☆聖書箇所 Tテサロニケ5:1〜9 1兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。 2主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。 3人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。 4しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。 5あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。 6ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。 7眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。 8しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。 9神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。
☆説教 故・山田純子姉を偲ぶ:光の子どもの姿
水曜日の夕方に山田純子(やまだ・すみこ)さんが召されたというメールがやってまいりまして、その夜の祈祷会で皆さんにお祈りいただきました。
昨日土曜日に葬儀をして、そして教会の皆さんにお伝えするのは今日が初めてであります。 山田さんは婦人会や朝の祈祷会で、お友だちが大変多くいらっしゃいました。 この感染状況で猛暑の中、お友だちの方々が葬儀場にいらっしゃると言いましても、ちょっと大変だろうなぁと思いまして、あえてお伝えしませんでした。
突然家で具合が悪くなり救急車で搬送され、その間、ご主人はさぞかし大変だっただろうと思います。 90歳になりますご主人がだんだん弱くなっている、ということも山田さんから伺っておりましたけれども、昨日お目にかかりましたならば、思いのほかお元気でございました。 しかし突然長年連れ添った奥さまを天にお送りしたということで、大変なショックの中にいらっしゃいました。格別にご主人のためにお祈りください。
コロナ禍にありまして、礼拝のオンラインになって、ちょうど一年半になりますでしょうか、その間、山田さんから手書きのお手紙を何度かいただきました。 献金は毎月振り込んでおられました。 こういうところが山田さんだね、と私たちはいつも山田さんの信仰を尊敬していました。
私たちは、もしかしたらコロナ禍にありまして、だいぶお年を召されたんじゃないかなぁと思いましたけれども、棺に納められたお顔を拝見して、いつもと全く変わりがありませんでした。 数日前まで普通にお過ごしになっていた様子がよく分かりました。 棺を前に(娘さんの)T子さんとお話をしていました。 お母さん仰っていたそうです。「ワクチンが終わったら、教会に行けるから」と。 そうしましたら、「ワクチンが終わったらいきなり天国で、一番驚いているのは本人だろう」(笑)とT子さんは仰っていました。
T子さんは高津教会の礼拝にもよくいらっしゃいますけれども、広島教会で信徒伝道者として宮島先生を助けて、講壇にも立っておられます。
あまりにも突然のことで、闘病の果てに天国に行くという、お別れの言葉を様々に交わしながら、ということもできませんでした。 私たちとて同じであります。 そこで私たちは、今日、山田姉を偲んで礼拝のみことばを取り次ぐことにいたしました。
テサロニケの手紙の(第一)5章の2節にこうありますね。 【画面:Tテサロニケ5章。2節「主の日は」「盗人が夜やって来るように」黒ペンで囲みと、オレンジの傍線を1行目から3節終わりまで数字の上で横にかける。4節「あなたがたは〜ありません」と5節「「あなたがたはみな、光の子ども」に緑のハイライト。「光の子ども」「私たちは夜の者、闇の者ではありません」にオレンジの傍線】 <Tテサロニケ5:2> 2主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。
本当によく分かっているのか?と思います。 「主の日」というのは、キリストが再び世に来られ、この世が終わるその日なんですが、 その日は「夜中に盗人がやって来るように」、突然やって来るということを、あなたがたはよく知っているからです、と。 ま、よく知っていない。知っているんですけれども意識していない。 夜、深々と寝ているところに突然襲われるわけです。何の備えもないところに襲われる。 だから抵抗さえできない。圧倒的な力で襲ってくる。「襲われる」というのは独特な表現ですね。 特に3節を見ていただきます?
