☆聖書箇所
●ルカ4章16節〜22節
16それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。 17すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。 18 「わたしの上に主の御霊がおられる。 主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、 わたしに油をそそがれたのだから。 主はわたしを遣わされた。 捕らわれ人には赦免を、 盲人には目の開かれることを告げるために。 しいたげられている人々を自由にし、 19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」 20イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。 21イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」 22みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。
●ヨハネ9章1節〜7節
1またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。 2弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」 3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。 4わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 5わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」 6イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。 7「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
☆説教 イエスさまの目線〜人
改めまして主にあってご挨拶を申し上げます。いつも神学院のためにお祈りいただいておりますことを心から感謝いたします。また今日は藤本先生をお送りしておりますが、私(河村従彦牧師)は高津教会に伺いますと、少し緊張いたします(大笑)。と言いますのは、藤本先生の代役は大役だなと(大笑)、いつもそのように思っております。豊かな説き明かしが毎週毎週なされておりまして、この講壇をお引き受けするのは少し勇気が要ります。
その教会の牧師さんが毎週語る説教のことを、「おふくろの味」と表現する方がいらっしゃいます。どういうニュアンスか確認したことはないですけれども、おそらく栄養がきちんと考えられて、バランスもよく、十分な養いがある。そんな意味かなぁと思います。藤本先生は、みことばにいつも真剣に向き合われまして、いろんな歴史的な背景をふまえ、そんな所から、豊かな思い巡らしをしてくださいます。
先生はおふくろの味というよりは晩餐かなぁ(笑)とそういう意味で思いますけれども、それに比べまして、私は忘れた頃に出てくる海苔弁当ぐらいかなと(大笑)。海苔弁当も時々戴きますとおいしいですが、そんなことをいろいろと考えながら立たせていただいております。お祈りをもってお聞きくだされば大変ありがたいと思います。
今日は奉仕に備えられたイエスさまの姿、それから奉仕に立たれたイエスさまの目線、そして、私たちの目線、この3つに思いを向けたいと思っています。
1)最初にルカの4章を開けていただきまして、これは奉仕に立たれるあたり、ナザレでのことだと書かれてございます。
会堂で礼拝が行われておりました。当時の礼拝は最初に宣言があり、お祈りがあって、律法の朗読があります。そして預言書の朗読があり、そしてみことばの説き明かしがあって、祝福のお祈りがささげられます。こういった順序で行われていたようです。
みことばの説き明かしは誰がしていたかというと、そこに居合わせた祭司とか、レビ人とか、ラビ、専門の立場の人たちに優先的に依頼していたということです。 イエスさまはここで朗読しようと立たれたと書いてありますけど、おそらくラビとして、みことばの説き明かしをするように、押し出されたのではないかと思います。
ここでイザヤ書が読まれています。これはイザヤ書の61章の1節ですが、イエスさまはイザヤ書をとても愛しておられました。 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから」と、このみことばを静かにお読みになりました。
