☆聖書箇所 使徒の働き15章35〜41節 35パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって、ほかの多くの人々とともに、主のことばを教え、福音を宣べ伝えた。 36それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」 37バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。 38しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。 39こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、 40パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。 41そしてシリアおよびキリキアを通り、諸教会を力づけた。
☆説教 寄り添いのたたずまい 皆さん、改めまして、おはようございます。高津教会の礼拝によくお出でくださいました。 吉田さんのことを偲ぶお話は、来週藤本満先生がこの場でしてくださると思います。 今日は間に合いませんでしたので、そのまま準備いたしました説教を語らせていただきます。 新約聖書の使徒の働き15章の35節〜41節、この聖書の箇所から「寄り添いのたたずまい」と題して、共に恵みを分かち合いたいと思います。 3つの視点で聖書を見て行きたいと思いますけれども――
1)これはパウロとバルナバの対立がここに描かれています。 それは第二回目の伝道旅行の出発の時でした。 先程お読みしました使徒の働き第15章の36節――
36それから数日後、パウロはバルナバに言った。「さあ、先に主のことばを宣べ伝えたすべての町で、兄弟たちがどうしているか、また行って見て来ようではありませんか。」
二人で、パウロはバルナバを誘って、二人で伝道旅行の第二回目に出かける予定でありました。 その時37節(と38節)をお読みいたしますと――
37バルナバはマルコと呼ばれるヨハネを一緒に連れて行くつもりであった。 38しかしパウロは、パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた。
ここから対立が生じるわけです。 バルナバはマルコ・ヨハネを一緒に連れて行くつもり、伝道旅行に。 しかしパウロはマルコ・ヨハネを連れて行くつもりはないと言う。 これが対立の火種でした。 対立のもとはいったい何かと言うならば、使徒の働きの13章の13節のマルコの行動にありました。こう書いてあります。
<使徒13:13> 13パウロの一行は、パポスから船出して、パンフィリアのペルゲに渡ったが、ヨハネ(***これ、マルコのことです、と説明)は一行から離れて、エルサレムに帰ってしまった。
第一回目の伝道旅行の時に、一行から離れて――つまり無断で、恐らくパウロも気がつかない内にその伝道旅行から離れて――エルサレムに帰って行ってしまった。 勝手に伝道旅行から逃げ去ったという、そういう状態だったわけです。 これがヨハネ――マルコと呼ばれるヨハネ――の行動だったわけですね。
このことについて、パウロはそんなマルコを、伝道旅行に連れて行くべきではない、と考えたわけです。 パウロの考え方は、もうはっきりと理由が書かれていますね、(使徒15章)38節に。 「パンフィリアで一行から離れて働きに同行しなかった者は、連れて行かないほうがよいと考えた」と。 「一行から離れて働きに同行しなかった者」――パウロは宣教に対する、伝道に対する真っ当な使命感、責任感を大切にしていました。 そのために、自分は神さまに召されたのだと言う。 神さまに召された、ということは恐らくマルコも同じはずだと。 それなのに、そんな大事な務めをその途中で投げ出すなんて、マルコはなんと無責任なんだろう! 神さまの使命を果たそうとする勇気と献身の思いが欠けている。そんな者は第二回目の伝道旅行について行く資格なんか、全くない。 もしかしたらまた逃げ出すかもしれない、そんなマルコを連れて行くべきではないと、パウロは考えました。
一方バルナバはどうだったんでしょうか? バルナバはそんなマルコを連れて行くつもりでした。 詳しい理由は聖書には書かれていません。マルコを連れて行くつもりの理由も書かれていません。 恐らく想像すると、一度そういう失敗があったかも知れなかったけれども、マルコを連れて行かないという判断、それはマルコの立ち直りの機会を奪うことになるではないだろうか? マルコ本人も伝道旅行に二度と行かないとは言ってないし、またパウロの『上から目線』がもしかしたら気に食わなかったのかもしれません。赦せなかったのかもしれません。 さらに言うならば、ここには書かれていないんですけれども、コロサイ人への手紙4章10節を見ますと、『マルコはバルナバのいとこ』という特別な関係でした。 バルナバの従弟であるマルコを特別な思いで見ていた。だから余計バルナバはマルコのことを何とかしてあげようという気持ちになっていたのではないだろうか。 だから連れて行こうという思いになっていたのではないだろうかと考えられます。
そしてこの二人の考え方は激しく対立していることが分かります。39節をご覧いただきますと――
39こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、 40パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。
「激しい議論」になったと書いてあります。前の第3版の聖書ですと、「激しい反目」という言葉になっています。 「反目」――これは、お互いに腹を立てて、口も利かない状況です。 相手への怒りの感情がエスカレートして、もう口も利かない状況になってしまった。 パウロは「バルナバのやつ、マルコは自分の従弟だからと言ってかばいやがって」なんて思っていたのかもしれない。 バルナバはバルナバで、「パウロはいつからあんなに傲慢になったんだろうか。エリート意識丸出しで、人を裁いているではないか」 最初は意見の対立が、感情の対立になって、そして激しい反目。口も利かない状況。 そして互いに譲らず、平行線のまま、冷戦状態。そしてついに挙句の果てに別行動になってしまいました。
この「別行動」の中で、パウロに賛成する人が多かったようですね。40節を見ますと――
40パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。
と書いてありますから、兄弟たちから、「頑張ってください、お祈りしてますから」と言われながら、パウロは送り出されていたのでしょう。 でもバルナバのことは何も書いてないです。 しかしこの「別行動」というのは、神さまも計算済みでした。想定内の中にあったと思われます。 この別行動によって、伝道活動は二倍になったんですね。それぞれの場所で、二倍に繰り広げられていました。
パウロの考え方、バルナバの考え方、どちらがよかったんだろうか? どちらも間違っていないと思います。 パウロの考え方も真っ当な考え方だし、バルナバの考え方も確かに大事な考え方だと思います。 どちらの考えが良かったのか、判断がつかない。
そもそも人間は100%の善人でもなければ、100%の悪人でもありません。 裏も表もあるし、簡単に白黒つけられることはできないと思います。 白と黒の間に無数の灰色があって、どれが正しいのか、判断に迷うことが沢山あります。 グレーゾーンの問題ってよく言われますけれども、どちらが正しいんだろうか?どうしたらいいんだろうか? 人間の行動や判断を白黒分けて、白でないように見えるものをすべて黒と判断しがちですけれども、実はそうではない。 物事はすごく複雑であるということが分かります。
私自身も振り返りますと、小学校の教師をしていた時代、白黒はっきりつける――そういうタイプの教師だったなと思います。 ま、教師って大体そういうものなんですけれども(笑)、白黒はっきりさせたい。 はっきりさせたいんだけれども、そのはっきりさせた白というのは、案外きれいごとに過ぎない(笑)。 ほんとはもっと複雑なのに、「こうですよ〜」っていうものを押しつけていたんじゃないかと思います。
このような難しい判断を迫られる時、悩みます。どうしたらいいんだろうか?何がベストなのか?すぐには答えは出ないでしょう。 何が答えか見えてくる方策って、一体あるんだろうか? 何かこう、こうすれば答えらしきものが見えてくるという方法があればいいなぁといつも思うんですけれども、なかなかそれはないのかもしれません。
2)二つ目の視点は、4つの頭文字――WWJD――ご存じですか? 私(戸塚伝道師)は知らなかったです、WWJD。 二年ほど前、教会学校教師のK先生が、教会学校の礼拝の時間の時に紹介してくださった、私そこで初めて知りました。 WWJD――この四つのアルファベットの頭文字は、欧米のキリスト者ならば、ほとんどの人が知っているそうです。 WWJD――WWJDが付いているグッズもあるそうです。Tシャツやマグカップや、車のバンパー・ステッカーや、ストラップ、リストバンド、WWJDの四文字が入っている。 このWWJDとは一体何かと申しますと、What Would Jesus Do? この四つの頭文字を並べてWWJD。 この意味は、「イエスさまならどうされるだろうか?」という意味です。 今から120年ほど前、アメリカのミシガン州カルバリ―・リフォームド教会の青年会が発祥だということですけれども、 What Would Jesus Do のこの頭文字――「イエスさまならどうされるだろうか?」
そうすると、先程のパウロとバルナバのあの対立している問題、「イエスさまならどうされるだろうか?」 グレーゾーンを前にして、その善し悪しの判断に迷う時、その考えの一つの手がかりとなるヒントとして、「イエスさまならどうされるだろうか?」というこの視点は、何らかの光を示されるような、そんな感じがするんですね。 大変な状況を前にして、自分は何ができるのかと考える時、 難しい人間関係の中で、嫌な感じのあの人とどうしたらうまくやっていけるだろうか? そうやって、様々に思い悩む時、自分の弱さや罪深さを思い知らされて、情けなさに打ちのめされるような、もう自分を責めたくなるようなそんな時、 「イエスさまならどうされるだろうか?」――この自問自答によって、見えてくるものがあるのかもしれません。