3人々が「平和だ、安全だ」と言っているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。
妊婦さんでしたら、臨月に入りましたら、陣痛が来るだろうなぁという予測がつきますけれども、しかしそれを超えて、盗人が夜やって来るということを予測して、夜寝る人は一人もいません。 しかも、世の終わりも人の死も、圧倒的な力で私たちを捕えますから、この3節の最後にありますように、「それを逃れることは決してできません。」逃れられない。 「死」というのは逃れられないんだ、ということを私たちは捕えておかねばならない。
4しかし、兄弟たち。あなたがたは、暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
この世の終わりであろうと、私たちの人生の最後であろうと、私たちは襲われることはない。 これは独特な表現ですね。5節にこうあります。
5あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。 6ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
私たちは光の子どもだから襲われることはない。 で、今朝は山田さんを偲びながら、「光の子どもの生きる姿」と題して一緒に3つのポイントから学んでみたいと思います。
1) 光の子どもは、夜の者、闇の者とは違う
6節に読みましたように、
6ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。
これを山田さんの証しを引用して、私(藤本牧師)、解釈を変えて皆さんに説明してみます。
教会は証し集、ま、文集のようなものを定期的に出しています。 1988年、55歳の時の山田さんの文章なんですが、 題名は「信仰生活を振り返り見て」――ちょっと読んでいきますね。
「信仰を持って、もう35年の月日が経ちました。35年の間には色んなことがありました。悲しみがあり、苦難がありました。それは人生の縮図そのものでした。 しかしその中にあって、これが人生だからしょうがないという、あきらめではなく、 その中に生きて働き給う神を常に見上げることができますから感謝です。 様々なことの中にあって、私たちの祈りを聞き給う神、そして祈りに応え給う神、助け給う神を、信仰をもって見上げることができますから感謝です。」
これが「夜の者、闇の者」とは違う「光の子ども」の姿、まず第一番目です。 誰でも人生を振り返ってみましたならば、色んなことがあります。 そこには悲しみもあれば、迷いも当惑もありますし、痛みも、苦難も、喜びも、難しいことも、病める時も沢山あります。 そして30年50年80年して振り返ってみたら、縮図のように、その私たちの試練となるような出来事だけがそびえ立つように、私たちの目に浮かんで来ます。 そうして大変な人生にあって私たちは頷きを得るんですよね――「これが人生だからしょうがない」という一つの頷きを得るわけです。 「生きることは簡単なことではない」という頷きを得るわけです。
ところが光の子どもは少し考え方が違う。 山田さんの言葉を借りれば、「様々な出来事の中にあって、私たちの祈りを聞き給う神、それに応え給う神、助け給う神を、信仰をもって見上げることができますから感謝です」と。 これが「夜の者、闇の者」とは違う「光の子ども」の姿ですね。 夜の者、闇の者であっても、同じように病気になり、同じように人生の様々な試練に捕らえられることがある。
一般的に考えれば、振り返って30年40年50年あれば、勿論喜びもあります。 でもひときわ際立って見えるのが、私たちが通過した苦難ですね。 でもその中にあって、「人生こういうものだからしょうがない」ではなくして、 そこにあって《祈ることができた自分、その祈りを聞いてくださった神に対する感謝、そして助けてくださった神さまに感謝する姿を持っているのは光の子どもの姿》です。
2)山田さんはさらに、悲しくて苦労の多い出来事の中で、格別にイエスさまに目を向けた証しを記しています。
イエスさまに目を向けると言う時に、山田さんが引用された聖書の箇所がありますのでそれをちょっと開きますね。 へブル人への手紙の2章の18節です。ちょっと映しますね。 とってもしっかりとした証しでありましたね。 【画面:へブル書2:18を指差しながら読む藤本牧師。記載は特になし】 <へブル2:18> 18イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。
イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです(※と、繰り返して読む)。
もう一つは、言うまでもなく、へブルの4章の15節ですね。 【画面:へブル4:15を指さしながら読む。特に記載はなし】 <へブル4:15> 15私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
これはへブル人への手紙が特に鮮明にしている、イエス・キリストの姿です。 この方は十字架のイエスで、この方は私たちと同じように苦しみに遭われたので、私たちに同情してくださる。私たちに心を寄せてくださる。私たちの苦しみを理解してくださる方だ。
