☆聖書箇所 ダニエル6:16〜23 16それで王は命令を出し、ダニエルは連れて来られて、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「おまえがいつも仕えている神が、おまえをお救いになるように。」 17一つの石が運ばれて来て、その穴の口に置かれた。王は王自身の印と貴族たちの印でそれを封印し、ダニエルについての処置が変えられないようにした。 18こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をした。側女も召し寄せず、眠ることもしなかった。 19王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。 20その穴に近づくと、王はダニエルに悲痛な声で呼びかけ、こうダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエルよ。おまえがいつも仕えている神は、おまえを獅子から救うことができたか。」 21するとダニエルは王に語った。「王よ、永遠に生きられますように。 22私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした。それは、神の前に私が潔白であることが認められたからです。王よ、あなたに対しても、私は何も悪いことはしていません。」 23王は大いに喜び、ダニエルをその穴から引き上げるように命じた。ダニエルは穴から引き上げられたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。
☆説教 終戦記念日:神、われらとともに在ます
ちょっと待ってくださいね。取り付け方を間違えた(※といつもの位置にタブレットを取り付け直すことから始める藤本牧師)
今日はおりしも第三日曜日が8月15日ということで、終戦の日に当たりました。今から76年前になるでしょうか? 毎年この15日の聖日を前後に、平和について、あるいは戦時下のキリスト教についてお話をしてまいりました。 今日もそういう視点から、神の臨在――神、われらとともにいます――と題して、その実感が私たちの人生の経験そのものとなりますように、お話ししたいと思います。
ごめんなさい。今日はHAさんのトランペットで、先週の動画はちょっと私もここにモニターがあるんですけれども、詳しく観ることができなくて。 先週ですね、Kさんが初めて賛美メンバーに加わりました。二回目くらいかもしれませんね。それから福岡のJさんや、神戸にいらっしゃいますTさんが加わってくださいましたら、後ろの方に奥さまとそれから新しく生まれた「Rさん」が映っていました。
もう、こういうことは讃美動画であのようにKHさんが編集してくださるわけですけれども、あれ以外に方法がないですね。以前高津教会の讃美チームで歌ってくださった方がですね、ああいう形で今も賛美に加わっていてくださる、というのは特別でありますけれども、また是非これからもよろしくお願いいたします。 教会はいつも讃美動画を求めています。独唱でも結構です。デュエットでも結構です。一人で4部合唱でも結構です(笑)。どんな形でも寄せていただければ、少しKHさんには負担がかかるかもしれませんけれども、編集が可能ですのでよろしくお願いいたします。
日本のキリスト教会が、終戦に当たって考えることは、何も戦争と平和だけではありません。 日本の教会には特別に課せられた課題があります。 それは日本は日本国が侵略戦争を始めるのにあたり、徐々に天皇制国家主義を作り上げていきますけれども、 日本人の右へならえの精神性のゆえに、教会も天皇制国家に歩み寄って行きました。 これがむしろ、私たちの問題であります。
侵略戦争でアジアの諸国を襲って行った時に、多くの人々のいのちが失われます。 そして日本の教会は空襲によって壊滅的な状態になり、私たちの家族もいのちを奪われていきます。 天皇制国家主義は、宗教法人統制法によって、仏教も含めて天皇制国家が厳しく宗教法人を統制いたしました。 教会はカトリックで一つ、そしてプロテスタント28の教団は、日本基督教団という名前のもとに一つにまとめられます。 しょっちゅう教会の礼拝に憲兵が座ります。憲兵(けんぺい)というのは軍隊の警察でありますので、一般の警察ではないですね。 そして憲兵が説教をチェックいたします。 教会の入り口には御真影(ごしんえい)という天皇の写真が掲げられていて、それは教会もミッションスクールも皆同じでありました。 