☆聖書箇所 エゼキエル37:1〜10 1【主】の御手が私の上にあった。私は【主】の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。 2主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。 3主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「【神】、主よ、あなたがよくご存じです。」 4主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、【主】のことばを聞け。 5【神】である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。 6わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが【主】であることを知る。』」 7私は命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。 8私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。 9そのとき、主は言われた。「息に預言せよ。人の子よ、預言してその息に言え。『【神】である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。』」 10私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった。
☆説教 神の息が吹き込まれる 数年前に、いや数十年前ですね、私(藤本牧師)は当時カンボジアのプノンペンに当時奉仕しておられたインマヌエルの宣教師の蔦田緑乃(つただ・みどりの)先生を訪問したことがありました。 三日位の滞在で、空き時間に、現地の方が「せっかく来たのだから、観光に連れて行ってあげる」と。 それでキリング・フィールズというのがあるんだけれども、3つ.4つ.5つ、いくつ位行きますか?といきなり言われたので、私は何のことだか分かりませんでした。 「お忙しいですし、一つでいいですよ」 と言って、一緒に車に乗って、町の郊外、畑や果樹園の中を通って行きました。
私は車の助手席に座りながら、「カンボジアの田舎風景っていうのは素朴だなぁ」って思って、外を見ていました。 そして到着したのが、プノンペンで一番有名な「観光地」でありました。 それは私がこれまで見たどれ程の多くの「観光地」の中で、一番ショックなものでありました。
小学校の校庭の二倍位の広さで、至る所に大きな穴が掘られていまして、その穴を避けるように道ができています。 正面に五階建てぐらいの仏舎利塔が建っていました。 彼は歩きながら説明してくださいました。 「足もとがジャリジャリ音がするでしょう。それは人骨です」と。 ポル・ポト政権がカンボジアの共産主義を謳って、内戦を起こし独裁政治を展開し、 反対しそうな知的階層その家族をすべて抹殺し、 その犠牲者は100万とも140万とも言われている。
正確には分かりません。なぜなら、ポル・ポト政権は抹殺した人々を、果樹園の中に大きな穴を掘ってブルドーザーで全部埋めて、薬品をかけてすべて溶かしてしまいました。 骨だけが残ったんですね。 その話を聞いて、私(藤本牧師)は1984年にアカデミー賞を受賞しました「キリング・フィールド」――ま、正確には複数ありますので、キリング・フィールズなんですけれども――あ、そのことだったのか、ということを思い起こしました。
政権がひっくり返されて、犠牲者は掘り起こされ、頭蓋骨だけが高さ5階建て〜7階建て位ある大きな仏舎利塔の中にびっしり詰め込まれています。 そのようなキリング・フィールド(殺害の平地)は80か所以上あって、未だに分かっていない場所もあるということでありました。
ペンテコステにはちょっとショッキングなお話で始めましたけれども、エゼキエル書の37章というのは、そういうセッティングで始まっています。 1節をお読みいたします。
1【主】の御手が私の上にあった。私は【主】の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。 2主は、私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。
1)人は、またこの世界は、時としてこのキリング・フィールドの真ん中に立つという現実。
お祈りにありましたように、イスラエルによるパレスチナ人、ガザ地区への空爆ですね。 まるで高津の地域のど真ん中にミサイルを撃ち込まれる程、普通の住宅の真ん中に、どこかのマンション、ビルに爆弾が撃ち込まれていくんですね。 多くの犠牲者が出ました。 ようやく停戦状況に入りましたけれども、私(藤本牧師)は本当にあの停戦がず〜っと続いてくれるようにと、私たちは祈るばかりですね。
