☆聖書箇所 マルコ5:25〜34 25そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。 26彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。 27彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。 28「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。 29すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒されたことをからだに感じた。 30イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」 31すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」 32しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。 33彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。 34イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」
☆説教 聖餐式:信仰をもってさらに前に 前回マルコの福音書の5章を見ていただきました。 そして、前半である12年間出血の止まらない病気にかかっていた女性が、群衆に紛れてイエスさまの衣に触れて、癒されたという話でした。
前回の要点はこの女性の信仰にありました。 心の中で、「この方の衣に触れれば、きっと癒される」――それを心の声に止まらず、いや、声だけにせず、 行動を起こして実際に第一歩を踏み出し、イエスの衣に触れました。
信仰というのは、この第一歩を踏み出すという行動から始まっていく、ということもお話をいたしました。 神さまの約束を信じて一歩踏み出していく。 いきなり百歩は行けません。一日一歩でいいんです。 でも神さまのみ守りと約束を信じて、一日一歩踏み出していく。 神さまの、イエスさまの愛を信頼して、一歩踏み出していく。
群衆はイエスさまの周りに群がっていました。しかしイエスに信仰をもって触れたのは、この女性たった一人だった、というお話をしました。
礼拝に来たら、私たちは創造主、救い主、いのちの源である神に礼拝を捧げます。 でもそれだけではありません。 むしろ、メインはここに出てくる女性のように、イエスに個人的に触れることであります。 それは今のオンライン礼拝にあっても同じです。 共に賛美し、イエスの力をいただいて、癒してほしい、助けてほしい、力をください。 でしたら、その力を信じて、イエスに手を伸ばす。
触れることを許してくださるイエスさまは、私たちを迎えてくださいます。 こんなに汚れているのに、こんなに罪深いのに、こんなに足りないのに、こんなに信仰がいい加減なのに、 そう言いながらイエスに群がっていないで、思い切ってイエスに触れてしまうことです。
群衆から抜け出すのは一歩でいい。 《イエスの前に群がっていないで、一歩踏み出して触れてみなさい》ということは、 今日の礼拝を他人事としないで、自分の礼拝だと思って臨んでください。 それは、今日もできることでありまして、 苦しみを背負ったまま、主イエスに触れるのか? いつまで経っても、他人事であるかのように礼拝を守るのか? 今日の聖餐式には、格別それが問われていると思います。
短く2つのポイントでお話をいたします。
1)勇気ある一歩をもって後ろからイエスに触れた女性は、
33節をちょっと見ていただきたいと思います。ちょっと映しますね。 【画面:マルコ5章30節「だれがわたしの衣にさわったの」31節『だれがわたしにさわったのか』32節「だれがさわったのかを知ろうとされた」にオレンジのハイライトと赤ペンで傍線も。「知ろうとされた」と33節「真実をすべて話した」に赤ペンで囲み。】
33彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
後ろからこっそりイエスさまの衣に触れた女性は、さらに前へと進み出て、 今度はイエスさまの前に出て来ます。 そしてひれ伏して、余すことなく告げています。
状況はもうお分かりであろうと思いますけれども、こういうことですよね。 29節に女性がイエスさまに触れたとたん、出血がすぐに止まって病気が癒されました。 イエスさまは自分のからだから力が出て行った、ということに気がつかれて、 30節で群衆の周りで振り返り、 「わたしの衣に触ったのは、一体誰なのか」という風に問われました。 31節で周囲の弟子たちが、「群衆があなたに押し迫っているのに、『誰がわたしに触れたのか?』とあなたは問われるのですか」と。 するとイエスさまは、自分に触れた者を見つけようと、周りを見回しておられました。 そして前に進み出る女性の姿を見てくださいました。 33節に、女は自分に起こったことを知って恐ろしくなり、恐れおののきながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままに話したわけですよね。 実に味わい深い箇所ですね。
後ろから近づいた女性は、ここで初めてイエスさまの前に出て、イエスさまと話をします。 イエスさまは前に来るように、周りを見回しておられました。 「わたしの恵みを受けた人はだれだ?どこにいるのか?」と私たちを捜しておられることがよく分かります。
女性は、咎められるんじゃないだろうか?と、ま、出血の病を負っていますし、恐れを抱いて前に出ますが、 イエスさまには毛頭そのような思いはありませんでした。
