☆聖書箇所 マタイ20:20〜23 20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。 21イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」 22イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。 23イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、私の右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」
☆説教 母の願い、母の信仰 今朝の聖書の箇所は、このマタイの福音書の20章の20節にあります、「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が」――このゼベダイの息子というのは、ヤコブとヨハネでありますけれども――その母親がという所からお話をしたいと思います。
1991年にアメリカを騒がしたお母さんの出来事がありました。2004年には小説になり、2011年には映画になります。その映画を皆さん観ることができます。
アニッサ・アヤラさんという娘さんが高校生の時に骨髄性白血病で倒れました。 学校を中心に地元のテレビ局を使って、骨髄移植のドナーを探します。 しかし適合するのが二万人に一人という非常に少ない確率のため、見つかりませんでした。 そこでお母さんは決心いたします。もう一人子どもを産み、その子の骨髄をアニッサさんに移植しよう。 その時、お母さんは既に43歳でありました。 生まれたとしても骨髄が適合する確率は25%でありました。 これがニュースになりますと、全米で大騒ぎになります。 宗教家あるいは生命倫理学者などから、痛烈な批判がテレビ新聞を通して寄せられていきます。 倫理的に言えば、それは問題があると思います。 お母さんはア二ッサさんを救うために、もう一人の子どもを儲けて、その子どもの骨髄を使う、というのはどうなんだろうか?
でもお母さんはその批判を逞しく跳ね除け、神さまも味方してくださったと思います。 妹のメリッサさんが誕生します。そして1歳になるのを待って骨髄を移植し、見事に成功して、二人は今も元気であります。 世間からお母さんに対して、「お母さんはどうしてこんなことをするんですか?」と批判を浴びせられる中、お母さんの答えはとても単純でありました。 「子どものためなら、何でもするのが母親でしょう?」と。 だから、何でもしていいというのは疑問であります。でも非常にこの答えは現実的に説得力があります。 確かにそういうものです。「こどものためなら」という母親の思いを理解しない人はいないと思います。 ですから、今日は母の日ですから、ヤコブとヨハネの母に注目いたします。
1)第一番目に、お母さんは子どものために願っている、というところに目を留めてください。 20節、お母さんは子どものために願っているのです。 【※画面:20節「そのとき、〜母が」に黒いペンで傍線。「母が」と21節「彼女は言った」に囲み】
20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。 21イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」
この願いですね。 ここまでイエスに従って来た者たち――弟子を含め、このゼベダイの子、ヤコブとヨハネの母も極めて単純な発想でありました。 田舎のガリラヤから、とうとう、特別な教えをし奇跡を行うことができるイエスが、エルサレムの都に上って行く。 とうとう、この方がダビデの王国を再建する時がやって来る。 栄光の座に着かれ、その時誰かがイエスの右に、誰かがイエスの左に座る、というのは、弟子たちの中で明らかに優先的な順位がつく。
マルコの福音書では、この願いを持って来たのは、ヤコブとヨハネが直接その口から言っています。(***マルコ10:35) しかしマタイの福音書では、これは母親の頼み事となっています。 イエスの栄光の座に一人を右に一人を左に――そんな強欲な願いを使徒ヤコブとヨハネの口から出すわけにはいかない。 それは、母親の口から発せられた願いにしてしまおう――そういう風に考える人もいます。 でも私(藤本牧師)はその逆を考えます。 母親なら、そう願うんじゃないか? たとえこの二人の息子たちが成人した大人であったとしても、母親なら息子のベストを願って当然ではないかと思います。 愛する息子のためなら何だってするのが母親だと言われれば、とても現実的に響いて来ます。
わが子のために最善を尽くす母親の姿がここに描かれている、と考えていただき、今日のところを見ていただきたいと思うんです。 お母さんは沢山祈ります。でもその祈りは、自分のために祈るというのは10%ぐらいでしょう。圧倒的に子どものために祈るものです。
