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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/12 ガラテヤ(25)キリストの烙印を帯びて ガラテヤ6:11〜18
☆聖書箇所  ガラテヤ6:11〜18
   11ご覧なさい。こんな大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています。
12肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。
13割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。
14しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。
15割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
16この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
 17これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。
 18兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。

☆説教  ガラテヤ(25)キリストの烙印を帯びて

今朝の礼拝はインマヌエルの宮崎教会の方々も、心の友キリスト教会の方も、日本イエス教団の愛媛中央教会の方々もご一緒でございます。ま、他にも沢山いらっしゃいます。高津教会の家族として共に礼拝を捧げることができる恵みを感謝いたします。
ずっと教会では私(藤本牧師)の場合は、ガラテヤ人への手紙を学んで来ました。今日は最後でありますので、できるだけ聖書を見せてお話をしたいと思います。

ここから始まりますね。11節――
【画面:ガラテヤ6章11節〜14節】
   11ご覧なさい。こんなに大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いています。

ま、当時では手紙を書くには書記がいましたから、パウロは自分自身の書記を持っていました。でもこれは自分自身の手で書いている。

12肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています。
【画面:ガラテヤ6章12節「あなたがたに割礼を強いています」にオレンジのハイライト】

このことは、ずっとずっと学んでいました。
割礼派の人々は、「キリストの十字架のゆえに」という言葉があるように、キリスト者になったんですね。
なったんですけれども、ユダヤ教から迫害を受けないように、何とかしてユダヤ教の割礼、律法を自分たちが率先して守り、それを異邦人であるあなたがた(ガラテヤの人々)に、強いようとしているわけですね。

何度も学んでまいりました。
私たちが肉の者となって、自分にまた人に強いていくのは、別にユダヤ教の割礼ではないです。
私たちが自分に強いて、また他人にも強いていくのは、律法主義的なメンタリティーと言いますか、もうちょっと簡単に言いますと出来栄え主義とか、成果主義とか、成功主義というものを自分に課し、人に課していく。

ヘンリー・ナウエンが言うサタンの声というものを紹介いたしました。
「おまえは本当は大したものではないだろう。信仰者として、人間として、社会人として大した者だと認めてほしければ、証明してみろ」と。
その声を私たちはいつも聞くんですよね。

時には、成績至上主義というものが、この世の中の問題だけでなく、教会の中に、信仰生活の中に入って来て、
「自分はこれだけやっているから神さまの愛に答えることができている」、「自分はここまでしたから」という、
そういう傲り(おごり)というものが、結局のところ出て来るわけですね。
それが、この「肉を誇る」という13節のこの言葉に繋がってしまいます。
【画面:ガラテヤ6章13節「肉を誇るために」にオレンジのハイライト】

13割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。

「肉を誇る」――私たちはもちろん社会にあって、誇りとするものがないわけではないです。
例えば子どもが100点取って来たら――100点じゃなくていいです、90点でいい。いや、85点でいいです。いや、一歩譲って70点でいいです――思いっきりほめて上げてください。それは頑張ったんですから。
運動会という一日が終わり、遠足という一日が終わり、或いは仕事に疲れた連続した日々が終わり、或いは退職して最後の花束を家庭に持って来たら、もう
「私はあなたのことを誇りに思う」と、(※力を込めて)誇って、喜んで、褒めてあげていただきたいと思うんですよね。

学んで来ましたように、パウロがここで問題にしているのは、そういうことではないんですね。
自分の見映え、出来映えというものを虚栄心の発信源とする。
そしてそれをもって人を見下したり、優越感に浸ってみたり、或いはそれをもって神の御前に存在証明を果たそうとする――そういうあり方は肉の自分だ。

しかし、キリストの十字架によって限りなく愛されている私たちは、古い自分、肉の言いなりにはならない。
ま、勿論周りは成果主義というものを、私たちに強いてくるでしょう。でも心して私たちは、それを誇りとはしない。

