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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/27 ガラテヤ(19)自由とされた事実を知る ガラテヤ5:1〜12
☆聖書箇所  ガラテヤ5:1〜12
1キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。
 2よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。
3割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。
4律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
5私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。
6キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。
 7あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。
8そのような説得は、あなたがたを召された方から出たものではありません。
9わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。
10あなたがたが別の考えを持つことは決してないと、私は主にあって確信しています。しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、さばきを受けます。
11兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けているのですか。それを宣べ伝えているなら、十字架のつまずきはなくなっているはずです。
12あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除してしまえばよいのです。

☆説教  ガラテヤ(19)自由とされた事実を知る 
ガラテヤ書の5章の1節を開いていただきます。

1キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

というのは文字通り、これまでのことの集約と言ってもいいと思います。
ちょっと(ガラテヤ)1章の6節を見てください。

1)ガラテヤの書簡には、パウロの驚きと疑問が様々な所に刻まれています。
ガラテヤ1章の6節を読んでいきますね。
【画面:ガラテヤ1章6節。「このように急に離れて〜行くことに」に黄緑のハイライト】
<ガラテヤ1:6>
6私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。

3章の1節、3節、4章の9節を見てください【※次々と見ていく】
【画面:ガラテヤ3章の1節「十字架につけられた〜描き出された」に緑のハイライト】
<ガラテヤ3:1>
1ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。

大きな疑問ですね。3節に――
【画面:ガラテヤ3章3節「御霊によって〜いうのですか」に緑のハイライト】
<ガラテヤ3:3>
3あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今肉によって完成されたというのですか。

【画面:ガラテヤ4章9節を指で押さえながら読む】
<ガラテヤ4:9>
9しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。

「せっかくイエス・キリストの十字架を捕らえておいて、どうしてまた逆戻りして行くんでしょう」というのが、大きなテーマなんですね。
(ガラテヤ書の学びで)これはもうず〜っと追いかけて来ました。
当時の割礼派の考え方は、皆さんにとっては、もう耳にタコができる程聞いて来られたでありましょう。
でももう一回繰り返しますね。
《キリストの十字架は単なる入り口に過ぎない。正式に神の民になるためには、ユダヤ教にあるように割礼を受けて、旧約聖書の律法を守って初めて、神の民に受け入れられる。》

私たちは割礼とは何ら関係ありません。
しかし、似たような流れで、福音を別物に変えてしまう、という傾向があるんですね。
それが申し上げて来ましたこの世の「出来映え主義」です。成功するかしないか、受け入れられるか受け入れられないか。
世の中の価値観が、いつの間にか信仰生活の中にも入り込んでしまい、いつも自分がどのように評価されているんだろうか(気にしている)。
誰だって、評価されたら嬉しいものです。

でもそこにヘンリー・ナウエンが言います、「サタンの声」(この世の声と呼ぶもの)が複雑に入り込んで来る。
そのサタンの声というのは、
「おまえは所詮大したことはない。
大した奴だと認めてもらいたければ、証明してみろ」
「おまえにできるのか?できたら、認めてやろう」

と言うサタンの声が、私たちのガンバリズムの中に微妙に侵入してくる。
そして、十字架によって救われたにもかかわらず、十字架によって神の前に義と認められたにもかかわらず、評価を気にする世界から離れられない。
そしていつの間にか、自分の「出来映え」に自分の存在価値を見出そうとする。
それゆえ、自分の過去の失敗、しくじり、罪、愚かさが鮮明にいまだによみがえってくる、と言うんですね。

パウロはガラテヤの人々、私たちに対して、ちょっと(ガラテヤ)5章の7節を見てください。今日のところですね。
【画面:ガラテヤ5章7節「よく走っていたのに」にハイライト。「邪魔をして」に黒ペンで囲み】
 7あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたの邪魔をして、真理に従わないようにさせたのですか。
(※あるいは9節に――と、並べて読み上げる)
【画面:ガラテヤ5章9節「わずかな〜です」全文に黒い傍線】
9わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。

イースト菌はほんの少しでいい。
でもそういう「出来映え主義」のイースト菌が自分の人生の中に入って来ると、いつの間にかガンバリズムの固まりになってしまうよということですよね。
そこにはサタンの邪魔もあるかもしれない。
かつてキリストの十字架一本で走って行ったのに、一体どこであなたがたは、12節、「かき乱されて」しまったのでしょうか?と。
【画面:ガラテヤ5章12節「かき乱す者たち」に囲み】
12あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除してしまえばよいのです。

