☆聖書箇所――創世記22:1〜14 1これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。 2神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全勝のささげ物として献げなさい。」 3翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。 4三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。 5それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。 6アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。 7イサクは父アブラハムに話しかけて言った。 お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」 8アブラハムは答えた。「わが子よ、神が自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。 9神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。 10アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。 11そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」 12御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」 13アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角をやぶに引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。 14アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。
☆説教 父から逃げなかったイサク 皆さん、おはようございます。高津教会の礼拝によくお出でくださいました。それからオンラインで参加されている多くの方々、私たちが名前も存じ上げないような方々も沢山おられると思います。まさに不特定多数の方々にこの高津教会の礼拝が開かれている。
教会に初めて行ってみようかなぁ――以前はものすごく勇気が要ったと思うんです。でもオンラインですと気軽ですよね。ちょっと見て、「あ、ここ辞めとこう」って次の教会とか(笑)、ウィンドウ・ショッピングならぬ教会リサーチングが本当に簡単にできてしまう。そしてその中から、「あ、この教会で礼拝してみようかなぁ」とか、「来週はこの教会に行ってみようかなぁ」とか、色々楽しみにしながら様々な教会の恵みを味わっておられる方々や、また福音を真実に求めておられる方々もおられるのだろうなぁと、そのことを思い巡らしながら、毎週礼拝を奉げていることでございます。(※カメラ目線で)特に今日初めてキリスト教会の礼拝に参加された方、大歓迎であります。できれば最後までお付き合いいただければ感謝です。
今日は「父から逃げなかったイサク」と題しまして、お読みいただきました創世記22章の1節〜14節、ここから共にみことばの恵みを味わいたいと思います。 3つの視点で見ていきたいと思いますが――
1)アブラハムへの試練がここに書かれています。 (創世記)22章の1節をお読みいたします。
1これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。……
その試練の内容が2節に書いてあります。
2神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
神さまからアブラハムに与えられた試練とは、イサクを全焼のささげ物・いけにえとして献げるという試練でありました。 考えてみれば、自分の息子をいけにえとして献げる――なんと理不尽なことでしょうか!なんと不条理なことでしょうか! イサクは高齢者になったアブラハムに、神さまから奇跡的に与えられた子ども。 そのイサクをいけにえにするということは、人間として、一人の父親としてわが子に注ぐ当然の愛情、その愛を神さまのために否定することになってしまうわけです。
それと共にイサクは、単に人間的な意味でのアブラハムのひとり子であっただけではありませんでした。 神さまの約束が成就するためには、イサクが不可欠な存在でした。 その約束とは、神さまがこう仰った約束です。 「わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。……」 創世記の13章の16節に書かれています。さらには、創世記の17章の4節には、 「……あなたは多くの国民の父となる」と。 こういう約束が、神さまからアブラハムに与えられていたわけですね。 このことはアブラハムは既に神さまから知らされていました。 そのイサクをいけにえとするということは、神さまの約束が成就することを台無しにしてしまうことでした。 さらに言うならば、結果的に神さまに逆らうということになってしまいかねない。 「イサクをいけにえにせよ」と言われる神さまは、矛盾していると言ってもいいでしょう。
さらなる理不尽は「人間をいけにえにする」ということは、当時、異邦人の宗教の慣わしでありました。 聖書では、モーセの律法でも厳しく禁じられている行為です。レビ記の18章の21節にそのことが書かれています。 しかもそれはモーセの十戒で禁じられている殺人行為でもありました。 それをあえて行えと神さまがアブラハムに命じた――これが試練だったわけです。
この試練に際してアブラハムはどうしたでしょうか? 悩んだんでしょうか?しかも悩まないですぐ従うことができたんでしょうか? 思いを馳せてみたいと思うんですけれども、私(戸塚伝道師)は相当悩んだのではないだろうかと思います。 一人の父親として、あるいは神さまを信じる者として、この矛盾している神さまからの試練、どうしたらいいんだろうか?(※力を込めて)本当に、悩んだと思います。 あり得ない、どう考えてもあり得ない。神さま、何をお考えになっておられるのですか!神さま、なぜですか、この試練は!?
