☆聖書箇所 ガラテヤ6:1〜5 1兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。 2互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。 3だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。 4それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。 5人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。 ☆説教 ガラテヤ(23)御霊の人の働き 久しぶりにガラテヤ書の学びに戻ります。そして6章、見ていただきますと、もうすぐガラテヤ書の学びも閉じる所まで祝していただきました。 もう一回読みますね。(※ガラテヤ6章1節を読む。)
1兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。・・・
これがメインのテーマであります。 6章の一つ前で、パウロは「肉の人」の説明をいたしました。その上で、私たちは「御霊の人」とされたこと。 ですから《自分の欲や自分の願望を優先するのではなく、みこころを優先して、御霊によって導かれ、御霊に同伴されて生きていきなさい》ということを共に学びました。
今日はその続きであります。 パウロは「御霊の人」の生き方を、この(ガラテヤ)5章で(***13節に、愛をもって互いに仕え合いなさい、と)大体要約しておいて、 6章で具体的な事例を一つ出して来ます。 それが、今1節で読みましたように、「もしだれかが、何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」です。
3つのことに注目いたします。
1)私たちは他人の罪や欠点に直面した時に、一体どのような反応をするでしょうか。
誰かが過ちに陥っているのを見た時に、一体どういう風に反応するのでしょうか? 典型的な反応――
鈴木正久先生(すずき・まさひさ1912〜1969 ※日本基督教団の牧師、総会議長在任中1967年に第二次大戦下における教団の責任を表明)は、そのガラテヤ書講解の中で、次のように述べています。 「わたしたちは他人の罪過や欠点を知ると、反射的に自分がなにか偉い者のように思う癖があるが、これは自己欺瞞だと言うのです。・・・他人が谷から落ちたからといって、自分が高い山の上にいるわけではありません。他人がまちがいを犯したことが、自分が善を行っていることにはなりません。・・・しかるにわたしたちの日常生活では、ほとんどいつもただ他人の欠点をキョロキョロながめて、その悪口や陰口を言って、それだけでもう自分は正しい人間のような気分になってくらしていることが多いのです」(174〜75頁)。
「人が過ちを犯したからと言って、自分が善を行ったわけではない。ところがそういう気分になって、暮らしていることが実に多い」と言われると(笑)、 ほんとに(そのとおり)、これは錯覚なんだなぁと思います。 人が落ちると、反射的に自分が高い所にいるかのような錯覚を起こしてしまう。 人が過ちを犯しますと、反射的に自分が正しい者であるかのような錯覚に陥ってしまう。
2)そのような過ちを知った時に、決して通り過ぎることが、目をつぶることが愛ではない。
「御霊の人」であるあなたがたは、そのような過ちを知った時に、決して通り過ぎてはいけない。目を瞑ってはいけない。 むしろ、御霊の実の一つである「柔和」な心をもって、その人を正してあげなさい。
これは簡単なことではないですね。 一番簡単なことは、やっぱり目を瞑ることです。 しかし私たちが自分の魂だけでなく、愛する兄弟姉妹の家族の魂をも気にかけているのなら、配慮しているのなら、その過ちを――「正してあげる」というものの言い方がいけないかもしれませんが――「正す」ということが「御霊の人」の生き方である。
私(藤本牧師)は正直、得意とする分野ではありません。 聖霊のことであっても、信仰のことであっても、私は得意分野と不得意分野というのは誰もあると思っています。 見て見ぬふりをすることが一番楽です。そしてその方がいい場合もあります。