その時、「イエスさまならどうされるだろうか?」の時の、そのイエスさまですけれども、これは人によって違うと思うんですね。 イエス・キリストというお方をどのように捉えているかによって、「イエスさまならどうされるだろうか?」というそのイメージはもう千差万別だと思うんです。 私なりのイエスさまイメージによって、「イエスさまならどうされるだろうか?」と思い巡らすわけです。 イエスさまはただお一人。でもそのイメージは人それぞれ。 イエス・キリストというお方に、ここにいる私たちは誰も会ったことはありません。 でも「イエス・キリストって、ああいう感じの方なんだろうなぁ」という漠然としたイメージ、それを大体の方は思い浮かべられるかもしれません。 ましてや、キリスト者は聖書を特に福音書を読む度に、「ああ、イエスさまってこういうお方なんだ。イエスさまはこういうことを大切にされているんだ。そのイエスさまが直接私にこういうことを語ってくださった」ということを実感させられるようなこともあるかもしれません。 イエスさまの生き方、思い、考え、その印象、それは私たちの心に深〜く刻まれていて、そしてそのイエスさまというお方は聖霊を通して、私たち一人ひとりの心に住んでおられるとするならば、イエスさまというお方が本当に身近に感じられる――そういうことがあるのかもしれません。
そのイエスさま、それが私たちのイエスさまなんですけれども、人によってイエスさまのイメージは千差万別なんですけれども、 でも、これだけはイエスさま以外にはあり得ない、というただ一点があります。 それは神さまが――独り子の神さまが、人間になってくださった方――この一点です。 イエスさま、神さまが人間になってくださった。 神学用語を使いますと、『受肉』と言います。肉体を受けると書きますけれども、受肉されたお方。 こんな神さまは他にいません。神さまが人となってくださった。
100%人間になってくださったお方は、人間の弱さに寄り添ってくださるお方です。 私たちは様々な弱さを抱えている。罪の問題、病気の問題、性格的な課題。心身の障害を抱えておられる方もあるかもしれない。 自らの失敗や心の傷、色々なものがあるかもしれない。それら全部ひっくるめて弱さ。 そしてその弱さに寄り添われるお方がイエスさまです。
罪に対する妥協はされません。 神さまの基準は一ミリも動きません。 でも罪人に対する憐れみは半端ではありません。 罪人の友となってくださったイエスさまです。 「イエスさまがキリストである」と打ち明けた最初の人物は一体誰だったでしょうか? それは結婚が五回もうまくいかず、今また別れた男の人と暮らしているあのサマリアの女性でした。 罪人の友となっただけではありません。私たちの罪を死をもって贖われるほど、徹底的に寄り添ってくださったお方が、私たちのイエス・キリストです。 受肉こそ、驚くべき、究極の最高の私たちへの寄り添いです。
新約聖書のへブル人への手紙の第4章15節を見ますと、こう書いてあります。
15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
「私たちの弱さに同情できないお方ではない」――私たちの弱さに徹底的に同情してくださるお方。 このようなイエスさまに心を向けながら、もう一度パウロとバルナバの対立を思い巡らしてみます。 「イエスさまならどうされただろうか?」 パウロのように行動したか?バルナバのように行動したか?
勿論確かなことは分かりません。それでも何となく方向性は見えてくると思います。 イエスさまは勿論パウロの判断は尊重されたでしょう。 その働きを祝福し、支援されたことでしょう。 現に聖書の記事を読むと、聖霊の力によって、パウロを通してイエスさまの働きは進められて行きました。
しかし、弱さに同情されるイエスさまのことを思うと、別の考えも浮かんでまいります。 ペテロを赦されたイエスさま――それならば、マルコもイエスさまは伝道旅行に連れて行かれたのではないだろうか? たとえ一回目の伝道旅行で帰っちゃったとしても、大きな失敗をしたとしても。 イエスさまはそのマルコを伝道旅行に連れて行ったんではないだろうか? このイエスさまの生き方はバルナバの生き方でもありました。
3)バルナバはどう寄り添ったか? そのことがよくわかる聖書の箇所が、先程お読みしました使徒の働き15章の39節、その中に書かれています。もう一度お読みします。
39こうして激しい議論になり、その結果、互いに別行動をとることになった。(※この次です、と強調)バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、
こう書いてあります。 「バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行き、」 この短い表現の中に、バルナバがどのような人物か読み取る鍵があります。 マルコを連れて行った所は一体どこだったのでしょうか?――それはキプロスと書いてあります。 これはキプロス島です。第一回目の伝道旅行で、バルナバやパウロたちの一行と一緒に行った所でした。最初に行った所がキプロス島でした。 しかもマルコが逃げて帰ってしまった所、それはパンフィリアという場所なんですけれども、そこに向かって船出した島がこのキプロス島でした。 その場所にもう一度、バルナバはマルコを連れて行くんですよ。 セカンドチャンス。セカンドチャンス(※と二回、嬉しそうな表情)。