14節を見てください。
【画面:ガラテヤ6章14節「しかし〜あってはなりません」にオレンジのハイライト】
14しかし、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。・・・

勿論パウロは誇りとするものはあったわけですよね。
八日目に割礼を受けて、誇り高い民族へブル人の中のへブル人、彼はへブル人としてエリート教育を受けて来ました。
しかし、そのパウロが自分の業績も、成績も、出来映えも、自分が築き上げたことも、すべて「私はもう誇りとしない」。

ちょっとピリピの3章8節を見てください。これもすぐ映しますね。
【画面:ピりピ3章7〜8節。7節「自分にとって得〜なりました」にオレンジのハイライト。8節「キリスト・イエスを知っている」に赤ペンの囲み。「すばらしさのゆえ」に黒ペンで囲み、上の余白に何か書き込み、線で繋いである】

<ピりピ3:7〜8>
7しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。・・・

自分の教育、自分の立場、そんなものは捨ててしまった。でもそれは実際<ちりあくた>であった。
その人生観の一番の基盤になっているのは、この8節の一行目ですね。
「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに」

別に良い教育も、私たちが一生懸命築いて来たすばらしい人間関係も、或いは世の中の立場も地位も、<ちりあくた>ではないです。
それは立派な何か一つ表彰状をもらったら、何か一つメダルもらったら、それを箪笥の隅にしまっておかないで、一番いいものは飾ることぐらい私(藤本牧師)はした方がいいと思う。
飾ることによって、それを見た時に、「神さまの恵みによって、私は今の私になりました」(***Tコリント15:10)という風に言えばいいわけですよね。
これが私の誇りなんです、じゃないんです。
「私が誇りとしているのは、イエス・キリストのすばらしさだけです。
そしてそれに比べたら、この賞状も、このメダルも、この家も、この仕事も、この学歴も、この職歴も、社会的な立場も、<ちりあくた>です」
とパウロは言っているんです。
それほどキリストのすばらしさを、パウロは知っているわけですよね。

神の恵みによって、生かされている限り、
その神は私を創造し、私はその神に背を向け、
しかし、キリストは私の罪を背負って十字架にかかり、
どれほど私を愛してくださっているのか、ということが私たちには分かりかけている。

分かりかけている――そんな私たちのために、パウロは祈る。私たちも祈ります。
ちょっと映しますので見てください。
【画面:エペソ3章17〜18節。18節「聖徒たちとともに〜理解する力を」にピンクの傍線、「広さ、長さ、高さ、深さ」に一つずつ囲み、「どれほどであるかを理解する力を」に黒ペンで波線の囲み、「理解する力」にピンクのハイライト】

<エペソ3:17〜19>
17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように(***祈りですね、と説明)。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
18すべての聖徒たちとともに、その(***というのは神の愛の、と説明)、広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり(***というパウロの祈りなんですね、と説明)、
19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

私たちの祈りです。どこまで行っても、私たちは駆け出しです。
キリストの愛の、高さ、深さ、広さ、その豊かさ、人知をはるかに超えていると言っているのですから、
余程の時に、余程の形で、聖霊が私たちにその愛を教えてくれない限り――私たちがどんなに聖書を読み、どんなに心を尽くしても――この愛はやっぱり分からないですね。

この愛を知るのは、一言で言えば、私たちが試練の時ですね。
私たちが大変な試練に遭う、その中にあって、神が私たちを支えてくださる時に、神が私たちをどれほど愛してくださるかが分かる。
順風満帆な時に、神の愛の広さ、高さがよく分かった、なんて――私(藤本牧師)はそれは違うと思いますよ。
どこまで行っても、私たちは駆け出しなんだろうと思います。
でもパウロが私たちのために祈り、私たちもまた
「キリストのすばらしさをもっと教えてください。神の愛の広さ、長さ、高さ、深さをもっと私たちに教えてください」
と祈る思いを忘れないようにしたいと思います。