最後全部終わって、イエスさまは34節で 「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」と、この女性に「娘よ」と声をかけられます。 年齢的にどっちが上だったのか、下だったのかは分かりません。 でも「娘よ」と言われる程大切にこの女性を見ておられた、ということがよく分かります。
イエスさまは「あなたの信仰があなたを数ったのです」というのは、よく言われますように、病気が治ったという以上の言葉です。もっと大きな言葉です。 「あなたは救われた」とイエスさまは仰いました。
そして続いてイエスさまは「安心して帰りなさい。病気にかからず、健やかでいなさい」というのは、病気の問題だけではないということですね。 「安心して」という言葉は、新約聖書のギリシャ語では「エイレーネー」、旧約聖書(のヘブル語)では「シャローム」です。 それは平安と安心。しかし心の問題だけでなく――神の恵みがあなたの人生を包みますように――という意味です。 ――神の祝福があなたの人生を包みますように――と。
病気という課題で、この女性はイエスさまに触れました。 私たちがイエスさまのところに来るのは、いつでも何かの具体的な問題があるからやってまいります。 しかしイエスさまは、この女性を前にして、この女性の人生を包むかのように仰います。 この女性の人生の行く末を祝福するかのように仰います。 「わたしはこれから先のあなたの人生を祝福する。今日のこの日を忘れてはいけない。救われている、という意味を後々よく考えてみなさい。」
女性は考えるんでしょうね。 そして色々イエスさまの教えを調べるんだろうと思います。 「救われる」というのは――あなたは神の国の相続人である――という意味なんだろうなと。 この女性はこれから先、何度も病気をするに違いありません。 しかしイエスさまのことばの中に――わたしを信じる者は死んでも生きるのです(***ヨハネ11:25)――というそのみことばがあった、ということを聞かされるんだろうと思います。 私が「救われている」というのは、そういう意味なんだろうなぁと。
或いはイエスさまは十字架にかかって、息絶えられ、しかし3日の後に復活されます。 なるほど、この自分の病気の期間というのは、イエスさまが息絶えたこの3日間と同じようなものなのかも知れない。 私にとっては3週間,3カ月かもしれない。しかし、神さまは必ず私に力を注いで、私を復活させてくれるだろうな、という希望に繋がっていくんですね。
わずかな出会いで、わずかなことしか記されていません。 しかしこの女性が、ここできっぱり別れを告げ、別々の道に行き、イエスと関わりのない人生を送って行ったというような描き方ではないですよね? この女性はこの日以来、イエス・キリストのなさったこと、忘れることはありませんでした。 そしてイエス・キリストを知っている方をいくらでも捕まえて、イエスさまの教えを吸収し、イエスさまの最後を見届け、イエスさまの復活の教えにあずかり、そしてキリスト者として生きて行ったということは、これはもう暗に含まれていて、この文章が存在しているわけです。
試練の時はこれから先もやって来るでしょう。 でもイエスさまは仰るんですよね。 「いつでもわたしの衣に触れていなさい。 わたしは今日からあなたの救い主となった。 わたしはいつでもあなたを応援している。あなたに力を与える。わたしはいつでもあなたを守る。あなたは神の御前に健やかに成長していく」と。
一体どういう存在なんだろうか?と思いますね。 人間ではたとえることができないでしょう。 きっとお母さんなら、いつでも守ってくれるに違いない。 ところがそれをプレッシャーに感じることもあるでしょうね。
私(藤本牧師)は牧師になった時に、父(先代・故・藤本栄造牧師)はまだ60ちょっとでありました。 私は30になったばっかりで、仕事に出かけて行く時に、父からよく言われました。 「頑張って来いよ」と。 私はそれを言われるのが嫌で仕方がありませんでした。 別に言われなくても頑張るから、と言う(笑)。 これは自分で頑張らなければいけない、という意識があるのに、後ろから「頑張って来いよ」と言われると、それがものすごくプレッシャーになりました。 私の母親〈先代・故・藤本幸子牧師〉は、何も言いませんでした。
私はよく家内に言いました。 「外の出張に出かける時に、『行ってらっしゃい』と言わないで、階下まで送りに来なくていいから」と――送りに来られるとプレッシャーになる。 ところがある日、外に出かけて行く時に、二階のベランダから「あなた、行ってらっしゃい」と手を振られました。 「今回はなんでそれをするの?」 「あなたは飛行機に乗って国外に行くでしょう。これが最後かも知れないから(笑)、一応手を振っておく」と(笑)言われましたね。 こういうのでいいんですよ。私はこういうのでいいんです。
何か頑張りなさいとか、見守っていると言われれば言われるほど、私にはプレッシャーになるんですよね。 でもそれでいて、何も言わないけれども、応援してくれる人がいる。 何も言わないけれども、力を与えてくれる人がいる。 何も言わないけれども、守ってくださる方がおられる。
この女性はイエスさまの言葉を忘れることはなかったでしょうね。 「安心しなさい。元気でいなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」 苦しんでばかり、健やかでないことの方が多いような私の人生で、 つまりイエスさまの言葉というのは、ここで命令形なんですね。命令形。 「安心して行け」「健やかであれ」 イエスさまの言葉が、この女性の人生をその方向へと送り出す、という意味です。 これを心に留めていただきたいですね。
自分の気持ち、自分だけの人生だったら、いつの間にか失望と落胆の道に足を踏み入れて、転がるようにその道を行く、ということは十分にあります。 でもイエスさまがみことばをもって命じてくださった、私たちの人生というのは、 何もそれに背を向けて、谷を転がり落ちるかのように、失望の道を行く必要はないんですよ。 「安心して行け」「健やかであれ」 一日一歩、あなたは祝された幸いな人となる。 私たちはイエスさまとそういう出会いをしている。
