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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/13 ガラテヤ(18)奴隷を追い出せ ガラテヤ4:21〜31
☆聖書箇所  ガラテヤ4:21〜31
 21律法の下にいたいと思う人たち、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。
22アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。
23女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。
24ここには比喩的な意味があります。この女たちは二つの契約を表しています。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。
25このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっているからです。
26しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。
27なぜなら、こう書いてあるからです。
  「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。 
  産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。
  夫に捨てられた女の子どもは、
  夫のある女の子どもよりも多いからだ。」
28兄弟たち、あなたがたはイサクのように約束の子どもです。
29けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています。
30しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」
31こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。

☆説教  ガラテヤ(18)奴隷を追い出せ 
ガラテヤの手紙の学びも大分進んでまいりました。
今日は(ガラテヤ書)4章の21節〜31節までを読んでいただきました。
複雑なことを説明し始めますと、また皆さんが聖書を読んで色々疑問を持たれますと、却って分からなくなってしまうのがオンラインの礼拝ですので、ま、聖書をずっと追いかけてくださってもいいですけれども、いくつかの聖句に心を留めたいと思います。

1)まずこの聖書を見てください、(ガラテヤ4章)24節ですね。

「ここには比喩的な意味があります」と言って、パウロはここで創世記に出て来ます、アブラハムの妻サラの女奴隷(ハガル)とアブラハムの間に生まれたイシュマエルの話を持ち出します。
そしてそれが「奴隷の親子である」ということをもって、「奴隷」という概念を話し始めますので、ちょっと聞いていただきたいと思うんですね。

神さまの救いの歴史はアブラハムに始まりました。
<創世記12章1〜2節>
1……「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

と、神さまは仰いました。
その神さまの約束を信頼して、アブラハムは故郷を出て、神さまが示す地に出かけて行きます。
しかし夫婦が高齢になった時に、未だに子どもができません。
家には多くのしもべがいました。働き人がいて、財産も積み上げられていきました。
ところが跡継ぎがいません。
悩んだ挙句の果て、ある日、妻のサラが一案を得ました。
それが、創世記の16章の2節ですね。これは開いてくださらなくて、却って画面を見てください。いいですか。1節から読んでいきます。

<創世記16:1〜2>
1アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
2サライはアブラムに言った。「ご覧ください。【主】は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

アイデアは妻のサライの方から来ました。
そして、このようにして子どもができない時に、もし自分の子孫を残したいという願望があるならば、ハムラビ法典は教えていました。
妻の女奴隷のところに入って、そして世継ぎを、子どもを、相続人を作るが良い、という風に教えられていました。

さてここからが、主人であるサラと奴隷のハガルの立場が、間柄が、段々微妙になってきます。
それが今読んでいただきました(創世記の続きの)16章の4節に出てまいります。

<創世記16:4〜5>
4彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。
5サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐(ふところ)に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。……」

やっぱり、二人の女性が一人の男性に関わるようになる。
一人が女主人で、一人が女奴隷で――結果的に子どもを身ごもったのは女奴隷であった。
そうしますと、人間関係は非常に難しくなりますね。
こういう人間関係の難しさというのは、ヤコブ――アブラハムの孫に当たって、頂点を迎えます。
男性が複数の女性と関わることによって、あるいは同じ屋根の下に複数の女性がいることによって、どれほど家族が難しくなっていくのか、ということがよくわかりますね。
段々奴隷の方が主人に勝るふるまいをして来たということが、今読んだ所に書いてあります。

最終的にハガルは家出をいたします。
未だイシュマエルがお腹の中にいる頃、(ハガルは)アブラムとサラのもとを去って荒野に出て行きます。
そこで神の使いが出て「あなたはこんな所で何をしているのか?あなたは一体どこに行く気なんだ?」と。
出て行った身重のハガルは神さまから諭されます。
「今この状態で荒野を彷徨うということは、とってもあなたの身体に負担がかかる。
今のあなたにとってベストなことは身を低くして、サラのもとに帰りなさい。
そして必ずそこで出産をしなさい。
わたしはあなたのお腹から出て来る子どもを祝福する。
非常に強いアラブ民族とする」と。

