☆聖書箇所 ガラテヤ4:1〜7 1つまり、こういうことです。相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、 2父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。 3同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。 4しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。 5それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。 6そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。 7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。
☆説教 ガラテヤ(15)もはや奴隷ではなく、子です。
では今日は、ガラテヤ人への手紙の4章ですね。前回の続きであります。 パウロは3章の終わりからずっと同じコントラスト、同じ対比で話を展開していきます。
それは先週学びました箇所では、3章の23節「信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視されていた」 「信仰が現れる前」というのは、福音を経験する前、私たちは律法の下で監督されていた。 ところが25節26節「しかし信仰が現れたので、(***現れた以上、福音を体験した以上、もはや私たちは律法の監督の下には、と説明)養育係の下にはいません。あなたがたはみな、信仰により、神の子どもです」という、 この以前の私たちと今の私たちの対比、これがず〜っと続いていきます。
以前は律法の奴隷であった私たちが、今や神の子どもです、となります。 (ガラテヤ4章)3節ご覧ください。3節 【※ちょっと待ってね、とタブレットを繋げようとして、担当に向かって語る藤本牧師。はい、繋がってない、ごめんなさい。繋がりました?すいません、WiFiが違うのに繋がってましたね(笑)。皆さん、すいませんね。もうちょっとだけ辛抱してください。これで繋がります。いかがですか?来るかな?「コンピューターに接続中」となって……まだ来ない?】 では、今日はそれ【※画面で藤本牧師の聖書を見せること】無しで行きますので、手元にある聖書を見ていただきたいと思います。 4章の3節を見てください――
3同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。
「子どもであった頃」というのは、神の子どもであった頃ではないです、以前の自分。 以前のこの世の習慣、考え方に縛られていた頃には、「この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました」です。 「子どもであった頃」というのは、キリストの福音と出会う前でありまして、 「もろもろの霊の下に奴隷となっていた」というのは以前(第3版)の訳では「幼稚な教えの奴隷となっていた」です。 ギリシャ語では「ストイケア」と言いますけれども、 日本語ではいわば「イロハ」です。
ユダヤ教の律法で言えば、安息日を守りなさい、四つ足の動物を食べてはいけません、というような、ユダヤ教であれば子どもでも理由が分からずに、もう最初からその中に入っている所の律法ですね。
しかし「ストイケア」には、もう一つの意味があります。 【それを今回の訳(新改訳2017)では採用しています。】 それはこの天地万物を創造している基本的な要素です。 ギリシアの哲学では、その要素を地、火、水、風と考えて来ました。 あるいはこの世界の天体の動きであれば、太陽・月・星にこの世界は支配されていると考えていました。
すると異邦人でありましたガラテヤの人々は、まさにこうした要素に縛られ、依存し、奴隷となって生きて来たわけです。 日本人の私たちにとって、これらのストイケア、迷信的な教えに縛られる要素、その奴隷となる要素は増えていきます。 地方の風習や祭り、占い、年齢、性別……
