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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/16ガラテヤ(16)神を知っている、いや神に知られている ガラテヤ4:8〜11
☆聖書箇所  ガラテヤ4:8〜11
 8あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。
9しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。
10あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています。
11私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。

☆説教  ガラテヤ(16)神を知っている、いや神に知られている 
ガラテヤの手紙の16回目。今日は「神を知っている、いや神に知られている」というのは、この言葉ですね。(ガラテヤ書4章の)9節です。
【画面:ガラテヤ4章9節。指を押さえながら読む】
<ガラテヤ4:9>
9しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。

というのが、今日のメインの聖句です。
それに当たりまして、前回のおさらい、ここから始めるといいと思います。
【画面:ガラテヤ4章3節以降。4節「女から生まれた者」に黒い傍線。6節「子であるので〜遣わされました」にピンクの傍線】
<ガラテヤ4:3>
3同じように私たちも、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。
そこから解放されて6節――
<ガラテヤ4:6>
6そして、あなたがたが子であるので、【***これは神の子という意味ですね。こちら(***3節を指で押さえて)の子どもというのは、まだ幼いという意味ですけれども、と説明】神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

これが前回学んだ所です。
もう一度3節を見ていただきますと――(※指で押さえながら読む)

3同じように私たちも、かつては(※子どもであったときには、を変えて)、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。

私たちは福音を信じる前に、この世のもろもろの教え、習慣、迷信、風習、因習――ギリシャ語ではストイケアと呼ぶという風に申し上げましたけれども――その奴隷となっていた。
それが8節に繋がるわけですね。それが8節に繋がって「かつては神を知らなかったとき」というこの言葉に至ります。

 8あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来神ではない神々の奴隷でした。

かつて神を知らなかったときに、私たちは迷信だけではありません。
学歴や成功を神として生きるという場合もありますし、
自分の美しさや、自分の趣味や、自分のカッコよさに人生のすべてを注ぎ込むという場合もありますでしょうし、
実に多くの神々を私たちは拝んでいた、かつて福音に出会う前には。

ちょっとここで、こんなことを考えていただきたいと思うんですが、
それにしても、この世界には多くの宗教がありますね。
そういう中で「キリスト教が唯一絶対的な宗教である」と言うこと自体、これはもう奇妙に思える程、宗教の数は沢山あります。
そういう中で、キリスト教、その唯一絶対性というものを、どういう風に説明するんだろうか?

きちっと説明する方法というのは、聖霊による以外にないんですけれども、
戦後日本を代表する神学者の北森嘉蔵(きたもり・かぞう1916〜1998、神の痛みの神学の提唱者)先生は、こんなたとえで説明しています。

一人の男の子が、ある事情で小さい頃、父親と生き別れた、と仮定してみます。
成長して学校に行くようになります。他の子には皆お父さんがいますから、それを見て、自分にもお父さんをと願うようになります。
その場合、少年は町で出会う様々な男性を見て、それがもしかしたら自分のお父さんではないだろうか? いやお父さんであってほしいと願うかも知れない。
想像を膨らませていくでありましょう。
そのようにして、この少年の中には父親のイメージが次々に出て来て、ああでもない、こうでもない、と父親像が頭の中を行き巡るでしょう。

いいですか?
北森先生は、人間はまさにこの男の子のようなものだと。
父親の方で子どもから離れた、という仮定をいたしましたけれども、
実際、人間の場合は逆で、私たちが父親・父なる神を捨てたわけですね。創造者なる神を捨てたわけです。
それでいながら、どこかで父親に対する憧れを私たちは持っている。
どこかで自分を守ってくれ、自分を支えてくれ、自分を導いてくださる父親を欲しいと思っている。
ですから人間はありとあらゆる場面で、そうした父親を造り出そうとしていく――それが様々な神です。

さて、ここですね。
こうしてできた父親のイメージがどんなに沢山あったとしても、父親が一人だという現実は変わらない。
そうですよね?この子の父親が一人だという現実は変わらない。
北森先生は、日本によくある宗教論議――宗教はあまりにも沢山ある。全部不確かだ。全部紛らわしい――と結論することは、あまりにも短絡的過ぎると仰っています。