イスラエル民族とアラブ民族の起源というのは、このアブラハムから出たサラの子どもなのか、アブラハムから出たハガル、イシュマエルの子どもなのか――両方とも12部族になって行きます。
そして両方とも、私(藤本牧師)は神さまの祝福であったという風に信じています。

でもこの出来事をパウロは比喩的に使うんですね。
少し先を読んでいきます。創世記の21章なんですけれども、この時には既にサラは妊娠しています。
なんとアブラハムは100歳でありました。サラは妊娠し、イサクを産みます。
21章8節を見てください。
 <創世記21:8〜9>
 8その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
9サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。

「その子は育って乳離れした」というのは、新しく生まれたイサクですよ。
「イサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した」というのは、日本で言えば、離乳食を始めるのは6か月ぐらいかもしれません。
でもこれはもうちょっと先の話です。1歳半か2歳ぐらいなんでしょう。
盛大な宴会を催したその日、サラはエジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、この小さなイサクをからかっているのを見た。
やっぱり先に生まれた方が勝ちなんですよ。先に生まれた方がどことなく勝っていくわけですね。

いいですか。
アブラハムの比喩というのは、とても象徴的です。
簡単に言いますと、こういうことです。
キリスト教とユダヤ教と、どちらが先か?っていうのは、これはユダヤ教が先なんです。
イエスの教えとユダヤ教の律法と割礼、どっちが先か?
イエスから生まれた教会と選民としての旧約聖書の民とどっちが先か?と言えば、
間違いなく旧約聖書が先なんです。そうしますと、
生活から食事から、礼拝から、社会制度から、ユダヤ教の長〜い伝統――しかも他と交わることをしない独特な伝統は――
何百年の歴史をもって、キリスト教が世に出る前に存在しているわけです。

そこでガラテヤの諸教会を色々と悩ませてきた「割礼派」という人々は、
この長〜い伝統に、十字架によってあなたがたは接ぎ木されて行くんだ、という教えを説くんですね。
すると、どこまで行っても、割礼も律法もユダヤ教の生活習慣も親木なんです。こちらが親の木なんです。
キリストの十字架という術をもって、あなたがた異邦人も旧約聖書の神の民に接ぎ木されて行きます、という論理で割礼派は教えていました。

そのように、単なる接ぎ木する術だという風に、十字架を過小評価していると、最後に勝つのはどっちです?最後に飲まれて行くのは、どっちです?
先に生まれたイシュマエルなのか、相続人でありながら、後に生まれたイサクなのか?
先に存在しているユダヤ教とユダヤ人なのか?そして後から生まれたキリスト教会と十字架によって接ぎ木された教会なのか?
これは当然、先に生まれて何百年も存在している方に持って行かれてしまうわけです。
ユダヤ人でないキリスト者は、十字架を信じ神の民となったということをもって、最終的には割礼を施され、ユダヤ人の食事習慣の中に吸収され、そしてユダヤ教の世界にどっぷりとはまっていくのですね。

こういう問題というのは良くないと、イエスさまはマタイの9章で仰いました。
これも開かなくて結構です。ここに直ぐ出しますので、見ていただきます?ちょっと今(画面に)出せませんね。
皆さん、よく知っておられる言葉でありますので、私の方で読んでいきます。
マタイ9章17節です、よ〜く知っておられます。

