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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/26 信仰をもってイエスに触れる マルコ5:25〜34
☆聖書箇所  マルコ5:25〜34
   25そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
26彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。
27彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒されたことをからだに感じた。
30イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
31すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」
32しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。
33彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
34イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」

☆説教  信仰をもってイエスに触れる 
私(藤本牧師)は、実は今日は広島キリスト教会の予定でありました。以前(※単立)広島キリスト教会の植竹利侑(うえたけ・としゆき)先生(※2019年1月召天)を高津教会の特伝(特別伝道集会)にお招きしたことがあります。今はお嬢様(※日山ひやま・かおる牧師)が牧会しておられます、広島で一番大きな教会です。

昨年もオンラインになりました。今年もオンラインで、私は9時の礼拝にはご挨拶に出ました。今年もこの礼拝が終わってからご挨拶に出て、そして午後からは講演をこの場所からいたします。ま、色んな方法で、教会の働きができるんだな、ということを深く実感していますが、
しばらく高津教会でマルコの福音書――私はいきなりヨセフに飛ぶ勇気がなくて、しばらく聖書の中の女性を何人か見て、そしてできましたらアドベントまでそれを続け(笑)て、うまくいけば来年ヨセフ物語で始めたら一番いいのかなぁという風にも考えております。

ああ、それから来週は聖餐式礼拝ですので、いいですか、いつも聖餐式礼拝をぽっと忘れてしまって、言われてから慌てて――ま、近くにコンビニがあればいいんですけれども、なかなかそうはいきませんので――せめてぶどうジュースは買っておいてください。せめてパンは、ま、三日ぐらい前に買って、冷蔵庫の中に入れておけばいいんです。
その時にちぎってきちっとトレイに載せて、画面の前に出してください。いいですか?ぞんざいに礼拝の最中に袋をバリバリと開けて(笑)、そこで裂いてそして一枚食べちゃった、と言いますと――ま、それもお昼ご飯になっていいのかもしれませんけれども――なんかあまりにも聖餐式に申し訳ないような思いがいたします。きちっと教会でやるようにやろうではありませんか。よろしくお願いいたします。

昨年私たちの教会家族になりましたMKさんという神戸の方がいらっしゃいます。「広島に行く途中、新幹線のホームで洗礼を授けますから」という風に申し上げておりましたけれども(笑)、延期になりました。このコロナ禍に高津教会に連なった方々は沢山いらっしゃいます。また、行く教会がなかなか見つからなくて、高津の礼拝をずっと守っていらっしゃる方もいらっしゃいますし、既に転会状を送って来られた方もいらっしゃいます。転会式はまだいたしておりません。そういう意味で、高津教会の家族がより大きくなっているということと同時に、高津教会の家族でなかなか連絡の取れてない方がいらっしゃいましたならば、ぜひ互いに声をかけながら、皆さんと共に礼拝が守ることができたらと思います。
(※ここまで☆お知らせの追加)
****************〜〜〜〜〜〜〜〜〜*****************
(説教はここから)
さて、マルコの福音書の5章に、12年長血を患っていた女性が出てまいりますね。
で、イエスさまに触れることによって癒されると、彼女は考え、この出来事はあまりにおもよく知られています。
同時にあまりにも含蓄があります。
そこで今週は出来事の前半、来週は聖餐式を考えて、出来事の後半をお話をいたします。

物語は一言で、群衆の中から一人の病気の女性が出て来て、イエスに触れ、癒されたということなんです。
しかしこの出来事はまさに私たちのことである、ということを念頭に三つのポイントで聞いていただきたいと思います。

1)大勢の中の一人

イエスはすでに大変有名な存在になっていました。
ガリラヤの一角で働いておられた。神の国の権威ある教えを語り、悪霊を追い出し、病を癒しと。
3章の7節をちょっと映しますね。
その結果、エルサレム地域一帯から、イエスさまを一目見ようと人々が集まってまいります。3章の7節からちょっと読んで行きますね。ここですね。
【画面:マルコ3章7節「非常に大勢の人々が」「ユダヤから」8節「エルサレムから〜非常に大勢の人々が」に水色のハイライト。
<マルコ3:7〜8>
7それから、イエスは弟子たちとともに湖の方に退かれた。すると、ガリラヤから出て来た非常に大勢の人々がついて来た。また、ユダヤから、
8エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうや、ツロ、シドンのあたりからも(***東西南北ですね、と説明)、非常に大勢の人々が、イエスが行っておられることを聞いて、みもとにやって来た。

この3章には「大勢の」という言葉が、何回も何回も出て来ますので、イエスさまの噂がガリラヤだけでなく、イスラエル一帯に広がっていったということが言えます。
イエスさま自身がこのようになって行かれましたので、行くところどこででも人々が集まって来ます。