人の過ちを正すなんて、そんなことできるでしょうか? それは自分の資格を問うてるんじゃなくて、そんな高等な技術を私たちは持っているんでしょうか? 仮にですよ、その人が聞く耳を持たない人なら、私は止めておいた方がいいと思っていますよ(笑)。 これはね、「御霊の人」であったとしても、その人が耳を傾けることがないのなら、 「神さま、どうか耳を傾けることができますように、私たちの言い方もその方の心も柔軟性を与えてくださって、何とか助けてください」と、 ほんとに祈って祈って臨むなら、成功する可能性はあるかもしれませんね。 でも「あ、この人耳を傾けないだろうな」と思ったら、もう傾けないです。 だから、妙な正義感をもって、「私は『御霊の人』なんだから、『柔和』な心で正してあげなければいけない」というアプローチは、私は成功したという例をほとんど見たことがないです。 たとえ同じキリスト者であったとしても、指摘されたら逆切れ(笑)するタイプというのは、結構いらっしゃいます。 そういうことは、心得ておかなければいけない。 ああ、怖い、怖い、本当に怖い(笑)、言わなくてよかったなぁという場合もあるわけですよね。
でも、パウロがここで指摘していることはもう少し丁寧です。どれくらい丁寧かお話ししますね。 パウロがここで用いる「正す」(カタルティゾー)というギリシャ語は、マルコ1:19で、 漁を終えたぺテロ(※マルコでは?)が「網を繕っている」という文脈で、出て来ます。
こんがらがって、破れている網を、焦って引きちぎるのではない。 焦って引きちぎって、もう一回網を縫い直すって手もあるんでしょうけれども、途中で諦めて放り出すのでもない。 忍耐をもって、じっくりと座って、もとの状態へとどう回復させるのか、一生懸命取り組んでいるやさしい行為ですね。
柔和とは、遜った姿勢です。 それは、一体どこから来るのか?柔和な姿勢。 柔和さというのは、自分の心の中にある破れ、それを覆ってくださる主の恵みを知っているところから来ます。 つまり、自分もまた弱い、自分もまた過ちに陥る、自分もまた傷つき易い、自分もまた愚かであることを、真実に知っている、ということですよね。
つまり、私はこの過ちを犯している人と同じように、過ちを犯す可能性がある。 聖書で言うならば、(ガラテヤ)6章の1節の最後ですね。
1・・・柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
ということは、過ちに陥っているその人とあなたとは、ほとんど何の違いもない、ということをよく分かっていることです。
でも「正してあげる」という側に立っているとしたならば、それだけでもないと思います。 つまり、自分もまた愚かで弱くて、簡単に過ちに陥り易い、傷つき易い――それを分かっているだけで、柔和にはなれないです。 「御霊の人」の柔和さ、というのは、もう一歩深いです。
カナダのトロントに知的障害者のコミュニティー「ラルシュ共同体」というのがあります。フランスにもありますね。 それを創設したジャン・バニエ(***1928〜2019、フランス系カナダ人のカトリック思想家)という人は『小さき者からの光』という書物の中で、心理学者ユングのことばを引用しています。
ユングはあるキリスト者にこんな手紙を書き送っています。
「あなたがたクリスチャンには、非常に美しいものがあります。あなたがたは飢えている人、渇いている人を見るときに、そこにイエス・キリストを見ていますね。路上の裸の人に衣服を着せるときも、その人にキリストを見ていますね。・・・ しかし、私が理解に苦しむのは、あなたがたが、自分の心の内にある貧しさを見ようとしないことです。あなたがた自身の心の破れの中に、(※覆ってくださる、と説明を加えて)イエスがおられることを見ないことです。 なぜ外側にばかりイエスを見、自分の内側に見ようとしないのですか。あなたの中の弱さや破れ、そのすべてにイエスがおられるのに、どうして見えないのでしょうか。・・・ あなた自身の中に、飢えている人、渇いている人がいるのに気づきませんか。囚人がいるのに気づきませんか。恐れや不安という牢獄に閉じ込められた囚人がいることに。」 (――ここまで本を読み終わり――)
そしてそこにあなたを助けるために、支えておられるイエス・キリストがおられるのが分かりませんか?と。 つまり「御霊の人」である私たちは、イエス・キリストに格別に敏感ですね。 そのイエス・キリストは、過ちに陥っている人の中にもおられ、私の中にもおられる。 過ちに陥っている人と同じような弱さが私の中にあり、そしてその両方にイエスがおられる。
私たちが柔和な人になるということは、 自分もまた同じ誘惑に陥りがちである(と分かっているだけではない。) 自分もまた破れを持っていて、イエスさまが繕っていてくださることを分かっている時に、真実な意味で柔和になります。
私も飢えている、私も寂しい、私も傷ついている、私も悶々としている。私も不安である。 でも、貧しさ、愚かさ、恐れに寄り添って、支えてくださる主イエスがおられる、私の内に。