<マタイ9:17>
17また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」

「古い皮袋」って何ですか?――それは旧約聖書の教えとユダヤ教の食事習慣であったり、割礼でありましょう。いいですか。
ここで「新しいぶどう酒」というのは言うまでもなく、イエス・キリストの十字架と復活を中心とした福音ですよね。
最終的にユダヤ人キリスト者は、しっかりと十字架と復活の福音を保ちながらも、食事の習慣、割礼の習慣は離れません――それはそれでいいんだろうと思います。
しかしユダヤ人ではない人に、キリストの福音と神の愛を体験させておいて、改めてユダヤ人の教えや習慣に閉じ込めてしまう――そんなことがあり得るでしょうか?
新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるなんて、そんなことがあり得るんでしょうか?とイエスもここで仰っているわけですね。

2)それを私たちに当てはめてみましょう。(※➡パウロの語る比喩は、今の私たちにも繋がっている。)
もう一度ガラテヤの手紙の4章に戻っていただいて、4章の29節ですね。
<ガラテヤ4:29>
29けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりになっています。

「あのとき」というのは、イシュマエルが御霊によってイサクをいじめたように、今もあんまり変わらないんじゃない?ということを言っているんですね。
奴隷のハガルがアブラハムの本来の妻であるサラを軽く見たように、旧約聖書の教えは福音を軽く見ているということになりませんか?と。

つまり、29節をよく見てください。
「あのとき」という言葉と「今もそのとおりになっています」という言葉が続くんですよ。
するとね、パウロが用いているこの創世記の比喩は、
《創世記の出来事と今のガラテヤの教会って繋がっていますよね》ですよね?
すると、そのガラテヤの手紙を読む私たちは、《あのときのガラテヤと今の私たちって繋がっていますよね》と読まなきゃいけないんですよね。
確かに《ハガルとイシュマエルの問題》っていうのは、それは《ガラテヤの割礼派》に繋がっていました。

でも私たちが読むんだったら、《あの時の問題というのは今の私たちに繋がっていると考えるべきだ》と考えるのが、二番目のポイントなんですね。
これは繰り返し、学んで来たことです。
これが私たちの現状ではないか、ということはこれまでも何度も話してまいりました。
(ガラテヤ)3章の3節にこうありますね。

<ガラテヤ3:3>
3あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。

御霊で始まったのに――つまりイエス・キリストの前で、自分たちの功績も、自分たちの愚かさも、自分たちの出来映えも全部捨てて――ただひたすらイエス・キリストにしがみついて救われたのに、
キリスト者になってから、もう一度自分の出来映えや自分の功績や自分の成績にこだわっているあなたは、いったい何者か?という。
そのガラテヤの出来事というのは今に繋がるじゃないですか?

いつの間にか、古い皮袋が勝ってしまう。
いつの間にか、成績第一主義、実績主義という古い価値観が、イエス・キリストに現れた神の愛を脇に押し退けてしまう。
色んなパタ−ンがあります。皆さん自身、色んなパターンを考えてみてください。いいですか?
教会に来たときは、神の愛、十字架の愛だった。今もそうだ。
しかし、日常生活では、もっぱら人の目を気にしつつ、出来映え主義で社会人生活を送っているという方、やっぱり多いんじゃないですか?私(藤本牧師)自身も含めて。

もっとやっかいなことは、教会にこういう問題って入って来ますよね?
例えば、奉仕第一主義というのがあります。
前に聞いたことがあります。クリスチャンホームの子どもが、お母さんと一緒に牧師の先生に尋ねました。
「先生、学校の行事が日曜日に入っています。(ま、今はあんまりありませんけれども、以前はほとんど日曜日でしたね)、どうしたらいいでしょうか?」
って言った時に、先生は非常に単純で、
 「答えは単純です。神に従うか、人に従うかの問題ですよ」と。
「え、それってどうしろっていうことなの?」
先生は学校には行かないで、教会に来いとは言わなかった。自分でよく考えろと。
「それは神に従うか、人に従うか。神の国を第一とするか、の問題ですよ」と言ったら、