ところが、この場面、4世紀のアウグスチヌスがコメントしています。
「多くの人々がイエスに群がっていても、イエスに触れたのはたった一人であった」と。
押し合い圧し合い、ほとんどすべての群衆は興味本位で、少しでも近くでイエスを見ようと集まって来た。
勿論イエスに触れた人物も多くいたに違いありません。
イエスが動けば群衆も動く。

しかし、群衆がいわば多いからと言って、それだけイエスさまの奇跡が増えたわけではないんです。
この場面でイエスさまの奇跡は一か所しかないですね。
その場面を聖書からもう一度見ていただきたいと思いますが、(5章の)25節からこうありますね。
【画面:マルコ5章26節「何のかいもなく」に赤いペンで囲み。】

<マルコ5:25〜26>
25そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。
26彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。

ここは、いくつか困難な言葉が書いてありますね。例えば――
「12年の間」――長いですよね。長い人はもっと長いと思いますけれども、しかし入院設備もない中、12年間、長いですね。
「長血を患っている女」――長血というのは、出血の止まらない病気です。そうしますと体力も落ちますよね。免疫力も落ちますよね。そして、
「彼女は多くの医者から」――色んな医者を変えていった。これは現代でもあるでしょう。
「ひどい目にあわされて」――昔のことですから怪しげな呪術師もいたと思います。そういうケースに限って、多くの診療費を要求されたでしょう。ですから、
「持っている物をすべて使い果たしたが」――もう悪いことが連続して書いてありますよね。
「何のかいもなく」――何のかいもなく、だったらまだいいんです。でも最後に、
「むしろもっと悪くなっていた」

いいですか。これが時に私たちの現状そのものですね。
数年経っても事態は改善されない。そして、その事態としては、ますます悪くなっていく。
これが何とか変わるように、色んな努力を重ねていった。しかし変化はない。むしろ失ったことの方が多かった。――こういう場面の話なんだ。

同じような苦しみを抱えている人が、この群衆の中に多数いたかもしれません。
そういう思いでイエスさまの後をついて行った人は、他にもいたに違いありません。
でも結果として、多くの人がイエスさまの周りに群がり、
でも「イエスさまに信仰をもって触れた人は、一人だけであった」という事実は残っているんです。

礼拝に来たら、私たちは私たちの創造主、救い主、いのちの源である神に感謝をささげ、
私たちのためにいのちを投げ打ってくださったイエスさまを賛美いたします。
でも時に、それだけでは私たちは群衆に過ぎない場合もあります。
礼拝に来て、「神を賛美する」という、この人生で最も尊い営みなんですけれども、
もしかしたらイエスさまが求めていることは、単に「わたしを礼拝しなさい」ということではなくして、
あなたの心の内にある人生の叫び、その課題の具体性――そのために「この場でわたしから力を受け、癒してほしい、助けてほしい、という願いをもって礼拝に来なさい」ですね。

週に一回礼拝をいたします。
時に何十年もしていますと、それはマンネリに陥っていきます。
マンネリに陥っていく中、礼拝の時間が来たから、一時間礼拝を守ってという、そのルーティンの中で、
大した期待も持たず、大した祈りもなく、自分の問題は自分の問題として抱え、
そしてきちっと神を賛美し、祈りに耳を傾け、説教を聴いて、時に「恵まれた」と礼拝を閉じる。
でも考えてみたら、この礼拝の期間中に、「自分の叫び声は一度たりとも神さまに向かって上がっていなかった」ということもあり得る。

2)ですから、私たちは信仰をもってイエスに触れます。

(マルコ)5章の28節、また映しますね。こうあります。
【画面:マルコ5章28節「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」に赤の傍線、27節「群衆とともにやって来て、後ろからイエスの衣に触れた」にオレンジのハイライト】

28「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。

ここに*印がありますでしょう?――「思っていたからである」
*印の注のところには、直接の訳が書いてあります――「言っていたからである」
でも後ろから触るような人物が、こういう言葉を大きな声で言うはずはないですね。
ですから「心の中で言っていた」ということでありましょう。
ですから、「思っていた」と記されています。

でももしかしたら、「あの方の衣にでも触れれば、私は癒される」という言葉を、この女性はもっと何度も言っていたのかもしれません。
ま、10分前からイエスさまの姿を見るようになり、イエスさまの姿を見てから、
「あの方の衣に触れることができるなら、私は癒される。そのようにして癒された方も多いと聞いている。何とかして〜」と言っていたのかもしれません。