そして山田さんは、その証しの中で一つ一つに最後に「感謝です」と書いてあるんですね。 つまり、第一番目の感謝は、人生には苦しみがあり、苦難がありますが、その中にあって、「しょうがない、人生こういうものだ」と諦めるのではなくて、《助けてくださる神さまを、信仰をもって見上げることができますから感謝です》ね。
証しの中で二番目は、単に祈りを聞いてくださる神がおられるだけではない。 《イエスさまご自身が試練を受け苦しまれたからこそ、私たちに心を寄せてくださる、すばらしい助け主であるから感謝いたします》って書いてあるんですね。
そして三番目にもう一度テサロニケの手紙第一の5章に戻っていただきたいと思うんですが――
3)光の子どもの力強さ
また後程、山田さんの証しに目を留めますね。 ここです。 【画面:Tテサロニケ5章9節「神は」「主イエス・キリストによる〜からです」に緑のハイライト】
9神は、私たちが御怒りを(※裁きを、と言い換えて説明)受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。
この5章の1節〜9節までを引用したんですけれども――(※その概要を説明する藤本牧師) (一番目に)2節には、「主の日は、盗人が夜やって来るように」と、そして死は私たちを捕らえたら離すことはない。【画面:2節を抑える指】 ところが二番目に、「私たちは光の子どもなので、そのようにして死に捕らわれることはない」と書いてあり、【画面:5節を抑える指】 そして三番目に9節にありますように、「光の子どもはイエス・キリストによる救いを得るように定められている」というのは、ものすごく強い言葉です。 【画面:Tテサロニケ5章9節、「神は」「主イエス・キリストによる〜定めてくださったからです」に緑のハイライト】
私たちは「何かに向かって定められている」って意識することはなかなかできないです。 でも聖書の至る所で、「私たち(***主イエスを信じる者)は死んでも生きる」(***ヨハネ11:25〜26)ように定められている。 どんなに敗北しても、「主イエス・キリストの勝利の凱旋に加えられている」(***Uコリント2:14)以上、私たちは勝利へと人生の方向が定められている。
パウロは晩年ず〜っと牢獄生活で、そして牢獄から沢山の書簡を書いて、このようにパウロ書簡が残っているんですけれども、しかし彼が晩年、自分の死を意識すれば意識するほど、彼は「義の栄冠に向かって自分が走っている」(***Uテモテ4:6〜8)ということを意識するようになるわけですね。 つまり神さまの栄冠に向かって、自分の人生は定められているということを意識するようになります。
「人に定められているもの」があるとしたならば、一般的な理解で言えば、私たちは誰しもが共通して「死」に定められています。 それ以外、私たちが定められているものはないです。 人は自分の人生をそう簡単に変えることはできませんけれども、それでも私たちの人生には選択の自由があり、 そして私たちの人生はどんなに苦難のどん底に落ちたとしても、そこから這い上がって来るところの力というものを得ることはできます。 でも最後は「死」に呑まれてしまうというのは、どんなに裕福な人であったとしても、どんなに天才的な頭脳を持っていた人であったとしても、 「人は裸で生まれ、裸で帰っていく」(***ヨブ記1:21)ということは、人生共通に定められている出来事です。 定められているとしたら、もうそれぐらいしか定められていないんですね。 でも聖書を読みますと、「イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストにあって救いに定められている」(Tテサロニケ5:9)という、この強力な力に目を向けることができます。
また証しの中から引用しますね。 ここに3番目の感謝が出て来ます。 非常に印象深いんですが、1988年に山田さんがあの証しを残した時は、山田さんはまだ55歳でありました。 まだ若い55歳ですね。35年の信仰生活というのは、20に救われたんですね。 千葉の方で千葉教会が出来上がる時に、開拓の特別伝道集会があった。 そして天然色カラーの映画が上映されるというチラシをもらって、そしてお友だちと一緒に千葉の開拓の伝道会に出席されたんですね。 そこで特別伝道集会の講師の説教をされたのが、船橋教会の有名な岩城幸策(いわき・こうさく)先生でありました。 そこで山田さんはイエス・キリストを信じて、洗礼を受けることになるわけです。 そこから数えて35年。 で、こう書いてあるんですね。
「35年の信仰生活、遅々たる歩みでありましたが、神の憐れみと恵みのゆえに、今日まで守られて来たことを感謝いたします。これからどれくらい生きていくことを許されるか分かりませんが、これまで助け導き続けてくださった神さまが、これからも助け導いてくださるという信仰を与えられていますから感謝です。」