そんなことを言われたら、学校の運動会も修学旅行にも何にも行けないですよ。
それ一体何をしているのか、と言うと――神を第一にする第一主義によって、私たちの生活全てを縛りに来る――そういう教会をカルト教会と言う。
そのうち、献金を通して皆さんの財産を巻き上げますよ。
奉仕を通して、皆さんの自由を巻き上げますよ。
そして、「牧師の考えに従えないのなら、どうぞ教会を出て行ってください」ということになりますよ。
その時、あなたは「神を捨てて世を取ったんだ」という風に、教会で非難されることになりますよ。
そんな教会、あるんですよ、今。

そういう風に責める前に、自分自身の信仰もそれ位窮屈になってはいないか、ということを考えるために、私たちはガラテヤの教会を学んでいるんですよ。
2000年も前のガラテヤ教会を学んでいたら、この教会の姿は何らかの形で私たちの内に侵入しているという現実を学んでいる。

確かに、この世を支配する者は、なんとか私たちを神から遠ざけようと、吠えたける獅子のように、獲物を探して歩き回っている(***Tペテロ5:8)――それは否定できません。
しかし、福音をいつしか律法に変えて、私たちに与えられているキリスト・イエスにあって私たちが持っている自由――ガラテヤ2:4ですね――を奪う時、
(福音を守ろうとしても)それはそれは、窮屈な信仰になってしまいます。

私たちは、いつも祈り、配慮をもって考えなければなりません。
「愛に生きる」ことこそ、もっと重要なこと。
愛に生きるとは、「自由」のなせるわざです。すべての義務を背負って十字架にかかってくださった主イエスが私たちに与えてくださった自由(***ヨハネ8:31〜32)に応えて生きる、
というのが、これから(5章で)学ぼうとしている、「愛に生きる」ということですね。

3)30節「女奴隷とその子ども追い出してください」

<ガラテヤ4:30>
30しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」

「奴隷の女と子どもを追い出せ」
これは当時、サラが夫アブラハムに頼んだ言葉そのままです。(***創世記21:10)
このままではうまくいきません。
これは当時、お父さんにあたるアブラハムにとっては苦痛の決断でした。
ハガルは妻の女奴隷かもしれない、でも、できたイシュマエルは自分の子どもでもある。
また、ハガルと息子イシュマエルにとっては、悲痛の出来事でした。
あ、こんなにまだ小さい少年のこの状態で追い出されるのか?

同じようにして、私たちは教会から、私の信仰生活から、律法主義を追い出さなければならない。
長年培ってきた様々な教会的な習慣が、もしかしたら自分はこれに縛られているんじゃないかと、
本当の意味でキリストの愛とキリストの自由とを自分で掴むことを、これによって遠ざけられているんではないかと、
一旦手放してみることも私(藤本牧師)は悪いことではないと思います。

初代教会は、どんなにユダヤ教との繋がりをいとおしく思ったことでありましょう。
ユダヤ教の律法に慣れ親しんでいたとしても、その関係を絶って進んでいきました。
「奴隷の人、肉の人」を追い払って行くのです。
(赦すこと、寛容になること、愛すること、そんなことは考えもせず)自分の決めた信仰の規律をひたむきに守り続けて来た。そして自分であれはダメ、これはダメ、そうして突き進んで来た――そういう冷たい律法主義を追い出していきました。

5章の1節を読みますね。来週やります。   
<ガラテヤ5:1>
1キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

パウロは比喩をもって論じましたので、私も比喩を使って閉じることにします。
皆さんがよく知っている『アメージング・グレース』(いかなる恵みぞ)という讃美歌がありますね。多くのクリスチャンが世界中で愛唱しています。
18世紀英国のジョン・ニュートン(***1725〜1807)という人が作りました。
彼はアフリカで買った奴隷をイギリスに運ぶ奴隷船の船長として、アフリカ西海岸と英国を行き来します。
西アフリカの人々は皆(アフリカの西海岸)シラレオネの港に集められます。
その現地の人々を、小さな船にようやく膝が屈むかぐらいの高さに何層も作って、そして互いに手かせ足かせをつけて、身動きの取れない状態で寝させるんですね。
なんとか食べる時だけ起き上がる。
用を足す時には、もしかしたらその場かもしれないし、立ち上がることができるかもしれない。
イギリスに着くまでに半分ぐらい死んでしまいます。
死んだら全部海に投げ込まれます。
ジョン・ニュートンはその船長をしていたんですよ。

