つまり神の家族)に加わることができます。

割礼派が言うには、そういう複雑なプロセスを通らなくても、十字架によって、神の家族の入り口に立つことができる。
今すぐ来なさい、「イスラエル民族」の中に。

でも民族の中に入った以上、割礼を受け、律法の生活を守って行きなさい。
「イスラエル民族の中に入っていく」ということがやっぱり救いの中心なんですね。
割礼派はいつも、「どうしたらイスラエル民族に連なることができるのか?」という、この方法論を論じているわけです。
十字架なのか、律法なのか?

しかしパウロは、全く違う方式を提示しています。
ちょっと聖書を見ていただきたいと思いますが、(ガラテヤ3章の)26節を見てください。
【画面:ガラテヤ3:23以降。23節「信仰が現れる前〜監視され」と25節「信仰が現れたので〜養育係の下にはいません」にオレンジのハイライト。26節「あなたがたはみな」27節「あなたがたはみな」28節「あなたがたはみな」に黒ペンで囲み、29節「約束による相続人なのです」に黒の傍線】

 26あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。

あるいはこちらですね。
28ユダヤ人もギリシア人もなく、(***ということは、もうイスラエル民族とは関係ありません、と説明)奴隷も自由人もなく、(***男女の差が厳しい世界にあって、と説明)男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

キリスト・イエスにあって一つとなり、29節の最後「約束による相続人なのです。」
という風に、神の家族を、「イスラエル民族」という民族的な枠組みから外してしまいます。
信仰があり、キリストを着るのであれば、あなたがたはみな約束の相続人なのです。

今日はこのことからしばらくお話をしていきたいと思います。
もう一度聖書のこの23節に戻ってください。
【画面:23節「信仰が現れる前〜監視され」と25節「信仰が現れたので〜養育係の下にはいません」にオレンジのハイライト】

1)「信仰が現れる前」のことをパウロは述べています。

   23信仰が現れる前は、私たちは律法の下(もと)で監視されていた。
あるいは25節に――
25しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。

ということは、まず第一番目に、今日のお話として、
(23節で、)「信仰が現れる前は、律法の下で監視されていた」
あるいは25節で、(※聖句を逆にして考えて語る藤本牧師)
「信仰が現れる以前は、私たちは同じように律法という養育係の下にいた」
というところからお話を始めていきたいと思います。

信仰が現れる前、私たちの人生はどうであったのか?
律法の下に監視されていた。
「監視され」というのは、厳しい言い方です。
皆さんどういう風に監視されているんでしょうかねぇ?

私たち夫婦はケンタッキーというアメリカの神学校に行きました。
当時から日本でも、アメリカでも、ケンタッキーと言うと、あ、フライドチキンの産地ですね(笑)、と言われる位、何か人類みなの頭の中に「ケンタッキー」イコール「ケンタッキーフライドチキン」とこう考えられて来ましたが、
実はケンタッキーというのは、19世紀のアメリカの大覚醒、信仰復興運動を担った州です。
ですからケンタッキーとか、その上のオハイオ州は多くの宣教師を輩出いたしました。
敬虔な聖書学校が沢山あって、もう学校ごと、町ごとクリスチャンという場所が沢山ありました。

私たちが留学した学校からさらに車で一時間位山に入りますと、さらに保守的な、とっても保守的な神学校がありました。
そこでは男女がデートする時に、学校からの許可が要ります。
これは日本じゃないんですよ。アメリカなんですよ(笑)。しかも僅か40年前なんですけれども。
そして学校から物差しが渡されます。物差しは30cmぐらい。で、デートをする間、それを越えて互いが近づいてはいけないと言う(笑)。
40年前、これってアメリカなの?(笑)と言う位、厳しいルールがありました。

厳しいルールがあるっていうのは、ま、いいですけれども、こういうことなんですよ。
妙な規則があるとしたら、それをきちんと守っているか、いないか、見張っている監視役がいるということです。
規則があって、監視役がいないってことはないです。
そして規則があって、それに違反したら、必ず罰則がありますね。
罰則がなかったとしても、見張られるというのは嫌なもんです。