そういう風に――私たちの純粋な信仰を世の中の価値観で混ぜる――「かき乱す者たち」が、教会の中にはいる、という。
なぜなら、私たちは世の中で生きていますので、当然かき乱す者は世の中にも(教会にも)いるわけですね。
ですから5章の1節、一番最初に読みました。

1……ですから、あなたがたは堅く立って(***前の訳ではしっかり立って、ですねと説明)、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

しっかり立って—―意識して「十字架を信じる」という――そこにのみ自分の価値を見出すということをしない限り、再び奴隷のくびきを負うことになる
いつの間にか私たちが、自分の存在意義が人の目・人の評価で決定されているかのように感じてしまうという。

教会がいつも作り上げて来たクリスチャンのイメージというものがあります。
敬虔な人物、祈り深く、愛に富み、奉仕をし、伝道熱心で――すべてすばらしいことです。
でも「それをもって」神に受け入れてもらおう、「それをもって」自分を神の前に立たせようとする時に、
私たちは十字架のキリストから離れていきます。

教会に成績表があるとして、小学校の成績表のように、どんなに「よくできました」が並んでいたとしても、それで私たちは救われるのではない。
どんなに「がんばりましょう」が並んでいても、それで神の国から遠いわけではない。
私たちが救われるのは、キリスト教会においては、私たちを愛し、私たちのためにご自身をお捨てになった、神の御子(イエス)を信じる信仰による以外にないわけですよね。
それ以外にないわけですよね。
この方が罪深い私たちを愛してくださり、まだ神の愛も聖書も全く知らない時に、私を愛して探してくださり、(人類ではない)私を捕らえてくださり、私の罪を担い、十字架にかかってくださった。
徹頭徹尾、この方の働きです。

ですから、5章の1節にこうありますよね。カメラに映します。
【画面:ガラテヤ5章1節全文にオレンジのハイライト】
1キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。……

というこの言葉――何からの自由か?
私を縛って虜にするものは沢山あります。
正しくキリスト者らしく生きようとして、様々な規則を作り上げて縛ってしまう、
努力を積み上げて、自分の価値を証明しようとしていた自分から解放されること。
あるいは、欲に縛られ、それを達成することに人生を賭けてきた愚かな罪深い自分から解放されること。
あるいは、孤独や怒りに縛られ、失望と自己嫌悪に縛られていた自分から、神の愛を見出して解放されること、ですね。
それがガラテヤの書簡のテーマである。

(※最初のポイントのおさらいする藤本牧師)
1)一番目はこのようにパウロの疑問に満ちていた。
どうしてそんなに簡単に落ちるんだ?
どうしてそんなに簡単に、昔の奴隷状態に戻りたいのか?
どうしてそんなに簡単に、あなたがたはかき乱されるのか?
僅かなイースト菌が自分の中に入って来た時に、人の目を気にし過ぎるというイースト菌を自分から除いてしまいなさい。
神があなたを見ているように、あなた自身をあなたは見なければいけない。

2)私たちにとっては、信仰以外にはない。

既に話してまいりましたけれども、(ガラテヤ)5章の5節を見ていただきたいと思うんですね。
【画面:ガラテヤ5章の5節、この言葉に私、ちょっと線を引くのを忘れましたね、と言いつつ、】
5私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。

「義とされる望みの実現」とは、この世界にあって義とされること。神の御前に立つことですね。神の子どもとされることです。
そして死んでこの世を去る時に、神の国の相続人として天国に迎えられる(望み)。
その実現を、私たちは「信仰により、御霊によって待ち望んでいる」という言葉。
「信仰により」というのは――私たちの側では「信仰による」以外にない。
「御霊によって」というのは――神の側では「聖霊の働き」による以外にない。
それしかない。それ以外にない。
《信仰というのは、イエス・キリストに繋がっていくこと》です。
イエス・キリストにとどまり続けることです。
イエス・キリストに従って歩んでいくことです。
《神の側にあっては、このことを実現させるのは、聖霊による》以外にない。
私たちの様々な労苦、信仰生涯の働きによるのではない。聖霊による以外にない。