少し親子関係で考えてもいいと思いますね。 小さな子どもは、もうしばらくず〜っと親に依存しますよね。 そして自分の苦しみを親に告白しますね。親は温かく包んでくれると思います。 でも実は、そのお母さんもそのお父さんの方も、同じように苦しみ疲れ、傷つき倒れ、不安や恐れを心に抱いているんですけれども、なかなかそれを子どもには言わないです。 子どもにもっと言った方がいいと思います。 そして子どもに祈ってもらう、ということができる年齢――小学生になったら十分子どもたちはできると思いますね――そういう相互依存というんですか、
「御霊の人」であるあなたがたは――もうちょっと簡単に言いますとね、祈ることを知っているあなたがたはですよ――あなたも過ちに陥り、相手も罪を犯し、あなたも恐れに囚われ、相手も不安に閉じ込められる――そういう時にどうして互いに、もっと支え合わないのですか?ということですよね。 柔和な主イエスが、破れた網を丁寧に丁寧に繕っていてくださる、という経験をあなたは持っているでしょう。 私(藤本牧師)は圭子(夫人)を尊敬している、一つの特技があるんですね。私はそれは全く持っていない。 これは人によるんだろうと思いますが、それはこんがらがった糸、こんがらがってしまったコード、紐を丁寧に時間をかけて、それを諦めずにほどくんですね。 「ほ〜ら、真っ直ぐになった」ってやつですね(※両手を挙げて真横に開いて見せて、笑)。 私はね、どうしてもそれができないですね。すぐに諦めてしまいますし、すぐに無理やり力を入れて増々こんがらがりますし、最終的には切れてしまうんですね。 【ごめんなさい、もしかしたら妻は、それが紐だからできるのかもしれません。】(※という一文が原稿にはあります) その違いは何だ?って言われれば、やっぱり忍耐です。
私は「ああもうだめだなぁ」と思ったら、もう捨ててしまう。新しいのを買った方が早い。 ここで自分が力をかけて、こんがらがった紐を解いているんだったら、真っすぐな紐を買って来た方が早い、とこう思ってしまうんですが、簡単にお金を出して買えるものだったらいいですよ。
でも、こんがらがった人間関係も、心も、過ちも、人生も、そういうものではないですよね。 そもそも関わらない方が楽なのかもしれない。 でも関わるなら、忍耐というものが必要なのだ。 関わるなら、自分自身の恐れ、破れ、愚かさに寄り添っていてくださる主イエスの柔和さを知らなければいけない。
上の者が下の者を正すようではなく、壊すことなく、ぶち切ることなく、忍耐強く、憐れみをもって手を差し伸べていく。 「御霊の人」であるあなたがたには、それができますよ。 聖霊の(導きと)助けによって、そういう(高度な)こともできるのですと。 もっともっと、あなたがたは相互に依存することを覚えなさい、です。
そうは言いますけれども、3番目―― 3)「重荷を負う」という言葉が、(ガラテヤ6章)2節と5節の二回出て来ます。
ちょっと読みますね。 2互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。 5人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。
2節で「互いの重荷を負い合いなさい」 5節に「人は、それぞれ、自分自身の重荷を負うことになる」
これはちょっとこの訳のままでは混乱しますよね。 同じ重荷ですけれども、原語のギリシャ語では違う言葉が使われています。 2節は、重いということを強調する「バロス」 5節は、一般的に誰もが運ばなければいけない荷物、「フォルティオン」
私たちにはみな自分が全うすべき重荷(フォルティオン)というよりは、それは責任ですね。責任があります。 人によってキャパは違いますけれども、どれ位の重荷に耐えられるのか、人によってそれぞれでありましょう。 しかし、私たちは自分の人生、自分の生きている限りにおいて、全うしなければいけない、背負わなければいけない重荷は誰しもが持っていて、 それを代わって周囲の者が担うことはできない。 これはやっぱり覚えておいた方がいいですよね。
たとえば、夏休みもうそろそろ終わるじゃないですか?もう学校が始まっている所もあると思うんですけれども、 ま、私(藤本牧師)の習慣から言いますと、大体宿題は最後。最後の三日ですね。 一番面倒なのが、私の場合、絵を描くということでしたね。 母がやるんですよ。それを毎年やるんですね。 私は描いてもらった絵に散々文句を言うんですよね(※在りし日を思い出されたか、眼鏡を外して目を押さえるも、笑) なぜ文句を言うのか、よくわからないんですが、どうも気に入らないんですね。 なぜかその絵が賞を獲るんですよ(笑)。 賞を獲ったのを持って帰って来て見ると、母が、 「ほら、言ったじゃない。賞をもらえる位いい絵なのに、あなたはどうしてそんなに文句を言うんだ」と。 よく見たら、ああ、いい絵だったなぁ、という風に気がつくという(懐かしく思い出して、笑)。