私(藤本牧師)が大学生の頃、礼拝が終わって午後出かけて行くと、父が必ず私に声を掛けたのはとっても嫌でした。
それは――「満、どこに行くんだ?」と言う。
今の世代では、「どこに行こうが俺の勝手だろう」と言い返すことができました。
でも50年ぐらい前、私はそんな勇気はありませんでした。
ま、「どこだっていいじゃない」位は言いますけれども、
礼拝守って牧師の息子として立派に義務を果たしたのに、午後になって出かける時に「どこに行くんだ?」と聞かれ、「夜の伝道会には帰って来るんだろうな?」と言う、
この足かせをかけられるというのは、実は非常に苦痛でありました。
恐らくクリスチャンホームの家庭であれば、親が真面目であればあるほど、子どもにそういう見張り役を果たして来たというのは、私(藤本牧師)はありがちなんだろうなと思います。
【画面:ガラテヤ3:24以降。23節「信仰が現れる前〜監視され」25節「信仰が現れたので〜養育係の下にはいません」にオレンジのハイライト。26節と27節、28節の「あなたがたはみな」に黒の傍線】

25節、24節の「養育係」という言葉ですね。
「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係になりました」というこの言葉は、ガラテヤ書の2つ前に第一コリントというのがあります。
第一コリントの4章の21節を、ちょっと見てください。ちょっと読んでいきますね。
【※画面はTコリント4:21を映す、特に何もしるしはないが、指で押さえながら】

<Tコリント4:21>
21あなたがたはどちらを望みますか。私があなたがたのところに、むちを持って行くことですか。それとも、愛をもって柔和な心で行くことですか。

ここに「養育係」という言葉が出て来るんです。
それは「愛をもって柔和な心で」が養育係なのか、「むちを持って」が養育係なのか?
実は「むちを持って」というのが養育係なのですよ。
ですから養育係というのは、愛と優しい心をもって、私たちをキリストのもとに導く、それが律法ではない。
律法というのは、むちを持って厳しく監視しながら、私たちをキリストのもとに導いて来た――そういう意味なんですね。

ずっとガラテヤの手紙で学んで来ました。
ここには律法とか割礼とか沢山あります。
それは現代日本を生きる私たちにとっては関係ないでしょう。
でも話してまいりました。私たちというのは、自分で自分のために規則を作るもんだと。
その規則によって縛られることがままあると。
あるいは自分で監視しなくても、人の目が監視の目のように感じることもある。
神さまが見ている、と言いながら、何か脅迫的にそれを捕らえて、
自分の成果、自分の出来映えで安心し、何にでも点数をつけてしまう。
そして点数が悪いと――神さまもまた私たちの監視役として、むちをもって養育しているような恐怖心を抱いて――自分を委縮させてしまうという傾向がある、という話をしてまいりました。
出来映え主義・成果主義というのは、この世の中であるならば仕方がないです。
世の中っていうのは、私たちに点数をつけるものです。
しかし、信仰の世界ではそうであってはならない。
信仰の世界では、ひたすらキリストを見上げて、こんな私のためにいのちを投げ打ってくださった、キリストの愛で自分を評価すべきだ、という話をずっとしてまいりました。

ですから第一番目のポイントは、私たちは知らず知らずの内に律法主義的な見方、成果主義的な見方で自分自身を見てしまうものです。
あるいは自分の家族、自分の友人をそういう風に評価してしまうものです。

二番目に、私たちはもう一度ガラテヤ人への手紙に戻っていただいて、
2)そのような成果主義から決別しなければいけない、ということをお話しいたします。

決別というのは、明確に別れる、ということです。
聖書をちょっと見ていただきたいと思うんですね。ガラテヤの先程の3章です、ここにこういう言葉があります。
【※画面:先程のと同じ所を指さしながら】
23節「信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、」
そして25節に「しかし、信仰が現れたので」、以前の訳ですと「しかし、信仰が現れた以上」ですね――《もうそうなったからには》――「私たちはもはや養育係の下にはいません」(25節)という言い方は、いいですか、
23節の「信仰が現れる前は」こうであった。仕方がなくこうであった。
ところが、25節の「信仰が現れたので」あるいは「信仰が現れた以上」というのは、
《もうそうなったからには、この出来映え主義、成果主義から決別しなさい》という明確なものの言い方ですよね。
  