でも、後ろから近づいてイエスの衣に触れた、ということに意味がある。
つまり、心の信仰の内容にも意味がありますけれども、それを実行に移した。行動に出た
――ここに大〜きな信仰の一歩があります。
つまり、今朝の皆さん、心のうちにモヤモヤとした思いがあるとして、
礼拝で説教を聞きながら、モヤモヤとした心は一度も主に打ち明けることなく、礼拝を終わってしまったら、
それはイエスの周りに集まった群衆の一人に過ぎない、ということですね。
でも「この方に触れるならば、私はこの方から力と守りを、導きを、助けをいただくことができる」と思って、この方に触れるなら、
それは私たちの行動の一歩として現れて来るということでありましょう。

旧約聖書には、「血はいのちである」という、いのちの尊さが記されています。
血がいのちであるからこそ、動物のいけにえが私たちのいのちの代わりになる。
血にいのちがあるからこそ、十字架のイエスの血が私たちを贖うわけですよね。

ところが同時に、血に対する嫌悪――警戒と言っても嫌悪と言ってもいいと思います。
血をことさら避ける文化が、旧約聖書の中に織り込まれています。

もう10年20年位前に、私(藤本牧師)はNHKで「現代サマリア人の生活」という特集を見ました。いまだに忘れもしません。
「サマリア人」という言葉はよく聞く言葉だろうと思いますが――
サマリア人というのは、ソロモンの王国、ソロモンが死んだ後に南北に分裂します。(***BC926)
南は小さなユダの王国、そして北に大きなイスラエル王国ですね。
分裂したはいいんですけれども、南の小さなユダの王国にエルサレムという中心(神殿)がありました。

ということは、結局、北の人たちもみんな南に心を寄せてしまうだろう、と思った北のヤロブアム(*** 931〜910)という支配者は、北に異教の神殿を造ります。
それが偶像崇拝の元となって、北のイスラエルの方が南のユダよりも一層偶像崇拝が盛んになっていきます。
そしてやがてアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいます。(***BC722)

アッシリア帝国には帝国の方針がありました。
それは自分の植民地に、他の植民地から人々を連れて来て、そしてそこに住まわせてしまう。
当然10年20年したら、雑婚が始まりますよね。ま、普通に国際結婚が始まりますよね。
そのようにして、北のイスラエルの民族的なアイデンティティーを消滅させるということを、アッシリア帝国は至る所でやります。
ですから北のイスラエルの人々はもはやユダヤ人としての純粋性はなく、サマリア人と呼ばれるようになり、

そしてバビロンに連れて行かれたのは、あのバビロニア帝国によって数十年後に滅ぼされた(***BC586)南のユダの王国ですから、
そして70年の捕囚期間が終わって戻って来て(***BC539)、神殿を立て直し、やがて町を立て直しという段階で、
「信仰の純粋さを守ったのは、私たちユダの者たちだけだ」という自負が出来上がります。
そこで本来兄弟民族のはずが、サマリア人をことさら敵対意識を持つようになるんですね。ですからイエスさまの時代、「サマリア人とユダヤ人は何の関係もなかった」と書いてあるではないですか。

現代のイスラエル国家はユダヤ人なんです。
かつての敵対関係を反省しまして、サマリア人を国に住まわせているというのが、NHKの特集でありました。
大変興味深い側面が幾つもありました。
住んでいる一角はそんなに多くないんですけれども、特別に優遇して、皆さん立派な外車に乗っておられました。

ところがサマリア人は、自分たちが昔、旧約聖書の教えに不服従であったということをことさら悔いて、正式なユダヤ人以上に昔の旧約聖書を厳格に守っている、ということを番組の報道は描いていました。
たとえばいまだに「許婚 いいなずけ」の結婚式だと。「許婚 いいなずけ」というのは、子どもが小さいうちに親同士が決めてしまうんですよ、相手を。
いまだにそれをやっているという話ですとか。

血を避けるということをやっていました。鶏肉を捌くときの料理の仕方とか、
普通の家庭に必ず、壁と壁、普通壁は一枚ですよね。それを二枚にして、間に空間を設けて壁と壁、つまり部屋と部屋が接触しないようなシェルターのような部屋が必ずある、現代でも。
で、生理中の女性はその部屋に入って過ごします。
お母さんがご飯を持って来る度に、ご飯の載っているプレート(皿)を約5センチ位上に上げパッと放すと、女の子が下で受け取る――全く接触がないですね。
女性が出産しますと、その部屋の中に入って一か月を過ごす。その部屋には手洗いもシャワー室もついているという。
これはもうユダヤ人以上に旧約聖書の律法に厳格、そのままを守っていますね。
恐らくイスラム教徒以上だろうと思います。

