☆聖書箇所 ルカ10:38〜42 38さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。 39彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。 40ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」 41主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。 42しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
☆説教 マルタ(1)どうしても必要なこと
ルカの福音書の10章を開いていただきました。 前回、前々回と「聖書に出てくる女性」を取り扱いましたけれども、できましたら年内、旧約聖書、新約聖書の女性にスポットを当ててお話をし、そして「ヨセフの物語」は元旦から始めることができたらと願っています。 マルタ(1)としましたので、来週(※説教は戸塚伝道師なので)、再来週ですか、マルタ(2)としてお話をいたします。
「どうしても必要なことはただ一つです」というのは、(ルカ)10章の42節に出て来ます。ここですね。【※画面:ルカ10章42節】
42しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
「必要なことは一つだけです」というのは、独特な表現として使われて来ました。 説明は要らないと思います。ベタニアの家に、ま、典型的に(違う)姉のマルタと妹のマリアが住んでいた。 この家にイエスさまが招かれて教えておられた、というセッティングで物語が始まります。
姉のマルタは、お客様を迎えもてなすために、あれやこれやと一生懸命であります。 ところが妹のマリアは、それを手伝いもせずに、じっとイエスさまの膝元に座って教えに耳を傾けていた。
40節を見ていただきますと、映しますね。 【※画面:ルカ10章40節】
40ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
妹は何もしていない。私だけが忙しく立ち振る舞っている。何とか妹にも手伝うように言ってやってください。
女性でありましたならば、マルタの気持ちが分からないということはないと思います。 ありそうでないのが時間で、静かに主の御前に座る時間を憧れても、 まずしなければならないことが多過ぎますでしょう。 子育て中のお母さんでありましたならば、子どもの弁当、掃除、洗濯、子どもの学校、子どもの勉強、ご主人の云々。 まずは子どもたちや夫のことに追われて、 その上、自分の自由の時間があったとすれば、からだを休めるぐらい、という状況ではないでしょうか? 今ではお母さんたちも働いていらっしゃいますので、ますます自分の自由な時間でじっくり主の御前に座るということはないと思います。
どんなにマリアのようになりたいか、しかし周囲の事情・責任を考えたら、なかなかなれない。いつまで経ってもその時間がない。
で、40節で、イエスさまに訴えたわけですね、その不満を。 すると、同情どころか、反省が返ってきた。
41主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
人にはマルタのようなタイプとマリアのようなタイプがいると言われています。 よく気が回り、気を遣い、働くタイプと、あまり何もせずに、自分のしたいことに集中できるタイプと。 イエスさまは別にこういう性格の違いを話しているわけではないわけです。 勿論、これは――この場では女性ですけれども――男性にも当てはまる。 つまり性別、性格のタイプに関わりない、ということで、3つのことを簡単にお話しいたします。
1) いろいろなことに気を遣って思い煩っている。
ある意味、マルタは色々遣り過ぎていたのかもしれませんね。 「色々遣り過ぎてしまう」というのは――これは、私(藤本牧師)なんかほとんどそうですね。 あまりにも遣り過ぎて、カレンダーを見ますと、一日の同じ時間帯に会議が二つ入っているとか(笑)ですね。 同じ日に、全然違う場所で集会が頼まれていた(笑)とか、 カレンダーを見た時にはチェックしたのになぁと思うんですけれども、 ま、いつの間にかダブルブッキングということも今まで二回ほどございまして、 皆さんに散々迷惑をかけたこともあります。 性分として色々遣り過ぎる――そういう生き方なんですね。 もう少し焦点を絞れば、そんなにびりびりしなくても落ち着いて物事をこなすことができるのに、 あれもこれもと無理はいけない。 も少し余裕をもって生きるようにというのが、これはもう当然のことでありまして、 今日はここに話を集中するつもりはございません、あまりにも当然なことで。
ですから私たちはいつも人生で何をすべきか?以上に、一番大切なものはいったい何なのか?ということを念頭に置いて、 他の様々のすべきことを並べてみないことには――全部はできないという前提で並べてみなければ――いけないわけです。
2)「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」――と前の訳はなっていましたが、2017のこの版になってから――「必要なことは一つだけです」となりました。
これは原語のギリシャ語のままを訳しているわけですね。 以前の「どうしても必要なことはわずかです、いや、一つだけです」の方が説明は丁寧です。 いきなり「必要なことは一つです」と言われますと、「いやいや、イエスさま、他にもいっぱいあります」と思わず反論いたしますが、 でもイエスさまが仰ったことは「必要なことは一つです」という、非常に単純なものの言い方をなさいました。 その一つのことを、文脈を考えれば、《イエスのそばに座っている、そしてイエスに耳を傾けている》ということが「必要な一つのこと」なんだろうと思います。
ちょっとマルコの福音書を開いて見てください。 マルコの4章「種蒔きのたとえ」というのがございます。映しますね。 【画面:マルコ4章14〜20節。15節「道端に蒔かれたもの」16節「岩地に蒔かれたもの」18節「茨の中に蒔かれたもの」にオレンジのハイライト】