礼拝の前に、皇居に向かって宮城遙拝(きゅうじょうようはい)という儀式があります。 讃美歌はキリストを賛美しているのか、天皇を賛美しているのか分からないような歌詞になってしまいました。それが若干今でも残っています。 私たちは「イエス君はいと麗し」という讃美歌がありますけれども、あの「君」という言葉は天皇を以前は指していました。 ですからイエス・キリストを歌っているのか、天皇を歌っているのかが微妙に分からないように讃美歌の歌詞は作られていってしまいました。 侵略していった国に教会ができますと、それは神の国が世界に広がっていったと大喜びをして、つまりどこかで大東亜共栄圏と神の国が重ねて考えられるようになってしまいます。 教会は必死で戦闘機献金なるものを募るようになりました。
ある意味で、教会は日本社会、その軍国主義的日本社会にあって、何とか居場所を見つけようと努めていた、と考えることができましょう。 でもそのためには、「キリストのみに従う」というところは、曖昧にせざるを得ませんでした。
そうした中で、1942年――終戦3年ちょっと前ですね――6月の26日の早朝、ホーリネス系の牧師96名が一斉検挙されます。 翌年にも一斉検挙がされまして、ホーリネス系の牧師というのは――インマヌエルもそうですけれども――合計124名が検挙され、その教会はすべて解散されます。 牧師たちは実刑判決を受けます。そして教職というその資格をはく奪され、 刑に服した先生の中には、ホーリネスの車田秋次(くるまだ・あきじ1887〜1987)先生、米田豊(よねだ・ゆたか1884〜1976)先生、また当時まだ若くありました蔦田二雄(つただ・つぎお1906〜1971)先生が含まれていました。
なぜホーリネス系がそのように弾圧に遭ったのか? 最終的に裁判の判決で、明らかになってしまいます。 当時ホーリネスの教会はリバイバルを経験していました。 盛んに宣教を展開し、「キリストの再臨」を説いていました。それが最大の理由になります。 キリストこそが王であり統治者であり、地上の王たちはやがてキリストが再臨する時に、この方の支配のもとに膝をかがめる時が来る――となったら、じゃ天皇は一体どうなるのか? ですから再臨思想を語る――キリストが再び来られる。この方が王の王であると説く――キリスト教会は、国体に反する思想を説いているということで、治安維持法違反で逮捕、収監、投獄されていくわけです。
当時の日本基督教団の幹部は、逮捕されたホーリネス系の牧師を切り捨てました。 そういう牧師たちのメッセージはそもそも熱狂的で国体にそぐわない、と切り捨ててまいります。 これらの牧師はまともな神学教育も受けていない輩(やから)である、と批判いたします。
蔦田二雄先生は、3年と少し東京拘置所に収監されていました。 やがて戦争が終わり解放されたならば、自ら中心となって新しい教団を始めよう、と決意されます。 それがインマヌエル綜合伝道団でありました。 これが高津教会の真髄的な信仰です。高津教会は1947年に誕生いたします。 そのことを私たち高津教会の家族は誇りに思っていただきたい、という前提で2点お話しいたします。 ダニエル書の6章から、2つのポイントでお話しいたします。
1)閉じ込められて助けてもらえない、というこの現状。
ダニエル書に特徴的ですね。 バビロンの捕囚で連れて来られたイスラエルの民。 その中から抜擢されました(ダニエルを含めた)4人の青年たち。 特別な教育を受けて、そしてバビロンの国際行政の一翼を担いますけれども、彼らの信仰はぶれませんでした。
それが気に入らない周囲の者たちが、彼らをつぶしにかかります。 ネブカドネツァルが、帝国の統一を図るために、金の像を建てた時のことでありました。 帝国の行政に関わる者たちが全員、この金の像の創立式典に集められます。そして音楽が鳴った時にこの像を一斉に拝むように強いられます。
ちょっとダニエル書のこちらは3章ですね、こちらを見ていただきたいと思います。映しますね。 ダニエル書の3章に――6章をこれから見ますけれども――同じように「閉じ込められて、解放されることがない」という出来事が出てまいります。
(※画面を出すために)いま接続しますね。今行くというサインは出ているんですけれども、なかなか行ってくれない。行かない?(※音声担当に聞いている)行かない。 ダニエル3章の15節をお読みいたします。
