☆聖書箇所 ガラテヤ6:6〜10 6みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。 7思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。 8自分の内に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 9失望せずに善を行いましょう。諦めずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。 10ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。
☆説教 ガラテヤ(24)御霊に種を蒔き続ける ガラテヤ人への手紙も最後の方になりました。あと一回で終えることができるんじゃないかなぁと思っています。 私(藤本牧師)は次にヨセフ物語(***創世記37章以降)を考えていますので、大体旧約と新約を交互にこうやってまいりました。 次は少しまた違う視点で一緒に学んでいきたいと思います。
(ガラテヤ6章)6節に注目していただきたいと思います。6節から始めました。ちょっと映しますね。 【画面:ガラテヤ6章1節〜6節。1節「御霊の人であるあなたがたは〜あげなさい」2節「互いの重荷を負い合いなさい」5節全部、6節「教えてもらう人」「教えてくれる人」「分かち合いなさい」にピンクのハイライト】
6みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。
ここから始まります。 今日の注目する言葉は6節ではありませんけれども、どういうことかと言いますと、 6章の1節に「御霊の人であるあなたがたは」と先週やりましたよね。 一体「御霊の人」となって、「御霊に導かれて生きる」ってどういうことなんだろうか?
パウロが一番最初に挙げてきた具体例が―― 1兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。 2互いに重荷を負い合いなさい。・・・
これがまず1番目の具体的な事例でありました。
二番目の具体的な事例はここに上がってきます――「すべての良いものを分かち合いなさい」。(※6節を指して) この「分かち合う」という言葉は「交わり」という言葉です。 コイノニア(※聖徒の交わり)。 「みことばを教えてもらう人」というのは、いわば信徒さんのことでありましょう。 「教えてくれる人」というのは牧師のことなんだろうと思います。 教会が経済的に牧師を支援するということ、当時のガラテヤの教会にあっては、非常に軽んじられていたような雰囲気がありますね。 ですからパウロは(※画面:6節を指で押さえながら)、
6みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。
高津教会は非常にの大らかな方々のおられる教会です。 牧師に清貧を強いることをしない(笑)といいますか、好きなようにさせてくれる(笑)と言うと語弊がありますけれども(嬉しそうに笑)、私(藤本牧師)が求めるものを、皆さんが応じてくださる教会なんですよね。
でも教会によっては、牧師に清貧を強いる教会っていうのがあります(笑)。 私いくつも見て来ました。 教会員の皆さんで立派な教会堂を建てて、そしてその教会堂が非常に負債を負ったがゆえに、皆さん一生懸命そのために献金して、「先生、これから20年は牧師給が下がります」(大笑)というような教会もありますしね。 教会の先生によっては、この仕事に就いてこの方、新車に乗ったことは一度もないとかですね、車を買い替えようとするんなら、「先生、つぶれるまで乗ってください」とか、そう強いるのは私は勘弁してほしいと思っています(笑)。
そういう意味で、私たちの教会は給料制になっていることが、大変ありがたいんですけれども、それを超えて私がウェスレーを研究したいと言えば、研究させてくださいますし、色んな学会に首を突っ込みたいと言えば、それも許してくださいますし、ほんとに大らかな皆さんであることを心から感謝しています(※ご両親先生方の息子への愛が信徒に受け継がれたのでは?笑)。