この引用している部分を見ますと、2つのキーワードがあるように思います。 ●1つは「人」ということばです――「主が貧しい人々に」「捕らわれ人には」それから「目の不自由な人」それから「虐げられている人」――人に向けられています。
なぜイエスさまは人に関心を持つようになられたかということですけれども、これはいろいろ推測する以外にないのですが、当時の政治的な状況を考えますと、社会はローマの支配下にありました。そういう中で、人々は大変抑圧され、気の毒な中にあるということを目の当たりにしていたのではないかと思います。
しかし政治的な状況だけでなくして、宗教的な背景もありました。 宗教というものは、本来人を慰めるはずのもの、人を解き放っていくはずのものであるにもかかわらず、当時の指導者たちのみことばの説き明かし方は人の心になかなか届かない。 逆にむしろ重い荷物を肩に乗せるだけのものになっていた。これが信仰だと言って、聞いてその通りにしていくとますます苦しくなっていく、そういう説き明かし方がされていたということも、おそらくイエスさまは目の当たりにしておられたのではないかと思います。
そういった当時の政治的、宗教的な状況が青年イエスの苦悩になっていたのではないか。 イエスさまはナザレで過ごされましたけれども、毎日毎日そういったことを目の当たりにしながら、そんなことを考えておられたかもしれません。 「人」がひとつのキーワードです。
●それからもう一つ目を留めたいことば、19節の「主の恵みの年を」です。 これはとても大きな意味を持つと思っています。 この「恵み」ということばですけれども、これは、何度も何度も使われていることばではありません。 新約聖書の中でも非常に限られた箇所でしか使われていないことばで、そのニュアンスは「受け入れられる」ということです。 ですから「主の恵みの年」というのは、「これからは受け入れられる時代が来る」――イエスさまは人を目にしながら、そのことを仰りたかったのではないか――そんな風に受け止めさせていただいています。
2)そういった事を心に留めながら、今日はひとつの場面、ヨハネの福音書の9章に目を向けていただきたいと思います。
大変気の毒な人がここに出て来ます。聖書はハンディを負った人たちがかなり登場します。 今はセイフティーネットがありますけれども、当時はそういったものも社会保障もないので、悲惨な人生を余儀なくされた人たちが沢山いたはずです。
イエスさまはそういう人たちのすぐそばにおられました。 人は皆それぞれ人生が与えられています。それは、私たち人間が選ぶことができません。人様々です。
そしてこのみことばを読みますと、そうだということを誰もが薄々感じていながら、改めて言われると少しショッキングな一言が書かれています。 それは、2節です。ヨハネの福音書の9章の2節に、弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは……」と書いてあります。 この「生まれついた」という一言は、私たちは受け止めなければいけないものですけれども、少し受け止めにくいことばだと思います。
さらに、その次のところを見ていただきますと、こういうことの受け止め方には2つあると書かれています。――2節「誰が罪を犯したからですか。この人ですか、その両親ですか」。
当時は社会通念としてこういった考え方があったと言われています。 一つは運命論的な考え方です。親が悪いことをしたから、こういう人は罰を受ける――これは私たちがもしそういう立場になれば、とんでもない不条理だと感じるかなぁと思います。 それからもう一つは、懲罰論的な言い方です。「この人ですか」と書いてあります。つまり自分が罪を犯したからこういう罰を受ける、こういうものの考え方です。
これはいずれも、私たちが問題課題に直面した時に、陥りやすい考え方です。 これは自分の運命だからしようがないと言って、あきらめるのか、あるいは、私たちに何かが起こると何か自分は悪いことをしたか、これも私たちが陥りやすい考え方です。 しかしこの運命論的な考え方、懲罰論的な考え方は、いずれも聖書の考え方ではありません。 私たちが問題課題に直面した時、聖書の神が自分に罰を下している――この考え方は聖書にないと申し上げてよいと思います。
それからもう一つは3節、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」――2節の考え方は原因とか悪者探し、それからこの3節の考え方は意味探しです。目的とか意味を探すのです。 イエスさまは「神のわざがこの人に現れるためです」――そのように仰いました。これは人間結局運命なんだよと割り切っていた当時の社会では、かなり大胆な問題提議になったと思います。
しかし私たちは少し考えてみたいのですが――問題に直面している時に、「神のわざがこの人に現れるためです」――この受け止め方をしようとするときに……