アブラハムが相当悩み、苦しみもがいたと考えられる、その手掛かりとなる言葉が、(創世記)22章の3節の最初の一言です――「翌朝早く」。 「翌朝早く」――なぜ翌朝早くだったのか?アブラハムは一晩中眠れなかったのではないかと思うんです。それで翌朝早く。 そして、最終的に神さまの命令にお従いすることに決めたんですね。腹をくくったのです。
なぜお従いすることができたのか?その信仰の根拠は? それは復活の希望でした。 へブル人への手紙11章の17節〜19節をお読みしたいと思います。 新約聖書の452ペ−ジに、このアブラハムの信仰の根拠――神さまにお従いした根拠――がこのように書かれています。
<へブル人への手紙11:17〜19> 17信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。 18神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、 19彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。
イサクをいけにえとして献げても、《神さまはそのイサクをよみがえらせることができるお方だ》と、そのことを本気で信じて神さまにお従いしたと思われます。 イサクが復活すると信じたからこそ、創世記22章の5節にはこのように書かれています。
5それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。
「私と息子は戻って来る」――たとえイサクを献げても、イサクはその場で復活し、二人とも戻って来ることができる。息子を取り戻してここに戻って来ることができる。
そしてさらなる信仰は、8節に書いてありますが――
8アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」……
「神さまが備えてくださる」――神さまの備えを心からアブラハムは期待していたということです。 9節10節を見ますと、本当にイサクをいけにえにするつもりでした。 しかし、実行に移す前に、神さまからのストップがかかったということが11節12節に書かれています。 そしてその結果、アブラハムは神さまからの試練に合格したわけですね。 12節ご覧いただきますと――
12御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
思うに神さまは、アブラハムが息子イサクのことを偶像のように溺愛しているかどうかを、みこころならばそのイサクを手離すことができるかどうかを、神さまは確かめたかったと思われます。 そのための神さまからの試練――「イサクをいけにえとして献げなさい」という神さまからのご命令だったわけですね。
でもそのとばっちりはもろにイサクに来てしまいました。 この類の試練は、信仰の父と呼ばれるアブラハム限定のものでした。 アブラハムに対しての神さまからの試練でした。 考えてみれば、すごい信仰だったと思います。 ところで、この聖書箇所からの説教は、今までは大体アブラハムを視点に置いたものが多かったような印象を受けていますけれども、 今朝はイサクの視点に立って、この箇所を読み取ってみたいと思うんですね。
2)イサクに思いを馳せてみる
イサクにしてみれば、何の説明もなかった。何も知らなかった。神さまとアブラハムとのやり取りもイサクには知らされていなかった、お父さんから。 アブラハムが悩んでわが子を献げるという決断も、その思い悩んだ苦しい胸の内も、息子イサクは知らなかったと思うんです。 でもイサクは全焼のささげ物とはどういうものなのかということは、恐らく幼い頃からお父さん・アブラハムから色々聞かされて、しっかりと教わっていたと思われます。7節には――
7イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
と、このようにお父さんに質問しているということは、全焼のささげ物はどういう手順で、どのようにして行われるかということはイサクは分かっていた。 分かっていたゆえの質問でした。 しかし何の説明もなく、いきなり父親に縄で縛られ、祭壇に寝かされ、父親によって刃物で殺されそうになった――この状況に置かれたイサクに思いを馳せてみたいと思います。
