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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/6 ガラテヤ(17)伝道者パウロの心 ガラテヤ4:12〜20
☆聖書箇所   ガラテヤ4:12〜20 
 12兄弟たち、あなたがたに願います。私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください。あなたがたは私に悪いことを何一つしていません。
13あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
14そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。
15それなのに、あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。
16それでは、私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。
17あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。
18善意から熱心に慕われるのは、いつでも良いことです。それは、私があなたがたと一緒にいる時だけではありません。
19私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
20私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで私は途方に暮れているのです。

☆説教  ガラテヤ(17)伝道者パウロの心
今朝の聖書の箇所は、ガラテヤ人への手紙の4章の12節からにしていただきました。
順番に読んでいきます。
「兄弟たち、あなたがたに願います」――こういう風に始まりますので、今日の説教のタイトルは「伝道者パウロの心、願い」であります。
「伝道者」という言葉を特別に付けました。
これまでの神学的な話から一転して、非常に心情に訴える場面が展開されて行きます。

実はこの12節、「兄弟たち、あなたがたに願います」ですけれども、もともとの言葉では、先ず「私のようになってください」で始まります。

 12兄弟たち、あなたがたに願います。私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください。……

この「私のようになってください」という言葉で始まっていきます。
つまりここからのセクションで、切実な訴え、「私パウロのようになってください」という流れになっています。
これは17節をちょっと見ていただきます?ちょっと聖書を映しますね。
【画面:ガラテヤ4章17節「あの人たちは〜ありません」に黒のペンで傍線】

17あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。

この「あの人たち」というのは、ずっとパウロが相手にして来たガラテヤ人への手紙に書かれている「割礼派の人々」なんです。
いいですか。「割礼派の人々」に対して熱心になるのでなく、「私」に対して熱心になってください。
どうか「私のようになってください」ですね。

ガラテヤの信徒は、「私」と言われているパウロと、「あの人々」と言われている割礼派の間に挟まれています。
その双方が説得力をもって熱心に近づいて来ている状況で、今日は3つのことを学びたいと思います。

1)上に立つ者の熱心さの危うさ

17節の割礼派の熱心は正しくない理由がありました。
ちょっと17節もう一回見ますね。映していただいていいですか――
【画面:「彼らは」から読み始める】

17あの人たちはあなたがたに対して熱心ですが、それは善意からではありません。彼らはあなたがたを私から引き離して、自分たちに熱心にならせようとしているのです。

割礼派の人々は、何とか信徒の方々をパウロから引き離して、自分たちに熱心にならせようとしていると。
こういうことには、私たちは気をつけなければいけないということですね。ま、言うなればですね。

パウロは「私のようになってください」と彼らに迫った時に、そのように訴えているパウロも一体どうなんだろうか?という反論は当然ありますよね。

パウロは宗教の世界で、先生と弟子との間にでき上がる人間関係に、落とし穴が存在するということは認識していたはずです。
それはいつの間にか、信仰がキリストではなく、先生との人間的な繋がりの上に成り立ってしまう
「私はあの先生に目をかけていただいた」「私はあの先生に洗礼を授けていただいた」――ま、それが事実であったとしても――妙な自己満足になっていく場合もあるでしょう。
逆に「あの先生だけは嫌だ」(※笑いながら)っていう場合もあるのかもしれませんけれども、それが非常に人間的な繋がりの中での教会生活っていうのはあるんですね。

神の目を気にする以上に、牧師の目を気にするということも充分にありますし、
私たちには皆人間としての弱さが宿っています。
ですから、「上に立つ者」をいつも、特に「宗教的な権威を着て上に立つ者」を尊敬し、その顔色をうかがう傾向が誰にもあると思います。
宗教人であろうがなかろうが、自分があるグループに属し、上に立つその方の指導のもとに私たちが生活し仕事をしているとしたならば、
その方の仰ること、その方の権威に心を向けていくということは、これは避けることができないですね。

となりますと、むしろ責任は「上に立つ者」にあるんですね。
その危険を牧師は重々理解して、警戒していなければいけない。
牧師が教会を育てていく時に、人間的な繋がりを大切にするはずです。
しかしよく言われることは、いつの間にか牧師が自分の親衛隊を作るような牧会をすると。
これは見ていて大変見ていて興味深く、でも罪深いことですね。これはままあります。