ガラテヤに戻っていただいて、6章の15節ですね――
【画面:ガラテヤ6章15節「大事なのは新しい創造です」にオレンジのハイライト】

15割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

これは見たことがありますね、これは5章の6節にも出て来る言葉なんですが、そこでは「大事なのは、愛によって働く信仰です」と書いてあります。
ここでは「大事なのは新しい創造です」と。
つまり、肉の自分を脱ぎ捨て、キリストを着ることによって、聖霊に励まされて、私たちの内側から、私たちの価値観や考え方を含めてその全体が、新たに生まれ変わる。生まれ変わってきている、内なる人は。
それを信じることです。

そして16節見ていただきますと――
【画面:ガラテヤ6章16節「この基準にしたがって進む人々の上に」にオレンジのハイライト】

16この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。

「この基準」というのは、カノン(ギリシャ語で)ですけれども、これは所謂長い棒、物差しのことですね。
ですから、キリスト者にとって、自分の人生を計る基準があるとすれば――
例えば世の中で言うならば、幸せの尺度というのがあります。
これは別に、必ずしも成功ですとか、成績ですとか、年収ですとか、そういうものではなくて、世の中で言う一般的な幸せの尺度というのは、やっぱり温かな人間関係であったり、人の繋がりであったり、助けること、助けられることであったり。

でもここでいう基準というのは、もう少し上ですね。
それは自分がイエス・キリストにあって、新しく生まれ変わっている。
今私がこの世にあって生きているのは、私を愛し、私のためにいのちをお捨てになった、神の御子を信じる信仰によって生きている。(***ガラテヤ2:20)
ですから、「私のすべてのものは、神の恵みによって与えられ、私自身は何一つ誇ることはできない」と言う(***エペソ2:8〜9)。
この「キリストの愛」という物差しをもって、いつでも自分の生き方を計っていく、病んでいても、孤独でも、失敗しても。
その物差しを忘れてしまったら、私たちが使える物差しは世の物差ししかないんだ、という視点をパウロは強調しているんですね。

もう一回ここに戻りますので――「大事なのは、新しい創造です」と。
15節で、「割礼を受けているかいないかは大したことはない。大事なのは、新しい創造です」という。
(※と言い置いてから、話題を変える藤本牧師)

私(藤本牧師)は今、福音主義神学会から頼まれて、「聖餐、コロナ禍の教会の聖餐」という論文を書いています。
それで、カトリック、聖公会、ルター派、改革派、メソジスト、ホーリネス系、どういう聖餐式をオンラインでやっているかというのを、色々調べて、
ま、それなりに理由があるんでしょうけれども、多分世界の半分以上の教会は、礼拝の聖餐式で、信徒の方々は画面で観ているだけですね。

観るだけ聖餐――それを霊的聖餐と言うんですけれども、そうすると司祭系が多いんですけれども、
司祭が自分でお祈りを捧げ、そして聖餐を口にする。それを観てるだけで、あなたの上にも聖餐の恵みは及びますよと。
私(藤本牧師)はそれは偽りではないと思っています。
聖霊は観ているだけでも、実際に私たちの口の中に、みからだ、御血潮を運んでくださることでありましょう。

それが半分だとしますよね。もう半分の三分の二は聖餐式をしないですね。もう一年半、聖餐式をしていない。
その三分の一、全体から言えば六分の一になりますかね、私たちの教会のようにオンラインで聖餐式をしています。
私はこれには非常なこだわりがあります。
それは私がこの場所で唱える祈りは、物素のための――パンとブドウ液のための――祈りではない。それを受ける方々のために祈っている。
ですから皆さんがどういう形で何かを用意したとしても、信仰をもってそれを受けるなら、同時に受けるなら、私はそれはここで受けているのと同じ、霊的な力が働くと信じています。