こういう人生辿りますとね、いつもぎりぎりにやる癖がつく。 最終的には、やり切れないので、誰かにやってもらうという癖がついちゃうんですよね。 で、5節の「人にはそれぞれ担うべき重荷があります」と言った時に、そういうことですよ。 ま、宿題はちゃんと日を決めて、前もってやっておこうよと。 そして最後に至って、本来あなたのために、あなた自身がやらなきゃいけないことを、なぜお母さんに任せるの?というのは、フォルティオン――「人にはそれぞれ負うべき重荷があります」。
これはもちろん子どもの話ではないです。 それは大人の話です。 それ位の責任、自分で全うしようよという。全うできない理由は自分でよく分かっている。 なぜならあなたは人の言うことを聞かないから、というのがあるわけですよね。 そういうことは止めよう。ちゃんと自分の責任をどう全うするのか?大人であればある程そのことは考えてみましょう。
ところが、パウロが(ガラテヤ6章)2節で言っている「互いの重荷を負い合いなさい」というのは、非常に重い重荷です。 自分一人では担いきれない位、重すぎる重荷(バロス)がやって来ます。 そのような苦境に立たされている時に、「御霊の人である」私たちは、自分の信仰だけでなく、また周囲の人の信仰も試されている、というんですね。
私たちは往々にして、自分の重荷を他人に負わせないです。 人を煩わせてはいけない――これが信仰の強さのしるしであると、錯覚しているのが私たちですね <詩篇55篇22節>(※第3版で、2017では「支えてくださる」) あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。
重荷というのは、主にゆだねるもんだ、(※と誤解しがち)。
<第一ぺテロ5章7節>(※「重荷」は第3版も2017も「思い煩い」) あなたがたの重荷を、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからだ。
詩篇55:22、Tペテロ5:7――おんなじですね。 重荷は神に委ねなさい。神があなたがたの重荷を負ってくださるのです。 それを受けて、重荷を負ってくださるのは神であるから、人間に助けを求めるのは不信仰だ――そういう風に考えてしまいがちです。 あなたがたはそんなに弱い信仰者になってはならない――そんなことを聖書は言っているんじゃないんですよ。
もちろん主は、私たちの思い煩いも挫折も、悲しみも試練も、どんな重荷でも背負ってくださいます。 しかし、主がこうした試練を背負う方法の一つが「兄弟姉妹の愛」ですね。家族の愛です。あるいは同僚の愛です。
パウロは、パウロ自身ず〜っとこのような兄弟姉妹の愛によって、支えられて助けられて、この晩年を迎えるようになるわけでしょう? 自分を助けてくださった人たちのこの人数というのは、パウロ書簡に固有名詞が一体どれほど出て来るか、み〜んなパウロを助けた人たちですよね。 主にある兄弟姉妹の助けを求めること、またそれを受け取ることは、弱さのしるしではない。
主にある兄弟姉妹が互いに重荷を背負うということは、信仰と愛が結合した麗しい姿ですと。 ものすごく重い重荷――それは私が代わりに担うこともできなければ、私が担ったからと言って、その人の重荷が軽くなるわけではないかもしれない。 でも、手を差し出して共に祈り、共に負ってあげることはないか?何ができるのか?そういうことを考えていくのが、「御霊の人」「祈りの人」であるあなたがたです、とパウロは言っているんですね。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、もし私たちが自分自身の負うべき重荷を、自分の怠惰のゆえに、人に任せているのであるとしたならば、自分がやるべきことは一体何なのか、自分の責任でどこまでやるべきなのか、考えることができますように。人任せにしたり、人の善意に頼って、自分がやるべきことをなさないような人間になることがありませんように。
でも時に、誰が担っても担い切れないような重荷が私たちの上に圧し掛かってきます。互いに重荷を負い合う――そんな愛する兄弟姉妹であらせてください。忍耐をもって、柔和さをもって、こんがらがってしまった糸を解くような人間になることができるように、信仰者になることができるように、イエスさま、私たちの疲れと共に、私たちの破れと共に、あなたもまた私たちの内側にいてください。
そのあなたが周囲の者たちの中にもいてくださることを認めることができるように、私たちに信仰の洞察を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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