教会の中でどこか、あのグループは牧師に賛成し、あのグループは牧師に賛成していない。
牧師に賛成していないグループには、必ずそのリーダーがいるんですね(笑)。
そしてそのリーダーと牧師が若干敵対関係の中にあるみたいな、そういう普通の世界に存在する人間関係のダイナミックス(※心理力学)というのは、教会の中にはあり得る。

もし牧師がそのようなことをするなら、神からの権威を自分のものとし、自分に注意を惹きつけ、自分が慕われる存在になることを望んでいる、人間的な野心の現れです。
こうした人間関係の落とし穴に注意していませんと、教会の中にいつの間にか、「私はアポロにつく、私はパウロにつく」(***Tコリント1:12)というような党派心が生まれて来ます。
あるいは「牧師に大事にされたから神に大事にされている」とか、「牧師に目をかけてもらっていないから神に認められていない」とか、とんでもない倒錯が生まれていきます。

パウロは一体どうなんだろうか?
パウロは自分に対して熱心にならせようとするように、割礼派の野心の熱心を責め立てているんでしょうか?
そして「私のようになってください」とパウロは訴えているんでしょうか?

勿論牧会的な心情の溢れた手紙ですから、敢えてそのようにパウロを問い詰める必要はないのかもしれません。
パウロと彼らの結びつきは非常に強いわけですから、パウロが「どうか私のようになってください」と言った時に、そのパウロの温かな気持ちというのは自然に伝わっていたんだろうと思います。

しかし《そういう人間的な繋がりには怪しさがある》ということを頭の隅に置いて、もう一度この箇所を見ていただきたいと思うんですね。
12節からもう一回見て行きますね
【画面:ガラテヤ4章12〜14節までを、手で押さえながら読む。13節「私が最初〜ためでした」に黒の傍線。14節の上の余白にも黒の横線でまとめてある】

   12兄弟たち、あなたがたに願います。私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください。あなたがたは私に悪いことを何一つしていません。
13あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
14そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。

というこれは独特なガラテヤの教会の信徒とパウロの関係が描かれているわけですよね。
ま、一つ言うならば、パウロは野心をもって、「私のようになってください」「私に対して熱心になってください」と言ってはいない。明らかにそんなことを言っているのではない。
理由を二つ述べて、今日の説教といたしますけれども――

2)――理由その1番目――パウロは自分の弱さを認めています。

<ガラテヤ4:13〜14>
13 あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。
14 そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり嫌悪したりせず、かえって、私を神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように、受け入れてくれました。

パウロの「肉体の弱さ」は、「あなたがたにとって試練」ともなり得るものであった。
その私の持っている病気のゆえに、あなたがたは「軽蔑したり嫌悪しても」おかしくはなかった。
それ程の肉体的な――何の病気だったのかは分かりません――15節には信徒の方が「自分の目をえぐり出してでもあなたに差し上げたい」と言う位、もしかしたら目の病気だったのかも知れませんね。
この病は、同情の対象ではなく、躓き・軽蔑の対象になり得たような病だったということが分かりますね。

このパウロを、ガラテヤの人々は、「神の使いのように、またキリストご自身であるかのように」迎えました。
私たちはこの事実を、現実的に捉えなければいけないと思うんですね。いいですか?
初めて訪れる町で、広場や会堂で伝道するのであれば、それはそれにふさわしい凛々しい風貌、ずば抜けた声の響き、そうしたものが求められたはずなんです、パウロにも。
そういう凛々しさがあってこそ、人々の注意は語る者に向いて行ったと思うんです。
一目で「あの人にはカリスマがある」というような振る舞いなどは、語る前から聴衆の耳を目を魅力的に惹きつけていたはずなんですよね。

しかしパウロが言うには――「それとは逆に躓きとなるような病気を私は抱えていた。であるにもかかわらず、人々は素直に聞いてくれた」。
それはガラテヤの人々がそもそも愛と寛容に満ちた人々だったんでしょうか?
ですからパウロのこの肉体的な弱さが、彼らの同情を却って惹き、そのメッセージに耳を傾けたのでしょうか?
そうでもないんですよね。