私(藤本牧師)以前2回程、ホーリネス教団の千葉の教区の聖会に2度ほど連続でお招きをいただいたことがあります。 二回とも、成田の非常に立派なホテルの宴会場が集会場なんですね。 ものすごく大きなシャンデリアが6つ下がっているんですよね。 これ、普通に借りたら30万50万するだろうなと思う、その会場を「よく聖会の集会場として借りることができましたね」とお尋ねしましたら、 「実は毎年千葉の修養会、聖会は9月のお彼岸の日と決まっているんです」と。 「お彼岸の日に結婚式を挙げる人はいませんので、ホテル側としては5万円で提供してくださいます」と。 それはその立派な会場と椅子だけではないんですね。音響機器から、それからひな壇に至るまで、全部で5万円で助けてくださる。 「幼稚な教え」に助けられて(笑)、キリスト者は得をすることがありますね。 ま、普通、仏滅に結婚式はしないと言いますね。で仏滅には結婚式は少し安いんですけれども、クリスチャンは「安いんなら敢えて仏滅に結婚式を」(笑)という人もいますので、ま、一般の風習に逆らって、それを信じない者たちが得することはありますね。
でも私たちを迷信的に縛っているのは、実はそうした数限りない「幼稚な教え」だけではありません。 勿論縛っているだけでなく、私たちはそれに自分をゆだねて、流されて、依存して生きているのも現実なんですけれども、
新約聖書で、ベテスダの池の側に伏せっていた盲人がいました。病人ですね。 涙ながらにイエスさまに訴えます。 「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」 ヨハネの福音書の5章(の7節)ですね。
ベテスダの池というのは間欠泉です。間を置いて、水とガスが共に噴き出て来ます。 この池が生命の源であって、その間欠の間にガスが出て来た時に、一番最初に飛び込んだ人は癒されるという教えがありました。 それは非常に魅力的な「幼稚な教え」でありました。この男だけではありません。 他に5つの回廊が繋がっていて、間欠泉が噴き出る度に、それを「天使のわざ」と信じる多くの病人が友だちに助けてもらい、自分の力を振り絞って、われ先にと間欠泉に飛び込んで行く。
時として、キリスト教会もこの「幼稚な教え」、「この世の諸霊」に惑わされます。 中世では、昔の聖徒たちが鼻をかんだハンカチがご利益として、その一部を持っていることが尊いとされていました。 そんな教えがあるなら、わが家には私(藤本牧師)がかんだハンカチが山程あります(大笑)。誰も使わないでしょうね。
そのような迷信を追い払ったルター。 でもルターから出て来るドイツ敬虔派という群れがありますけれども、そこでは黒の服を着ることがクリスチャンにふさわしいことだと考えられました。 皆さんも映画を観ていて、ドイツ敬虔派の人々が小さな子どもからお爺さんお婆さんに至るまで、黒い服を身につけているというのを見たことがあると思います。 あれは怪しげな宗教ではないんです。非常に敬虔な宗教で、華美な洋服を避け、一番質素な黒の洋服を着るというのは――ま、何となく暗くなってしまいますけれども――しかし真面目な信仰として捉えられていました。 規則正しい生活が誇張され、やがて私たちがどのようなものを食べて、何を飲んで、どのような服を着るのかが、神との関係を決めるようになると――それは私たちの迷信です。
私(藤本牧師)は迷信とは言いませんけれども、モットーがありまして、講壇で説教をする時には、ワイシャツは白でなければいけないというモットーがあります(笑)。 悪いモットーではないと思うのですけれども、自分が白でありますので、ほかの先生がブルーのワイシャツを着て講壇に立ちますと(笑)、何か違和感を感じるんですよね。 ていう段階で既に迷信ですよね(笑)。
私たちが何を着るのか、何を食べるのか、どんな髪型をするのか、というのは、私たちの信仰には全く関係ない。 もしそういうことに拘っているとしたならば、それは幼稚な人です。 幼稚な教えに惑わされる、幼稚な人ですね。 そう教えた段階で、そのような教えは律法主義的にもなる。幼稚な教えは必ず律法主義的になる。 そしてこの世の様々な霊に惑わされてしまうわけです。
しかし(ガラテヤ4章)4節ご覧ください。これが今日の聖句です。
4しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。
イエス・キリストがこの世界にやって来られた。 しかも女から生まれ、律法の下にある者を贖い出すためにやって来られた。 それは5節に書いてあります。
5それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、……
3つのポイントに今日は目を留めたいと思います。
1)幼稚な教え、迷信に囚われている私たちに、イエス、キリストは「女から生まれることによって」(ガラテヤ4:4)近づいてくださった。
「女から生まれる」というのは、《神の御子が私たちと同じ人となられた》ということです。 「その名はインマヌエル。……『神、われらとともにいます』という意味である」(***マタイ1:23)と聖書には書いてあります。 御子イエスを通して現れてくださった神は、遠く天の上から私たちを眺め、指図し、嘆いておられる神ではないですね。 人となって、罪を除いては、私たちのすべての弱さ、痛み、悲しみを背負われたお方です。