つまり治りたいが一心で、病気のゆえに後ろからイエスさまの衣に触れた。 その信仰はものすごく重要で、「群がっていないで、他人事と考えないで、自分のために主に触れるということをしなさい」と、前回では言いました。 でもそのように触れた人は必ず、イエスさまとの交わりの中に入る。そして前に出る。 その時に、イエスさまとの会話、会話だけでなくして、イエスさまの仰ったことを学ぶような人間になっていく。 そして様々な事があるに違いない。この日の出来事だけですべてが決まるわけでないかもしれない。 でも「安心していけ」「健やかであれ」という方向性に押し出された時に、 私たちは自分の限界に沈まない、沈まない人生を行くことができるわけですね。
私たちはそういう出会いをするために、聖餐式にあずかるんですね。 パンはキリストの肉の象徴でしょう。そしてぶどうジュースはキリストの血潮の象徴です。 すなわち二つもって、《キリストのいのち》を象徴しています。 私たちはそれを受けた時に、今日から始まる一週間、自分の力で生きることをしない。 主の守りと助け――主が黙って支えてくださる、私の内側から――それを意識することが大切ですね。
2)順番は逆になりますけれども、(マルコ5章)33節に聖書を戻っていただいて、これです。 【画面:マルコ5章33節※「恐れおののきながら」より指さしながら説明。「真実をすべて話した」に赤ペンで囲み。】
33彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。
「真実をすべて話した」――ということです。これ少し深く考えますので、聞いてください。 私たちはこれから《聖餐》にあずかります。 聖餐というのは、英語でコミュニオンです。コミュニオンというのは、コミュニティーという言葉があるように、《交わり》ですね。 「最後の晩餐」は交わりでありました。《聖餐》は今申し上げましたように、《いのちの交わり》であります。 心開かれた者同士が食事の場面にあずかります。
「すべて話した」――「すべて」って一体どれくらい話したんだろうと思いますよね。 時間がわずかですもの。ですから、すべてって言った時に、基本的に一番最初の25節26節にある―― 「先生、十二年間、ずっと病気でした。その病気の種類は出血が止まりません」(25節)。 26節に「多くの医者にかかりました。ところがどれもうまくいきませんでした。多くの医者にかかることによって、もう財布も空っぽです。でも何のかいもなく、ますます悪くなりました」 というような、病気にまつわる今までの自分の人生のすべてであって、生まれてこの方のすべてではなかったに違いないですよね、当然そうだろうと思います。 この場面の「すべて」というのはこの程度です。
でも問題はそういうことではないです。 この女性は自分の抱えている問題を、包み隠さずイエスさまに伝えた。包み隠さず。
そしてイエスさまはそれをじ〜っと聞いてくださった。じ〜っと聞いてくださった。 先週、アウグスチヌスの言葉を紹介しました。 「大勢がイエスに群がり、しかしたった一人がイエスに信仰をもって触れた。」 沢山の声がイエスさまの耳に入り、群衆はうるさいばかり。 しかし、今度、イエスさまは、たった一人この女性の言っていることに、悩み事に耳を傾けたということです。
じっとすべてのことを聞いてくださる主イエス・キリストを前に、 一言も話をしない私たちであってはいけないんですね。 声に出さなくてもいい。 私たちは《聖餐が交わりの卓》であるということを知りながら、 心にある今自分が抱えている悩みを、イエスさまに話せば話す程、 イエスさまはただじっとあなたの言うことを聞いてくださる。 私たちが群衆から一歩前に出ると、イエスさまもまた一歩前に出て、私たちの話を聞いてくださる。 それを今日だけではない、今週、できたら毎日毎日、私たちの言うことに耳を傾けてくださるイエスさまに、私たち、包み隠さずお話ししたいと思います。 《イエスさまに自分の課題をお話し、イエスさまがこれを聞いてくださる》。 これをホスピタリティー、と言います。ホスピタリティー。 日本語では、おもてなし、と言いますね。
《主イエスのおもてなし》が聖餐です。 聖餐というのはそういうものです。 「さあ、いらっしゃい。何でも話してごらん。 わたしは周りに大勢がいたとしても、あなたの言葉はすべて聞いているから。 わたしはあなたを前にして座るから、言ってごらん。 わたしにとって、あなたの心の声に最優先に耳を傾けるから、言ってごらん。」 イエスさまというお方は神さまですから、聖餐に集う私たちがどれほど多くても、それができるお方なんですね。
最後に、イエスさまのことばを、もう一度思い出しましょう。 「大丈夫。あなたの信仰があなたを救う。 わたしに信頼して、健やかに生きてごらん。 悩みに溺れちゃだめだよ。 わたしが助けるから。安心して自分を大切に、一日一歩進んでごらんなさい。」
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、たった一人群衆から一歩踏み出してあなたに触れたこの女性、今度はあたかも誰もいないかのように、たった一人群衆の中から一歩前に出て、この女性の言葉すべてに耳を傾けてくださったイエスさまが、最後「安心して行きなさい」と私たちを同じように、今週の課題、今月の課題、今年の課題に押し出してくださり、日々私たちを守ってくださることを心から信じています。 この一対一のホスピタリティーを受けるために、今私たちは聖餐卓の前に出ますので、どうかあなたにだけ、目を向けることができるようにお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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