エゼキエルという預言者は、エルサレムからバビロンに連れて行かれて、その捕囚の地、バビロンで預言を続けた人物ですね。 そこで20年以上に亘って、彼は預言者として活動をしました。 ですから、この37章というのは、バビロン捕囚から――連れて行かれて何年後なのか分かりませんけれども――随分時は経過しているわけです。
神の霊はエゼキエルをもう一度エルサレムの真ん中に戻した。平地の真ん中に連れて行った。 そこは間違いなくキリング・フィールドで、殺害された人々の数はおびただしく、そのすべての骨は干からびていた。(すっかり干からびていた・2節) ということは、バビロンの軍隊が町を破壊し、犠牲者は放置され、何年も経過していたということですね。
すると神さまは、不思議な問いかけをエゼキエルになさいます。3節ですね。ちょっと聖書を見てください。 【画面:エゼキエル37章1〜3節。1節「平地の真ん中」に黒ペンで囲み。「そこには骨が満ちていた」に黒の傍線。3節「人の子よ〜できるだろうか」に黒の傍線】
1【主】の御手が私の上にあった。私は【主】の霊によって連れ出され、平地の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。 2主は私にその周囲をくまなく行き巡らせた。見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。 3主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるだろうか。」私は答えた。「【神】、主よ、あなたがよくご存じです。」
「これらの骨は生き返ることができるだろうか」という質問は、少々無駄な質問でありまして、生き返るわけがないわけです。 しかしエゼキエルは信仰の灯火が消えてないかのように、 「神さま、あなたならご存じです。あなたなら、可能です」というような言葉を残しています。
キリング・フィールドの真ん中に立って、エゼキエルは一体何を経験したんだろうか?と思います。 それは絶望だろうと思います。しかも空虚な絶望ですね。
私の行ったカンボジアのプノンペンに、私が行く10年前に、アメリカ人の宣教師で日本で宣教しておられたロス先生がいらっしゃいました。 ロス先生に、10数年前私が帰って来てその話をしますと、 ロス先生は――その10年ぐらい前に行ったんだけれども、その時には―― 「二度とカンボジアの国は立ち直ることはない。歴史から消えて行くと思っていた」という風に仰っていました。
あの真ん中に立ちますと、空虚な絶望を感じます。 ちょっと(エゼキセル37章)の11節を見ていただきたいんですが、映しますのでご覧ください。【画面:11節を指で押さえながら読む】 <エゼキエル37:11> 11主は私に言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言っている。『私たちの骨は干からび、望みは消え失せ、私たちは断ち切られた』と。
彼らは言っているんですね。 「私たちの望みは消え失せ、そして私たちは断ち切られた」と言っているわけです。 望みは跡形もなく消え失せました。 「私たちは断ち切られた」というのは、神さまとの霊的な関係から断ち切られ、見放された、という意味です。 私たちは神に背を向け、神のもとを離れて行った。神さまもまた私たちに背を向け、去って行かれた。
そういうキリング・フィールドという出来事・場面というのは、私たちにも、この世界にも、何度となくやってまいります。 悪魔が蚤の市を開いていた、という話があります。 売っているのは、彼が使っている「人を貶める道具」ですね。 所狭しと色んなグッズが並んでいます。 嫉妬、欺き、情欲、高慢、憎しみ…… それぞれに結構な値段がついています。
店の奥に、一番使い尽くされた道具も売っていました。 でもなんとそれには、一番高い値段もつけられていました。 何だろう?じっと見てみますと、そこには「絶望」という名前が書いてありました。 客は店主に尋ねます。 「これって本当に効くんですか?」 尋ねてみると、悪魔は答えました。 「そいつは最高に効く。ほかのどんな道具よりも効く」 「どうして、そんなに効くんですか?」 「人は絶望が俺様の道具だって知らないからだよ。 人間が希望を失って、絶望に屈する、そして神から離れて行くのを見ると、本当にスカッとする」
「嫉妬にも屈せず、欺きにも屈せず、高慢にも対抗できた人が、失望と絶望によって、信仰の灯火を吹き消されて、神のもとから離れて行くんだよ」 私(藤本牧師)はその話を読んで、あ、そういうものかもしれないなぁと思いました。 絶望というのは、私たちの信仰の力を奪う力がありますね。 しかもそれが悪魔から来たと知らずに、私たちは知らず知らずの中に、自分の心の信仰の力が奪われていって、そして失望の沼に沈んでいくことに、私たちはなかなか気がつかないんですね。
それは、単に世界史の中の様々な歴史上の出来事だけではありません。 私たちの人生に起こる様々な出来事だけでもありません。 いのちの源である神から引き離され、背を向けている私たち。
ちょっと新約聖書のエペソの手紙の2章を見ていただきたいと思います。 聖書を開けますね。いいですか。ガラテヤの次ですね、エペソの2章の1節の言葉をいま映します。 【画面:エペソ2章1〜4節。1〜2節を黒ペンで囲み。4節「その大きな愛のゆえに」にピンクのハイライト】