アメリカを舞台に(神の愛を伝え)、若い頃活躍しておられたジョニー・エリクソンという女性がいます。 彼女は17歳の時に交通事故で首の骨を折り、手足が麻痺するという障害を負うことになります。 彼女は信仰を持っていました。 しかし、その事故以来、どうしても受け入れることができない言葉がありました。 それが「愛なる神」です。 信仰を否定するつもりはない。でも聖書を読んでいて、一番苦しいのは、「愛なる神」だと。 もし「愛なる神」がおられるのなら、どうして私が17歳でこのような状態になってしまったのか? つまり人間の不条理に揉まれて、苦しみもがきながら、「神が愛である」という命題だけは、彼女は受け入れられない、と言ったんですね。 (その気持ち)とても良く分かります。
しかし、ある日友人が、彼女にさりげなく言いました。 ちょっと無神経な言葉かなと思いますけれども、さりげなく言いました。 「十字架の上のイエスさまも、あなたと同じように身体が麻痺しておられたのよ」 その言葉が妙に彼女の心に残りました。
エリクソンは言います。 「私は、主イエス・キリストが私の置かれている状態を実感を込めて理解できる、ということを発見しました。(***イエスは私の思いを実感を込めて理解できるということを発見しました、と説明)。主は十字架の上で、死を待つ間の苦悶の恐怖の時間、身体の自由も利かず、助けもなく、過酷極まるものでした。イエスは動けないということ、鼻の頭をかくことも、姿勢を変えて体重を移動させることも、自分の目の涙を拭うこともできないこと――それがどんなことかを身をもって、キリストは体験されました。キリストは私がどんな気持ちでいるかを正確に知っておられるのです。」
ここに於いて初めて、ジョニーは「愛なる神」「憐れみに満ちた神」を見出しました。 それは天地を創造された神が、栄光の中だけではなく、女から生まれた人間の中で、御子としての栄光を輝かせてくださり、神の愛を私たちに伝えてくださるお方であるということがエリクソンに分かりました。
2)イエスが遣わされたのは、「律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが神の子どもとしての身分を受けるためでした。」(ガラテヤ4:5)
主の十字架は、私たち人間と同じ痛み、同じ悲しみを味わうための手段だけではありません。 十字架こそは、苦しみと律法の縄目から私たちを贖い出すための、救いの御業であったと。
聖なる神が私たちへの御心として突きつけられた律法は、キリストが受け止めてくださいました。 律法が私たちに突きつけている罪の債務証書をキリストご自身が全部背負ってくださいました。 私たちが受けなければいけない裁きを、キリストが受けてくださり、ご自身のいのちをもって、すべてその債務証書を支払ってくださいました。 その目的のために、イエスは人となってこの世界に遣わされた、と言うんですね。
それによって、私たちは神の子どもとなることができる。 ず〜っとパウロは、奴隷と比較して、私たちは神の子どもなんだと強調して来ました。 (ガラテヤ4章)7節を見てください。
7ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。
私たちはもはや奴隷ではない。神の子どもだ。
●パウロはここで人間関係の二つの次元を話しています。 一つは《奴隷と主人》という関係ですね。 奴隷は、自分の自由も権利も持っていません。自分の人生を持っていません。 主人の監視下にあります。 主人が行くところに行き、なすべき務めをなします。 教育もなければ、自分の人生を自分で処することもできません。
律法が主人です。 律法を守っていれば、奴隷は安心です。 でも律法に抵触することをすれば、律法に捨てられるイコール神に捨てられる、という恐怖感がいつも奴隷にはありました。 いつも以前の私たちにはありましたと。
しかし、それは福音が現れる以前のことであって、キリストに出会う以前のことでした。 【※もう一つのパウロが話しているのは《親子関係》で】今、私たちは神の子どもです。 親も子どもの行動や生活を気にします。色々指示します。 そうでなければ、無責任過ぎます。 親は子どもに、こうあってほしい、こう生きてほしいと、教えますし、それを指導します。 しかし根本的に《奴隷と主人》とは違います。
(それは愛の関係です。) 親子ですもの、親は子どもの行動がどんなものであったとしても、子どもを愛するということを止めることはありません。 なぜなら《親子関係》では、行いが関係の基本ではないからです。 行いを超えた愛が、無条件の愛がそこにあるからですね。
