☆聖書箇所 ガラテヤ5:13〜15 13兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。 14律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。 15気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。
☆説教 ガラテヤ(20)律法は愛によって全うされる 今朝はまた緊急事態宣言になりましたので、心の友キリスト教会並びに私たちの教会の礼拝に合流しておられる教会もあると思います。それぞれの教会を大切にされ、またこのようにしてオンラインでありますけれども、私たちと共に礼拝できる恵みを心から感謝しています。暑さに気をつけてください。
ガラテヤの学びを続けてまいりました。 先週は(ガラテヤ)5章の6節を見ていただきました。 5章の6節をちょっと映しますね。上の段と下の段に分かれていますので見難いですが、この最後ですね。 【画面:ガラテヤ5章6節「愛によって働く信仰」に緑のハイライト】 <ガラテヤ5:6> 6キリスト・イエスにあって大事なのは、(※割礼を受ける受けないではなく、は省かれる)愛によって働く信仰なのです。
「信仰」という言葉の中には、「神の真実」という意味も含まれている、と申し上げました。 「神の真実」によって、私たちのいのちを贖うために、父なる神は御子イエス・キリストをこの世界に送ってくださり、キリストは私たちの罪を背負って十字架にかかってくださった。 そのことを私のための出来事として受け止める――そのことによってのみ――「その信仰」によってのみ、私たちは神の御前に立つことができる。 というお話をずっとしてまいりました。
神の国におけるいのちは、このイエス・キリストに繋がっていること。 しかしイエス・キリストに繋がっている時に、その信仰は――先週申し上げました――愛によって働き出ると。 だから(ガラテヤ)5章の6節にあります――「大事なのは愛によって働く信仰」です。 この言葉の意味を先週少しお話ししましたね。
信仰がそのエネルギーを、そのいのちを発散する時に、必ず愛に向かうというお話をいたしました。 その延長線上で、今日のこの13節を見ていただきたいと思います。 画面をちょっと見ていただきます? 【画面:ガラテヤ5章13節「ただ、その自由を〜仕え合いなさい」に緑のハイライト】 13兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。
「肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」 私たちは自分の存在価値を証明しなければならないという律法主義から、そういう努力から自由にされた。 あるがままに、神さまは私たちを愛し、受け入れてくださった。
だとしたら、その自分の存在価値を証明しなければいけない、という価値観、努力、目標から自由にされた。 自由にされた――だからと言って――それを肉の働く機会に用いないように。
1)「肉の働く機会とする」とは、いったいどういうことか?
それは15節に書いてあります。ここですね。 【画面:ガラテヤ5章15節を指で押さえながら読む】 15気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。
というのは、私たちの自由を自分のために用いて、互いにかみつき合ったり、食い合ったりしてはいけません――これが肉の働きですね。
以前、ピリピの手紙を学びました時に、ユウオディアとシンティケという二人の女性についてパウロが記している箇所を学びました。 今ガラテヤですが、その少し先にエペソ、その少し先にピリピがあります。 ピリピの4章の2節をいま映しますので見てくださいね。 ここにこういう風にございます。 【画面:ピリピ4章2節<ユウオディアに勧め〜シンティケに勧めます>に赤ペンで< >で閉じる。「私と一緒に戦ったのです」に赤ペンで傍線】 <ピリピ4:2〜3> 2ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。 3(※飛ばしますね、と言って……)この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。
福音のために私と一緒に戦ったのが、ユウオディアとシンティケなんですね。 ピリピの教会は、パウロの伝道によって、一番最初に福音を信じたリディアという女性、そしてこのユウオディア、シンティケのような女性が非常に活躍していた教会です。 ですから、パウロは彼らはずっと私と共に福音のために犠牲を払いながら、大きな働きをして来たと。 ところがですね、2節に勧められているように、「主にあって同じ思いになってください」というお勧めがあるということは、現状二人は不仲であるということですね。 どこかで(二人は)すれ違ってしまった。