その男の子がどんなに沢山の父親イメージを描いたとしても、父親がいないということではない。
父親はいるんですね。まだ出会ってないんです。

1)問題は、どうやってその父親と出会うことになるのか?です。

それがちょっと聖書を見てください。この言葉ですね。
【画面:ガラテヤ4章9節 (※「神を知る」という言葉です。)】

9しかし、今では神を知っているのに(***というのは、神と出会った。で、パウロは直ぐ)、いや、むしろ神に知られているのに(***という言葉に言い直しています)、……

神を知ることになった、という時に、神と人との出会いの主体は私たちになります。
私たちが神と出会った。私たちが神を見出した、という言い方です。
でも、すぐにパウロは表現を変えて、「いや、むしろ神に知られている」というのは、
神が出会ってくださる。神がご自分から名乗り出てくださる。
それはパウロの回心がそうでありました。

パウロが神さまに対する大きな誤解に包まれて、閉ざされたままダマスコへと下って行く途中、パウロの方でキリストに出会ったんでしょうか?
いや、そうではありません。キリストの方が、彼に現れ、声をかけ――彼が主に出会ったのではなく――主が彼に出会ってくださったのです。
使徒の働きの9章をちょっと見ますね。9章の3節からちょっと読んでいきますので見てください。
ここですね。
【画面:使徒の働き9章1節から読む】
<使徒の働き9:1〜4>
1さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと(***教会を迫害しようと、と説明)息巻き、大祭司のところに行って、
2ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば(***というのは、キリスト教の者であれば、と説明)男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3ところが、サウロ(***今のパウロですね、と説明)が道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

復活のキリストの方で、パウロに出会ってくださった、という記事です。
私たちが神を知るよりも、はるか昔に、神が私たちを知っていてくださる。
私たちの小さな信仰、小さな理解で神を捕らえようとする努力よりも、はるかに大きな力が私たちに及び、私たちを包み育んでいる。

ま、ザアカイもそうだったではありませんか?
イエスを一目見ようと彼(取税人ザアカイ)は単純に木の上に登っただけです。
でもたまたま下を通りかかったイエスさまは、ザアカイを呼びました。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは、今日、あなたの家に泊まることにしているから。」(ルカ19:5)
金儲けという神の奴隷になっていたザアカイの心の底に、何とも言えない空しさ、寂しさがある、ということをイエスさまは知っておられた。
本来「アブラハムの子孫」で皆と共に礼拝できるはずの彼が、どうしてこんなに嫌われ者になってしまったのか?取税人となって、神の礼拝から締め出されてしまったのか?ということもイエスさまは知っておられた。

ザアカイがイエスさまに出会ったのではないですね。
イエスさまがザアカイに出会ってくださったのです。

2)さらに「神に知られている」という言葉の中に、神が特別な目をもって見ていてくださる、愛していてくださる、という含みがあります。

私たちが神を知っているよりも、私たちが神に知られていることの方がはるかにすばらしいことです――これは当たり前のことです。
こう考えてみれば分かります。
私は日本の総理大臣を知っています。恐らく、日本人のほとんどが彼の顔と名前ぐらいは分かっていると思います。
しかし、総理大臣が日本人すべてを知っているわけではないですよね。
彼が知っている人というのは、彼が親しくしている一握りの人々です。

パウロの表現には、そのような違いがあります。
「神を知っている人」というよりも、「神に知られている人」というのは、神が親しくしてくださる人のことです。

戸塚先生が今日の礼拝のために読まれた詩篇の4篇の3節のこの部分を、私(藤本牧師)は先程、牧会報告の時に祈り用いましたけど、詩篇の4篇――ちょっと映しますね――2節と3節。
【画面:詩篇4篇2節と3節に数字の上に跨ぐように黒い線で括り。3節「【主】はご自分の〜扱われるのだ」に水色の傍線。「特別に扱われるのだ」に黄色のハイライト】

<詩篇4:2〜3>
2 人の子たちよ いつまで私の栄光を辱め 空しいものを愛し 偽りを慕い求めるのか。

というのは、本当の神と出会う前に、神への憧れを抱きながら、様々なものを神としていた時代ですね。しかし、3節に――

3 知れ。【主】はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき 【主】は聞いてくださる。

というのは、ご自分の聖徒は、神ご自身のことを知っているだけではない。神がその人物を知っておられる。
神がその人物を知っておられると、神はその人物を特別に扱ってくださる。
その人物が呼ぶときに、【主】は聞いてくださる(3節)、と記されているではありませんか! 

