☆聖書箇所 ガラテヤ5:16〜26 16私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 17肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。 18御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。 19肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、 20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 21ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。 22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 23柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。 24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。 25私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。 26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。
☆説教 ガラテヤ(21)肉の人を十字架につける
今朝はガラテヤ人への手紙の(5章)16〜26節を読んでいただきました。 読んでいただきました5章の後半には、二つの大きな課題があります。 それが――ちょっと見せますね――最終的に24節と25節に要約されます。 これが対になっている部分ですね。 【画面:ガラテヤ5章24節〜26節。24節全文に緑のハイライト。25節「御霊によって〜進もうではありませんか」に緑のハイライト。26節全文にピンクの傍線】
<ガラテヤ5:24> 24キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。
これが一つです。 24節は上の(段の)16節から語られている肉の問題。 その肉を――ま、「肉」という表現なんですね――実際は「情欲や欲望」という具体的な例で上がってきますが、それを十字架につけたのです――これが一つの問題です。
もう一つは――25節に―― <ガラテヤ5:25> 25私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。
これが、キリスト者の生活の二本柱だと言っても過言ではありません。 信仰者の人生というのは、この表と裏があります。 「聖霊によって進む」というのが表であれば、その裏には、必ず「自分の肉を捨てる」という裏がなければなりません。
私(藤本牧師)は今回一回の説教で済ませようと思いましたけれども、やっぱり時間に限りがあります。 どうしても短めに話をしたいので、二回に分けます。 【※今日は「自分の肉を十字架につける」ということです。】
5章のパウロの表現では、この「肉」という言葉が何回か出てまいりますね。ちょっと聖書をもう一回見ていただきますね。 【画面:ガラテヤ5章16〜19節。16節「御霊によって歩みなさい」に緑のハイライト。「肉の欲望を満たすこと」にピンクの傍線。18節「御霊によって導かれている」に緑のハイライト。19節「肉のわざは」に緑のハイライト】
<ガラテヤ5:16〜19> 16私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。 17肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。 18御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。 19肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、
16節ここに「肉の欲望」とありますでしょう。 17節に「肉が望むことは」ってありますね。 19節「肉のわざは」、以前は「肉の行いは」でした。
パウロは(ガラテヤ5章)19〜21節に、それをかなり具体的に表します。 パウロは色んな箇所で、「罪のリスト」と一般的に呼ばれるリストを幾つも挙げています。 後に第一コリントを一緒に見ていただきますが、ガラテヤの手紙のリストはこうですね。 【画面:ガラテヤ5章19〜21節を指さしながら読む。19節「肉のわざは」に緑のハイライト。21節「神の国を相続できません」にピンクの傍線】
<ガラテヤ5:19〜21> 19肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、 20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 21ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。……