それ以前は、様々な理由があって、私たちはそうであっても仕方がなかった。
でもあなたがたは、もうキリストの信仰の中を生きています。
そうなった以上、もはや以前のような出来映え主義に戻ってはいけません。
なぜならあなたの主人はキリストなのです。
あなたはキリストを見つめて自分を評価し、キリストを見つめてこの世の出来事を考えていきなさい。
この世界の基準で、やり方で、自分自身も周囲の人も見てはいけません。
この決別というのは、実は難しいものです。

ラリー・クリステンソンという人物が「一新された心」(***そういう思いと決別した心ですね、と説明)いのちのことば社から訳された本を出しています。
その一節を読んでいきますので、ちょっと聞いてくださいね。

――「一新された心」、読み始め――
 あなたがアパートに住んでいると仮定してみましょう。そこの家主は嫌な奴で、あなたは辛い思いをしています。部屋代は法外なものだし、払えないと恐ろしい高利で金を貸すので、さらに借金がかさんでしまいます。昼夜に関わりなく部屋に押し入って来て、あちこちを壊したり汚したりしておいて、家の管理が悪いと難癖をつけ、余分な金を要求するのです。あなたの人生は惨めです。
 そこへ【ある人】がやって来て、「私がこのアパートを引き継いだ者です。私が買い取りました。あなたはここに住みたいだけ無料で住んでくださって結構です。もう家賃は支払い済みです。これからは私も管理人室に同居することにいたしました」と言いました。
 なんとありがたいことでしょう。新しい自由を見い出して喜んだのも束の間、戸にノックの音がします。あいつが――元の家主が――来たのです。意地悪く、恐い顔をして、以前と変わらず法外な要求を突きつけます。家賃を取りに来た、と彼は言います。
 皆さんはどうしますか。家賃を払いますか。もちろん、そんなことはしません。戸の外に出て、奴の頭を殴りますか。だめです――彼はあなたよりも大きいのです。
 あなたは確信をもって彼に言います。「そのことは、新しい家主さんに言ってもらいましょう。」すると、相手はわめき立て、脅迫し、甘言で誘い、だまそうとするでしょう。あなたはただ落ち着いて、「新しい家主さんに言ってください」と答えます。もし彼が、あらゆる種類の脅しや議論を吹きかけ、公式文書らしきものを突きつけ、十回以上も戻って来たとしても、あなたはただ「新しい家主さんに言いなさい」とだけ言えばいいのです。最後には彼もそうせざるを得ないでしょう。彼もそれは分かっているのです。本当に新しい家主さんがすべての面倒を見てくれるかどうか、とあなたに疑いを持たせるためのごまかし、脅し、だまそうとしてるのです。(島田礼子訳、いのちのことば社、四九〜五一頁)
――ここまでで読み終わり――

本当に神は、イエス・キリストのゆえにあなたを存分に愛してくださるかどうか、本当にすべての面倒を看てくださるかどうか、あなたのもとを離れず、今もあなたのもとで住んでいてくださるかどうかを試すために、律法主義も出来栄え主義も評価主義も、何度でもあなたの所を訪ねてあなたの扉を叩く。
いつの間にか、私たちは世の中の調子に合わせてその扉を開けて、古い評価主義を自分の内側に招き入れて、それに基づいて生きているとしたら、とっても愚かなことです。
ですから、私たちは律法と決別するように、人の評価で生きることと決別しなければいけないとパウロは説いています。

3)もう一回(ガラテヤ3章)26節を見てください。
【画面:ガラテヤ3章26節以降を指で押さえながら読む。26.27.28節の「あなたがたはみな」に黒ペンの囲み】

   26あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
27キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。

という風に、「あなたがたはみな」が二回繰り返されています。
実際3回あるんですね。
28節もう一回見ていただきます?【画面:同じ個所】

28ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。

3回あるんですよね。
キリストを信じているなら、誰でも「みな」、この恵みから漏れることはありません。
というこの「みな」という言葉は、今日ここに来ておられる方も、インターネットで礼拝を観ている方も、今日初めてインターネットで訪れた方も、週日この礼拝を観る方も、「みな」という言葉が当てはまります。
「みな」というからには、「みな」なんです。