全部「信仰を与えられている」という現実に感謝しているんですよね(笑)。 「人生こんなもんだろう」という現実の中にあって、《神さまに祈ることができ、神さまは導き助けてくださる》という「信仰が与えられているから感謝します」ですよね。 悲しみ、試練、苦しみの中で、《同じような苦しみを通られたイエス・キリストが心を寄せてくださる》ということを、「信じることができる信仰が与えられているから感謝」なのですよね。 そして最後に、35年生かされて、これから先どれくらい生きていくか分かりませんが、でも《これまで助けてくださった神さまはこれからも助けてくださる》と「信じる信仰が与えられているから感謝です」と書いてあるんです。
すばらしい証しが書いてあるんですが、皆さん、これね、心に留めていただきたいと思うんですね。 それは、私(藤本牧師)はこの言葉です――「35年の信仰生活、遅々たる歩みでありましたが」です。 これでいいんだ、と思いました――《遅々たる歩みでよし》とする。 でも神さまの憐れみと恵みのゆえに、今日まで助けてくださった神さまは、これから先も助けてくださる、と信じることができる信仰を持つことができるのが、光の子どもですよ。 私たちは皆、その「遅々たる歩み」に割と絶望するんですね。
で、「遅々たる歩み」と言われたら、「いや、私はここのところ躍進的な信仰の成長を遂げました」(笑)――そんなこと言っている人、見たことないですね。 そういう風に言った人がいたとすれば、「いやいや、どうってことないだろう!」(笑)って思わず返したくなるほど、私たちみな「遅々たる歩み」なんですよ。 それは3歩前進して4歩後退することもあれば、4歩前進して3歩後退することもある。どっちにしろ、1歩か0歩ぐらいの「遅々たる歩み」なんです。
でも、35年助けてくださった神さまは、これからも助けてくださる、 「人生こんなもんだろうなぁ」と思っていても、いや、神さまに祈れば神さまは絶対に答えてくださる。 「人生孤独だなぁ、この苦しみは」と思いながらも、イエス・キリストは私たちに心を寄せてくださる、ということを信じ続けることができるならば、《私たちは光の子ども》なんですね。
私たちは、山田さんが突然召されたことによって、それはそれは心を痛めます。 でも山田さんは私たちのために、証しを残してくださいました。 「感謝に溢れて、遅々たる歩みを生き抜いていく」 で、山田さんは最後にもう一つ、聖書の言葉を引用しておられます。 当然のことながら、ヨハネの福音書の16章33節――
<ヨハネ16:33> (※第2版・3版) 33――世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
というイエス・キリストのみことばを引用している。 これは光の子どもに与えられた勇気ですね。
主が山田さんの家族を助けてくださる。主が高津教会の家族を助けてくださる。 主が今この礼拝に共に参加しているお一人お一人を助けてくださる。 「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と。 絶対に「人生こんなもんだ」とは思わないことです。 絶対に「自分の苦しみは孤独の中にある」とは思わないことです。 絶対に「人生自分のこの出来事によってもう終わってしまった」と思わないことです。
《ここまで助けてくださった主は、これからも助けてくださる》という信仰を持ち続けて、 やがて、できることならあっという間に天に帰ることができたら、という山田さんの望みはいつもそうでした。 「最後はあまり苦しみたくない。あっという間に天国に行きたい」(笑)というのが山田さんの望みでありました。 私たちも同じように人生の道のりを辿るためには、皆さんぜひ85歳は超えていただきたいと思います。 それを目標に頑張ろうではありませんか(笑)。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、「主の日は盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです」(Tテサロニケ5:2)――いやいや、世の終わりのような遠いことさえも分かっていない。自分の人生の終わりという近いことさえも分かっていない。突然やって来たならば、捕らえられてしまうというこの深い現実を理解もせずに、「平和だ、安全だ」(同5:3)と言っているような「夜の者」(同5:5)となることがありませんように。「いつでも天に召されることに備えができている」と言うことができますように、私たちを「光の子ども」(同5:5)として捕えてください。
それだけでなくして、今日経験するところの、今週経験するところの様々な試練の中にあって、いつも心を寄せて私たちの味方になっていてくださる、すぐ傍にいてくださる主イエス・キリスト、悲しみの中にあって私たちと共に立ってくださる主イエス・キリストを、身近に感じることができますように。そして絶望・失望の中で、救いに定められている――私だけでない、私の家族すべてが、教会家族すべてが救いに定められていることを覚えることができますようにお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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