アブラハムは息子イサクを縛りました。この時息子イサクは14歳〜17歳ではなかったかと言われています。 14歳〜17歳と言いますと、中学二年生〜高校二年生のあの位の男の子ですよね。 この時アブラハムは114歳〜117歳でした(笑)。かなりの超高齢者でした。 でも歩くことができた。山にも登ることができた。すごい健康が守られていて、体力的にもまだまだ元気だ。 でももしこの14歳〜17歳の高校生、高齢者である父親が自分を殺そうとした時に、イサクは当然お父さんに対して――本来ならば―― 「お父さん、何をするんだ。どうしちゃったんだ。止めてくれよ。俺を殺す気かよ」と、 そういう反応をするのが当然だと思うんです。 何ものかに取りつかれたかのような父親の異常な行動を目の前にして――自分に対する虐待ではないだろうか?自分に対する殺人行為ではないだろうか?こんなのあるか! もし、イサクが父アブラハムに本気で抵抗したら、正当防衛で父親と格闘したら、110何歳の父親に挑みかかったら、高校生ぐらいの体力だったらば、あっという間にイサクが勝ったと思うんです。 そして全速力でモリヤの山をイサクは下りて、待っていたアブラハムの付き人にイサクは言うでしょう。 「礼拝するなんて嘘だった!親父が俺を殺していけにえにしようとしたんだ!だから俺は親父を張り倒して逃げて来たんだ!」 人間として、ある意味では、当然の反応だったに違いない。
子どもが成長するということは自立するということです。 自立していく時、今まで親から教えられて来たものを、本当にそうかどうか自分で問い直すことも含まれています。 それは神さまに対する信仰も例外ではありません。 親から教わって来た神さま、親から教わって来た聖書の中身、親から教わって来た教会の礼拝、そこにある福音、救い、神さまの恵み――本当にそうかどうか自分で確かめる。 これが親から自立する、ということの意味する一つの面です。 思春期の反抗期は、大人を跳ね飛ばすほどのものすごいエネルギーとパワーを秘めている。 抑えてどうにかなるものでもありません。 子どもが教会を離れる年齢で一番多いのが14歳,中学二年生というデータがあるそうですけれども、 この時のイサクも大体同年齢、多感で親からの自立真っ盛りだったかもしれません。 しかし聖書を読むと、イサクは何の抵抗もせずに、父親にされるがままだったように描かれています。
そこでこの物語の最大の疑問に私(戸塚伝道師)は突き当たったのですね。 それはイサクはこの時、なぜお父さんから逃げなかったのだろうか?ということです。 父アブラハムは神さまからの試練に対して腹をくくりました。 でも息子イサクも同じように、なぜお父さんと同じように従うことができたのか? お父さんのその行為に対して、その行為を受け入れることができたか?――これが最大の疑問です。 そしてこの疑問は、私たち一人ひとりに対する神さまからの問いかけでもあります。
3)イサクはなぜ父から逃げなかったんだろうか?
「お父さん、嫌だ」と言えなかったのか? 権威主義的な父親で、半分マインド・コントロールされて、子どもの頃から。 父親に対してもう命がけの忖度をしなければいけないような関係になってしまったのだろうか? そんな病的な親子ではなかったような感じです。
むしろ自分で決めて、お父さんにすべてを任せたのではないだろうか? なぜイサクは父親から逃げなかったのか? 色々な理由が考えられると思うんですけれども、先ず一番考えられることは―― お父さんの信じる神さまを、自分の神さまとして信じる信仰に日頃から生きていた、と思われます。 それはず〜っと子どもの頃から聞かされてきた、知識としての信仰ではありませんでした、多分。 イサクは幼少の頃から――父の信仰の生き様――それに対する憧れのようなものを持っていたに違いなかった。 お父さんのように生きていきたい――お父さんからの感化――それはもう言葉にはできない位強いものだったと思われます。