彼らがパウロのメッセージを受け入れることができたのは、
これはもう開いていただきます、第一コリントの2章、どこにあってもそうですね。
パウロが軽蔑の対象となってもよいような病気を抱えていながら、(ガラテヤの人々が)パウロの伝道のメッセージに耳を傾けキリストを信じるようになったのは、
第一コリントの2章の4節と5節、ちょっと映していただいて、いいですか?
【画面:Tコリント2章4節5節。4節「私のことばと〜よるものでした」に水色の傍線。5節:数字5に☆印「神の力」に水色の囲み】

<Tコリント2:4〜5>
4 そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。
5 それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。

これは偉大ですね。
「説得力のある知恵のことばによるものではない、私の宣教は。御霊と御力の現れによるものだ」。
人間の知恵の力によらない。聞いている者の理解力にもよらない。
それは神の霊が聴衆に働いた時に、聴衆は不思議に語られることばを神の語りかけと受けとることができた。
ですからガラテヤの教会の人々は、パウロの肉体的に病んでいる、軽蔑の対象となるような姿であったとしても、
神の霊が働いていたので、パウロをキリストのように受け止めることができた、ということですね。

パウロがガラテヤの諸教会にあって、奇跡を為したというのはどこにも書いてないです。
あるいはパウロの風貌が非常なカリスマ的な魅力を持っていた、人々はそれによって惹きつけられた、ということも書いてありません。
教会ができ上がって行ったのは、彼らの信仰が人間的なものではなく、「神の力」に支えられていたからです。

3)二番目の理由――それゆえにパウロは、自分に対して熱心になってほしいのではなく、
彼が求めているのは、ガラテヤの4章の19節ですね。
【画面:ガラテヤ4章19節を指で押さえながら読む。】

19 私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

パウロの目標は、「あなたがたのうちにキリストが形造られる」ように。
あなたがたが私に熱心になるのではなく、キリストに対して熱心になり、
キリストがあなたがたの内に形造られるようになるまで、
私は産みの苦しみを再び強いられたとしても、それは厭わない。

「キリストがうちに形造られる人」ってどういうことか?
ちょっと(ガラテヤ)2章の20節見ますね。
これ何回も引いてますのでお分かりになると思いますが、ここにありますね。
【画面2:19〜20、「生きる」という言葉にオレンジのハイライトが付けられ、5カ所に黒ペンの囲みがある。20節「私を愛し〜信仰によるのです」に黄緑のハイライト】

<ガラテヤ2:20>
20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。

これが、私たちの内側に形造られるキリストです。
キリストの愛がどのようなものか分かって、私のためであったということが分かって、この御子に対する、キリストに対する信仰によって生きていく内に、
キリストの内的な資質が、霊的なものの考え方が、キリストの価値観が、キリストの行動パターンが、私たちの内側に浸透していく。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内にあって生きているのです。

そのためにパウロは「私は産みの苦しみを厭わない」ですね。
これを牧会と言います。
牧会というのは、言うまでもなく羊を牧するもので、羊の大牧者であるイエス・キリストが私たちを牧会してくださる。

高津教会には、牧師が牧会者としていますが、
高津教会の誇りには――イエスさまが高津教会を誇ってくださるとすれば――この教会には沢山の牧会者がいるということです。
その牧会者の存在は、以前からも明らかでありました。しかし、コロナ禍になって離れて行くと、ますます明らかになりました。
何人もいるものですから、色んな所でその人の回りで人々が集中したり、
あるいは一人で沢山の方々にお葉書を書いたり、電話をしたり、様子を尋ねたり、
勿論黙って祈ったりなさいます。

で、私たちは先月、牧会者の一人、吉田さんを天に送りました。
吉田さんは格別な牧会者でありました。
それは牧師を牧会するという意味でも牧会者でありました。
でも吉田さんが一番目をかけていたのは、小さな子どもたちです。
子どもたちに色んなおもちゃを手作りのおもちゃを作って来たり、
男の子が喜ぶような弓矢を作って来たり、刀を作ってみたり、
教会学校のキャンプをすれば、もう全部の下準備は吉田さんですね。

一度多摩川の上流でキャンプをした時に、のぶちゃんが川を流れて行きました(笑)。
私(藤本牧師)は流れて行くのを見ながら、どこかにたどり着くかな〜(笑)と思って見ていたのですが、
吉田さんがパーッと川岸を石の上を走って飛び込んで、のぶちゃんを救ってくれました。
「よかったねぇ!」