<エペソ2:1〜4> 1さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、 2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊(***サタンの霊ですね、と説明)に従って歩んでいました。
「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」(1節)というのは、まさにエゼキエルが(37章で)幻によって見ることができた骨の山と同じです。 いや、もう少し進んでいるのかもしれません。若干の肉が残っているのかもしれません。 しかし、所詮あなたがたはサタンの悪霊に従って歩んでいました。 不従順の子らの中、彼らと共にその中に歩んでいました。3節見てください。 (※画面:指で押さえて読む)
3私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒り(***神のさばき、と説明)を受けるべき子らでした。 4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
と言って、キリストの福音が始まっていくわけです。
エゼキエルのこの枯れた、干からびてしまった骨の話は、とっても象徴的であります。 私たちはみな「干からびた骨であって、その望みは消え失せ、断ち切られた」(エゼキエル37:11)者である。 そう感じることもままあるわけですが、それだけではなく、《私たちはかつて皆そういう者であった》という認識ですね。 《かつて罪の中にあって、この世の流れに従い、皆そのように(***不従順の子らの霊に従って)生きて来た者たち》であります。
いや、人生そんなに悪いものではない、と私たちは言います。 しかし神に背を向けて生きていくいのちは、最後は「死に呑まれていく」ということを、私たちはみんな知っているわけです。 で、束の間のこの世の人生を楽しむことだけを考えてしまいます。
2)エゼキエルは「生き返ることができるのか?」と問われた問いに対して、答えた。 (エゼキエル)37章の3節に――
3……「【神】、主よ、あなたがよくご存じです。」
「可能性があるとしたら、あなたのみが、知っておられます、私たちには無理です」という言葉ですね。
そうして神の可能性は、37章の4節、ちょっと映しますので見てください。こういう風にして出てまいります。非常に力強いですね。 【画面:エゼキエル37章4節「干からびた骨よ〜聞け」に黒の傍線】 4主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、【主】のことばを聞け。
いいですか。この言葉は繰り返されていますので、ここだけで十分だと思います。 エゼキエルは「これらの骨に預言せよ」――神のことばを語れ、という風に言われたんです。 そして干からびた骨に対しては、「わたしのことばを聞け」(4節)と仰ったんですね。 つまり死んだ者がいのちに引き戻される時に、神のことばが重要な役割を果たすということです。 「【主】のことばを聞け」(4節)
5節、6節、7節、(8節まで)ちょっとざ〜っと読んでいきますが―― 【画面:エゼキエル37章5節「わたしが〜生き返る」に黒の傍線、8節文中にカッコ(なんと〜おおった)。「しかし、その中に息はなかった」に黒の傍線】
5【神】である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。 6わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが【主】であることを知る。』」 7私は(***エゼキエルはですね、と説明)命じられたように預言した。私が預言していると、なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。 8私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。……
主のことばの力です。 生き返ることができるのだろうか?絶望のフィールドに立たされて。 しかし、神のことばは、そこにいのち、希望をもたらす。 ガラガラと音がして、実際に干からびた骨の山が動き始める。その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆っていくまでになる。
3)しかし、このペンテコステの日曜日に、格別に覚えたいことがあります。 覚えたいことは、8節の最後のことばです。 【画面:エゼキエル37:8のみを読む。9節「息よ、四方から吹いて来い」に黒の傍線】
8……肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。
「しかし、その中に息はなかった」――息というのは神の息です。 ここでまた、私たちは考えるべきでしょうね。 つまり身体があっても、いのちの息のない人間です。 力強くこの世界にあって活動していても、神の霊、神のいのちの息吹が入ってない私たち――これもまた私たちの姿であります。