次元は異なるかもしれませんけれども、親の生き様・後ろ姿に憧れて、親の跡を継ぐ職業のトップは漁師である、と聞いたことがあります。 俺もお父さんと同じ漁師になるんだ。 歌舞伎役者の世界も不思議だなぁと思いますね。 詳しいことは私(戸塚伝道師)には分かりませんけれども、歌舞伎という芸が親から子へ代々引き継がれていくわけです。 単なる父の願いを、お父さんの願いを子どもに望む――そういうレベルではなくて、真剣に歌舞伎の世界の醍醐味を子どもに伝えようとしている。 そんな父親の熱くて充実した生き様を見て、子どもも歌舞伎という芸の世界に憧れて、同じような道を歩んでいく。そして厳しい稽古にも耐えていく。
このような父親と子どもとの間には何かがあるんですね。 イサクはそんなお父さんに憧れていたのかもしれない。父親の信仰の生き様。
それと共にイサクは父アブラハムにすべてを委ねることができる程、全面的にお父さんに信頼していました。 イサクは全焼のささげ物の羊が一緒にいないことに、ベエル・シェバを出発した時から、変だなぁと思っていたことでしょう。 でもその時、もしかしたら薄々感づいていたのではないだろうか? (創世記)22章の7節にお父さんへの質問が出ていますけれども、 「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」 これは単なる質問ではなくて、お父さんに対する確認だったのではないだろうか? 「肝心の羊はどこにいるんですか?」――他に捧げると言ったら何もないじゃない。そうすると、自分かなぁ、もしかしたら。いや、まさか……。
お父さんの答えはこうでした。 「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」 このお父さんの言葉、これを聞いて、私(戸塚伝道師)はイサクは腹をくくったと思うんです。 読み込み過ぎかもしれませんけれども、この後に――こうして二人は一緒に進んで行った(8節)――と書いてあります。 「二人は一緒に進んで行った」――お父さんの気持ちと子どものイサクの気持ちが一つになったかのように、二人は一緒に進んで行った。 この「二人は一緒に進んで行った」という言葉は6節にも書いてあります。 これはアブラハムが全焼のささげ物のための薪を取って、それをイサクに負わせて、火と刃物はお父さんが持って、山へ歩いて行く途中でした。 恐らくこの時から、イサクは何かを感じていて――もうお父さんにすべてを任せよう――そういう気持ちになっていたのではないだろうか?と、読み込んでみました、この言葉から。
「神ご自身が備えてくださる」(8節)――これが決定的な心の準備だったと思います。 イサクは神さまというよりも、お父さんのこの言葉にすべてを賭けました。 だから、父親が自分を焼くための祭壇、それを築く、そして薪を並べる、その場面を黙って見ていたと思うんです。 そしていきなり縄で縛られる時も、何の抵抗もすることもなく、お父さんに全面的に委ねた。 祭壇の薪の上に寝かせられた時も、抵抗しなかった。わめきもせずに、恐れもせずに。 そしてイサクは父親が自分に向かって振り下ろそうとする刃物を見ました。 まさしくイサクは『まな板の上の鯉』でした。
私たちはこの後どうなるのか、聖書から既に分かっているので、安心してここをすんなり読んでしまうんです。 アブラハムにしてみても――もし結末が分かっていたとしたならば――じゃ、ここで刃物を息子に振りかざすんだけれど、そろそろ御使いが現れる時刻じゃないだろうか?(笑)――などと御使いと相談しながら「早く止めてください」なんて感じになったかもしれない。 「神さま、ここまでお従いしたので、あと私をストップさせてください」――でも、そんなことではなかった。 本当に自分の息子を献げるつもりでした。 この先どうなるのか知らされていない状態で、イサクは『まな板の上の鯉』に成り切っていたのです。
そこで思うんです。イサクはそのような状態に成り切ることができた。 では私たちはイサクのようでいられるでしょうか? 神さまから与えられる特別な信仰がなければ、私たちには到底無理でしょうね。 あの信仰の父アブラハムのDNAを受け継いだイサクだからこそ、可能だったのかもしれない。 でもこう言って言い訳してしまうことは簡単でしょう。 私たちも神さまを信じている。 同じアブラハムが信じていた神さま、イサクが信じていた神さまと同じ神さまを信じている私たち。 そこで問われるんですよ、神さまから。 イサクが父アブラハムに全面的に信頼したように、父アブラハムならぬ、父なる神さまに賭けるような思い切った信仰が、時にはあなたには必要ではないですか?という神さまからの問いかけです。