14節に「種蒔く人は、みことばを蒔くのです」とあります。 「種蒔きのたとえ」というのは、「神の国はこのようなものです」と。 神の国というのは、イエス・キリストがみことばを蒔くことから始まっていく。 ところが15節見てください。(※指差しながら15〜19まで読んで行く)
<マルコ4:14〜19> 14種蒔く人は、みことばを蒔くのです。 15道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。 16岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、 17自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。 18もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、(※育つは育つんですけれども、と挟んで) 19この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。
つまり、イエスさまはみことばを蒔いてくださり、私たちを成長させてくださる。 私たちを形造って変貌させてくださる。 問題は蒔かれたみことば以上に、それを受け取る人の心だと。 折角蒔かれていても、もしそれが道端のような心だったら、サタンがついばんですぐに持って行ってしまう。 岩地のような心だったら、みことばを受け取りはしますけれども、根を張って自分の人生に生かすことはできない。 茨のように沢山の欲望や自分のやりたいことがありますと、みことばは芽を出しますけれども、やがては行く手を阻まれてしまいます。
この(マルコ)4章の中でイエスさまは繰り返し繰り返し、「聞く耳のある者は聞きなさい」と仰っています(9節、23節)。どういう意味か? それは《信仰をもって聞きなさい》という意味です。 しかも、このマルコの福音書の4章でイエスさまは「一気に語らない」と仰いました。4章の33節に、「聴衆の聞く力に応じて、みことばを話された」とあります。 ベタニアの家でマリアがしていることはこういうことなんです。 「聞く耳ある者は聞きなさい」と言われているように、信仰をもって聞いている。
教会で時々「神さまの取扱い」という表現を聞きますね。 あんまり一般では使われない表現です。 銀行のATMで何か失敗しますと、「お取扱いできません」(笑)という紙が出て来ますね。 「取扱う」というのは、あんまりキリスト教的な用語では、一般社会では使われていないんだなぁということをつくづく感じますが、
「神さまの取扱い」ということはこういう意味です。 今まで全く問題意識していなかった自分のある部分が、ある事柄を契機に示されるんですね。 たとえば自分の性格的に弱い所、あるいは、弱い人を裁いてしまったということ。 心の中に隠れていた妬みがあったということ。 ある事柄を契機に、罪深〜い自分が鋭く指摘されます。 多くの場合、試練を通ることによって、自分自身の足りなさ、不信仰というものに気づかされ、 それが契機となって悔い改めて、より深く神を信じるように変えられていく、
そのプロセスを、「神さまの取扱い」という風に言います。 私たちは、この取扱いを通らなければ、信仰はいつまで経っても幼いままです。 時が来たら、イエスさまはもっと多くのことを教えてくださいます。 しかし同時に時が来たら、私たちは取扱われ、そして時が来たら変えられて行きます。
でもすべては一点にかかっているんですね。 それは「聞く耳あるものは聞きなさい」という言葉にかかっている。 つまり「信仰をもって聞きなさい」とはどういうことか? それは、「傍観者として聞くな」。言うなれば「家の外で聞くな」。 言うなれば、イエスさまをもてなそうと思って色々料理に一生懸命で、何々しながら聞くなと。 マリアのようにイエスさまの膝元に座って、みことばを聞くということが、《どうしても必要な一つのこと》だと。
これは、なかなか難しいです。私たちもそうですけれども、 私(藤本牧師)も説教を語るだけでなくして、説教を聞くということが多々あります。 その時に集中して聞いているようで、頭の中は上の空ということも多々あります。 それはどういうことかと言うと、ま、出席はしているんですけれども、傍観者として聞いている。 あるいはこの場合で言うならば、家の外で聞いている。 中に入って、自分を関わらせようと思って、イエスの膝元に座って聞いているわけではない。 ただ関心があって、傍に来て、やって来て、そして話を聞いてみた――どうしても必要なことはそういうことではない。
どうしても必要なことは、聖書が語る神のみことば一つ一つを、自分自身の人生と心とたましいに関わらせて、しかも関わらせるだけではない。 信仰をもって、神の慰めと励ましの愛の声だと受け取ること。 そしてそれを受け取って、自分を変えていただき、それに基づいて自分が生きていくことですね――それが《どうしても必要なこと》。
無くてならないものは沢山ではない、わずかです、いや一つだけです――そういうことじゃないですね。 私たちの人生にとって、どうしても必要なことってあるのかって言われれば、ま、普通はいのちぐらいなもので、いや、いのちさえもそんなに必要でないかもしれない、と答えるわけですよね。
でもそうじゃない。《どうしても必要なこと》ってあるんですか、そもそも?って言われれば、イエスさまは「あります」と。 それは、神のことばを信仰をもって聞き、それを自分のこととして受け止めることです。 これはあなたがマルタのようなタイプの人間であろうが、マリアのようなタイプの人間であろうが、女性であろうが男性であろうが、全く関係ありません。 人間にとって必要なただ一つのことがあるとすれば、私たち人間は最終的には霊的な存在でありますから、 神の言葉を信仰をもって聞き、それを自分のこととして聞くこと――それが《ただ一つ必要なこと》です。
3) 神のみ前に座るとは、一体どういうことなのか?