例えば自分の問題ではなく、誰かほかの人の問題を客観的に見て、「結局信仰的に考えればそのような受け止め方が正解なんだよ」という風に言うことがあるいはできるかもしれません。 ところが、自分の問題になった時には、なかなかこれが受け止めにくい、これが私たちの現実ではないかと思います。
「神のわざが現されるためだ」と言われたところで、じゃぁ私たちの人生はどういう意味があるのか、私たちは神さまに問いかけるのです。――「神さま。あなたは、ご自分のみわざをあらわすためであれば、私の人生はどうでもいいというのですか?私の人生は神さまのみわざをあらわす道具なのですか?」――こういう問いは私たちの中に出てくると思います。
このイエスさまの仰り方の意味は、なかなか簡単に一言で言いづらいのですが、私はこの意味を解きほぐすヒントになることが、その少し前に出てくる弟子たちの問いの中にあると思っております。 弟子たちは「だれが罪を犯したからですか」と質問しました。 そちらから見ていきますと、イエスさまが「神のわざがこの人に現れるためです」と言われた、このみことばの意味が少しイメージ出来るかなぁと思います。
弟子たちは質問しました。彼が問題を抱えているのは、どこに罪があるからですか。 イエスさまはその問いには直接お答えになりませんでした。 しかし、この問いは私たちに一つの問題提議をします。――だれが罪を犯したのかという問いは、こういう気の毒な人に対してだけ向けられればいいのか、という問いです。
私たちはもし、望んでいないのに苦悩を引き受けざるを得なかった方々を目の前にした時に、どのような目線を向けるでしょうか。色々な思いが出てくるかもわかりません。 たとえば、「この方はなぜこういった問題を抱えておられるのだろうか」――実はこの問いは、イエスさまがここで問題にされた質問の仕方です。ですからあまりよくありません。 それから「自分はなぜこの方と同じではないのだろうか。自分がもしそうでないとしたならば、それはなぜなのだろうか」――こういうふうに思うかもしれません。 さらに、「ハンディがなければ、自分の存在には問題がないと果たして言っていいのだろうか」――こういう風に考えるかもわかりません。
イエスさまが「神のわざがこの人に現れるためです」と答えられたこの答え方には――苦しみの中にある人に対して「誰が罪を犯したのか」という問いを投げかける――その人間のあり方がそれでいいのか、という問いかけがあったのだと、そんな風に受け止めさせていただいています。
私たちはなぜ自分は大丈夫と言えるのでしょうか。何を根拠にそういう風に言えるのでしょうか。 大変な問題の中にある人に対して私たちは、この人がこういう状況の中にあるのは「誰が罪を犯したからですか」と問います。 その裏返しは、自分はそれならなぜ大丈夫なのか――そういう意味が暗黙の中に含まれています。 私たちは、自分は大丈夫だと言える理由を探します。人間は、自分は大丈夫だと思えなければ健全な精神生活が送れません。 自分はダメなのだと思いながら人生を送るというのは、私はナンセンスだと思います。
しかし少しこだわって考えてみて、例えば、私はクリスチャンとして生きているから大丈夫だ――これはその通りだと思います。 私は毎日聖書を読んでいるから大丈夫だ――これもその通りだと思います。 私は毎日お祈りをしているから、私は教会のいろいろな奉仕に関わっているから――これはいずれも素晴らしい恵みで、私たちはそういった恵みに進んでいくべきです。
しかしそういうことがあるから自分は大丈夫、この人は問題があるからどこかに何かあるに違いない。だけど自分はそういうことをやっているから大丈夫――そういう自分の人生の受け止め方だけで果たしていいのですかという語りかけが、「神のわざがこの人に現れるためです」というイエスさまの仰り方に表されているのではないかと存じます。
私は「〜から大丈夫主義」――誰も言っているわけではありません(笑)、自分で勝手に言っているだけなのですが――人生頑張ってきたから大丈夫、〜したから大丈夫というところに陥りやすいなと、自分のことを振り返りましてそう思います。一生懸命牧師としてやってきたから大丈夫、イエスさまに従いなさいと言われて、自分の人生を曲げてイエスさまに従ったから大丈夫――いろんなところに私たちは「〜から大丈夫」という理由を探したくなるのです。でもそれはよく考えませんと、その裏返しがあるということです。