<ダニエル3:15〜17> 15今、もしおまえたちが、角笛、二管の笛、竪琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよい(***それでよしというのは、いのちは助けてやろう、ですねと説明)。しかし、もし拝まないなら、おまえたちは、即刻、火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からおまえたちを救い出せるだろうか。」 16シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ(***というのはダニエルの友人たちです、この三人は、と説明)は王に答えた。「ネブカドネツァル王(***バビロンの王ですね、と説明)よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。 17もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。
今映りますね。はい(※と言ってタブレットを回して)終わりました?OK?は〜い(※と喜んで画面を映す藤本牧師) 【画面:ダニエル3章15〜17節。15節「即刻、火の燃える炉の中に投げ込まれる」と17節全体にオレンジのハイライト】 (※17節を読んだ後)という信仰ですね。ところが、【※18節を指さして】ここにあります。 【画面:ダニエル3章18節「しかし、たとえそうでなくても」にオレンジのハイライト】 <ダニエル3:18> 18しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」
と、言うのは、彼らの信仰の決意ですね。彼らの信仰の芯の強さです。 「私たちは絶対に拝みません。神は救い出してくださいます。しかしもしそうでなかったとしても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが建てた金の像を拝むことをしません。」
さて、神は救い出してくださいませんでした。いいですか。 三人は燃える火の中に投げ込まれます。閉じ込められて助けられない。
この状況は6章も同じなんですね。 6章を見ていただきますと、当時の王さまはダレイオスという王さまで、 そして王以外に祈ってはいけない、王以外を礼拝してはいけない、そういう法令を作ることになってしまいます。 ダニエルは日に三度神に祈っていましたので、密告する者がいて、王は心を痛めます。 なぜなら、ダニエルを大切にしていたからです。 しかしながら、法令を変えることはできないんですね。
そういう中で王は、ダニエルをライオンの穴に投げ込まざるを得ないんですね。 大変悩みました。ここに書いてありますね、14節(〜17節まで読みながら説明)。 <ダニエル6:14〜17> 14このことを聞いて王は非常に憂い、ダニエルを救おうと気遣った。そして彼を助け出そうと、日没まで手を尽くした。 15そのとき、あの者たちが王のもとに押しかけて来て、王に言った。「王よ。王が制定したいかなる禁令や法令も、決して変更されることはないということが、メディアとペルシアの法律であることをご承知ください。」 (***これは変更できませんよと、説明) 16それで王は命令を出し、ダニエルは連れて来られて、獅子の穴に投げ込まれた。―― 【画面:ダニエル6章16節「獅子の穴に投げ込まれた」にオレンジのハイライト】
つまり日に3回祈り、「この異郷の地にあって、様々な危険から私を守ってください」と言っていたダニエルでしたけれども、 周りの者たちがダニエルをねたんで、そして策略を起こし、それに引っかかったダニエルはライオンの穴に入らざるを得なかったわけですね。 17節見てください。 【画面:ダニエル6章17節「その穴の口に置かれた」と「それを封印し」にオレンジのハイライト】 17一つの石が運ばれて来て、その穴の口に置かれた。王は王自身の印と貴族たちの印でそれを封印し、――
ということは、(※ここ6章で)ダニエルも、(※先の3章で)シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴも一つの状況の中に封印されるように閉じ込められてしまった。 きっと神さまに祈ったに違いない。 きっと神さまが助けてくださると思ったに違いない。 しかし神さまは、助けてくださらなかった。
というのは、戦時下に捕られてしまったホーリネスの牧師たち、蔦田先生も同じであります。 蔦田先生は3年と少し、東京拘置所で牢獄生活を過ごしていきます。 (ポイントの)一番目が「閉じ込められて、救い出されることがない」ですね。
2)二番目は「臨在信仰」です。