でもこういう問題で論争にすることは、大事なことではないです。
それぞれの教団・教派が判断して、よく考えればいい。
むしろ私のような人間がすべきことは、色んな例を取り上げながら、その背後にある神学的な理解や、その正当性というものを検証していくことだろうと思います。
でもどんなに検証したとしても、その方のその教会のやり方というのは、それで尊重すべきですね。
そうすると、(※両手を高く上げて中央に寄せて据えるポーズで)キリスト教の中で、ぐ〜っとその本質的なものを絞っていくと、
讃美歌の歌い方とか、或いは聖書の訳とか、それから説教のスタイルだとか、そういうところには行かないですよ。
そういうスタイルを全然持ってないというのは問題です。
高津には高津のスタイルがある、ということが私たちのアイデンティティーです。

でも本当に大切なものは何かと言えば――イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、私たち一人一人を救いに導いてくださり、キリストのからだとして、このオンラインを含めてキリストの教会の一部としてくださっている。
今私がこの世にあって生きているのは、私自身が自分の存在を証明しようとする目的ではない。
「キリストのすばらしさのゆえに、私は福音に仕え、それ以外のことは、私は<ちりあくた>として捨てることもできる」(***ピりピ3:8)
そういう風に、言ってしまうというのは――ま、心にも思ってないことを言ってしまうというのもあれですけれども――言わないというのは問題です。

だから決してパウロが言っていることは程遠いことだと思わないで、
「キリストのすばらしさを知っているがゆえに」と、そのあとに何を付けるかは、皆さんのご自由です。
「〜〜は大事なことでなく、大事なのはキリスト・イエスにある新しい創造だけです」という、この言葉をもって、自分の失敗、現状の苦しさ、自分の世にあっての価値、挫折、それらのものを後にし、私たちは主に目を注ぐことができるんだろうと思います。

(ガラテヤ6章)17節を見て終わりにいたしましょう。
【画面:ガラテヤ6章17節「だれも私を〜してください」にオレンジの傍線、「私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから」に黄色のハイライト】

 17これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。

「これからは、だれも私を煩わせないようにしてください」というのは、これで議論を終わりにしますという意味です。
(この手紙をもって、ユダヤ主義者との論議の決着はついたので、)もう終わりにしようと。十分分かってくれましたよね、と。

で、この有名な言葉が入ります――
「私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのです」――これが最後に来ます。
この話で、私(藤本牧師)もこのシリーズを閉じたいと思います。

「焼き印」というのは、ギリシャ語でスティグマータです。
スティグマ―タというのは、当時のギリシャ世界で一般的に奴隷に刻まれていた、主人のマークです。
このマークがついている限り、この奴隷はこの人に属するということが分かる。
それが焼き印であったり、ま、入れ墨であったり。
どんなに洗っても抜けないように刻まれているんですね。

パウロにとって、そういうスティグマ―タと呼ばれるような傷があるとしたら、一体何なのだろう?
それはもちろん第二コリントの手紙にあるように、福音のゆえに迫害された時、身に負わされた数々の傷というのもありますでしょう。

或いはパウロにとってのスティグマータと言えば、彼は自分の救いの体験を証しするために、
必ず「自分は教会を迫害してきた罪人のかしらです」(***Tテモテ1:15)という、その告白を入れていますので、
彼のスティグマ―タには、自分自身の罪深い過去も入っているでしょう。
でもそのために、十字架にかかってくださったキリストの愛、キリストは私を赦してくださり、私を用いてくださっているという事実も、彼の身に刻まれているんだろうと思います。
福音を守るために受けた傷も、罪深い自分を赦し用いてくださるキリストの愛も、
キリストに属するしるしとして、パウロの人生に刻まれているんですね。

1850年、南北戦争(***1861〜65)の前ですね。ナサ二エル・ホーソーン(***1804〜1864マサチューセッツ州生まれ)という人物の『緋文字』(緋色)という小説が出ました。
緋文字というのは赤い文字です。