「〜から大丈夫主義」というのは、人間のわざが人生を決めるという考え方です。 イエスさまは「神のわざが」と仰いました。 「〜から大丈夫主義」は、人間のわざが自分の人生を決めるということです。 もちろん私たちは頑張ります。それは大切なことです。 しかし私たちの人生の究極は、神さまの視点から見なければいけないのではないか――神のわざが現れるためというのは、そういう語りかけではないか、ということです。 問題があった時に、それは神の栄光が現れるためだから我慢しなさい、とそういうニュアンスより、私たちの人生は神の視点から見る必要があるのではないか、そういうことではないかと思っています。
イエスさまは、人に目線を向けておられました。しかも、貧しい人であり、囚われている人であり、目の不自由な人であり、虐げられている人でありました。そういう人たちにイエスさまの目線は向けられていました。 イエスさまの目線は、人間的な弱さがあるとか、欠けがあるとか、足りないところがあるとか、さらに言うならば私たちが本当に神さまが期待するように生きているのかということと、少し距離があるように思います。
もちろん私たちが直面する問題はイエスさまにとっても重大な問題です。 しかしイエスさまの目線はもっと奥に向けられていました。 私たちがどういう問題に向き合っているかというよりも、もっと奥に向けられていました。 どこに向けられていたかというと、人そのものです。 その人が存在しているというところに、イエスさまの目線が向けられていたということです。
最近スピリチュアルという言葉を、必ずしもクリスチャンではなくても使うようになりました。必ずしも聖書にこだわらないで、そういったスピリチュアルなケアが必要だと私たちは考えるようになりました。 ひところ科学万能と考えていた時代には、あらゆることは論証できる、そう考えましたけれども、最近はそれだけではないのではないか。 こういった、社会全体がどちらかというと閉塞感に襲われている中で、もう少し自分たちの足元を見ようということを、社会全体がしているように私は感じます。
その時に、人間は何なのか。70%ぐらいは水だと言われます。本当にそうなのかなぁと思って、今は便利ですからインターネットで調べてみました。果たして本当にお医者さんが言っているのかわかりませんけれども、私がパッと見たところでは、大体70%ぐらいが水だそうです。 少し年齢が重なって来ますと、だんだんと減ってくる場合があるそうです。私の場合ですと50%ぐらいかなぁと思いますけれども(笑)、赤ちゃんは多いそうです。胎児は90%ぐらいが水分だと、そんなことが書いてありました。 すると、私という人間の8割は水で出来ていて、あとは何で出来ているのか。炭素でできているのか。そんな風にしてず〜っと分解していけば、あとはバラバラになって何もなくなるかもしれません。
でも果たして人間存在はそれだけで説明がつくのか。私はつかないと思っているのですが。 そういった目に見えるものではない、実体があります。 聖書はそれをたましいと呼ぶのだと思いますけれども、私という実体があるのです。 それは、水が何%だとか、分解していけばわかる話ではなくて、目に見えない話で、スピリチュアルなことなのです。
そういうことに私たちは目を向けるべきだという、そういった方のお話を聞きますと、大きくテーマは2つあるようです。 一つは人間存在とは何か。それからもう一つは不条理をどう受け止めるのか、だいたいこの問題に集約されていくように思います。
今、私たちが改めて心を向けなくてはいけないのは、聖書を開いてみた時にイエスさまの目線は、私は、水分が80%ある、分解していったらば、原子、分子のレベルになって、結局炭素が残るとか、そんな話ではなくて、私っていう存在に向けられている、私っていうたましいに向けられているのだという風に聖書は語っているのです。
イエスさまは、問題はあるか、弱さはあるか、強い人間なのか、そういうようなところに目線を向けておられるのでなく、もっと奥のその人そのものに目線を向けておられました。なぜ私という人間は存在しているのだろう――これは私たちにとっては大きな問いになります。 色々と忙しくして気持ちを紛らわしていますと、あんまりこのことを真剣に考えませんけれども、ふと立ち止まる時に、なんで自分は人間として存在しているのだろうと、そんなことを考える時があります。
私たちにとって、最大のテーマは存在です。外側で見える問題ではなくて、存在です。 私たちはどういうところに目線を向けていけばいいか――生きることですけれども――それは存在です。
3)私たちの身の周りにあることを便宜的に二つに分けて考えます。 一つは見える世界、もう一つは見えない世界です。 人間は見える世界に生きています。それから、それだけではなく見えない世界で存在しています。 見える世界でというのは、私たちはどういう風に行動するかという世界。見えない世界は存在です。
神さまはどっちを見ておられるかというと、聖書には明らかに、神さまは内側を見ておられる、見えないところを見ておられる、と書いてあります。 第一サムエル(16:7)を見ますと、「人はうわべを見るが、主は心を見る。」とあり、新約聖書に行きますと、「主は隠れたところにおられて、隠れたところで祈りを聞いておられる」 (マタイ6:6)とあります。