伝道旅行から逃げる決心をしたのは、このキプロスからの船の上だったかもしれません。 キプロスで一体何があったのでしょうか? なんで伝道旅行なんか一緒に行きたくないという思いに駆られたんでしょうか? マルコにとって辛い思い出のある場所だったかもしれないこのキプロスに、バルナバは誘うわけです。 「もう一度キプロス島に行って、そこからやり直そうよ」 バルナバは忍耐をもって、諦めずにマルコに関わりました。
この時バルナバにあって、パウロになかったと思われるものは一体何か?――それは人間理解の視点です。 パウロには人間理解の視点が不十分ではなかったかと思われる――そういう印象を与える行動が多いです。 人間の弱さに対する思いやりの視点――パウロは主のために役に立つかどうか、という視点のみにこだわりました。だからマルコを排除しました。
でもバルナバはそうではありませんでした。 マルコの気持ちに徹底的に寄り添ったと思われます。 「マルコ、どうしてあの第一回目の伝道旅行の途中で、やめて帰っちゃったの?」 様々な理由をマルコはバルナバに話したでしょう。 もしかしたらホームシックになったのかもしれない。病気になった、それもあるでしょう。 指導者の地位がバルナバからパウロに変更されたことが、マルコにとって面白くなかった、という、なんかそういう思いもあったのかもしれない。 あるいは、伝道旅行の厳しさと危険にもう耐えられないで、辛い思いで帰ってしまったのかもしれない。 マルコはバルナバの忍耐強い励ましによって支えられたと思います。そして勇気づけられました。 これがバルナバのマルコへの関わり方でした。
次第にマルコは変えられて行きます。 その変化を見たパウロは、やがてマルコと一緒になって宣教活動へ出かけるわけですね。
後にパウロはバルナバを高く評価しています。 パウロはテモテにこう手紙に書いています。テモテへの手紙第二の4章の9節と11節にこう書かれています。
<Uテモテ4:9と11> 9あなたは、何とかして早く私のところに来てください。 11……マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。
「マルコは私の務めのために役に立つ」と――そうなる程までにマルコは立ち直ることができました。バルナバの一生懸命なフォローによって、励ましによって。 やがて最後は、このマルコは「マルコの福音書」を書くように導かれるんです。 バルナバあってのマルコでした。
バルナバというこの名前、これは「慰めの子」という意味があります。 マルコやパウロ以外にも人に対して寛容で、忍耐深く関わって、相手を励まし慰め、仲を取り持つような存在だったと思われます。 時代は今、バルナバ的寄り添いスピリットが重要視されるようになって来ました。 排除から共生へ。多数決優先から少数派の尊重へ。強さのアピールから弱さの中に光る本物の価値へ。何ができるかからどのように生かされ存在するかへ。
教育の世界でも同じようなことが言えます。 様々な変化が見られます。昔のように怒鳴ってバシバシ鍛えるような教師って、最近あまりなり見かけなくなりました(笑)。 自立することは大事ですし、努力することも大切ですけれども、その一方で、 人権尊重や、カウンセリング・マインドや、ハラスメント防止や、多様性の認め合いが不可欠のものになっています。
信仰の世界も同じでしょうね。 霊的エリートを目指す律法主義的ガンバリズムから、お互いに理解し支え合う恵みに生かされる配慮、これが大切にされてきていると思います。
コロナ禍の中、何かこうピリピリとしたそんな感じが、そんな雰囲気が、空気が日本中を漂っているような今、 そんな今こそ、「励ましの人」であり「慰めの人」であるバルナバのような生き方が求められているような気がします。 そのバルナバの生き方はイエスさまの生き方。 私たちも救い主イエスさまに出会って、様々な課題を抱えている弱いマルコのような存在かもしれませんけれども、 逆に強すぎて周りが見えにくくなってしまうような、パウロのような者かもしれませんけれど、 それでもバルナバのような生き方に少しでもあやかりたいと思います。 私たちも「励ましの人」「慰めの人」に変えられたいと祈らされます。
新しい一週間が始まりました。 今週の歩みの中で、あの人に対して、この問題に対して、私自身に対して、ことあるごとに思い巡らすことができますように。イエスさまならどうされるだろうか?
☆お祈りいたします――戸塚伝道師 イエスさま、測り知れないあなたの憐れみと恵みを感謝いたします。自分の考えや判断が、果たして神さまの前にふさわしいのかどうか、自分ではわからない私たちです。パウロのように自分は正しいと思い込んで、相手を裁いていることがあるかもしれません。 今週も日々の生活の中で心が迷いざわつく時、「イエスさま、あなたならこんな時どうされるだろうか?」と思い巡らす、そんな気持ちの余裕を与えてください。そして人の弱さに寄り添われるイエスさまの生き方にあやかったバルナバのように、あなたの愛に生きる者と変えてくださいますように。イエスさまのお名前によって父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
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