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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/19 敬老祝福礼拝・戸塚伝道師:勝てないものを相手に ルカ18:9〜14
☆聖書箇所  ルカ18:9〜14
 9自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
10「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
14あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」
(※戸塚伝道師の方を振り向いて一礼をして交替する藤本牧師)

☆説教  敬老祝福礼拝:勝てないものを相手に
皆さんおはようございます。(※笑顔でカメラ目線で語り始める戸塚伝道師)高津教会のオンライン礼拝によくお出でくださいました。
今日は会堂、ほとんど久しぶりに誰もいない状況の中で(笑)、お話をすることになりますが、オンラインでもう200名近くの方々が共に礼拝を捧げておられることを覚えながら、皆さんそれぞれの場所が聖所であり、礼拝場所であり、そこに神さまが臨在しておられることを私も思いを馳せながら、この場に立たせていただいていることでございます。

特に、今日初めて教会のオンラインの礼拝に参加された、という方がおられましたらば、大歓迎であります。ぜひどうか、できれば最後までお話をお付き合いいただければと思います。よろしくお願いいたします。

今日は敬老祝福礼拝の聖日ということで、新約聖書のルカの福音書の18章9節〜14節、このイエスさまのたとえ話から、「勝てないものを相手に」と題して、3つの視点で思い巡らしをいたします。

1)二人の人の二つの祈り――ルカ18:10
お読みいたします。

10「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。

パリサイ人と取税人の、二人の人の二つの祈りがこの後書かれています。
まず最初に《パリサイ人の祈り》ですね。
パリサイ人というのは、ユダヤ教の指導的立場にあった人のことを言います。
真面目に律法を守って来た、ま、模範的なユダヤ教徒でありましたパリサイ人。
このパリサイ人のお祈りを見ていきたいと思いますが、
まず11節をご覧いただきますと、4つの感謝がここに書かれています。お読みいたします。

11パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。

4つの感謝の祈りをパリサイ人はしました。
@奪い取る者でないことを感謝します。
A不正な者でないことを感謝します。
B姦淫する者でないことを感謝します。
付け加えてCこの取税人のようでないことを感謝します。

「この取税人のようでないことを感謝します」という4つ目のお祈り、
「この取税人」というのは、すぐ隣にいる取税人ですね。
当時取税人――どういう仕事をしていたかと言いますと、ローマ政府に委託された税金の取り立てをしていました。
割り当てられた税額以上のお金を取り立てて、私腹を肥やす人が多くて、
当時ユダヤ人からとても嫌われ憎まれていた――そういう取税人でありました。
パリサイ人は、「この取税人のようでないことを感謝します」と感謝の祈りの4つ目に献げたわけです。

ついでに、このようにお祈りしていますね。12節――

12私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』

4つの感謝の後に、2つの告白が書かれている
@私は週に二度断食をしております。
A自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。
【4つの感謝と2つの告白】――その中身は真面目なパリサイ人の王道を行くものでした。

もう一つの祈りは《取税人の祈り》です。13節をご覧いただきますと、こう書いてあります。

13一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』

取税人の祈り――これはよく読みますと、【4つの動作】が書かれています。
取税人の動作
@遠く離れて立った
前は「この取税人」と言われていた、すぐ隣にいた取税人。
ところが、ここで「遠く離れて立った」と書いてありますので、恐らくパリサイ人がお祈りしている間に、聞くに堪えなかったのでしょうか?
このパリサイ人から遠く離れて立っていたようであります。
A目を天に向けようともしなかった。
顔を上げられなかったんでしょうねぇ。
B自分の胸をたたいた。
「自分の胸をたたく」というのは、悲しみの表現だと言われています。
C言った。
声に出した、ということです。
パリサイ人は声に出してないんですね。
11節に「心の中でこんな祈りをした」――パリサイ人は心の中で祈った。
ところが取税人は声に出してお祈りをした、4つの動作です。