私たちも試練に遭うことがあります。アブラハムとは全然次元が違いますよ。 でも当事者にしてみれば、アブラハムと同じ位辛い、もう言葉にできない位の試練かもしれない。 私たちの信仰は、アブラハムが試練に遭った、神さまから試練を受けるに足る位のそんな立派な信仰ではなくて、もう底が知れているので、神さまは私たちに試練を与えていないのかもしれない(笑)。 どうせすぐ潰れちゃうんでしょう?――神さまはご存じなのかもしれません。
それでも試練に遭うことがあります。 勿論試練はすべてが神さまから来るものとは限らない。 自然災害とか、犯罪の被害者になったとか、老化現象だとか、取り返しがつかない失敗をして、蒔いた種を刈り取らなければならないとか、必ずしも神さまから来る試練とは限られないものは沢山あります。 それでも試練は試練です。
そして試練という言葉にはいかないまでも、私たちは毎日の生活の中で、 様々な課題を抱え、不安を抱え、忙しさを抱え、どうしたらいいか分からないような様々なことを、もう一心に抱えている私たちです。 そんな時、私たちの唯一の希望、拠り所はいったい何でしょうか? 耐えることができないような試練、それもあるかもしれませんけれども、 どうしたらいいかわからないような様々な出来事の中で、たった一つの希望は一体何でしょうか? それはアブラハムが信じていた、イサクが信じていた、天のお父さま、神さまです。私たちの天の父です。 このお方にすべてを賭ける信仰――自分の人生も、いのちも、使命も、仕事も、家庭も、抱えている様々な問題課題も、そして試練も。 試練のただ中におられる方々もおられるかもしれない、そのような様々な状況の中に置かれている方々、私たち、それらすべてを全部神さまに捧げて、委ねて、 「神さま、どうぞよろしくお願いします」と神さまの中に身投げするようなつもりで、『まな板の上の鯉』に成り切って、「神さま、どうぞよろしくお願いします」と言うような信仰。 恐らく神さまの中に身投げしても、どん底に墜落しても、その下にちゃ〜んと神さまの腕がある。 (※申命記33:27故 藤本幸子先生が走水のケアハウスに行く前に、ルツ会に残していかれたこのみことばを思い出しました)。
今朝、アブラハムにあやかって、私たちも信じたいと思うんですね。 「神ご自身が備えてくださる」というこのお言葉(創世記22:8)を信じたいと思う。 私たちにも必ず神さまからの備えがある。14節に――
14アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。
とあります。 イサクには、身代わりの雄羊が備えられていました。 これがアブラハムにとって、イサクにとっての、具体的な備えでした。 あり得ないことを委ね切った先に、あり得ない恵みが待っていた。 私たちにとって、天のお父さまから様々な備えがちゃんとある。 特に私たちにとって最大の備えは、私たちの罪のために、まさに身代わりの子羊となられたイエスさまです。
私たちも想定外の試練に直面した時、様々な不安を前にした時、恐れを前にした時、神さまの万全な備えを本気で信じたいと思います。 人間わざではない信仰、父なる神さまの愛の中に備えてくださる信仰、よりバージョンアップした信仰を求めたいと思います。 神さまご自身がそれを備えてくださいます。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師 私たちの天のお父さん、あり得ないような出来事を前にする時も、大小様々な面倒なことに対応しなくてはならない時も、自らの乏しい信仰を補って余りある程の特別な信仰を与えてください。 そしてその信仰によって、今週もあらゆる場面で、イサクが父アブラハムを全面的に信頼し、腹をくくって任せ切ったように、私たちも天のお父さんに委ね切ることができますように導いてください。愛するイエスさまのお名前で、すべてを備えてくださる天のお父さんにお祈りいたします。アーメン。
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