時に、これもクリスチャンに当てはまりますね。 復活を体験した弟子たちに、イエスさまは天に昇る前に仰いました。 「聖霊を受けなさい」と(***ヨハネ20:22)。 十字架の後、弟子たちは怯えて部屋に閉じこもっていたわけですね。
でもイエス・キリストの十字架の前に、怯えているだけでなく、弟子たちはイエスの後を歩きながら、「だれが一番偉いか?」という論争をしているわけです。 互いに仕えるという姿勢は全くない。いつでも自分が優先してもらいたい、という願いで、イエスの後をついて行きます。 神の国というものを、世の中と同じように考えて上下関係で見て、そして貧しい者や小さな子どもや、あるいは乏しい者に目を向けようともしない。 弟子たちはみな、どこかでエゴイズムをむき出しにして、とても人間的な気持ちでついて行きます。
後にパウロは、そんなクリスチャンのことを指して言いました。 「あなたがたはただの人のようだ」と(***Tコリント3:4)。 あなたがたは肉的だと。つまり霊的ではない。
確かにあなたがたは、干からびた骨ではない。筋がつき、肉がついている。 でも、あなたがたのうちに、神のいのちの息吹が吹き込まれていない。 ただの肉的な人間に過ぎないと言われたら、 私たちは今日の高野さんの本当に新鮮な信仰を、自分自身も通ったということを思い出しながら、 神の息吹をこの身に受けるということを考えなければいけないと思うんです。
矢沢永吉さんが歌っている「ミス・ロンリー・ハーツ」という歌があります。 孤独な女心という。 タイトルは、文学者ナサナエル・ウェスト(米、1903〜1940)の秀作ですね。 「ミス・ロンリーハーツ」(翻訳では孤独な娘)から取られています。 ミス・ロンリーハーツというのは、この小説では実は男性なんですね。 男性は新聞記者でありまして、新聞の失恋蘭の担当なんです。 ところが気がついてみると、失恋の相談だけでなく、病気に苦しむ人、心ならずも妊娠してしまった女性、様々な悩み、あるいは悔いの手紙が山のように新聞社の彼の所に届きます。 彼は信仰を持っているんですね。ですから、キリストがすべての悩みを受け取ってくださるお方であることを知っているんですけれども、ま、新聞ですから、そんなことをあからさまに書くわけにはいきません。
しばらくして小説の中で、彼は病気になります。その時思い出すんですね。 かつて、自分が少年であった頃、お父さんと一緒に教会に行ったことを。 その時の小さな少年であった自分。キリストを信頼して祈った時に、みんなと一緒に賛美した時に、自分の内側に神の力が湧き上がったことを思い出す、という場面があるんですね。
もしかしたら、オンラインでず〜っと一年半位ですかね(微笑みながら語る藤本牧師)、 礼拝を守っている私たちにとりまして、ああ、今日(※ふと思い出したように語る藤本牧師)、あの動画がすばらしかったですね。 オンラインになって後、以降の様々な賛美動画の場面が出てまいりました。 私たちはいつもペンテコステの聖日ですと、一階も二階も母子室もいっぱいになりますね。 そして近所迷惑も甚だしい程、(※両手を広げて)讃美歌の音がわ〜っと響いていく教会なんですよ。 それが今分散しているんですけれども、その時のことを思い出したら、 私たちはあの時の少年のように、自分の内側に神のいのちの息吹が沸き上がって、喜びに満たされる。
私はこのペンテコステの聖日、宮崎教会の皆さんも、またほかの皆さんも、オンラインの私たちの家族みんな一つです。 皆さんの心の内に、「四方から聖霊が吹いて来て」(9節)、生き生きと礼拝の喜び、祈りの喜び、賛美の喜びに満たしてくださることを信じています。
礼拝だけではありません。もし私たちが真実にこの信仰に生きようとするなら、主はその度ごとに、私たちに新たなる息吹を吹きかけてくださる。 そのことを覚えて、絶望に決して呑まれないように、心を高らかに主に向けたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、格別に悩みや不安や失望にある方々に、今日届いてください。また格別に、まるで干からびた骨の中にいるかのような空虚感を感じている人々の所に、イエスさま、あなたの霊を送ってください。格別に生ける神のいのちから遠く離れて、ぽつんと一人で礼拝を守っているかのように思ってる方がいらっしゃいましたならば、この大きな賛美の中に、礼拝の中に、その方もまた取り入れられている、迎えられている、神の家族として一つであるという実感を持たせてください。
私たちはクリスチャンであっても、時として自分の心の内に神の御霊を実感せず、肉だけのような生き方をしているとしたならば、そのことを悔い改め、どうか神の霊をもう一度吹き込んでくださいと、あなたに祈ることができますように助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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