コリントの8章の3節に、これもまた似たような表現がありますので、見ていただきたいと思うんですね。
ガラテヤの一つ前がコリントですから、コリント第一の方です。8章の3節。これはなかなかいい言葉ですね。
【画面:Tコリント8:3を指差しながら読む藤本牧師】
<Tコリント8:3>
3しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。

これね、見たら分かるように、「もしだれかが神を愛するなら」という言葉と「その人は神に知られている」という言葉は平行になっているんですね。
すると、「だれかが神を愛するなら、その人は神に愛されています」と言っても過言ではない。
「知っている」という言葉と「愛されている」という言葉は、これほぼ同義で節は成り立っています。
もし私たちが神を愛そうとするなら、その人は神に愛されています。

《イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは神を知るようになった以上、私たちはもはや神の子どもです》ということをず〜っと学んで来ましたよね。
で、今日見ていただくと、《その人は神に知られ、そして神に愛されている。》
神が愛する子どもを愛するように、私たちのことを知っていてくださる。
親が小さな子どもの思い煩いや心配、心の傷や恐れ、願い、必要をすべて知っているように、温かい眼差しで神は私たちを見ておられ、気にかけていてくださる。

いいですか?これで最後のポイントです。三番目、ここからガラテヤに戻って――
3)パウロの大きな質問に目を留めていただきたいと思うんですね。

(ガラテヤ)4章の、先ほど来見ております9節ですね。
これはパウロの質問なのですよ。
【画面:9節を指で押さえながら読む藤本牧師】

9しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに(***これは今ですよね、と説明)、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。

どうして以前のように、この世界の評価基準やあるいは因習や風習――ま、もう少し言い方を変えると、出来映え主義や成功を神として生きていた――その生き方に戻るんですか?
「そういう風に戻ることをあなたがたは願っているのですか?」という風に訊かれたら、クリスチャンは誰一人として、「はい、そのように願っています」と答える人はいないですよね。いないですよ。

だとすると、多くの場合、私たちは無自覚に、迷信や律法主義や出来映え主義や評価主義に足を引っ張られていくということです。
神にせっかく見出していただいて、神に知られ、神に愛され、神に特別扱いされているのに、私たちは無自覚にどこかで、この世のストイケアに奴隷になりたいかのように戻ってしまう――それをパウロは(私たちに)気づかせたいんですね。

私の尊敬しております、大阪に岩本助成(いわもと・すけなり)という先生がいらっしゃいます。もう引退しておられますが、いや、まだご自宅で今日も礼拝をされていると思いますね。
以前あるクリスチャンに、「長い牧会経験の中で非常に印象に残った出来事を10回位連載してください」と依頼されまして、そして面白い記事を載せてくださいました。
その中に二人の受験生のことが記されていました。

教会に二人の高校生がいて、同じ大学を同じ年に受験したと。
受験当日――まだ先生は若くしてその教会に赴任したんですよね――二人の青年は朝先ず教会に来て、静まって祈りを捧げ、会場に出かけて行きました。
試験の途中の休み時間に砂場に集まり、「結果は主にすべて委ねていこうね」とお祈りしていました。
赴任間もないこの先生にとっては、この青年たちの敬虔な純粋な姿が非常に印象的であったと。
結果、二人とも合格いたします。

後日、阪神電車の中で、一人の青年とばったり会ったと言うんですね。
で、隣に座りながら、彼は言ったそうです。
「先生、ほんまに嬉しいなぁ。この春からいよいよ僕は大学生だ。ああ、僕はほんまに運がよかったなぁ」と。

その時、先生は彼が膝の上に載せていた聖書を取り上げて、思わず彼の頭を聖書でバシッと叩いてしまったと言うのですね。
先生はこう言います。
「おまえなぁ、礼拝でも祈祷会でも、何と言うて証ししてたんや?
『神さまの恵み以外の何ものでもありません』と言うたやないか。
『祈りによって最善を尽くせました』と言うたやないか。
それなのに、『運が良かった』とは何事や。
こういう時に、ポロリとホンネが出るもんやぞ」と。