不仲になってしまった理由は、別に神学的な論争ではなかっただろうと思います。 もし神学的な論争であったのならば、パウロは一言進むべき方向、考え方を記していると思うんですね。 何にも書いてないということは、恐らく不仲になってしまった理由は、些細なことであるのか、人間的なことであったに違いないと思います。
言うまでもありません。そんなことは普通なんですね。 私たちは誰もが同じ背景で、同じ性格・気質で、同じような仲良しではありません。 教会には全然違うタイプの方々が集まっています。 自己主張の明確な方もいれば、あまり自分のことを話さない方もいらっしゃいます。 キリスト教に詳しい方もいらっしゃれば、ふっと教会に立ち寄ってみた方もいらっしゃいます。 それっていうのは、一般社会と全く同じですよね。
でも教会が教会であるのは、どんなに互いに違いがあるとしても、ピリピ4:2のように、「主にあって同じ思いになってください」――キリストにあって、同じ思いになる。 どんなに、境遇、性格、状況、気質が違っていたとしても、「主にあって」という言葉に結ばれていくわけですね。
私たちは誰もが大きな木の太い幹であるキリストに接ぎ木された、諸々の枝葉に過ぎません。 出身も違えば、性格も違う。能力も違えば、貢献の仕方も違います。 しかし、その違いが争いにはならない。 「ああ、ほんとにあの人と私とは違うな」ということが、互いに食い合うような争いの種にはならない。 絶対そういう互いの考え方の違い、時には信仰の違いが、批判の種にならないように気をつけなさい。
ガラテヤの5章の15節で、パウロの言葉は「気をつけなさい」という言葉になっていますよね? 気をつけていないと、この世の中一般で私たちが普通に日常的に経験していることが、教会の中に入ることによって、互いに食い合ってしまう。 だとしたら、たとえキリストの教会であったとしても、「互いの間で滅ぼされてしまいます」という風に、(ガラテヤ5:15で)パウロは言っています。
実は、私たちはそういう現実を嫌という程知っているんですよ。 いいですか。そういう現実というのは、そういう現実によって、分裂してしまった教会も嫌という程知っていますし、 そういう現実によって、「あ、この教会には自分の居場所はないな」と判断されて、教会を去って行った方も沢山おられることを、私たちはよく知っています。
ですからパウロがガラテヤの教会だけでなく、ピリピの教会だけでなく、高津の教会に対しても、「気をつけなさい」(ガラテヤ5:15)と言う。 私たちが持っている自由さ加減――つまり教会に来た時に、私たちを同じ型に当てはめるような規律がないですよね。 規律がないと、ついつい自分の有り様を自由に出しますよね(笑)。 藤本満は藤本満でしかない(笑)。 で、私は自分自身を、そんなに遠慮なく出していると思います。 で、どなたかがそれを我慢しておられると思うんです。ま、家内が典型だろうと思いますけれども(笑)、我慢しているんですよね。 こういう違いを、教会の中に持って来て、教会の働きや、教会の方向性や、教会のあり方で戦わせると、それは互いの違いによって、肉の働く機会が生まれ、互いにかみつくことが必ず出て来るわけですね。 「主にあって同じ思いになる」というのは、強い者も弱い者も、主張のある者も主張を受け止める側も、どんな立場の人も互いに配慮しながら、 《その違いが決して肉の働く機会にならないように気をつけなさい》ですね。
パウロはその上で愛を説いています。 2)その愛について見るならば、先ず「信仰は律法へとは向かわない、信仰というものは愛に向かうのだ」ということを、ずっと学んで来ました。
こういう風に考えると分かり易いです。 十字架の恵みによって救われた人は、御霊によって、聖霊によってキリストの生活を始めた人は、一体どのように生きるのですか?と。 神の御前にどのように生きるのでしょうか?と。 クリスチャンとはどのように生きる人なんですか?と。
ユダヤ教の人々にこの質問をすれば、彼らは間違いなくこう答えるわけですね。 神の御前に生きるとは、神の御心の現れである聖書の教えに従って忠実に生きる。 その聖書の教えという時には、旧約聖書の律法ですね。
ではクリスチャンが、神の御前に生きるとはどういうことですか?と問われますと、 実は多くのクリスチャンが、ユダヤ教の方々と同じように答えてしまうんですね。 キリスト者は、神の言葉である聖書の教えに従って生きる。 聖書の規範に従って生きる。