パウロが言いたいことはここですね――「すべての良いものを分かち合いなさい」と。 これは別にみことばを教えてもらう人と教える人の云々ではないです。 同じように信徒の皆さんが社会にあって得た良きものは、これは神の賜物ですね。 ですから単に教会は牧師がみことばを教え、教えてもらった人はその報酬を支払うというのでなくして、互いがいつも神さまからいただいた賜物を持っている。 皆さんは世にあって持っている――それが知恵であったり、技術であったり、それが様々な技能であったり。 「御霊の人」が愛をもって互いに仕えているということは、物質的なことだけではないんですよね。 体験や証しを分かち合いたい。体験や試練、迫害をも分かち合うのが「交わり」です。 自分がどういう風にして神さまから励ましを受けたのか、自分がどんな所を通ってきたのか、自分がどういう知恵を与えられたのか、どういう風にして困難を乗り切ったのか、様々なことを分かち合う交わり、それが「聖なる交わり」です。
今日はむしろ目に留めていただきたいのは、実は7節、8節なんですが、特に8節を見ていただきたいと思うんです。 【画面:ガラテヤ6章7〜9節。8節「御霊に蒔く者は」9節「失望せずに善を行いましょう」にピンクのハイライト】
8自分の肉に蒔く者は肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 9失望せずに善を行いましょう。・・・
というのは、失望せずに御霊に種を蒔きましょう、ですね。 今日はここから2つのことに、注目してお話ししたいと思いますが、 パウロは「肉の種を蒔く者は肉というものを刈り取り、御霊という種を蒔く者は永遠のいのちを刈り取る」(8節)という、 自分が蒔いたものを自分が刈り取ることになるという、一般的な例えを使っているわけです。 大麦を蒔いておいて米を収穫することなんてあり得ないわけですよね。
ここで2つの表現に注目して2つのポイントにしますが、一つは―― 1)種を蒔く、(という表現)
《種を蒔くというのは、自分の労力を注ぎ込む》という意味です。 種を蒔く前に、蒔く土地を耕さなきゃなりませんし、蒔くという労力もあれば、蒔いたものに水を遣るという労力もあるでしょう。 「肉のために蒔く」ということは、自分のために投資をするということです。 自分の願望、自分の願いに投資をする。 自分の欲望・願いを刺激して、楽しませて、さらに膨らませて、大きくしていく。
「御霊のために種を蒔く」というのは、その逆です。 <肉のために行動するか、生きるか>と<御霊のために行動するか、生きるか>――それは全く逆で、 《もし私たちの人生が、「肉のために種を蒔く」ことに努力を積み重ねて来たとすれば、 最後になって永遠のいのちを刈り取るというのは難しくないですか?》ってパウロは言っているのですね。 皆さんの人生は最終的に、神さまがその救いを判断してくださることでしょう。 《もし永遠のいのちを刈り取りたいという願いがあるとしたら、もう少し「御霊の種を蒔く」という努力をなさったらいかがでしょうか》と。
ここで改めて、「健全な意味での行い(の重要性)」ということを強調しなければいけないと思うんですね。 「御霊の人」は御霊に従って生きるわけです。 時に信仰を豊かにする書物を読む。 経営の本ばっかり読まないで、文学書ばかり読まないで、自分の趣味の雑誌ばかり読まないで、時に信仰を豊かにする書物を読む。 自分の好きなドラマや映画ばかり観てないで、時には心を静め、励ましを受ける讃美歌を聴き、またそれを歌う。 証しを聞きながら、励まされます。 《自分の願いや自分のやりたいことを楽しませるだけでなくして、時には欲を犠牲にして、御霊のために種を蒔く。》 《御霊の世界に自分自身を鍛錬していくということが、永遠のいのちに繋がることですよ》ということをパウロは言いたいんですよね。
もちろん「種を蒔く」という表現にありますように、「御霊の人」は一日で作られるものではない。一日で作られるものではない。 「肉の人」も長〜い時間をかけてその肉の人になっていくのと同じように、種から人間のすべては始まっていきます。 《もし私たちが内に与えられた御霊に注意を向け、その声に従って歩むということによって、一歩一歩、日々私たちの「御霊の人」は必ず作られていく。》 そこには《忍耐や、努力や、犠牲》が必要でありましょう。 「御霊の人」は人を愛する。人のために祈るという愛の労苦の種を惜しまない。 少しずつでもいいから、それを惜しむことはないわけですね。
ず〜っとガラテヤ書を学んで来ました。5章の最後の方で学びました。 クリスチャンというのは、「自分のいのち」が働き出ていく生涯ではなく、「内なるキリスト」が働き出ていく生涯です。 今私が生きているのは、私自身ではなくイエス・キリスト(***ガラテヤ2:20)。 私のためにいのちを捨てるほど私を愛してくださった、その愛に応えて生きているのが私たちキリスト者で、 ですから、自分で何かをしなければいけない、というガンバリズムではないですね。 つまり「私」に神経を集中させないで、私の内に働いていてくださる聖霊に神経を集中する。 聖霊の声に耳を傾ける時に、自然に聖霊は力を与えてくださり、その方向に生きることを許してくださる。 ですからこの方の力に委ねることも非常に大切なわけですよね。