ところが、神さまが存在に目を向けておられるにもかかわらず、私たちの目線は見えるところに行きます。 これは人間の弱さだと思いますけれども、見えるところにどうしても私たちの目線が行って、先ほど少しお話ししましたが、「〜だから大丈夫」、こういうことができているから大丈夫、そういうところにどうしても私たちの目線は向いていきます。
しかし、私は〜だから大丈夫という考え方は、それが人に向きますと、〜だからダメという目線で見るかもしれない。それが、ここで言われている弟子たちの姿ですね。 「この人が問題に直面しているのは、だれが罪を犯したからですか」という質問はそういう意味だと思います。
ここで、「〜だから大丈夫」の〜の部分に大切な一言を入れたいと思います。 私はこれ以外の一言が入ると、クリスチャン生涯は少しギクシャクするかなぁと思います。 その唯一入れていい一言というのは、「恵み」。 ルカの福音書(4章)でお読みしましたが、「恵み」の一言は、ここに入れても大丈夫です。それ以外の理由は入らないということです。
私たちはもう一度イエスさまの目線で自分を見てみたいと思います。 場合によっては、見えるところを少し取り除けてみる勇気も必要かもしれません。 自分はこういうことをやってきた、こういうことができるということを少し除けてみると、私たちの中身が見えるかもしれない。 そこに目を向けていきますと、「〜だから大丈夫」の〜に入れていい言葉は唯一「恵み」で、恵みだから大丈夫ということです。
世の中はこれをなかなかさせてくれません。世の中は外側で勝負しろと言います。 私たちが「存在が大切です」と言って世の中に出て行っても、相手にしてくれません。仕事をするときには、見えるところできちっとしろといいます。
私(河村牧師)は、「恵み」という言葉を使っていい場所、それがもしこの地上に唯一あるとすれば、それは教会だと思います。あるいは見えない形で言えば神の国だと思います。 神の国は、私たちの存在が大事で、私たちの存在は、神さまの恵みがあるから大丈夫というところに目が向きます。 それをやっていい場所というのは、神の国であり、教会の中です。
イエスさまが目線を向けたような見方で私たちは人を見たいと思いますが、人に目を向けますとどうしても弱さゆえに、外側を見ます。 そして〜ができるとか、〜ができないとか、外側に行きますけれども、私たちの目線は、本当はその内側に向いていなければなりません。 内側に向いていくということはどういうことかということですが、何ができるかできないか、弟子たちはそういう見方をしました。 でもそこからもう少し中に目線を入れて、この方はどういう方なのだろうかって所に静かな目線を向けていくということが大切なことではないかと思います。 そうすると、そこに息づいている生のその方の姿が見える時があります。
私(河村従彦牧師)は、藤本先生には本当にお世話になりまして、東京で牧会していたときには、まぁ私の仲間ではありましたけれども、仲間というより、先輩ですけれども(笑)、これほど近くお交わりをしたことはありませんでした。 しかし横浜に参りまして、それまで以上にお交わりを戴くことになりました。 私は、本当にでこぼこした人間で、そこはずいぶんご迷惑だったかなと、申し訳なく思っています。 お交わりをさせていただく中で、距離が縮まりますと、やっぱり違います。 離れた時に見ているのと違うものが感じられます。 私は一年経つか経たないか位だったと思いますけれども、そういうことを、お交わりをさせて戴く中で感じさせられた時がありました。
私は、そういう意味で先生のことが見えてなかったなぁと、すごく申し訳なく思ったことがありました。 そうか、こういう方なのだ。それは、私が本当に見落としていたところだなぁと、あとで気が付きました。 先生はとてもスマートでいらっしゃいますので、外から見てるとあれなんですけれども、一緒にいろいろしますと、先生らしさがあるなぁと……今頃は、説教しながらくしゃみを(大笑)しているのではないかと思います。
これはさておきまして、一般的なことですけれども、外側に目が向きますと否定的になる傾向があり、内側に目が向きますと肯定的になります。 理由はよくわからないのですけれども、そういう傾向があるかなぁと私は思います。 ですから、批判的になる時というのは、存在に目が行っていない。外側だけに目が行っています。できた・できないで、私たちはどうしても批判的な目線を向けやすいということです。