臨在信仰というものがどういうものなのか、非常に簡単です。 それは「神、われらとともにいます」ということです。 「神、われらとともにいます」というのをヘブル語で言ったら、インマヌエルです。 ですから、私たちの教会にはインマヌエル教会という名前がついています。
一体私たちが閉じ込められた時に、「神はどこにおられるのか?」というような質問を、私たちは安易に口にします。 事態がこんなに厳しくなって、「一体神さまは何をしているんだろうか?」ということを私たちはポロリと口にします。
ところが蔦田先生はそんなことは一度も記していません。 獄中日記を見ますと、1945年の7月31日の日記、もうすぐで終戦という時に――ま、終戦の状況は知らないわけですけれども――蔦田先生は日記にこう記しています。
「神さまは、私の行く道を計らい、御心に従って私を最善・最良の道に導いてくださる。 これこそが、私が神に対して厚く信じているところです。 それゆえ、私はこの生涯における行程・環境について少しも憂慮することも、焦って悶々とすることもありません。」
そうして蔦田先生は、新しく教団を作るとしたら、「神、われらとともにいます」というその言葉通り、「インマヌエル」という名前を付けようと決意されます。 果敢に日本橋で伝道していた時も、天皇制国家主義によって信仰を曲げないがゆえに東京拘置所に入っていた三年少しの間も、蔦田先生は 「神さまは私の行く道を計らい、御心に従って私を最善・最良の道に導いてくださる。それゆえ、私は憂慮することも、焦って悶々とすることもない」 という臨在信仰によって、先生は守られていました。
さて、ダニエル書を見てみましょう。 燃える火の中に投げ込まれた3人たち、これは映していただきますけれども、3章ですよね。【画面ダニエル3章25節、記載は特になし】 一体どうであったのか?25節。王が翌日確認しに行きます。 <ダニエル3章25節> 25すると王は言った。「だが、私には、火の中を縄を解かれて歩いている四人の者が見える(***入れられたのは三人ですね、と説明)。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
つまりキリストは、助ける代わりに、この燃える火の中にご自身が入って行って、彼らを自由にし、彼らと共に燃える火の中を歩いていてくださった、ということですね。 彼らは「私が信じている神は、私を助けてくださる」――それは燃える火の中から助けてくださるという意味ではなかった。 でもイエス・キリストご自身が燃える火の中に入って、彼らの縄を解き、そして彼らと共に歩いておられました。
6章をご覧ください。見ていただきますと、同じようなことが書いてあります。 【画面:ダニエル6章21〜22節。22節「私の神が〜加えませんでした」にオレンジのハイライト】 <ダニエル6:21〜22> 21するとダニエルは王に語った。「王よ、永遠に生きられますように。 22私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした。……
有名な絵がありますけれども、ダニエルが獅子と一緒に洞穴で横たわっている絵がありますよね。 助けられることはなかった。しかし神の使いが送られて来て、そして獅子は一噛みもダニエルにすることができなかった、ということですね。
「神、われらとともにいます」って、一体どういうことなんだろうか? 《神さまはたとえ助けに来られなかったとしても、私たちと共にいてくださり、獅子の穴にあって、私たちを自由に安らかにしてくださる》ということが「臨在信仰」であり、 それによって生かされていることが高津教会の誇りなんです。
にもかかわらず、私たちは別に牢獄に入っているわけでもない。 少々の試練の中で悶々とし、そして神さまがおられるのに、「一体神さまは何をしているんだろうか」と泣き叫ぶ。 私(藤本牧師)はそれが必ずしも信仰のない、信仰の薄いことであると申しているのではないです。 なぜなら詩篇には、そのような祈りが沢山あるからです。 「遅れないでください」(***70:5、22:19、40:13、38:22、22:19など) 「あなたはそっぽをむいておられるのですか」(***22:1、10:1、71:12など) 「どうか私の叫びに耳を傾けてください」(***142:6、17:1、86:1など) という詩篇は沢山あります。 でも同時に、そう叫んでいるダビデは、 「たとえ死の陰であったとしても、あなたがともにおられる」(*** 23:4、16:8など)と告白していますし、 ダニエルの二回の出来事のように、「救ってください、救ってください」と言いながら救ってもらえない。 しかし、《神さまご自身が中に入って来てくださり、私たちを守ってくださるという現実》――それをとっても大切にしているのが高津教会ですね。