ま、リストは幾つもあるんでしょう。 で、ガラテヤのリストの特色としては、最初の三つ―― 「淫らな行い、汚れ、好色」――性的汚れです。 「偶像礼拝、魔術」――宗教的な罪ですね。 そしてそこから出て来る部分が長いです。 「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」――自己中心が原因で起こる人間関係のぶつかり合いです。最後に―― 「泥酔、遊興」――酒に飲まれて理性を喪失した姿が出てまいります。
ですから、ガラテヤ人への手紙では、圧倒的に言えば、これは人間関係の問題の源になる「自己中心・高ぶり」という問題になります。 3つのポイントに分けて話をいたします。
1)肉の問題には、《情欲》と《高慢(高ぶり)》が大きく二つに分けられる
アメリカの有名な神学者、アメリカの最初の神学者と言われています、ラインホールド・ニーバー(***1892〜1971自由主義神学者)という人は、 人の「罪」、人の「肉」の理解は、キリスト教の歴史の中で大きく二つに分かれて来た。
●一つはいま申し上げましたように、人の罪を《情欲》を中心に考えていく。 特にアレクサンドリアを中心としたギリシャ教父にそのような傾向が出てまいりました。 いいですか。そうした情欲を中心に起きていくキリスト教は、修道院を建てていきます。禁欲生活を求めるようになります。 東方の初代の教父で有名なオリゲネス(***185年頃〜254頃古代キリスト教神学者アレクサンドリア生まれ)という人物がいますけれども、これは事実は分かりません。しかし逸話で残っているのは、彼は自分自身を去勢いたします。 で、自分自身の身体を傷つけた、という意味で聖徒の仲間入りに入ることができなかったという記録がある程、 彼にとって「罪」と言った時に、これは自分の情欲から生まれて来る様々な問題でありました。
●もう一つの流れというのは、ラテン教父の中心的な人物、アウグスチヌスの考えで、それは人の肉の問題を、《傲慢さ・高慢》に置くというもの。
勿論「罪」と言う時、「肉の人」と言う時に、これは両方であります。 ガラテヤ人への手紙で、パウロは(5章)19節の「淫らな行い」あるいは、「好色」「汚れ」と言った時に、それは24節に「情欲と欲望をキリストとともに十字架につけなさい」(ということ)ですから、当然《情欲》の関係の肉の問題というのは、パウロも意識しています。 ところが、20節の「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、」(***21節の「ねたみ」まで)、むしろ人の《傲慢さ、あるいは高慢》ということが問題になります。
さて、注目に値します。 同じような肉のリストを、第一コリントから見ていただきたいと思います。 ガラテヤの手紙のほんの少し前、第一コリントの6章を見てください。 ここにTコリントの6章の罪のリストというのが出て来ます。 【画面:Tコリント6章9節〜10節。9節「神の国を相続できません」に緑のハイライト。「男娼となる者、男色をする者」に黒ペンの傍線。10節「神の国を相続することが」に緑のハイライト】
<Tコリント6:9〜10> 9あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、 (***「男娼となる」というのは、多分「自制心のない」という意味だろうと思いますね、と説明) 10盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。 【このリストは、より《情欲・欲望》に強調点が置かれています。】
これは必ずしも、「淫らな行い」に含まれるわけではないんですが、ちょっと見ていただきますと、(Tコリント)5章の1節に「淫らな行い」って出て来ますでしょう? 【画面:Tコリント5章1節「淫らな行い」「異邦人の間にもないほどの淫らな」に黒ペンの傍線】 それから(同5章の)10節に「この世の淫らな者」って出て来ますよね? 【画面:Tコリント5章10節「この世の淫らな者〜偶像を拝む者」に黒ペンの傍線】 ですから、《私たちの欲が――例えば成功欲であれ、自己承認欲であれ――それが度を過ぎていくと「淫らな者」になる》という、 このパウロの考え方というのは、「肉の人」の基本にあるという風に覚えていてください。
しかしながら、Tコリントにおいても、《情欲だとか欲望》ということを強調する点と共に、《高慢》という罪を強調した肉の問題を、パウロは扱っています。 今コリント5章を開いていただきました。もうちょっと戻って、今度は3章を開いていただけます? こうありますよ。やっぱり肉ですね。読んでいきますよ。 【画面:Tコリント3章1節〜4節。1節「兄弟たち〜御霊に属する人」に赤ペンで傍線。「肉に属する人」に緑のハイライトと赤で囲み。3節・1行目「肉の人だから」3行目「肉の人であり」に緑のハイライト。4節・上部を緑のハイライトで括る。「ただの人」に赤ペンで囲み】