2)二番目にお母さんの祈りには、大きな期待が込められていました。 先程見ていただきましたように、 「主よ、あなたの御国において――天の御国ではなく、あなたが地上で御国を再建される時に――私の息子の一人を右に、一人を左に座らせてください」 しかも、このお母さんの言葉の中では、「おことばをください」となっています。 マルコの福音書で、ヤコブとヨハネがその願いを出した時には、「おことばをください」とは言っていません。 母は、「約束してください。息子のために」という風に願っています。 とっても大胆な願いで、ぜいたくな願いで、イエスさまに約束を迫ります。
イエスさまはこの時,ヤコブとヨハネに向かって、「なんて図々しいことをあなたは願うのか」と叱ってはおられません。 この二人の息子のために、きっと母は大きな犠牲をこれまで払って来たに違いないですね。 この母も一緒に、イエスに従ってついて来たに違いありません。 この母も息子たちと同じように、イエスさまに真実な信仰を持っていたに違いありません。
他の弟子たちは24節にありますように、出し抜かれたとばかりに、ヤコブとヨハネだけではない、この母親に腹を立てたに違いありません。 もし他の弟子たちの母親もここにいたら、ヤコブとヨハネの母と同じように、息子の最善を願ったでありましょう。
大胆に祝福を願うその母の姿を、イエスさまは否定されなかったということに、一番目に目を留めていただきました。 しかし二番目に主は仰いました。22節ですね。ちょっと見てくださいね。 【※画面:23節「あなたがたは、わたしの杯を飲むことになります」に黒いペンで傍線】
22イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
ここでイエスさまは「彼ら」というものの言い方にしていますが、そう考えますと、その《「彼ら」の中には母親が入っている》というのが今日のメッセージの中心です。 (※もう一度22節を読む藤本牧師)
22イエスは答えられた。「あなたがたは(***これは母親が入っているんです)自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」(***「彼ら」を読み変えて)母も息子も「できます」と言った。
という流れに話はなっています。 申し上げましたように、イエスさまはヤコブとヨハネの母親が願っているその願いを責めてはおられない。 しかし「何を求めているのか分からないのです」と、このヤコブとヨハネだけではない、母も分からない。 願いを出す時に、息子たちがイエスさまの飲もうとする杯を飲むことになる、ということは、それは母は分かっていない。息子も分かっていない。 やがて使徒の中で最初に殉教したのは、このヤコブであります。使徒の働きの12章に出てまいります。 お母さんは子どもの最善を、しかも贅沢に望みます。それでいいんです。 しかし最終的にどのような杯に導かれるのかは、分かっていない。
ま、やっぱり子どもに早く大きくなってほしい。 小さく生まれたならば――わが家もそうでした――体重計を買って来て(笑)、そして何とかして早く体重が大きくなんないかなぁと。 一度も測ることはありませんでした。あまりにも忙しくて、測る余裕がなかった。 二週間後ぐらいに、買って来たデパートにそのまま返品しました(笑)。 デパートは「どうして返品されたのですか?」 「一度も使いませんでした。忙しくて」 順調に育ちましたけれども、小さく生まれますととっても気になるもんですよ。
早く言葉が出るように、習い事に行かせてあげたい、勉強に専念させてあげたい。 《子どものためなら何でも》という親の愛が、どこかで子どもにプレッシャーを与え、背伸びさせ、苦しめるとよく言われますよね。 そしてそういうことを、私たちはしてしまうものです。 子どもたちが、自分は何のためにそんなことをしているのか、分からないとしたら、実は親も本当のところは分かっていないんですね。
とんでもない要求を出して来たのは、ヤコブとヨハネ。 でもとんでもない要求というのは、もしかしたら、純粋に母親の要求であったのかも知れない。 先にどんな苦しみが待っているかを、ヤコブとヨハネは分かりませんけれども、 幸せを願っている母親も、実はその要求が、願いが分かっていない。 「主よ、私は親ですから、子どもの最善を願います。 しかし私の願いがこの子をどこに連れて行くのか分かりません。 それをいつの間にか、子どもに無理強いをして、子どもに背伸びをさせ、子どもに飲めない杯まで強いているのではないでしょうか? 主よ、どうか私が子を思う愛を分かってください。私がどんなにこの子を愛して来たのか、 主よ、あなたは分かってくださいますよね?」 イエスさまは仰います。 「わたしには分かっているよ。あなたの気持ちをよく分かっている」
いいですか?三番目。 3)その上で、母親の信仰を見ていただきたいと思います。
<マタイ27:56> 56その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。
「その中には」と始まる56節ですが、これは十字架のゴルゴタの丘に立ち、十字架の出来事を全部見ていた者たちです。
(最後の)「ゼベダイの子たちの母がいた」――これがヤコブとヨハネの母になるわけですね。 (※指で押さえながら)こちら(※囲みの方)はサロメになるのかな? ゼベダイの子たちの母がいた。