そしてたった一つの訴えを神さまに献げています。
「神様、罪人の私をあわれんでください」と。
【四つの動作と一つの訴え】――これが取税人の祈りです。

このパリサイ人と取税人の二人のお祈りの結果、それはどうだったか?
イエスさまはこのように語っています。

14あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

と、この話の締めくくりをイエスさまはされています。
「義と認められて家に帰ったのは、この人」だった。この取税人だった。「あのパリサイ人ではなかった」。
イエスさまは「あのパリサイ人」という表現と「この人です」――「この取税人」という意味ですね。
「あの」という言葉と「この」という言葉を巧みに使い分けられていることが分かります。
この取税人が義と認められたんだ。
そして「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」と。

2)イエスさまの価値観

どういう価値観を持っていたか?このたとえ話からよく分かると思います。
イエスさまは、パリサイ人の真面目な努力そのもの、それを否定されているわけではありません。
しかし神さまの恵みをいただくために、義と認められるために、一生懸命努力して頑張った、
そういう動機で努力して頑張った、そのパリサイ人を高く評価されていないということが分かります。
いや、そのような人たちを好ましく思ってはおられなかった。
聖書の他の個所からもイエスさまの思いが伝わって来ます。

それはなぜか?
自分が頑張っている内に、一生懸命努力している内に、頑張っていない人たちに対して、努力していない人たちに対して、見下すような態度を取るようになるからです。
イエスさまは実際そのような人たちを前にして、このたとえ話を話されたということが分かります。9節をご覧いただきますと――

 9自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。

イエスさまは「ほかの人たちを見下している人たち」に対して、特にこの「パリサイ人」に対して、このたとえを話されたわけです。
たとえ話に出てくるパリサイ人も、人々を見下していました。
11節のお祈りの中で、「私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないことを感謝します」。
そして「この取税人のようでないことを感謝します」。
パリサイ人は他の人たちを見下していました。

自分の頑張り、努力、一生懸命さと比べて、他の人を見下す。
考えてみれば、ああ他人事ではないなぁって思います。
日常生活の様々な場面で、大なり小なり経験しています。

電車に乗る時、私(戸塚伝道師)も人をかきわけて、追い越して、階段を走り上って、駆け込み乗車に成功した時、そんな感じがしますね(笑)。
直後に(※両手を端から真ん中でピタッと合わせて)ドアが閉まって、ホームに取り残された人を見た時に(笑)――
「やったあ、神さま、感謝します。あの人のようでないことを感謝します」(大笑)。
一瞬でもふと思う自分がいますね。心の中で。あの人のようでないことを。

受験勉強もそうですね、考えてみれば。
自分の努力や頑張りで合格した。合格した喜びのその裏に、
「ああ、あの人のようでないことを感謝します」と、がっかりとして家に向かう不合格の人たちに対する思いがあります。
でもしょうがないですよね、受験勉強、受験競争はそういうもの。

早い者勝ちもそうでしょうね。
「ああ、よかった。早くから準備しておいてよかった」。「早くから並んでおいてよかった」。
後から来た人は――「ああ、だめだった」――そういう人たちに対する思いです。
私たちは往々にして、自分の頑張りに比べて他の人を見下す、という思いが心のどこかにある。

「感謝の祈り」や「感謝の証し」をする時に、その奥に潜む自分を高くする要素に気づかされることがあります。
「神さま、健康が支えられていることを感謝します。一年間風邪一つ引きませんでした」――ああ、感謝ですね。
「私は聖められました。罪から解放されました」――ああ感謝ですね。
「今年洗礼を受けた人が10名与えられました」――感謝ですね。
「ご奉仕が祝福されています」
ありがとうございます――「感謝のお祈り」「感謝の証し」