でも同時に「御霊の人」になるためには、日々の「御霊に種を蒔く」―― 《つまり私たちが何に心を向け、何を考え、どう行動するか、生活の全体》 「御霊に種を蒔く」ということは絶対に祈ることから始まるんだろうと思います。 「祈り」がまず一番最初の種蒔きですね。 「みことばを読む」ということも種蒔きでありましょう。 だけどその種はそこに止まらずに、 《私たちが日常、人に接するその言葉、その態度、私たちの人生の目的に至るまで、御霊に種を蒔き続けると、御霊の人になっていく》ということですよね。
2)失望せずに善を行いましょう(9節) 聖書を見てください。 【※画面:ガラテヤ6:7〜9節。8節「御霊に蒔く者は」9節「失望せずに善を行いましょう」にピンクのハイライト】
昔の訳ですと、「善を行うのに飽いてはいけません」ですよね。 善を行うのに、疲れてはいけない。失望してはいけない。 《疲れることなく、失望することなく、たゆむことなく 積み重ねていく》という、その日々の小さな小さな積み重ねが、私たちを「御霊の人」にしていくんだと。
「御霊のために種を蒔き」、飽くことなく善を行い、「御霊の人」となっていった人物。 いくらでも名前を挙げます。
私(藤本牧師)はちょうど先週、『ウェスレー講座』の第二週目にウェスレー・エピソードというのがあります。 そのウェスレー・エピソードの動画を撮りました。
ウェスレーは生涯で8000通手紙を書きました。残っているのは4000通です。 どうして8000通手紙を書いたってことが分かるのか? それは彼の日誌が残っているからです。 その日誌によると、誰々から手紙をもらい、誰々に手紙を書き――それを全部足していくと、残ってなくても8000通出したということが分かる。 そして彼の人生の一番最後の手紙は、ウィリアム・ウィルバーフォース(***1759〜1833)という人物に宛てられて書かれました。
ウィルバーフォースは日本ではあんまり有名ではないですが、イギリスでは英雄中の英雄です。 それは奴隷売買禁止法という法律を英国議会で出したからですね。 イギリスと入植地アメリカとアフリカを結ぶ三角貿易というのは、1600年代、1700年代、アメリカに至ってはリンカーンが奴隷解放宣言して、それ以降に至るまで、奴隷売買はず〜っとなされていくわけでしょう。 アフリカから何千万という人々が狩られて、アメリカに移されていくわけですよね。 イギリスはかなり早い段階にこれを禁止しました。
ウィルバーフォースという人は、21歳で国会議員になり、25歳で明確な信仰を持ち、翌年26歳の時に、奴隷貿易禁止のための運動を開始し、周到な準備をもって奴隷貿易禁止のために法案を用意し議会で演説するんです。
ところが、彼自身も驚きました。 彼が議会で問題を訴えた時に、そんな売買は存在していないと、議員こぞってその事実を否定しました。 調査委員会を設けてもらうために二年かかり、実際の奴隷船の見取り図が提出される頃に、ようやくその事実を認めるようになりますが、その間、わずか数年の間に何百万人という奴隷が狩られて、殺されて、運ばれて、アメリカという植民地でイギリスの経済を支えているわけですよね。
奴隷貿易禁止法というものが制定される(1807年)までに、なんと18年もかかるんですよ。 若き日のウィルバーフォース、つまり奴隷売買廃止の演説をしたのが、1789年ですけれども、1789年からのウィルバーフォースを見て、1791年、死ぬ一週間前のジョン・ウェスレーが、ウィルバーフォースに手紙を出したんですよ。 それが彼の最後の手紙です。ちょっと読みますね。
――読み始め―― 神の力によって、あなたが世に対抗するために立てられているのでなければ、宗教の、そして英国の、人類の、スキャンダルを打ち破る栄光ある計画を完遂することはできないでしょう。 しかし、もし神があなたの味方であるなら、誰があなたに敵対できましょう。 (※ここもローマ8:31からの引用では?) 彼らが一束になってかかってきても、神に勝てるはずはありません。 善を行うのに疲れてはなりません。
<ガラテヤ6:9> 9失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。――ここまで読み終わり――
というガラテヤ書の6章9節の言葉をウェスレーは引用するんですよね。
周到な準備をして、議会で若き議員が演説をした。 だけど議会全体は、そんなものは存在しないと(全く否定する)。 そこから彼は自分の英国議員としての生涯をかけて、奴隷売買禁止法を成立させるんですけれども、その姿を見ながら、 「どんなに苦しんでいるか、どんなに疲れるか、でも善をなすのに疲れてはいけません」と、ウェスレーは病める身体を起こして、亡くなる一週間前に彼に手紙を書くわけです。