でも1748年の5月10日――ウェスレー(***1703〜91英国教会司祭)がロンドンで信仰復興運動を率いていた頃です――激しい嵐に見舞われ、沈みそうになる船の中で、
「主よ、私たちを憐れんでください」と彼は叫ぶんですね。
彼は、その日を「自分の回心の日」と呼んでいます。

しかし、それで彼が奴隷船の船長の仕事を止めたわけではないんですよ。
そこから先、なんと二年、奴隷船の船長の仕事を引きずります。
アフリカで奴隷の船積みをする間、彼はようやくAmazing Grace(How Sweet the Name of Jesus Sounds)というその讃美歌を書いています。

そして1750〜60年に、ホイットフィールド(***1714〜70)と出会い、伝道に燃え、ウェスレーと出会って尊敬を寄せ、とうとうこのジョン・ニュートンが牧師になります。
それだけではない。最後は奴隷売買禁止法をイギリス議会で打ち立てたウィリアム・ウィルバーフォース(***1759〜1833英の政治家)を支えて、イギリスでの奴隷撲滅に加わって行くのです。

いいですか、時間はかかりました。時間はかかりましたけれども、彼は元に戻ることはしなかった。
時間はかかりますけれども、彼はきちんと自分の過去を処分して、考え方を変えて、償いをして、自分がやっていた奴隷売買撲滅のために自分の人生を奉げて行くんですね。
私たちの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりを知れば知るほど、恵みの世界を知れば知るほど、
ただキリストの十字架のみによって生かされていること、私たちの現状がどうであろうと、私たちは「アバ、父よ」と親しく父なる神を呼ぶことが許されているということが分かるようになる。
驚くばかりの恵みを知れば知るほど、私たちは奴隷を追い出すことができる。
でなければ、私たちは一生奴隷を追い出すことができないでしょうね。

ジョン・ニュートンは自分自身で「いかなる恵みぞ」”Amazing Grace”という讃美歌を書くことによって、自分があれ程愚かでみじめであった人間が、だんだんほんとの意味で奴隷を追い出して、神の愛に生きる人間に変えられていったという経験をしたんですね。

私たちは神さまの使用人ではありません。
奉仕という時に、別に神さまに使用人として使われているわけではありません。
私たちはあくまでも神さまの子どもです。
子どもとして神さまの愛を知れば知るほど、私たちは自ら進んで神に仕えるようになる。
仕えなかったとしても、神さまはいきり立って「おまえは子どものくせに……」と私たちにムチを当てることはしないです。
なぜなら私たちは奴隷ではないんですよね。
どんなことがあっても、全き平安をもって「アバ、父」と父の愛に安らぎ、大胆に愛に生きる者になることができますように。

☆お祈りをいたします――藤本牧師
31こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。
(ガラテヤ4:31)
恵み深い天の父なる神さま、「私たちはもはや奴隷の子どもではなく、自由の子どもです」――こう宣言されていながら、どうしてまた世の中の価値観に縛られて窮屈に生きようとするのでしょうか?それはきっとあなたの恵みの大きさというものを知らないからに違いありません。
ジョン・ニュートンは十数年かけて、あなたの恵みの大きさを知るようになりました。私たちは30年かけて学ぶのかもしれません。いやそうではなく、何度も学び直すのでありましょう。不出来な私たちでありますから、私たちにどうか何度も学び直す機会を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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