ところが2章を勉強した時に、申し上げましたでしょう。 パウロはそういう風には答えていないです。 (ガラテヤ)2章の20節を見てください。ここです。 【画面:ガラテヤ2:19〜20「生きる」に5か所黒ペンの囲み。19節「神に生きるために」20節「私が生きている」「キリストが私のうちに生きておられるのです」「生きているいのち」にオレンジ色のハイライト。20節「私を愛し〜によるのです」に黄緑のハイライトの記入された印象深い箇所】 <ガラテヤ2:20> 20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
というのは、一言で言えば、《神の愛に応えて生きているのです》ですね。 私のためにとてつもない愛を現してくださった、その愛に応えて、私は生きているのです。
パウロにとって聖書というのは、この時代まだ新約聖書はありませんから、旧約聖書でしょう。 イエス・キリストの教えは、様々な文書によって出回っているとは思いますけれども、 でもパウロはここで明確に、 《言葉によるのではない。私はキリストの霊に応えて、神の愛に応えて私は生きているんだ》と、(言い切ります)。 ガラテヤ(書)はずっとそういう風に教えていきますので、これから先も見ていただきたいと思うんですね。
「私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰による。」(ガラテヤ2:20) 《神の愛に応えて生きる》ということはですね、《規範に従って生きる》よりもランクが上になるんです。 律法に従って生きるというのは、単純に規則を守りながら生きるということですから、 これは小さな子どもでも割と簡単にできるのではないでしょうか? でも「大きな大きな神の愛に応えて生きるって、どういう生き方なんだろうか?」と言われますと、 これはあまりにも深く、これから共に学んでいきますけれども、私たちは先ず「神の愛」というものを知らなければいけない。
3)その神の愛とは、またほかの愛とは、どのようなものなのか?
ガラテヤの5章の13節と14節にこう出てまいりますね。 【画面ガラテヤ5章13節「ただ、その自由を〜仕え合いなさい」14節「律法全体は」「一つの言葉で全うされる」に緑のハイライト】 13……愛をもって互いに仕え合いなさい。 14律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。
律法のすべてが「隣人を愛する」という言葉で全うされる程、愛はすべてをカバーする。 この「愛」は、ギリシャ語ではアガペーなんです。 アガペーというのは、ギリシャ語で愛を表現する時の特別な言葉ですね。 それは専ら、神の愛を表現する言葉なんです。
ギリシャ語では代表的に3つの愛があります。 一つ目はエロスですね。決して嫌な意味ではなく、男女の恋愛を語る愛です。 エロスという愛はとっても尊い愛ですね。
ギリシャ語で二番目の愛はフィロスです。 これも尊い愛です。友情、兄弟愛、家族や友人を思う愛――それがフィロスです。
でもここでパウロが用いているアガペーは一体どういう意味を持っているのだろうか?ということをしっかり頭に留めて、これから先また一緒に学んでいきたいと思います。 一言で言いますと、これは《神の愛――愛する相手に、価値を作り出す愛》です。
ちょっと説明しますね。 自分がアガペーの愛をもって相手を愛すると、愛する相手に価値が生まれる。それがアガペーの愛です。
エゴが関わる愛は、愛する対象が自分にとって価値があるから愛しているのですよね。 そうですよね。恋愛(***エロス)もそうです。 愛する対象が自分にとって大変な価値があるから、私はこの人を愛する。 友情も兄弟愛も家族愛(***フィロス)も、この人の価値があるから、私はこの人を愛しているんです。
ところがアガペーというのは、神の愛というのは、対象の価値を考えないのです。 ですから私たちのような者たちが、神の愛の対象になる。 神さまが私たちを愛してくださると、私たちの価値が生まれる。 それが愛なんですね。
ロレーン・ハンスベリー(※米劇作家・公民権活動家1930〜1965 34歳で膵臓がんにより死亡)が、ブロードウェイのミュージカルとなった“A Raisin in the Sun”「日向の干しぶどう」という話を書いているんですね。 日本でもミュージカルになりました。 話はこうです。シカゴの貧民街に住む、黒人の家族を描いたドラマであります。
父親が死に、少々の保険金が下ります。 お母さんは長年の夢を、この悲しみの代償で実現しようと考えるわけですね。 何とかしてもうぼろぼろのアパートから出て、庭のついた小さな家をシカゴの大都会の一区画に設けたいと。
ところが、時はちょうど息子が仕事を始めようと、そしてどうしても資金を必要としているというその時と同じでありました。 息子は友人たちと一緒に事業を始めようと、その誘いに乗って、普段グダグダしていた生活から立ち上がり、ようやくやる気になって来た。