マリアはイエスさまの前に座ったんですけれども、一体どういうことなのか? それは全地を造られ、私たちの人生のあらゆることを見そなわしてくださっておられるお方の前に座る、ということなんです。 でも私たちは普通、神さまの前に座ってお祈りをしている、ということだけで、 自分が一体誰の前に座っているのか?ということをきちっと意識できないですよね。 この方がどういうお方なんだろうか?ということを意識せずに、一応神さまにお祈りをする、ということが多々あると思います。
様々な厄介な問題が人生に降りかかった時には、本当に難しいと思いますが、 マルタの場合は食事を用意するという日常的なことでありました。 しかしそういう日常的なことではなく、迫り来るもっと大きな問題があるわけです。
で、ご一緒に詩篇の46篇を見ていただきたいと思います。 【※画面:詩篇46篇1〜11節。1節「避け所」「力」「強き助け」4節「川がある」10節「やめよ」「知れ」「わたしこそ神」に赤ペンで囲み。 4節「豊かな流れは」5節「神はそのただ中におられ」「その都は揺るがない」6節「諸方の王国は揺らぐ」9節「弓をへし折り」「槍を断ち切り」「戦車を火で焼かれる」に赤ペンで傍線】 (※ごめんなさい、見苦しくて。私風邪引いているわけでなくて、マスクをするとくしゃみが出て、マスクの素材を吸い込むんですよね。それでこういうことになって申し訳ないです、と礼拝中に度々鼻をかんでいることの言い訳をする藤本牧師)
<詩篇46篇1〜11抜粋> 1神は われらの避け所 また力。苦しむとき そこにある強き助け。 2それゆえ われらは恐れない。たとえ地が変わり 山々が揺れ 海のただ中に移るとも。 3たとえその水が立ち騒ぎ 泡立っても その水かさが増し 山々が揺れ動いても。セラ 5神はそのただ中におられ その都は揺るがない。・・・
1節に「神は われらの避け所、また力。苦しむとき すぐそこにある助け」ですね。 (2節)「地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移る」――これは詩的な表現ですね。天変地異というよりは詩的な表現で、山々が海の真ん中に移る程の変化が、私たちの人生にやって来るということ。 3節の「水が立ち騒ぎ 水かさが増し」ということは、危険はさらに大きくなるということですね。
(詩篇)46篇の8節を見てください。(※8〜10節を読まれる) 8 来て 見よ。【主】のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。 9 主は 地の果てまでも戦いをやめさせる。 弓をへし折り 槍を断ち切り 戦車を火で焼かれる。 10「やめよ。知れ。わたしこそ神。・・・」
この言葉が出て来るわけです。 ですから天変地異と呼ばれているような出来事というのは、水かさが増して来るという出来事は戦争の騒ぎが、危険がどんどん近づいて来る意味でありましょう。 そういう中で、神の御前に座ることができる者は、 10節の「やめよ。知れ。わたしこそ神」という声を聞くんですよね。
で、覚えておいていただきたいことは、この「やめよ」という言葉は強い命令です。「知れ」ということも強い命令です。 そして「わたしこそ、あなたの避け所、あなたの力、あなたの砦である神であるということを知れ」です。 「やめよ」とか「知れ」とかいう強い言葉は、まるで天から怒鳴られているような強い声なんですね。
17世紀のイギリスのピューリタン、文学者でもありましたジョン・バニヤン(***1628〜1688)という人がいます。 クリスチャンが人生を行き渡って、やがて天国に行き着くまでの「天路歴程」(てんろれきてい)という話を書いています。 皆さん、今でも普通に本屋さんで買うことができます。
主人公の信仰者が、死の陰の谷を通るところがあります。 その時、悪魔が背後から神を疑わせる言葉を発して来るんですね。 その時、信仰者は悪魔がささやいた言葉を、あたかも自分が言った言葉であるかのように戸惑ってしまいます。 ちょっと文章を引用いたしますね。
「私はかわいそうに信仰者がすっかり心を取り乱して、自分の声がわからなくなっているのに気がついた。