そういう背景を念頭に入れてみましょう。
というのは、そういう背景というのは、当時のイエスさまの時代にはまだあったわけですよね。
すると、この女性がイエスさまに触れたということは大変な出来事です。
その「出血が止まらないという病」を持っている限りにおいて、家族と一緒に住めないです。それから町の人々と一緒に住めない。
町の外に住んでいて、その女性がどさくさに紛れてイエスに触れるというのはすごい出来事です。
「あの方の衣に触れることができれば、私は救われる。でも触れてはいけないのが私だ」ということが、彼女はよく分かっているわけですね。
すると、信仰の本質が分かります――それは「言う」、あるいは「心の中で言う」ということ。
とっさの行動でいいから、一歩踏み出すことです。
一歩踏み出す――「洗礼」というものがそういうものなのかもしれません。
或いは、「ある教会に属する」ということがそういうことなのかもしれません。
《神の力に期待して、一歩踏み出す》ということの尊さ――それはありとあらゆることですね。

アメリカでよく言います。「熱いストーブに触れた猫は、二度と冷たいストーブにも触れない」と。
一度嫌な思いをすると、二度目はないということですよね。
私たちは一度期待して神に信頼したのに、結果が出なければ二度と期待しない、としたら、その猫と同じですね。
熱いストーブに触れた猫は、二度と冷たいストーブにも触らない。
すると私たちはいつまで経っても、群がる群衆のままで、イエスさまに触れようとしないでしょう。
それでも私たちはイエスさまに期待する。いや、それだから、私たちは期待する。
いつも期待しての一歩だということを、私たちは忘れない礼拝でありたいと思います。
何度その祈りが答えられなかったとしても――この女性は12年ですけれども――しかし私たちはイエスに触りに行くという信仰を持ち続ける。

3)イエスさまは触れることを許された、よしとされたお方

私たちが何度でも触れていいのは、イエスさまが許してくださるからなんですね。
よく考えてみましょう。
この女性は、イエスさまに触れてはいけないという病を持っていました。いいですか?
それだけでなく、イエスさまのことをよく知りません。初対面でしょう。

ちょっと言い方を変えますとね、
「十分な信仰を持っていない。きよく正しく生きてもいない。キリスト者として誇れるところは、何一つない。だから私はイエスさまには触らない」
と言うな、ということです。

「こんなに汚れているのに、こんなに罪深いのに、こんなに信仰がいい加減なのに」
――言うなれば、「私は12年もイエスさまのもとを離れているのに」
――言うなれば「私はこの方と初めてお会いするのに」
「この方のことをよく分かってもいないのに」
「私は触れてはいけない立場なのに」「キリストの教えは聞いたこともないのに」「資格も何もないのに」「すべて病で使い果たしてしまったのに」
そうではないですね。
私たちは真実な思いでイエスに触れに行く。
なぜなら、イエスさまは触れることを許してくださるお方であるからです。

病は癒されました。
この女性が何かしたということではないです。
触れただけなんです。
信仰をもって触れただけなんです。
触れることを許してくださったイエスさまから、力が流れて私たちを変え、癒し、救い、助け、守り、平安を与えてくださる。

群衆から抜け出すのは、一歩でいい。
イエスさまの前に群がっていないで、一歩踏み出して触れる。
それは間違いなく今日できることです。
今日の礼拝でできることです。
群衆として主のそばに群がっているのか?
それともその苦しみを背負ったまま、頑張って一歩踏み出してイエスさまに触れるのか?

必ずしも癒しを求めて触れるということだけではないでしょう。
必ずしも、触れたら問題が解決するということでもないでしょう。
そういう魔術的な世界ではありません。

しかし明確なことがあるんですね。それは主イエスが私たちの人生を導き、守ってくださるお方であるということですね。
この方が私たちを愛して、私たちのためにいのちを捧げてくださったお方であるということ、
神はこのお方への信仰と共に、すべての必要なものを私たちにくださるということ、
死もいのちも、この方の御手の中にあるということ、
そして、この方は私たちが触れるということを許してくださるお方であるということは、結果が出るか出ないか以前に明白なことです。
そしてこの方に触れるということは、私たちの人生に与えられた最大の特権であるということを心に留めて、来週の礼拝にもまたお出でいただきたいと思います。

☆お祈りをいたします――藤本牧師
27彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
(マルコ5:27)
恵み深い天の父なる神さま、12年間の労苦を負った女性が、無言のままうしろからやって来てあなたに触れました。しかし、その行動はあなたに対する絶大な信頼でありました。この信頼をもってこの女性は、群衆から一歩抜きん出た特別な存在になっていきました。あなたは私たちをそのように招いていてくださいます。「だれでも疲れている者、重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい」(***マタイ11:28)と仰ったごとくに、私たちは自分の抱えている重荷を抱えたままにしていないで、あなたのもとに来て降ろすことができますように。様々なことをあなたにお任せして、あなたから力をいただくことができるように助けてください。また病んでおられる方がおられましたならば、この女性のようにその方を癒してくださることを、私たちは教会の家族全員の祈りとして願っています。どうか助けてあげてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2021.09.26 - 21:34

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