ウェスレーの手紙はこう終わります。 「最後は、史上最悪のアメリカ奴隷制度さえも、撲滅するまで前進してください。」 これはウィルバーフォースには叶いませんでした。 アメリカが独立してしまいますので、イギリスの管轄下から外れてしまいます。
この出来事を見ますと、何でもそうですけれども、始まりは種のように小さい。 でも蒔き続けていけば、どんな人の働きも、初めは種のように小さくても――蒔き続けていけば――育ててくださるのは神さまです。 初めが小さいというのは、必ず小さいもんです。 イエスさまでさえ、仰いました。 「神の国は種を蒔くようなものです」――どれほど小さいかと思います。 でも育ててくださるのは神だ。
マルコの福音書の4章をちょっと見ていただきたいのですが、聖書を開きますね。 ここにこうありますね。4章26節―― 【画面:マルコ4章26〜29節。26節「人が地に」に水色のペンで傍線、「種を蒔くと」を囲む。28節「地はひとりでに実をならせ」に水色ペンの傍線】
<マルコ4:26〜29> 26またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、 27夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。 28地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。 29実が熟すと、すぐに鎌を入れます・・・云々
神の国でさえそういうものだとしたならば、霊の世界の私たちの成長もこういうものだと。 神の国もそういうものだと。 で、私たちは思いますよね。いえ、一向に成長してないんですけれども・・・と。 「一向に成長してないんですけれども」と(言うと) イエスさまは仰るでしょうね――「そりゃそうだろうなぁ。君は全然種を蒔いてない。まず種を蒔こうよ」と。 種というのは、この譬えにおいては、イエス・キリストのことばですね。
「そして、蒔いた種を受け入れる良い心になろうよ。 岩地のような、或いは茨の張った、道路端のそんな心でなくして(***良い地に蒔かれた種のたとえ・マタイ13:3〜9、マルコ4:2〜9、ルカ8:4〜8) 小さな種でも蒔かれたものをきちっと土壌の中に吸収して、そしてそこに水を遣り、毎日一つ種を蒔き、でも続けて水を遣り、 そうすると神は必ずあなたを育ててくださる。育ててくださるのは神です。 あなた自身があなたを育てていくのではない。 ただ私たちは種を蒔き、その種を自分の心の中に受け取り、そしてせめてそれに水を遣る。時にはそれに日を当ててあげる。 そういう努力、小さな小さな努力をしてご覧なさい。 やがてからし種(から育った木)程の大きな木になる。
そして私たちは辛子種の木を見て、「何だ、この程度か」と、絶対思ってはいけないですね。 なぜなら、それは小さな種から、神が育ててくださった今ある私たちです。 ですから、私たちは今ある自分を決して軽んじてはいけない。 同時に、自分が全然成長してないとしたならば、少し反省して、もう一回基礎からやり直して、種を蒔き、祈り、みことばを受け取り、そして一日そのみことばを実行することを考えるような人になっていこうではありませんか。 楽しい音楽も、楽しい映画も、物語も沢山あるでしょう。 でも時には信仰的に、私たちの心を養ってくれるようなものに目を留め、私たちの霊的な種をさらに栄養を与えて育てていきましょう。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、種も蒔かずに「一向に成長しない」などと、不平を言うものではありません。時に今の自分にまことに不安であり、また乏しい成長に嘆いてしまうような者たちでありますけれども、《育ててくださるのは神である》としたならば、私たちが小さな努力を積み重ねている内に、あなたはあなたなりの「御霊の人」になっているということを忘れることがありませんように。
いつもエネルギーの大半を「肉の種」を蒔くことに集中しているような私たちでありますけれども、「善をなすのに飽いてはいけません」(ガラテヤ6:9)。「御霊に種を蒔く」ということに失望せずに、時間がかかるかもしれませんし、妨害も多いかもしれませんが、決してそれが私の人生の基本だということを忘れることがありませんように、私たちをお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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