☆聖書箇所 マタイ22:1〜14 1イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。 2「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。 3王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。 4それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』 5ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、 6残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。 7王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。 8それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。 9だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』 10しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。 11王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。 12王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。 13そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりをすることになる。』 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」
☆説教 洗礼式・聖餐式:神の招きに応える 今日の説教の箇所は、昨年の棕櫚の聖日で開いたのと同じ聖書の箇所です。 洗礼式と聖餐式を一緒にしようと思った時に、私の頭にはこの聖書の箇所以外、心に巡ることがなかったので(笑)お赦しいただきたいと思います。 少し昨年とは話のポイントは変えていきます。
小学校の頃を振り返って、強烈に印象に残っているシーンというのがあります。頭から離れないですね。 それは大山街道から細い道を奥に入った所に、小学校の裏門があるわけですけれども、それが私たちの通学路でありました。 大山街道から細い道を入る所、その曲がり角に魚屋がありまして、その魚屋が時折、狭い通学時に炭火をざぁ〜っと起こして、そして一列に鉄の串に刺した尾頭付きの鯛を焼くんですよね。 それはそれは、(※少年のように、美味しそうに見えた鯛を描写する藤本牧師)串にうねるように刺された尾頭付きのピンクの鯛ですよね(笑)。 そしてそれが、その下で香ばしく焼ける炭火の色、ひれに付いた塩加減とか(笑)ですね、よく分からないんですけれども、焼かれる度にそこで立ちすくんで、じ〜っとそれを見てしまうんですね。
ある日、母に「あれはいったい何なんだ?」と尋ねたことがありました。 「あれはね、尾頭付きの鯛と言って、結婚式のお土産に色んなご飯と一緒に付いて来る。普通は食べられない。売っていない」という話でありました。 それからしばらくして、父が結婚式に招かれまして、なるほど引き出物の中にお弁当がありまして、(尾頭付きの鯛が)入っていました。 冷えている尾頭付きの鯛です。でもなるほど、うねっていました。そして塩が降ってあって、冷えていても、あ、こんなに美味しいんだなと実感いたしました。 そしてその時に思いました。 お土産のお弁当でさえこんなに美味しいんだったら、どれ程豪華な食事が結婚式の披露宴に出るんだろうと(笑)。
当時を振り返りますと、一番豪華な食事というのは、やっぱり結婚式の披露宴の食事だっただろうと思います。 それは今でも変わらないと思いますね。凝った招待状が届いて、皆さん着飾って、おめでたい喜びの宴席に集う。 それは時が変わっても、文化が変わっても、やはり同じなんだろうと思います。
いいですか。そう考えますと、イエスさまが仰った22章の2節ですね。 ちょっと映しますね。【画面は出ない】 <マタイ22:2> 2天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。
というのは、すばらしい聖書の箇所ですね。 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができる」(※と、もう一度繰り返して読む牧師) これはイエス・キリストの花嫁となる私たち(教会)を含めて、この宴席に招かれているということなんですね。
1)人生最大の招待は、神から来る。
皆さん、これまでに様々な招待状をお受け取りになりましたでしょう。 でも人生最大の招待状は神から来る、です。 神さまは招かれる神です。神さまは私たちを(invite)招く。私たちを(call)召す。 神の恵みに入る。天国に召される。招かれる、呼ばれる。
神さまはアダムとエバを招いて、召して、二人を結び合わせられました。 神さまは ノアの洪水にあって、動物たちをみな箱舟の中に招かれました。 ダビデは王として招かれました。 漁師であったペテロに、「わたしについて来なさい」とイエスさまは招いてくださいました。
教会というのは、ギリシャ語でエクレシアです。それは呼び出された者、招かれて呼び出された人々という意味であります。 礼拝を始める前に、「礼拝への招きの言葉」というのがあります。 今日も戸塚先生が言葉を語ってくださいました。 これは基本的に神さまご自身が、あるいはイエスさまご自身が、私たちを招いてくださる言葉を指しています。 <イザヤ55:1> 1 「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。…… <マタイ11:28> 28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