教会に来ていたからと言って、すべてなすべきことをなしていたわけではありません。 コロナ以前、教会に来ていたからと言って、キリスト者のなすべきことを全部自分はやり遂げて来た、という方は少ないんだろうと思います。 でも結果、コロナによってオンラインで教会から離れてしまったがゆえに、以前なすべきことも益々しなくなったという方もおられると思います。 もしそういう方が今日礼拝を聞いておられたならば、私(藤本牧師)はできることがあれば、なした方がいいと思います。 《礼拝はこの会堂でもオンラインでも同じ》なわけですから、《主に感謝し、主に信頼する》という全てを込めて、《自分の生活も健康もすべては神からいただいたものである》というしるしのために、なすべきことは私(藤本牧師)はなさったらいいと思います。
でも仮に、以前なすべきことがようやくできていた。しかしコロナのおかげで、ますますできなくなった自分にそこまで嘆く必要はないです。 むしろ、「そこまでできなくなったとしても、依然としてあなたは神の子どもだ」と仰るイエス・キリストの言葉を聞いて、《少し神に近づこう》という思いが起こされるべき。 一旦離れてしまったら、「もういいや、一生離れてしまおう」と思わないで、 「オンラインの礼拝もここに集う礼拝も同じなんだから」と言われれば、 「ああ、そうか、ほんの少しでも自分にできることがあればできたらいいなぁ、もう少し祈れたらいいなぁ、祈祷会にも来られたらいいなぁ」――そう思っていただければと思います。
パウロはこの《親子関係》をひと言で表現しました。それが6節にある「アバ、父」です。 「アバ」というのはアラム語で「お父さん」です。 ものすごく気軽な、小さな子どもがお父さんに言う、ものの言い方です。 お父さまと訳す必要はないです。お父さんです。あるいはパパです。ですからアバなんです。
私たちが神の子どもであるということは――何の遠慮もなく全能なる神にいくらでも近づける――全能なる神に「お父さん」と呼びかけることができるということですね。
3)最後に短く、互いのために祈りたいと思います。
「この恵みが、あなたの上にも及びますように」です。 なぜなら、(ガラテヤ4章)4節の一番最後に、「神はご自分の御子を、……遣わされました」という風に締めくくられていますよね。 神は私たちを律法の奴隷から救い出すために、女から生まれた御子をこの世界に遣わされました。その御子を私の上にも遣わしてください。 漠然と「この世界に遣わされました、2000年前に」と仰らずに、「今日の私に遣わしてください」――それが私たちの祈りです。
【※そしてパウロは5節、6節に、私たちがこの恵みに導かれる過程を表現しています。 5それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。 6そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。】
かつての成功と失敗、合格と不合格という律法主義的な尺度で物事を測り、自分自身と人生を評価して来た私たちが、今や「アバ、父」と神さまを呼ぶことができる。 神さまと語り、神さまの家族の中に私たちは入れられている。
2000年前、時が満ちてそうなったと記されていますよね。4節に書いてありますね。 「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を……遣わされました」(4節) 今朝時が満ちますように。いや今朝だけでなく、必要な時、いつでも時が満ちますように。
そして何の遠慮もなく、どんなに離れていても、放蕩息子であったとしても、 「アバ、父」と言って神さまのところに帰るならば、父は私たちを両手で受け止めてくださいます。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、今朝も「アバ、父」と呼べる霊を、私たちの内に遣わしてくださいましたことを感謝いたします。呼ぶことができると、イエスさま、あなたは仰ったのですから、何度も何度も「アバ、父よ」と言うことができますように。祈りの言葉が見つからなかったとしても、自分が苦境に立たされた時に、天を仰ぐか、目をつぶるか、「アバ、父」とあなたの御名を呼び求めることができますように。何度もあなたの御名を呼んでいる内に、あなたがあたかも私の側にす〜っと近づいて来て座っていてくださるということを実感することができるようにお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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