これをちょっと見ていただきたいと思うんですね。
第二コリントの手紙というのは、ガラテヤの前にありますね。
その3章の15節から読んでいきます。
<Uコリント3:15〜18>
【画面:Uコリント3章15節全文に赤ペンで傍線、「彼らの心には覆いが掛かっています」に緑のハイライト】
15確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。

「心に覆いが掛かっている」というのは、世の価値観、出来映え主義、旧約聖書の人々であれば、モーセの律法によって、心に覆いが掛かっている。
その覆いを取り除けるですよね、ですから、16節に――

【画面:Uコリント3章16節「人が主に立ち返るなら」に赤ペンで囲み。「いつでもその覆いは除かれます」に緑のハイライト】
16しかし、人が主に立ち返るなら(***以前の訳ですと、人が主に向くなら、主イエス・キリストの十字架に向くなら、と説明)、いつでもその覆いは除かれます。

するとですね――(※17節に進む)
【画面:Uコリント3章17節「主は御霊です」に緑のハイライト】
17主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
(***自由に人の評価、出来映え主義から解放されて、と説明し18節へ)

【画面:Uコリント3章18節「覆いを取り除かれた顔に」と「主の栄光を映しつつ」に緑のハイライト。「鏡のように」と「栄光から〜変えられていきます」に黄色のハイライト】
18私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。(※そして最後に、と説明)これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と書いてあるでしょう。ね。
「覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ」というのは、私たちの顔が光り輝くエネルギーを持っているわけではない。
私たちが主イエス・キリストに向く時に、私たちは主の光を、主の栄光を、主の愛を、主の平安を、映し出すことができる、鏡のように、ですね。

試練の中でものすごく考えますよね?どういう風にしたら、私たちは平安に満たされるのだろうかと。
主イエスの弟子たちが湖の上で翻弄され、前に漕いでも漕いでも前に進まない。(***ルカ8:22〜25、マルコ4:35〜41)
そしてイエスさまに叱られますよね。
「信仰がないのはどうしたことだ。しっかりしなさい。わたしだ」と。(***マルコ6:50)
試練の船の中にはいつでもイエスさまが乗っておられる。

平安っていうのは、私たちの心の内側から湧いて上がって来るものではない、必ずしも。
私たちが主イエス・キリストに向く時に、
「しっかりしなさい。わたしだ」と言われる、その「わたしだ」と仰るイエス・キリストに向く時に、主の平安が私のたましいに映し出される。
平安を絞り出そうと、安心しよう、落ち着かせようと努力すればするほど、私たちはがんじがらめになって行きますよね。
ですから、祈って神の働きに委ねるわけです。
自分の力でこの局面を脱しようとはしない。祈って神にゆだねて、神が働いてくださるのを待つ。

これは何といいますか、信仰生活の基本ですから、いやというほど聞かされているんですけれども、
私(藤本牧師)が注目したかったのは、このガラテヤの5章の5節にあるようにね、
《私たちの側では信仰による》んですね。
そして《神の側では、聖霊の働きによる》んですね。
ですから、《私たちが主イエス・キリストに向いて入れば――というのは信仰をもって、自分の人生を主に開いていれば、聖霊は必ず私たちに事を為してくださる》
ということを覚えておかなければなりません。   

3)そのような信仰は、じっとしていない。

もう一度ガラテヤ5章(6節)に戻っていただいて――こういう風に表現されています。
【画面:ガラテヤ5章6節「愛によって働く信仰」に緑のハイライト】
6キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

「割礼を受ける受けないではなく」はもう除いてしまっていいと思います。
「キリスト・イエスにあって大事なのは、愛によって働く信仰なのです」というこの言葉で、これから先5章の残りと6章を学んでいきます。
つまり5章と6章の総括的な言葉が「愛によって働く信仰」なのですね。
注目していただきたい言葉は「働く」という言葉です。
ギリシャ語ではエネルゲオという動詞なんですけれども、ここからエネルギーという。
エネルギーです。つまり信仰というのは、エネルギーを持っている。
勿論、それは生きた信仰です。
逆に言えば、死んだ信仰というのは、口だけの信仰でエネルギーは宿していない。

生ける神に対する、生ける私たちの信仰というのはものすごく大事で、その生きた信仰にはエネルギーがある。
そしてエネルギーは「愛」という方向性に発露を見出す。
「愛」という方向性に、エネルギーが働き出る発露を見出していくというのが、ガラテヤ書の5章の後半から6章にかけてのメインのお話になります。