<Tコリント3:1〜4> 1兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。 2……(***2節を飛ばす) 3あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。 (***で、具体的に、と説明して続けて読む) 4ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。
という風に、「教会の中で分裂・分派を起こすのは、肉に属する私たちが起こしていく」とパウロは述べているわけですね。
さて、一体どういうことでありましょうか? 「自分はパウロにつく」「自分はアポロにつく」と言っているとすれば、あなたがたはただの人に過ぎない。 どういうことか?――それは聞いている者たちが、審判者となって、説教をする者を評価しているということですね。 自分はアポロの説教の方がよかった。いや、自分はパウロの説教の方がいい、ということでしょう? そうしますと、この延長線で、肉の人の《高慢》は、4章の6節をちょっと見ていただきます?ここへ行きます。 【画面は出されず、右側にセットされたタブレットを見ながら読みつつ説明】
<Tコリント4:6〜7> 6兄弟たち。私はあなたがたのために、私自身とアポロに当てはめて、以上のことを述べてきました。それは、私たちの例から、「書かれていることを越えない」ことをあなたがたが学ぶため、そして、一方にくみし他方に反対して思い上がることのないようにするためです。 7いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
6節の最後に――「そして、一方にくみし他方に反対して思い上がることのないようにするためです」。 あなたがたは一方にくみし他方に反対して思い上がっている。そしてあなたがたは、一体だれがあなたがたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか? いつの間にか、語る者よりも聞いている者の方が高ぶっている(笑)という現実というのが無いわけではないと思います。 そこで、私(藤本牧師)は全国の牧師を代表して(笑)、「そういう風にならないようによろしくお願いします」(笑)と言うのが、今日の実はメインの課題なんです。いいですか。
私(藤本牧師)、今年教職試験を受けておられる先生方の研修を担当しています。 Zoom ですので、割と簡単にできるんですが、先日皆さんがお話をしておられました。 多くの教会がオンラインになって、そしてもうコロナは二年目になります。 すると信徒の方々はオンラインで色んな教会をショッピングするようになったと。 信徒の方々に聞くと、それはそれは多くの教会をショッピングできるようになった。 以前ですと、ここに来なければいけないですので、大体礼拝の時間が決まってますから、よその教会に行くとなったら、ここの教会を欠席しなければいけない。
でも高津教会を、見てください。Oさんが後に牧会報告をカットした部分、説教の部分だけを上げておいてくださいますでしょう。 そうしますと、それを後に観ることができるんですよ。これは勿論、高津教会としては、ずっとこうして行くつもりです。 日曜日のこの時間にお仕事のある方は、別に高津教会員だけではない。 他に沢山のクリスチャンがいらっしゃるはずです。 他に教会の時間に、外に出られない方もいらっしゃるはずです。 ですからどんな方のためにも、日曜日の礼拝は、後の時にも観るように残しておきたいと思います。
でも配信しておられる方が、以前ちょっと興味深いことを仰いました。 配信側としては、今のYouTube に一体何人視聴しているかが出るんですよね。 しかもスマホで観ているのか、パソコンで観ているのかその区別も出るという風に私は伺いました。 で、「割と多いのが、そろそろ終わりかな、という時にドドッと入って来る」(笑)と仰っておられました。 そろそろ終わりの時間かな、というのは11時半過ぎた辺りでしょう。その頃にどっと視聴者が増えて来る。 私(藤本牧師)は直感的に、「ああ、なるほど。その頃に、休日だから皆さんお目覚めになって、礼拝にいらっしゃるのかな、ま、それはそれでいいかな?」という風に思いました。 ところが、配信しておられる方は、ちょっと違う見解がありまして、 自分の所の教会の礼拝が終わって、そして最後の方で高津に加わられる方もいらっしゃるんじゃないでしょうか?と。ああ、なるほどなぁと。
幾重にも恵まれるのは、私はいいと思います。 要するに、私たち牧師にとっても、教会にとっても、危機感というのがあるんですね。 それは信徒の方々が教会ショッピング(笑)というのを始めたら、果たしてうちに来てくださるだろうか?という危機感ですね。 私はその危機感も否定しないです。牧師はもっとそういう危機感を持つべきだろうと思います。 それは往々にして、いつも何も工夫しなくても安心して信徒の方々が来てくださる、というその横柄な思いをやっぱり私たちは砕いていかないといけないですね。(確かに!)