ところがですね、「みな」という言葉を見る度に、私たちの心の中には卑屈なつぶやきが上がって来ます――「自分はこの『みな』に入っていない」。
つまり「みな」という言葉をあまりにも漠然と抽象的に捉えてしまって、
「みんな日本人だ」とか、「みんな所詮人間だ」とか、そういうレベルの「みな」として捉えて、
自分自身が入っている「みな」という風には見なさないですよね。
学校でもそうですよね。「このクラスのみんなは」と言った時に、このクラス全体のことを指しているのであって、「一人一人のみんな」を考えていないんです。
「教会の人はみな」という時に、それは漠然とした教会員を考えていて、「一人一人、私を含めたみな」ということを頭に思い描いていない。
ほかの人は大丈夫だけれども、私は無理だと、私の内側には、自分で自分をみんなの中から締め出してしまうような、奇妙ないじけた物の見方があります。
ですからパウロは二度続けて、そして最終的には、28節で3度目、「あなたがたはみな」と強調しているんです。

インターネットの礼拝をしている時に、
イエス・キリストへの信仰を傾けてこの説教を聞き、また共に賛美するなら、イエス・キリストへの信仰を傾けて共に祈るなら、
私たちが高津教会員であろうがなかろうが、しばらく教会に行っていようがいまいが、教会に来たくて仕方がない人であったとしても、
「みな」共に、私たちはアブラハムと共に神の国の相続人なんですね。

ここでは、「あなたがたはみな」――聖書を見てください、26節――「神の子どもです」。
そしてもう一つの27節では、「あなたがたはみな、キリストを着たのです」。
そして28節、恐らく新約聖書パウロの言葉で一番壮大な言葉と言われています。
【画面:ガラテヤ3章28節を指さしながら説明】
「ユダヤ人もギリシア人もない」というのは、割礼を受けているか受けてないかは関係ない。
律法に従って生きて来たのか、そうでないかも関係ない。
「ギリシア人」というのは、日本人と同じ偶像礼拝の習慣で生きて来た人々です。
社会的に言うならば、「奴隷」というのは社会的身分を持っていない程、貧しい境遇の中にある人。
「自由人」というのは、ローマ帝国の市民権を持った人です。
そして「男も女もありません」――当時にありました、女性というのは男性の所有物です。時には一夫多妻がありますので、女性は複数所有されています。
男性の自由にされる存在で、自分の主張を持っていません。

そういう時代にあって、これらの区別は世の中には存在するかもしれない。
しかし神の国では存在していない。
「あなたがたはみな」という時に、「私」を除かないように。
私がどんなに病んでいても、私がどんなに信仰のことがよく分かっていけなかったとしても、私の背景が全くキリスト教でなかったとしても、
あなたがたがイエス・キリストを信頼し、イエス・キリストの十字架を仰ぐなら、
「あなたがたはみな」というのは、「一人一人みな」イエス・キリストにあって一つだからですと。

先週戸塚先生が「インターネットの礼拝は、教会の敷居を下げた」と言いました。
私たちの教会は駅から近いですから、どうぞ気軽にお出かけください。
教会員の中には洗礼を受けていない方々も沢山います。
私たちはそれをもって区別することはしません。
と言いながらも、教会の中にいるか、いないかで、これは大きな区別がありました。

コロナ以前からインターネットの礼拝はしていましたけれども、集まって来られる方は10名ぐらいでした。
今は私たちはうんと敷居を下げました。
敷居を下げた時に、自分をこの「みな」から除いて雑多な一人だとは考えないでほしいですね。
共に礼拝をし、賛美をし、同じ恵みにあずかっているのなら、キリストの相続人の一人である。
自分が明確に「キリストを着た人物」であり、そして「神の子どもである」という自覚にどれだけ立てるか?
敷居は下げました。だからと言って、その自覚も下げてくださいなんてことは、一度も申していないですね(※なるほど、アーメンです)。

昔はよく言いました。出入り自由です。インターネットの礼拝も出入り自由でしょう。
でも週に一回礼拝に出ているなら、《私は神の家族で、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった、イエス・キリストを信じて今日も生きる》という自覚だけはしっかりと持とうではありませんか!

☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神様、今日はこの「あなたがたはみな」という言葉を大切にしたいと思います。そもそもが、以前の家主が何度も部屋の中に入って来て、再び私たちの部屋を荒らしがちな程、サタンの誘惑、世の中の基準は私たちの人生の内側に入り込んでいます。
しかしこうして週に一度あなたを見上げる度に、あるいは祈る度に、あなたのみことばを心に刻む度に、「私は神の子どもだ。この『みな』の中に私も入っている」という自覚に立つことができるようにどうぞ助けてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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