しかし、そのこと自体は神さまに栄光を帰すすばらしい行為であるのにも関わらず、
感謝の証しをする人が、お祈りをする人が、心の奥底に――
「ほかの人たちのようでないことを感謝します」
「あの教会のようでないことを感謝します」
「私たちは祝福されています、神さまから沢山の恵みを与えられています」
「ああ、感謝します、感謝します。でもあの人たちのようでないことを感謝します」
たとえそれが、神さまからいただいた一方的な恵みのゆえであったにもかかわらず、
いつの間にか、「感謝します」の言葉の裏に――
「ああ、よかった。あの人のようでなくて」「ああ、よかった。あの教会のようでなくて」
――様々な思いが私の心の中に湧いて来ることがあります。

今回も藤木正三先生(***1927〜2015)の文章を紹介したいと思います。
日本基督教団の京都御幸町(ごこまち)教会の牧師(***1993年引退)であられた方です。
前回ごこまちというところをみゆきちょうと、私(戸塚伝道師)紹介してしまいました。
不勉強で申し訳ありませんでした。特に御幸町にお住いの方、大変失礼いたしました。みゆきちょうではありません、ごこまちですね。

ちなみにこの教会は120年以上も前に京都の地に創立された教会で、関西学院(かんせいがくいん)大学の流れを汲むメソジストの教会であります。
ネットで調べますと、すごいすばらしい会堂で、なんと会堂は建築技師ウィリアム・メレル・ヴォ―リズ(***1880〜1964 米出身、日本で多くの西洋建築、社会事業家、信徒伝道者)が手掛けたということで、
「なるほどヴォーリズ建築によるものなのだ」と、しかも「そのヴォーリズ建築としては、日本最古のものが御幸町教会の教会堂だ」ということなんですね。

その教会の牧師先生であられた藤木正三先生が、このような文章を書いています。
「勝てないものを相手に」
何かしら、醜さを感じる人がいます。教養がないわけではない。性格が悪いわけでもない。むしろ、細やかな思いやり、洗礼された言葉遣い、非の打ちようがないのに、何か醜さを感じる人がいます。
そういう人に共通しているのは、表面には出さないようにはしていますが、勝利者の意識を持っていることです。この場合「勝つ」とは人に勝つこと。小さな勝利に酔っていることのその浅ましさが醜さなのでしょう。
美しく生きるためには、どうしても勝てないものを相手に生きねばなりません。信と美とが結びつく所以(ゆえん)の一つはここにありましょう。
――ここまで読み終わり――

このように藤木先生は書いておられます。
醜さを感じさせる生き方ではなく、美しく生きるためには、どうしても勝てないものを相手に生きることの大切さを先生は述べておられます。
信と美が結びつく所以、信じることと美しさとが結びつく理由の一つがここにあるんだということです。
どうしても勝てないものを相手に、自力で頑張ってもどうにもならない、それを相手に生きることの大切さ。

自分で頑張ってもどうすることもできないもの、どうしても勝てないものって何でしょうね?
たとえば「罪」がそうですね。
罪を相手に生きようとした時に、罪に勝てないから、(※ルカ18章では)取税人の祈りが生まれるんですよ。
「神様、罪人の私をあわれんでください」(13節)――これしか言いようがないんです、取税人は。

パリサイ人は勝てるものを相手に生きていました。
努力すれば、頑張れば神さまの恵みは手に入ると思っていました。
真面目に律法を守っている、という勝利者の意識を持っていたのがパリサイ人でした。
「私は奪い取る者に勝ちました。私は不正な者に勝ちました。私は姦淫するような者に勝ちました。私は取税人のような生き方に勝ちました。感謝します」。

私はどうでしょうか?
罪に勝てたのでしょうか?いやいや、勝つことはできない。
どうしても勝てないもの、罪だけではないですね。
罪の他にも、人によってそれぞれあるでしょう、具体的に、色々なものが上げられると思います。
実際に今、そのような、どうしても勝てないような問題課題を抱えておられる方が沢山おられると思います。
その現実に真正面から向き合う時、私たちの口から出る祈りはただ一つ。
「神さま、私をあわれんでください」――これだけです。
どうしても勝てないものを相手にした時、これ以外、言いようがないですね。
「神さま、罪人の私を憐れんでください」
「神さま、弱い私を憐れんでください」
「神さま、不安な私を憐れんでください」
「神さま、戸惑う私を憐れんでください」
「神さま、傷つく私を憐れんでください」