主人公のへスター・プリンは、背が高く、美しい品格を持った女性なんですけれども、
彼女には、A(※Adulteress=姦淫の女のA)という赤い文字をつけた上っ張りを着ることが義務付けられている、ということで物語は始まります。
そのAという赤い文字――原題はThe Scarlet Letterなんですけれども――それは彼女が姦淫を犯したからなんですね。

物語は姦淫の現場が終わり、獄中で生まれた子どもと共に広場で緋文字を胸に付けて、晒し者にされているへスター・プリンから始まっていきます。
私(藤本牧師)はね、そこから物語が始まるということに大変深い意味を感じます。
つまり人間は誰でも、緋文字を背負ってこの世に生まれ出て来る。

それが厳格なピューリタンの目から見れば、この人にはこういう欠点があり、こういう弱点があり、こういう失敗があり、という、
私たちに罪の烙印を押すかのように、生涯、私たちはその烙印から逃れられない。

しかし、へスターは自分に押されたそれが生い立ちであれ、過去の失敗であれ、自分の病であれ、その緋文字に、烙印に押しつぶされるということはない。
彼女はそれから逃げない。
その洋服を着たまんま、着たまんまです、自分の罪の重みをしかと受け止めて、病める人、苦しむ人のために彼女は生きていきます。
すると、赤い文字の意味が段々変わるんですよね。
赤い文字の意味が罪の烙印ではなく、キリストの十字架の赤に変わっていくわけです。

私たちが広場に立った時点で、既に負っている烙印というのは、罪の烙印だけではない。例えば試練という烙印がありますね。時に病という烙印も、挫折という烙印も、それから喪失という烙印も、孤独という烙印もあります。
でも私たちはそこから逃げるということはない。試練という烙印が重なる度に、赤の文字はますます色が濃くなっていくでしょう。
でもそれを受け止めつつ、「人知をはるかに超えたキリストの愛」(***エペソ3:19)が私に注がれているという現実に、礼拝に来る度に、聖書を開く度に、讃美歌を歌う度に、目を上げてイエス・キリストの十字架を見る度に(※先ほどの讃美歌もそうですね、と入れて)、私たちの緋文字の意味が変わっていく――十字架という意味に変わっていく。

小説の最後はこうです。
「ヘスターは利己的な目的を持たず、自分自身の利益と楽しみのために生きることがまったくなかった。」
(※ということは、肉を誇りにして生きてはいなかったということです、と説明)。
 すると人びとは悲しいこと、困ったことをことごとく彼女のところへ持ってきて相談をもちかけた。
 彼女自身が大いなる困難を克服した人だったからである」(『緋文字』岩波文庫381頁)

ああ、そうありたいですね。
大いなる困難を克服した人には、より十字架の文字は、色濃く輝き出て来ることになるわけですね。
パウロや私たちが宿命的に負っている過去の罪という赤い文字は、いつの間にか十字架の血潮の赤に変わり、
十字架が私たちに刻まれることによって、私たちはイエス・キリストに属している。
その時に、ああ私が達成することができたことはすべて、神の憐れみ、神の恵みであって、私たちには誇れることは何一つない。
むしろ、私たちは持てる物を人に与えることによって、信仰を愛へと働き出そう――そう思えることができたら感謝です。

☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません」(ガラテヤ6:14)――この十字架を、肌身離さず身に着ける、イエスの焼き印とすることができますように。
もしそれを覆うかのように、私たちの出来映え主義が前に出ようとする時に、途端に感謝の思いを、あなたの栄光を私たちに取り戻させてください。私がここまで来ることができたのもすべて、神の憐れみのゆえであって、キリストの愛の前において、私のなして来たことは<ちりあくた>に等しい。むしろキリストは、私がこの人生をどのように用いるのかを、私に問うておられる――そのように自覚することができますように導いてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

(※この後、讃美歌414番。「言葉にはせずに、マスクの中で、無言でお願いいたします。ちょっとこの習慣に慣れていきましょう」と、改めて注意を喚起する藤本牧師)

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