しかも単なる祝福の招きではないです。 それは最上の食事、結婚式の披露宴のような喜び・輝き・希望・特権に満ちた、人生最大の祝福へと私たちは招かれています。
聖書を見てください。(マタイ22章)4節にこうありますね。 【画面:マタイ22章4節の前後。2節「天の御国は」「たとえることが」に緑のハイライト。3節「招待した客」に黒ペンで囲み。「来ようとしなかった」に緑のハイライト。4節「私は食事を用意しました〜披露宴においでください」に緑の傍線。5節「気にもかけず」に緑のハイライト。「自分の畑に」「自分の商売に出て行き」に緑の傍線】
4それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』
何もかも主イエス・キリストが用意してくださった。準備整えて、主イエス・キリストは私たちを神の国へと招いていてくださる。
マタイの福音書では、見たらわかるようにここは22章です。 イエスさまは21章で、エルサレムに入っておられます。 つまり十字架にかかるその週に、イエスさまは、これまでのご自身の働きを全部総括するかのように、このたとえを話された。 《神はすべてわたしが整える祝福の中へと、あなたがたを招かれる》というんですね。
2)招きは、強制ではない。
招待という限り、そこに強制力はありません。 主は私たちにその選択を任されます。 「来なさい」と言う時に、主の招きに私たちがどう答えるかは、私たちが選べることです。
私には選べないことが沢山あります。 どんな家庭に生まれるのか、どんな時代でどんな人生を過ごしていくのか、どんな背景に育つのか。 しかし神の招きには応えることができるんです。それを退けることもできるでしょう。
他に選べることは沢山あります。 どの会社に就職するのか、どこに住むのか、何を買うのか、誰と結婚するのか、結婚しないのか。 しかし、それに優る所の人生最大の選択――それが神の招き。 祝福の婚礼への招きに応じるか、あるいはそれを断るか。断って自分の好きな道に生き続けるか、です。 その選択によって、私たちの人生の土台も、目的も、方向もすべて変わって行き、 やがて人生の永遠を決する部分が決まって行きます。
●ここに意図的に断った人たちが出てまいります――(マタイ22章)5節を見てください。 【画面:マタイ22章5節「気にもかけず」に緑のハイライト。「自分の畑に」「自分の商売に出て行き」に緑の傍線。】 5ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、
「気にもかけない」という表現。 突然神さまからの招待状が日常生活に届きました。 やっぱり戸惑うんだろうと思います。 でも、ルカの福音書はさらに詳しく、(***ルカ14:17〜20)断った理由が書いてあります。 「畑を買ったので、見に行かなければなりません」とか、 「十頭の牛を買ったので、それを試しに行くところです」とか 「結婚したので、行くことができません」とか。 どれも奇妙な理由ではありますけれども、どれも日常的な必要を例に上げて、(神の招きを)断っているんですよ。
日常的な必要のために、王によって招かれている婚礼の祝宴という最大の人生のイベントに背を向けていく私たちというのは、 神の招待に気にもかけない、相手にもしない、愚かな私たちであります。 神の招きに、イエス・キリストの十字架の祝福に、神の平安にも、永遠のいのちにも、背を向ける傾向というのは、私たちにもある。 それは日常生活にとっぷりと埋って、十頭の牛を買った、自分は結婚した、新しい転機が今来ている、だから神さまへの信仰は次回ということですね(笑)。
それどころか、(マタイ22章)6節をご覧ください、 【画面:マタイ22章6節「王のしもべたちを〜殺してしまった」に緑の傍線】 6残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。
ということは、なんと敵対する者たちも出て来る。 それはキリスト教の歴史を見たら、よく分かると思います。 神さまはそのような私たちを何と仰るのか?ここに書いてありますね。 【画面:マタイ22章8節「ふさわしくなかった」に緑のハイライト。8節を指で押さえて読みながら) 「招待した人たちはふさわしくなかった」と。 「わたしは招待したんだけれども、所詮この最大の祝福にはふさわしくなかった」 神さまからそのように言われてしまうことは大変残念であります。 で、文脈から考えると、これは旧約聖書の人々を指しています。イエスさまを退けた人々ですね。
●するとですね、招待は幅を広げていきます。 (※旧約聖書の民を超えて、招きはすべての人に)9節―― 【画面:マタイ22章9節「出会った人をみな」に緑のハイライトと黒ペンの囲み。「披露宴に招きなさい」に緑の傍線】 9だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』
いいですか。この「この出会った人をみな」というのは、次の節にも出て来ます。 【画面:マタイ22章10節「良い人でも悪い人でも出会った人をみな」に黒ペンの囲み】 10しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。
ここに私たちが含まれているわけです。 ところが11節を見てください。 【画面:マタイ22章11節「礼服を着ていない人が一人いた」に緑のハイライト】 11王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。