途方に暮れる私を憐れんでください、すぐ切れてしまう(笑)私を憐れんでください、神さま、すぐ有頂天になって自己満足し、傲慢になりがちな私を憐れんでください(アーメン)。
神さま、こんな○○な私を憐れんでください(笑)――○○に一杯色んなものが入ると思います。

そして今日、特別にこの祈りにも心を留めておきたいと思います。
「神さま、老いていく私をあわれんでください」
私たちはどうしても勝てない「老い」をも相手にしているからです。
「老いていく私を憐れんでください」

私は来月で67歳です。若い頃、十年前でも、いや二年前でもこんなお話はできませんでした。
「老いていく私を憐れんでください」
3つ目の視点としてこれをお話して、思いを巡らして終わりにしたいと思います。

3)老いる恵み

女優の樹木希林(きき・きりん)さんという方がいます。
この樹木希林さんは3年前の9月15日に75歳の生涯を全身癌で終えました。
希林さんはご自身を仏教徒だとお話しされていたことがありますけれども、
しかし、イエスさまの恵みに触れる機会が与えられていました。
それは先輩女優、長岡輝子(ながおか・てるこ)さんとの出会いです。

長岡輝子さんはキリスト者です。
長岡さんは晩年故郷の岩手の方言を生かした、宮沢賢治の作品の朗読活動を精力的に行った方です。
長岡輝子さんのライフワークとも言えるものでした。
長岡さんとの交流の中で、樹木希林さんは長岡さんの朗読する、ある一篇の詩に心が惹きつけられます。
その詩のタイトルが「最上のわざ」という詩でした。

この詩はドイツ人の宣教師で、かつて上智大学の学長にもなったヘルマン・ホイヴェルスという人(***イエズス会神父1890〜1977)が、その友人から送られた詩です。
(※最近、2021年6月のつばさ誌にも引用されています)
    「最上のわざ」
この世の最上のわざは何?
楽しい心で年を取り、働きたいけれど休み、
しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。
老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
――ここまで読み終わり――

「老いの重荷は神の賜物」とあります。
どうしても勝てないものの一つに、老いがありますね。
老いを相手に真正面に向き合う時、それは恵みになる。
どんな恵みでしょうか?
一番の恵みは、神さまの前にも自分の前にも、徹底的に自分が低くされることです。
その時イエスさまは言われるんですね。
「あなたは高くされますよ」と。

神さまは、私たち一人一人の存在そのものに価値を認められ、大事にされるお方。
たとえ今までと同じようなことができなくなったとしても、神さまはそのような一人一人に目を留められるお方です。
だから「老いの重荷は神の賜物」なのです。
神の賜物――神さまからのプレゼントなのです。
「老いる」ということは神さまのプレゼント。なぜか?高くされるからです。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。

だからイエスさまは言われました。マタイの福音書5章の3節でこう仰いました。
<マタイ5:3>
3「心の貧しい者は幸いです。
 天の御国はその人たちのものだからです。

とイエスさまは仰っているんですね。
ご紹介した最上のわざという詩にはまだ続きがあります。
次の文章で締めくくられています。

(※続き)
神は最後に一番よい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

☆お祈りいたします――戸塚伝道師
あの取税人のように、どうしても勝てないものを相手に、私たちもあなたに訴えます。神さま、罪人の私を憐れんでください。神さま、このような私を憐れんでください。そしてどうぞイエスさま、十字架・復活の贖いのみわざの一事のゆえに、この朝私たち一人一人を祝福してください。救い主イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2021.09.19 - 20:31

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