火が燃える穴に向かったちょうどそのとき、悪霊どもの中の一人が、その後ろへ回り、そっと忍び寄ってささやきながら、神を汚す言葉をほのめかした。
彼はその声をあたかも自分の心から出たものだと感じた。彼自身、自分が愛し信じてきた神を疑う言葉が、自分の心の中から出てしまったという事実に痛み苦しんだ。」 ――ここまで読み終わり――
私たちがとんでもないこの試練に立ち向かうその中にいる時に、様々な声を私たちも聞くわけですね。 自分の迷いの声であったり、あるいは周囲のアドバイスの声であったり、 でもその中に必ずサタンの声も、サタンのささやきも入り混じって来る、ということをバニヤンは言いたいんですね。
マルタではありませんけれども、 「私がこんなに忙しく立ち振る舞っていて、所詮あなたは私のことなんか何とも思っていないんですね」――そういう思いでマルタはイエスさまに訴えを出して来たわけです。 騒ぎ立つこの世界の真ん中にあって、私たちは様々な声を聞きます。 時にそれが自分の内側の声である、ということを意識して、揺らされて不信仰に転落していく。 でももしかしたらそれは自分の声ではなく、サタンのささやきかもしれないですよ。
そういう状況の中で、天から怒鳴るように神さまの声が響いて来る、というのがこの(詩篇)46篇です。 「やめよ。わたしこそ、神であることを知れ。」 ま、動詞の順番から言うと、「やめよ。知れ。わたしこそ神」という方が気持ちがいいですね。
私たち人間というのは、神さまから怒鳴られないとダメなんだと思うことが多々あります。 つまりイエスさまの前に、私たちが単純に座っている時に、何も愛とやさしさと励ましの声を聞くだけではない。時には怒鳴られるように、 「しっかりしなさい。わたしだ」(***マルコ6:50)というあのイエスさまの言葉がありますよね。 そういう声を私たちは聞くわけです――「わたしこそ神であることを知れ」 「知れ」というのは何も知識の問題ではないです。そんな浅い体験の話ではないです。 神さまとの交わりの中にいることを知りなさい。 イエスさまの前に座る尊さ。それを誰にも奪われないように。 わたしがあなたと共にいて、わたしがあなたを友として、わたしがあなたのためならいのちをも捨てる存在であるということを知りなさい。 だから、立ち騒いで、揺れ動いて、あれやこれやというのはやめなさい。 《わたしこそ神であることを知るために、あなたは静かにわたしの前に座りなさい。》 それが男性であろうが女性であろうが、年齢を問わず、またタイプを問わず、 《神の息が吹き込まれた人間として為すべき唯一必要なこと》なのです。 そしてそれを《誰にも奪われないようにしなさい》と。
最後に、第一ぺテロの手紙の5章の7節を読んで終わりにしますね。開きますね。こうです。 【※画面:Tペテロ5章7節「あなたがたの思い煩いを〜ゆだねなさい」に黒ペンで傍線】
<Tペテロ5:7> 7あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 この声をイエスさまの前に座って聞くこと、そしてそれを傍観者として聞くのではない。 家の外で聞くのでもない。 《信仰をもって、自分のこととして聞く》ということがどれほど大切か!私(藤本牧師)にとって、また皆さんにとって、ですね。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、今日私たちはあなたの御前に座っています。家の外ではなく、他のことを考えるわけでもなく、私自身のことがあなたの関心事であるということを信じて。あなたご自身が私の心の中に手を伸ばそうと思っておられることを意識しながら、私たち一人一人はあなたの御前に座っています。どうか私たちの重荷を共に担ってください。どうか私たちの心にある叫びを聞き止めてください。 そして、そればかりでなく私たちに語ってください。私たちが何をすべきか、何を考えるべきか、何を捨てるべきか、どの方向に踏み出すべきか、私たちに教えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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