妻と一緒に溝ノ口や高津を歩いているだけで、私たちはそう思います。 それは美容室の隣に美容室ができるんです。歯医者の上に歯医者ができるんですね。 文具屋さんの前に文具屋さんができますでしょう? そこを見る度に、果たしてどちらが生き残って行くのか?ということを私たちは見ながらその通りを通るんですよね。 いつも家内と言うんですね。「教会がああでなくてよかったわ」と。 仮に、この通りにもう一つ教会ができたら(笑)、この教会は生き延びることができるんだろうかというのは、一つのチャレンジで、 私たちはいつも同じことを同じようにするのではなく、いつも新鮮に、力ある、喜び溢れる活動をしていない限り、やはり乗っ取られてしまいますね。
良くないのは、そのように教会ショッピングをしている内に、消費者主義的なメンタリティーというのが、私たちの内側にできてしまうんですよ。 つまり以前は、神の導きによって、私はこの教会に導かれた。自分の選択じゃないんです。 「神の導きによってこの教会に導かれた」というのには、神の深〜い摂理的な思いがある。 それを全部吹っ飛ばしてしまって、自分の好き好みで自分の教会を選ぶような、消費者主義的なメンタリティーで教会を選ぶということは、私は大反対であります。
●でも、覚えていただきたいこともあるんですね。 かつてイギリスの週刊誌に、ある時牧師が自分の思いをエッセーにして投稿を寄せました。 彼の投稿は「牧師にとって説教というのはとても重要で、その準備のために多大な時間を費やしている」。 彼はふと振り返って考えたんですね。 「私自身が教会に30年牧会して説教していて、多分自分が語った説教だけで3000をくだらない」と。
ある時、考えてみた。「その3000の中でどの説教が一番良かったか?自分自身も感動し、人々にも感動を与えることができたのは一体どの説教だったのか?」考えてみた。 すると結論が出て来た。3000以上ある説教の中で、そのようにして思い出せるものは一つもなかった。 何一つ、鋭い印象で覚えているものはなかった。
そのエッセーを出して以来、投書の嵐だったそうです。 その先生の仰ってることに同情する、あるいは同感する人物、その先生の仰っていることに反対する人物、様々な議論が飛び交った。
最後に決着をつけた投稿があった。その投稿がこうですね。 「さて、私は30年結婚しています。 おおよそ3万2850回、妻の手料理を食べて来ました。 ある日、考えてみました。どの料理が一番印象深かったのか? すると、分かったのです。32850回の料理で、一つとして、これだ!というのはありませんでした(笑・きっとあったんだろうと思うんですけど、覚えていないんでしょう、とコメントを差し込む藤本牧師)。 でも同時に、確かに悟りました。この妻の食事がなかったら、私はとうの昔に飢え死にしていたという事実です。 私が今あるのは、妻の料理のおかげです。」 という投稿で、この論争は決着したというんですね。
教会にあっては、ある意味で、耐えていただかなければいけない時があると思います。 私(藤本牧師)も何度も潜って来ました。 さほど数のないレパートリーの中で、どうやったら毎週毎週、説教をまとめて行くんだろうか? 時には色んな主題の寄せ集めであった時もあります。 時には自分自身何を語っているのかよく分からずに、論理がぐじゃぐじゃで、後はもう最後の方のお祈りに委ねるしかない、ということも、これは頻繁にあります。
そういう中で、やれパウロの方が優れているとか、アポロの説教の方が力強いとか、そういう風に判断するあなたの方が高慢ではないかということ。 そういう判断の仕方、消費者メンタリティーで牧師をショッピングして歩く、教会の説教をつまみ食いするというのは、あなた自身の高慢なものの考え方ではないか? やがてそういうものの考え方は、私たちの内側に分派を作り、互いに裁き合い、そして私たちは自分自身を、人々を審判するかのような者の立場に置く「肉の人」に過ぎない。
Tコリントの4章7節にありましたね。 <Tコリント4:7> 7いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。……
そんな風に神のみことばを判断できるあなたなのですか?