ゴルゴタの丘で、十字架につけられたイエス、その苦悩、苦しみ、恥を受ける悲痛な震え、顔、その天地が暗くなってしまったところのその出来事を見ていた、ヨハネとヤコブの母、この人物は初代教会で有名な人物になります。 彼女はこの時初めて――(マタイ)20章で、 「息子たちをあなたの右と左に着かせてください」 イエスさまが仰った。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるのか」 「はい、できます」 と言った杯が、こういう杯であったのか、ということを初めて知ります。 初めて分かります。
当然、お母さんは目の当たりにした十字架だけではありません。 十字架の後の復活も目撃したはずです。 このお母さんは祈っていた所に聖霊が降り――弟子たちがペンテコステでガラリと変えられていった、逞しく勇ましくなっていった――その弟子たちの姿もお母さんは見ましたし、 お母さん自身も、十字架が復活に変えられるという、神の力を体験したはずです。
でも初代教会躍進の中で、ヘロデが教会に迫害の手を伸ばして行ってる時に、息子ヤコブが殉教するのを経験いたしました。 ヤコブとヨセフの母、その信仰は苦き杯を飲むまでに、後には成長していきます。 「二人の息子をあなたの右と左に」と願った時には、知る由もない。 人生に与えられる神の杯の複雑さ――それはお母さんにも差し出された杯でありました。 そしてお母さんはその杯を飲んだんですね。
先程のマタイの福音書の20章の23節では「飲むことになります」 なぜなら、十字架で示されたイエスの大きな愛を知っていた。 だからその苦しい大きな杯を飲むことになります。 十字架の先に復活があること、悲しみの先に希望があること、労苦の先に報いがあることをお母さんは知るようになった。 だからお母さんは見事に杯を飲んでいった。
それゆえに、私(藤本牧師)は思います。初代教会が誰に憧れ、誰を尊敬し、誰を模範として生きるようになっていったのか? 確かにペテロでしょう、確かにヤコブでしょう、確かにヨハネでしょう。 しかし、もしかしたらそれ以上に、ヤコブとヨハネの母を尊敬するようになっていったのかもしれないです。 勿論ゼベダイという名前も残っていますから、お父さんも尊敬される人物になっていったに違いないですね。
すると、よく分かります。 苦い、胸が裂ける程の杯を飲むことができた母――そういう人を一番尊い母親として、初代教会は尊敬するようになっていった。 成功した母を、世の中で活躍している母を、必ずしも初代教会は尊敬したわけではない。 最も尊敬する母親となっていったのは、使徒ヨハネとヤコブをイエスさまに捧げ、ヤコブの殉教を受け止め、 ――ヨハネは長く生きました。でもヨハネは最もイエスさまの母マリアを看る方向へと人生を変えて行きます。自分の母よりも、イエスの母マリアを面倒を看る。やがてパトモスに流刑の刑に遭い、そこで黙示録を書くヨハネですね。 ――その息子二人を送り出し、神に捧げた母親を、初代の教会は最も尊敬したのかもしれないですね。
教会には「縁の下の力持ち」なる母親が沢山います。 それは家庭にあって「縁の下の力持ち」だけでなく、教会には「祈りの母」がいます。 「奉仕の母」がいます。陰に隠れて、教会を支えている母親が沢山います。 教会が尊敬するのは、表に立って実績を積み上げていく人物ではない。 教会に降りかかる所の大きな杯を、飲むことのできる大きな信仰を持っている人。 救いの杯も、喜びの杯も、涙の杯も、苦き杯も飲むまでに、杯を差し出してくださる神さまに心から尊敬し、イエスの杯の意味がよく分かっているお母さんたちを、私たち教会は最も尊敬します。
☆お祈りをいたします。――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、ヤコブとヨハネの母がしっかりとこのように聖書に名を記されているのは、立派な息子を出したからではないでしょう。その立派な息子が沢山の杯を飲んでいく中、母親も共に「わたしが飲もうとする杯を飲むことができますか」「はい、できます」「確かにあなたがたはそのようになります」と、母親もまた杯を飲むという運命を共にしたということを、初代教会の弟子たちは、信仰者たちはよく知っていたからでありましょう。
私たち高津教会の家族もよく知っています。あのお母さんは本当に多くの苦労を重ねられたと。そしていつも「杯を大きくしてください」と主に願いながら、教会に降りかかる労苦をいつも受け止めて来られたと。私たちはこの世にあって、地上の母親だけでなく、主に結ばれた所の沢山の霊の母親を持っています。今日は格別にそれらの方々を覚え、感謝する日でありますようによろしくお願いいたします。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
|
|
LAST UPDATE: 2021.05.09 - 21:26 |
152.165.12.109 - Mozilla/5.0 (Windows NT 10.0; Win64; x64) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/90.0.4430.93 Safari/537.36
|