そんなことを考えますと、その人の存在に目を留めるというのは、やはり肯定的な見方で見るということがとても大切かなぁと思っていまして――「恵みの年を告げ知らせるために」とイエスさまは仰いました――この「恵み」の年というのは「受け入れられる」という意味です。私たちはそういうスタンスで人とお交わりをいただく者であらせていただきたいと思います。
肯定的なスタンスから入るというのは、とても大事だなぁと思いますけれども、皆さんもよくご存じの三浦綾子さん(1922~1999)という方がいらっしゃいまして、「言葉の花束」(講談社文庫、1998)という本がありますが、こういったことを書いておられます。
「人間は前にも述べたが、小さく弱い存在なのだ。名前を憶えられていたというだけで生きる意欲がわいたり、だめな奴と言われただけで死にたくなったりするものだ。私たちは心して人に勇気を与え、喜びを与え、つまりその人の良さを引き出す言葉を出すべきであると思う」
その後にコメントがあって、イザヤ書の43章の4節「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛する」(口語訳)、有名な言葉です。 それで、長年ホスピスに勤められていた方が、患者さんに「聖書の言葉で何が一番好きですか」と尋ねた時に、その答えとして一番多かったのが、イザヤの43:4だったということです。
三浦綾子さんというのは、若い頃、非常に気の毒な状況におられました。 戦争が終わった後に、正しいと信じていたものに裏切られます。また結核を患って長い間闘病をされます。そしてこんな自分は生きている価値がないと捨て鉢になって、自らいのちを絶とうとします。しかし聖書に触れて三浦さんは立ち直っていきます。そういう中で生み出されていったのが、氷点とか塩狩峠とかでした。
私(河村従彦牧師)はちょうど高校生ぐらいだったと思いますけれども、非常に興味がありまして三浦さんの本を次から次へと読んだ記憶があります。 そこには人間の生の姿が生々しく書かれています。 三浦さんのテーマは一言で言いますと原罪ということです。人間はこういうものだ、そういうことだと思います。
ところで宮島さんという三浦さんの秘書をされた方がいらっしゃるのですけれども、こういったことを言っておられます。 「三浦さんは周りの人をほんとにほめる人で、その人の欠点まで長所にしてしまった人だった」というのです。 例えば、おしゃべり、出しゃばり、おせっかい、これは人間の三大欠点ですが、ところが三浦さんにかかりますと、おしゃべりは話題が豊富、あなたは話題が豊富なのね、とそういう言い方に、出しゃばりは積極的、おせっかいは気配りができる、ということになってしまうのだそうです。 三浦さんはいつも肯定的な目で人を見ていたと、宮島さんはそんなことを言っています。
イギリスの神学者の方で、詳しくは知らないのですけれども、(トーマス・)フラー(1608〜1661)という方がいますが、こういうことを言っています。 「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」(大笑)。 こういう言葉を残しました。自分もちょっとこう反省するような……(笑)。 両目を大きく開いて見よというのは、長所も短所も見よということでしょう。 それから片目を閉じてというのは、長所を見て、短所は寛容であれと、そういうことかもしれません。
ところがこのことについて、先ほどお話をした三浦さんはこういう風に言っています。 「片目をつぶれというのは、見て見ないふりじゃなく、つぶった片目は自分の心の姿を見るといいのね」と。片目をつぶれというのは見て見ぬふりをしなさいということではなくて、自分の心の姿を見るといいのね。 イエスさまが見たように自分を見る。イエスさまが見たように人を見る。
私たちは今朝、自分をどう見ているでしょうか。あるいは自分の周りにいる方々に、どういう目線を向けているでしょうか。 私たちがもし「〜から大丈夫主義」に立てこもれば、私たちは他の人に対しては批判的な目線を向けることになります。 しかし「〜から大丈夫」というところに「恵み」を入れていくと、主の恵みがあるから大丈夫、そういう風に言える時に、私たちは周りの方々にも恵みのメッセージを届けることができるかもしれません。
私たちは今まで頑張って、人生を送ってきました。それはすばらしいことです。 でも人間の頑張りは神さまの聖さの前には、決定的な意味を持たない。神さまが恵みと憐れみの目線で、この私たちを今朝も見ていてくださる、だから大丈夫。私たちは、その点にしっかりと立って行きたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。ご一緒にお祈りをしたいと思います。
☆各々が静かに目を閉じてお祈りをする。
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