で、息子は事業を何とか成功させて、一人残されたお母さんに楽な暮らしをさせたいという思いでいっぱいなんですね。 お母さんに資金を少しばかり融通してほしいと、涙ながらに訴えます。 勿論お母さんはすぐには「うん」とは言いません。 しかし、彼の熱意に負けます。 息子が人生を賭けているのに、それを潰すことはできないと、そして保険金の半分を彼の手に与えます。
しかし実際は喜びも束の間ですね。 仲間のリーダー格の人物はみんなの金を持って逃げてしまいます。 息子は唇をかみしめたまま、何も言いません。 まことに愚かでありました。 彼は奪われた金額を惜しむというよりも、父のいのちの代償、母の夢を砕いてしまった自分の愚かさに、言葉もなくじっと唇を噛み締めている。
そこに追い打ちをかけるように、姉さんは彼を責めます。 「おまえが、馬鹿だとは思っていた。でも、これほど馬鹿だとは分からなかった(※笑って、私たちもそう言うでしょう?と藤本牧師)。 家族が地獄からはい出ることのできる唯一の道を、父さんは備えてくださった。それをおまえは潰したんだよ。 母さんの信頼を裏切ったんだよ。死んだ父さんに何と言えばいいの? おまえの馬鹿さ加減は一生ものだよ。」
そう言い募る娘を、母親はたしなめます。 「私はおまえが弟を愛するように教えて来たつもりだよ。」 すると、姉は言い返しますね。 「愛するだって!こんな愚かな奴、愛すべきものなんか何一つ残ってない。」
「いいや、いつだって、愛すべき何かが残っているわ。 そんなことが分からないなら、あなたの方が愚か者ね。 あなたは彼のために涙を流したことがあるの? お金がなくなったとか、自分のためとか、家族のためとかでなくて、 おまえの弟のために、涙を流したことがあるの? あの子が今どんな屈辱を通っているのか、どんな挫折を味わっているのか、おまえには分かっているの?」と。
姉を諭して母親は続けます。 「人を愛するって、一体いつなんだと思うの? 全てがうまく行っている時に、人を愛するわけ? 愛するっていうのは――相手がどん底に叩き込まれて、人から見放されて、もう自分で自分を信じることができない――そんな時に愛して、初めて愛しているということになるんだよ。」
という話なんですね。 相手に価値があるからその人を愛するのは、アガペーの愛ではない。 むしろ全く価値がないと思われるような状況で――相手を愛するがゆえに、相手に価値が生まれていくような愛――それがアガペーだという時に、 何もドラマから(話を)引用して来る必要はないですね、まさに十字架の愛というのは、そのような愛です。 私に何の価値もないのに、主は私を愛し、私のためにご自身のいのちを投げ打ってくださった。 その主イエス・キリストの犠牲・愛を信じて、この方にいのちを賭け、この方に繋がることによって、私たちは信仰生涯というものを始めていったわけです。
パウロが言っているのは、であるがゆえに何とかエゴから解放されなさい。 エゴを守るために、相手にかみつく必要はないんです。 思いやりをもって相手を見なさい。 キリストは私と同じように、この人をも愛しておられる。 私のためにキリストはご自身をお捨てになった、としたならば、この方のためにもキリストはご自身をお捨てになった。 私を愛するのと同じように、キリストはこの方をも愛しておられる。
そういう思いをほんの少しでも抱くならば、律法全体のすべてが全うされて行くという。 律法全体のすべてを守ることが難しいとしたら、そういう愛に生きることはもっと難しいと思いますね。 でも私たちはその方向性に召されている、という思いを大切に心にしまっておき、 周囲の人々に噛みつかなくても、何とか思いやりが持てるような人になることができたら感謝であります。
☆お祈りをいたします—―藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、今日の礼拝を感謝いたします。一週間長雨で、また熱海の災害のような出来事もありました。どうか現地に於いて、あなたが御手を差し伸ばしてくださり、一生懸命救助に当たっておられる方々、避難しておられる方々をお守りください。
この年九州を初めとして、多くの雨が期待されることでありますが、どうか様々な危険からいつも私たちを守ってくださいますように、よろしくお願いいたします。何よりも暑さに負けぬ力を、また暑さに打ち勝つ知恵を私たちにお与えください。
愛を学びました。そして私たちは紛れもなくこの愛から程遠い者であります。しかしながら、あなたは今日もまた、私たちを同じ愛をもって愛していてくださる。どうかその愛に応えて生きるという、この高い志を私たちの心に植え付けてくださいますことをよろしくお願いいたします。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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