信仰が主イエスに向くというのは、十字架のキリストに向くというのは、
「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子」(ガラテヤ2:20)を信仰が捕らえるんですね。

【<ガラテヤ2:20>
20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。】

すると、信仰はその後漫然と生きているわけではない。
その信仰は喜びと感謝に溢れて、愛に生きるようなエネルギーを、信仰は内に宿すようになる。

以前教会の壮年会のOさんに、真珠湾攻撃のゼロ戦の攻撃隊長でありました淵田美津雄(ふちだ・みつお)さんのことを教えていただきました。
真珠湾攻撃のゼロ戦の隊長ですよね。彼は日本に帰って来て英雄になります。
しかし、終戦後に戦争裁判にも立たされます。
その戦争裁判が一方的な勝った側の、つまり連合軍の側の裁判であったことに憤りを覚えて、アメリカの悪を何とか証明しようと考えます。
彼はアメリカに捕えられていた日本人捕虜から、一体どんな扱いを向こうで受けていたのか、聞き取り調査を開始いたしますね。

ところが日本人捕虜の口から語られたのは、マーガレット・コヴェルという捕虜収容所で働くアメリカ人女性の話ばかりでありました。
マーガレットの両親は、フィリピンに派遣されていた宣教師で、日本軍からスパイの容疑をかけられて、処刑されます。
両親は、死ぬ前に30分の猶予を願い出て、その間に聖書を開いて、神への祈りを奉げたそうです。
それをアメリカで聞かされた娘のマーガレットは、両親の姿を覚えながら、ユタ州で日本人捕虜の収容所で献身的に世話をすることが、自分の残された使命だと考えます。
両親の最後の祈りに応える。そこで彼女は日本人捕虜の収容所に行って、献身的に日本人軍人のために尽くすわけですね。

それを帰国した日本人捕虜の人たちはみんな感謝していたと。
淵田さんはそのことを聞いて、こう記しています。
「美しい行為だと思った。私は、アメリカ人の悪を暴こうと、捕虜問題を探し回った自分を恥ずかしく思った。(やはり、憎しみに終止符を打たねばならぬ。)」

それから淵田さんも、聖書を求めて、あちこち読み探り始めます。
ルカの福音書の23章の34節に、淵田さんは目が留まります。
それは十字架にかけられたイエス・キリストが、こう仰った場面ですよね。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
「父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり」(文語訳)
そのキリストの姿、キリストの言葉に、淵田さんは心を打たれます。
そしてユタ州の女性のことを思い出し、淵田さんもまたクリスチャンになり、そして神の愛、キリストの十字架を伝える伝道者になっていきます。

いいですか。まるでパウロがダマスカスに向かっていた途中、復活のイエスと出会ったかのように、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」と。(***使徒9:4、22:7、26:14)
一生懸命に自分の正当性を貫こうとしながら、実は神に背を向けていたということに気がつきました。
それだけではないですね。キリストに現された、自己犠牲的な愛に生きている人のことを知るようになる。パウロも淵田さんも。
でもそれだけではないです。自分のしてきたことが愚かであるにもかかわらず、「父よ、赦し給え」と(十字架で)祈ってくださったイエスの言葉に捕らえられるようになる。
その言葉に捕らえられた淵田さんは信仰者になった。
その信仰はエネルギーに満ちていた。感謝と喜びと賛美と愛というエネルギーに満ちていて、エネルギーに溢れている信仰は働き出します。
自分の存在の価値のためではない。神の愛を伝えるためにエネルギーを発していく。
それが信仰の神髄であるということをちょっと心に留めて、これから先、共にまた学んでいきたいと思います。

☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちはとても愚かであります。ちょっとしたパン種にすぐに全体が膨らみ、過去の自分の失敗に引きずられ、まさに十字架から入ったのはいいですが、いつの間にか様々なものに縛られて奴隷となっていく自分。

しかしキリストは、私たちを自由にするために十字架にかかってくださり、私たちを解放してくださった。病という縛りからも、弱さという縛りからも、不安という縛りからも私たちは解放された者であるということを覚えることができますように。

でもそれを覚えた途端に、そのようなキリストを信じた信仰はエネルギーに溢れると、どうか生きて働く信仰に、私たちもまたあずかることができるようにお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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DATE: 2021.06.27 - 20:53
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