2019年に高津教会の姉妹が脳の手術を受けることになりました。 予備的な手術なんです。まだ大事には至っていない。至る可能性がある。だから(至らないための)予備的な手術をしましょう、 というのは非常に厳しい選択でありました。なぜなら今は何ともないわけです。 でも開頭しなければいけないという大手術を受けなければいけないんですね。
手術の前の夜に圭子(夫人)と病院にお祈りに行きました。 明日の朝は手術だという、ご主人も帰られて、もう晩御飯も終わって、そろそろ寝るかという時に、もう姉妹はパジャマを着ておられましたね、手術に備えておられて。 私たちが入って行きますと、姉妹は私(藤本牧師)が記しましたダニエル書の説教がテーブルの上に置いてありました。 「乱気流を飛ぶ」という、これはkindle版で500円でスマホで読むこともできます。
姉妹が仰っておられました。納得がありました。 「この手術から抜け出すことはできない。色々祈って来ましたけれども、この手術の中に入らざるを得ない。避けることができない。 しかしイエスさまは、その炉の中に、ライオンの穴の中に、入って来てくださるという信仰が与えられた」 と、姉妹は笑顔で「私は平安です」と仰られた。
臨在信仰――「神、われらとともにいます」というのは、そこにおられるということですね。 私たちが苦しんでいる様々な病室や、色々な出来事や、色んな仕事の会議や、あるいは自分の研究室の中で、「神がそこにおられる」ということを、私たちはほとんど意識しないですね。 途中で「一杯、コーヒー飲みに行こうかな」と、お茶のために立ち上がることがあったとしても、神がそこにおられるということを意識しない。 でも、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴも、ダニエルも、その燃える火の中、獅子の穴の中にいながら――「ここで一服コーヒーでも飲もうか」と、そんなことは考えていないです――でも、《神が入って来られた》ということは意識しているんですね。 そして神さまは彼らを守り、助けてくださいました。
燃える火の中から出られないことが多々ある。 でもイエスさまは一緒に歩いてくださる。 そして縄を解いてくださり、獅子の口をふさいでくださる。 ああ、そういう信仰で日々生きることができたらなぁと思います。 きっと私たちも、蔦田先生のように3年少し牢獄に入れられたならば(笑)、この臨在信仰に生きることをものすごく努力するんだろうと思うんですね。 そうあらねばならない、ということに気がついて毎日主に祈り、主が共にいてくださるということを実感するんだと思います。 ところが、日常の出来事の中で、主が傍にいてくださるということがなかなか分からない。 そんなことが、分かる時が必ず来ます。 そしてその時に改めて、私たちは臨在信仰を日々生きる者でありたい、と願うべきだろうと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 22私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした。―― (ダニエル6:22) とうとう、獅子の穴から出ることはありませんでした。でも神さま、あなたご自身が入って来てくださり、飢えた獅子の口をふさぎ、獅子と共に洞穴の中で過ごすことができたダニエル。燃える火の中で洋服に火が燃えつくこともなかった、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ、あなたが全知全能の力をもって、彼らにベールをかけ彼らを熱さから守ってくださいました。 私たちはきっとそうした中で痛みを伴なうでしょう。そうした中で、私たちは死ぬ思いもするのかもしれません。飢えもしますし、また孤独を感じるでしょう。でもそんな時に、あなたの臨在のベールを私たちの上にかけてくださり、「わたしは今ここにいるよ」と、私たちに安らぎを与えてくださいますことをよろしくお願いいたします。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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