この「一人」というものの言い方は恐らく「もしかしたら、あなたかも知れない」という迫りを込めた意味での一人なんですね。 でも沢山いたと私(藤本牧師)は思います。沢山いた。 大通りから「よい人でも悪い人でも」(出会った人を)みんな集めてくると、ま、よい人だけが婚礼の服を着ていたわけではない。 むしろ良い人の方が婚礼の礼服を着ていなかったかも知れない。「自分はよい人だ」という概念が自分の内側にありますから。 却って悪い人の方が(笑)――王さまから招きが来た。王子の婚礼の祝宴に招かれた――急いでベストの着飾りをして出かけて行った可能性も十分にあります。
でも「一人だ」と言う時に、私たちは皆それは誰か他の人とは思わない。 それは「もしかしたら今の自分がそうなのかもしれない」という意味で、 イエスさまは礼服を着ていない私たちにフォーカスを当てる意味で、「一人だ」という表現をされているのだと思います。
先に断った人たちと同じですね。 なぜ礼服を着て来なかったのか? それはありがたい招きとも、特別な食事だとも、そこに払われて来た犠牲も、招いてくださった方の思いも、(※右手を大きく振り)何も理解していない。 「ひとつ食事にあずかってみたい」と思って出かけて来たのですね。
神の祝福にあずかる時に、私たちは何も気にかけずに出かけることはできないです。 今日聖餐式に私たちが侍る時に、皆さんオンラインの方、用意してくださいね。 パンがなければご飯で結構です。ぶどうジュースもワインもなければ、お水で結構です。 神さまはそれをきよめて用いてくださいます。 でも次回からは「聖餐式がありますよ」と申し上げたら、必ず忘れずにご用意いただきたいと思います。 何にも気にかけない、というのはあり得ないです。
私たちは所詮事前に招待状が届いていた者たちではない。 大通りを普通に歩いていて、いきなり声をかけられ、そして「来るか来ないかはあなたの自由ですが、わたしは確かにあなたをお招きしましたよ」というその招きに応えて、 王宮に入って来た時に、それなりに心を整えて、備えてくださるイエスさま、神さまの恵みに感謝してここに出席すべきですね。
3)最後にこの聖句に心を留めて終わりにしたいと思います。 今日はこの聖句がとっても印象深いです。14節。 【画面:マタイ22章14節「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」に緑のハイライト。「選ばれる」に黒ペンで囲みと余白に「特別な存在になっていく」という自筆の文字】 14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」
どういう意味か?これを今日は共に考えたいと思います。 神が招く神である限り、祝福への招きは実に幅を広げていきます。それはものすごい勢いで幅を広げていきます。 私たちがオリーブのコンサートをここでして、皆さんを招く時に、「どんな方でもお出でください」と招きますよね。
昔は特別伝道集会というのがありまして、説教中心の伝道講演会でありました。 で、神学生が私たち神学校に近いですから応援に行きますと、神学生は言われるんですね。 「どんな人でもいいから連れて来なさい」と(笑)。 それで連れて来られたのがWさんでいらっしゃいますし(笑)、 中には神学生が酔っぱらいを連れて来る(笑)という場合もあって、途中でざわついて帰っていただくという時もありました。 でも、どんな人でも招きに応じるなら、いらっしゃることができるんですよね。
神が招く神である限りにおいて、招きへの幅は広がっていく。 神に選ばれたという旧約聖書の民から、やがて大通りにいる良い人も悪い人も、立派な人も貧しい人も、真っ直ぐな人も曲がって生きて来た人も、選びの幅は――繰り返して言われます――「出会った人は皆、だれでもいらっしゃい」。 その中に私たちは入っているんですね。
神の御国への招待は、限られた人、特別な人に差し出されているのではない。 でも真実に招きに応える人は多くはいない。それは少ないんですね。 結果として、その人たちは、選ばれている人になる。 結果として、その人たちは「選ばれている」つまり「特別な存在」になる。 招待状は、選ばれて発送しているわけではないんですよ。 招きには皆応えることができる、という意味で、神さまは招きを私たちに広げておられる。 でもそれに真実に応えるか否かは、実に限られていて、私たちはぜひその限られている中に入りたい。
ですから今日、Sさんは洗礼をお受けになります。ですから私たちは今日、聖餐にあずかります。 私たちは選ばれたから、ここにいるのではないです。 いいですか。招きはすべての人に及び、私たちはその招きに応えたから、ここにいるんです。 そして応えてここにいる私たちは、「選ばれた人」つまり「特別な存在」になっていく。 それは神さまの祝福は特別である。神さまの御守りも神さまの導きも特別な形で私たちに注がれる、という意味で、 神は主イエス・キリストと同じように、私たちをどんな絶望の淵からも引き上げ、復活を与えてくださり、私たちにいのちを注いでくださり、天の御国をイエス・キリストと共に相続する者とさせてくださる、という「特別な存在」に共になろうではありませんか。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、確かにあなたの招きはこの世界全体に及ぶまでに至りました。あまりにも招きが広がり、良い人でも悪い人でも招かれているので、私たちも何の気なしに、何の緊張も、何の感謝も、何の喜びもなしに聖餐にあずかっているとしたならば、礼服を着てない自分を見て恥じ入ることができますように。そして今直ぐに感謝と喜びと悔い改めの礼服に着替え、あなたの祝宴にあずかるのにふさわしい心に整えてください。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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