吉田さんは、どちらかと言うと野山が好きな人ですね。自然のことをよく知っていました。
自然の中に入ると生き生きとしていましたけれども、でもそれだけではない。
電気の工事は全部請負い、教会の外周りを請け負い……
私たちは、最終的に吉田さんに責任役員から降りていただいた時に、吉田さんに言いました。
「吉田さん、今まで通り高津教会の中心であってください。でも安心してください。
吉田さんがこれまで為してくださった働きは、みんな誰かが引き継げます」と。
それ程神さまは、高津教会に小さな吉田さんを沢山備えて来ました。
外回りの仕事、電気の仕事、教会学校の仕事。そして教会の隅から隅までいつも見回っていて、「先生ここがおかしい、ここが壊れている」。
そして、牧師を励まし、信徒の一人一人に声をかける。

そういう方々が、高津教会には沢山います。
吉田さんは安心して一線を退き、安心して天の御国に帰られたと思うんです。
私(藤本牧師)は吉田さんの教会学校の生徒でありました。
「私の子どもも吉田さんの生徒でありました」という方がこの教会には、実は沢山いるわけですよね。

今回の「天の窓」を見ながら、「ああ、教会の世代って替わって行くんだなぁ」ってことをつくづく感じました。
何しろ6ページの一番下に、天に召された吉田さんの顔を見ながら、
この写真は教会で撮られたものでありますから、なんか今でもひょいと現れる気がいたしますね。
でも吉田さんに替わる働きというのは、私たち何一つ欠けなく誰かが引き継いでいるということは、教会は生きている。
形だけではない。制度だけではない。牧師だけではない。
この教会には、パウロと同じ思いをもって、一人ひとりの内にキリストが形造られるまで、産みの苦しみを厭わない方々が沢山いるんですね。

パウロは(ガラテヤ)3章の4節でこう述べています。ちょっと見ますね。
今日の聖書の箇所ではないので――
割礼派に惹きつけられたガラテヤの人々に、失望して(パウロは)こう言いますね。
【画面:ガラテヤ3:4を読む】

<ガラテヤ3:4>
4あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。

つまり、もしキリストを離れてしまうなら、
もし私たちが再び世の中の価値観に戻って行くとしたならば、
自分の出来映え一つで、優越感や、劣等感に苛まれるような人間になってしまったとしたならば、
もし私たちが、何とかして自分の力で自分の人生を築いて行こう、というような人間になってしまったのならば、
イエス・キリストの十字架に一心に頼って救われたあれだけの感動は、あの経験は無駄になったのではないでしょうかと。
それは同時に、(自分が心血を注いで)ガラテヤの教会の人々に労した苦労も無駄になってしまうんですよね。

そんな空しいことになってしまう、ということを3章に言っておきながら、
パウロは4章では――
「もし再び、あなたがたの内にキリスト・イエスの十字架が形造られるというなら、
(※あなたが神の子として、イエスの十字架のみに信頼する信仰者になるように)
私は産みの苦しみをもう一回することを何とも思わない」とパウロは言うんですよ。

まだチャンスはある。
そう仰るのは、パウロではなく、イエスさまだろうと思うんですね。
私たちが十字架から背を向けて生きて行くなら、自分が思い描く幸せを求めて、それを第一として生きて行くなら、
キリストは再び私たちの罪を背負って十字架に行かれるのではないでしょうか?
私たちの心を再び十字架に向けさせるために、キリストは犠牲的な愛を惜しまないのではないでしょうか?
教会全体に、そのようにして、産みの苦しみを互いのために惜しまず、牧会するそういう教会でありたいと思います。
それこそが、《イエス・キリストの心》であろうと思います。

☆お祈りをいたします。――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちの教会に伝道者パウロの心を持っているような人物を沢山用意してくださいました。これまでに用意してくださいましたし、あなたはこれからも用意していてくださいます。

教会は世代交代を経て行くでしょう。またコロナを経て、様々な人間関係が変わって行くのかもしれません。でも私たちはいつも希望に溢れています。なぜならあなたはそのような賜物を私たち一人ひとりに授けてくださり、私たちの教会を助けてくださることを心から信じているからです。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2021.06.06 - 19:32

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