このエッセーの中で、勿論岩本先生はこの青年を問題にしているわけではないんです。そういうことじゃないんですよね。
先生ご自身はクリスチャンの家庭に育ちましたので、運という言葉は使ったことがない。

しかし、私たちは誰でも《主の恵み》を受けながら、それを《主の恵み》と感謝はせず、ま、「運が良かった」と言うのは日本人一般のごく普通の表現ですよね?
【その時、私たちは受けた恵みを空しくすることが多々ある――そこを反省して、岩本先生はかつての出来事を記しておられました。】

あと、「お陰さまで」って言うのもそうですよね?
ごくごく一般的な言葉で、自分が今置かれている、本来感謝すべき状況を、こうなんか流してしまう、表現してしまう、思いを素通りさせてしまう。
私たちは《主の恵み》を受けながら、それを《主の恵み》と本当に感謝せず、「運が良かった」程度のごくごく日本の一般的な表現、考え方に戻ってしまうと。
その戻りたくて戻っているわけじゃない。でも気をつけてないと戻ってしまう。
別に願って戻っているわけではない。

だからパウロに「あなたがたはそんなことを本当に願っているんですか」(9節)と。
その問題を突きつけられたら、ガラテヤ人の教会の人々は皆「いや、私たちはそんなことは願ってはいません」と言いますよね。

ガラテヤの4章の11節。最後ですね。今日読んでいただいた4章の11節の最後をちょっと見ていただきたいと思うんです。
【画面:ガラテヤ4:11を指を置きながら読みながら説明する】

11(※もしそうであるならば、を加えて)私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。

とありますね。
そんな簡単に元に戻って行くならば、労したことが無駄になってしまったということを心配している。

私たちは皆、この無自覚な逆戻り現象を徹底して警戒しなければなりません。
そうですよね?
私たちをキリストの福音から切り離し、逆戻りさせようとする出来映え主義も、日本の風習も、この世の価値観も、(またその背後にあるサタンも、躍起になって私たちの足を引っ張ります。)

いや敢えて言うならば、このコロナ禍も、です。
まだ一年と少しですよ。
今まで世界のキリスト教の歴史の中で、疫病で教会が閉ざされたこともありますでしょう。
戦争で教会が破壊されたこともありますでしょう。
地震で礼拝が持てなかった時期なんていうのは、つい最近までありますでしょう。
大空襲や、大きな地震で東京が壊滅され、教会が全部潰れてしまったということもありますでしょう。
そういう時には、一年も二年も教会に行けない。でも皆さんしっかりと信仰を保っていたからこそ、今の教会があるわけですよね。

でも何となくコロナ禍で、オンラインで礼拝をしている内に、曜日感覚が分からなくなり、またオンラインがよく心に響かなくなり、いつの間にか逆戻りしてしまったというのは、こういうことじゃないですか?
つまり、私たちはそういう可能性が十分にあるんだということを自覚して、パウロはね、自覚して、自らを真っ直ぐにキリストに向けていないと、私たちの足を引っ張って、私たちの信仰をあやふやにさせようと、サタンもまた躍起になっているというこの裏側の霊的な現実ということを、よくしっかり覚えておきなさい。
私たちは今では神を知っているだけではない。今では神に知られていて、その神は聖徒を特別扱いされる。その神は私たちの祈りに耳を傾けてくださるということをよく覚えておきなさい。

☆お祈りをして終わりにいたします――藤本牧師
しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに……
(ガラテヤ4:9)

恵み深い天の父なる神さま、私たちのあなたを知る知識は不確かであっても、あなたは絶対的に私たちの心の隅から隅までご存じのお方であります。そこに怪しげな思いがあるとすれば、あなたが捕らえて追い払ってください。もし私たちの心があなたをしっかりと捕らえていなければ、あなたが私たちを捕らえて、きっちりとあなたの方を向くことができるようにしてください。

そして何よりも私たちの心の内に心配事、空しさ、焦り、悩み、恐れがありましたならば、平安、愛、希望の神であるあなたご自身が、今日私たちを知っていてくださり、私たちを愛していてくださることを、私たちがしっかり理解することができるように、聖霊の力をもって私たちに及んでください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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