ガラテヤ5章の26節ではこういう風になりますね。ちょっとそれは、映しますね。 【画面:ガラテヤ5章26節全部にピンクの傍線】最後ですが―― 26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。
どこかでそういうメンタリティーが私たちの中で成長していきますと、自分自身がうぬぼれていく、互いに挑み合う。妬みあったりするようになる。 そういうことに気をつけてください。
2)肉を十字架につけるとは、一言で言いますと、謙虚になることです。
語る者も聞く者も謙虚になる。 牧師の雑誌にユーモアが書いてありました。 「うちの教会の牧師先生が、謙虚であることが表されて、賞状をもらった。 ところが、教会員が皆して、その賞状を突き返して来た」というのですね。 「なぜなら、牧師がその賞状を額に入れて、教会のロビーに飾ろうとしたからだ」(笑)。
これは、もう嘘の話だろうと思いますけれども、よく分かりますね(笑)。 謙虚という賞状をもらった。それを額に入れて、牧師は教会のロビーに飾ろうとした。 だったらこの賞状は返却いたします、というのが、教会員の判断であった。
私たちは経済的なことも、学歴のことも、健康のことも、出会いも、機会も、みんな神さまからもらっているんですね。 自分で得たと思いながら、実はみんな神さまからもらっている。 先程の第一コリントにもう一回戻っていただきたいと思うんですが、 4章の7節に、「ああ、そうだなぁ」(※実感を込めて語る藤本牧師)という言葉があるんですね。 4章の7節です。この最後のところ。私ラインマーカーで引いて来ました。 【画面:Tコリント4章7節。「いったいだれが〜認めるのですか」に緑の傍線。「もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか」にピンクのハイライト】
<Tコリント4:7> 7いったいだれが、あなたをほかの人よりもすぐれていると認めるのですか。あなたには、何か、人からもらわなかったものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
「もしもらったのなら、もらっていないかのように誇るのですか?」と第一コリントの4章の7節ですね。 全部のことは神さまからいただいたものだ。 いや、これは神さまからいただいたものではない。自分自身が生まれ持っているもの、自分自身が育てたもの。自分自身が磨いたもの。これはもう私のものであるかのように、 どうして経済も学歴も、運動能力も、健康も財産も、成功も誇るのですか? それはみんな神さまからいただいたものではないのですか?
あなたの信仰も、その信仰によってイエス・キリストの救いにあずかったことも、恵みのもとに生きている生活も、それもすべて神さまからいただいたものではないのですか? つまり自分がもともと持っている、あるいは自分の力が獲得したというものは、何一つ持ってない。 それをあたかも自分で持っているかのように考えることは《高ぶり》です。 《謙遜という言葉のもとに、私たちは「肉の人」を十字架につけることができる》のです。
パウロの有名な言葉、自分の伝道生涯の最後に、エペソの人々をミレトの港に集めて、告別の説教をした時に、パウロは言いますね。 <使徒の働き20:19> 19私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。
あれがパウロの教会の人に残した最後の言葉だと思うと、「謙遜の限りを尽くす」というのは、どういうことなんだろうか? それは結局のところ、「今持っているすべては神さまから与えられたもので、自分の力で獲得したものは何一つない」――この思いが、私たちの「肉の人」を十字架につける行為なんだなぁということがよく分かります。
☆お祈りをして終わりにいたしましょう――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、私たちもあなたによって助けられて全力の努力をいたします。 私たちもあなたに祈りながら、多くのものを獲得して来ました。しかしいつの間にか、それらすべてを自分で得たかのように錯覚し、周囲を判断し、裁き、評価し、一体あなたは何者なんだと。折角救われた遜った人物であったにも関わらず、いつの間にか、傲慢な人間になっているとしたならば、私たちもまた「肉の人」です。
パウロはコリントの教会の人々にも、またガラテヤの教会の人々にも、「そうしたものをすべて十字架につけてしまいなさい」と言われた時に、私たちはただひたすら遜って、心やさしく私たちの重荷を担ってくださるイエス・キリストを仰ぎ見るだけです。主の姿をいつも見つめながら、謙遜であることを教えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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