☆聖書箇所 使徒の働き12章1〜17節 1そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人たちを苦しめようとしてその手を伸ばし、 2ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。 3それがユダヤ人に喜ばれたのを見て、さらにペテロも捕らえにかかった。それは、種なしパンの祭りの時期であった。 4ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越の祭りの後に、彼を民衆の前に引き出すつもりでいたのである。 5こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。 6ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれて、二人の兵士の間で眠っていた。戸口では番兵たちが牢を監視していた。 7すると見よ。主の使いがそばに立ち、牢の中を光が照らした。御使いはペテロの脇腹を突いて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。 8御使いは彼に言った。「帯を締めて、履物をはきなさい。」ペテロがそのとおりにすると、御使いはまた言った。「上着を着て、私について来なさい。」 9そこでペテロは外に出て、御使いについて行った。彼には御使いがしていることが現実とは思えず、幻を見ているのだと思っていた。 10彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。彼らは外に出て、一つの通りを進んで行った。すると、すぐに御使いは彼から離れた。 11そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」 12それが分かったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。そこには多くの人々が集まって、祈っていた。 13彼が門の戸をたたくと、ロデという名の召使いが応対に出て来た。 14そして、ペテロの声だと分かると、喜びのあまり門も開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた。 15人々は彼女に「あなたは気が変になっている」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。それで彼らは「それはペテロの御使いだ」と言った。 16だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた。 17ペテロは静かにするように手で彼らを制してから、主がどのようにして自分を牢から救い出してくださったかを彼らに説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言った。そして、そこを出て、ほかの場所へ行った。
☆説教 ロデさんがいた教会 皆さん、おはようございます。なんか皆さんのお顔を拝見するとほっといたします。やはり会堂には人がいてほしい(笑)、そういう思いでいっぱいです。でもこの会堂にいらしてくださる方よりも圧倒的に多くの方が(※カメラ目線に身体の向きを変えて語る戸塚伝道師)、今オンラインで共に礼拝を捧げていることですけれども、今日特に初めてこの高津教会の礼拝にいらしてくださった方々、またキリスト教会の礼拝に初めて参加される方々、大歓迎であります。どうぞ最後までおつき合いいただければ感謝です。
今朝はお読みくださいました使徒の働き12章の1節〜17節、「ロデさんがいた教会」と題して、3つの視点で思い巡らしをしていきたいと思います。
1)教会は祈り続けていた
使徒の働き12章の5節をお読みいたします。 5こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。
第3版ですと、「熱心な祈りを神にささげていた」というところが「神に熱心に祈り続けていた」と訳されています。 主語は「教会は」となっています。 私たちはお祈りする時、個人で祈ります。神さまに期待してお祈りいたします。 でも教会の祈りは特別です。 《教会の祈りの恵み》って一体何でしょう?二つ考えてみました。
●【集まって祈る恵み】 私たちは集まることを求めています。 あの人と会いたいということ以上に、集まる所にイエスさまが臨在してくださる、聖霊を通して。 それを飢え渇いて求めるからこそ、私たちは集まって来るんです。 マタイの福音書18章20節に 「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」とイエスさまが仰いました。 臨在の中に身を置く恵み、そこで祈るお祈りは一人で祈るのとは違う何かがあります。
ペテロ救出のために祈っていたこの教会。恐らく二人や三人ではないと思いますね。何人位の人が集まっていたのか? (使徒12章)12節の後半を見ますと「そこには多くの人が集まって、祈っていた」と書いてあります。 この「そこ」というのは、ヨハネの母マリアの家、その家の家庭集会、家の教会、その教会で多くの人々がペテロのためにお祈りしていた。
私たちは今、集まってお祈りすることができません。 コロナウィルスの感染のリスクと共に、それ以上に深刻なのは、やはり私たちが孤独になってしまうリスクの方が大きいのではないかと思うんですね。 今のこの状況というのは、教会の本来の姿ではないと思います。
●【祈りを通して、お互いを思いやる恵み】 霊の糧を求めて共に集うのみならず、愛の共同体が祈りを通して育まれていく。 あの人のために祈る、そしてどなたかが私のためにお祈りしてくださっている。 その交流によって、愛の共同体が育まれていく。 知っている人か知らない人かを越えて、ウマが合う人か合わない人かを越えて、たとえ相手の気持ち・状況を十分分かってあげることができなかったとしても、その方のためにお祈りする。祈り合うということはできます。
特に今、オンラインの環境が備えられていない方々のために思いを馳せたいと思います。 この時間お祈りをしているでしょうか?それとも聖書を読んでおられるでしょうか? 高津教会の礼拝のために、お祈りしてくださっていることを信じ、ほんとに感謝したいと思います。 その方も含めて共に礼拝を捧げている、ということを改めて認識したいと思うんですね。
【集まって祈る恵み】【祈りを通してお互いを思いやる恵み】――この二つが教会の祈りの恵み。 そしてマリアの家の教会もこのような祈りの恵みにあふれていました。 そしてこの教会はペテロのために、熱心な祈りを神にささげていました。
2)教会のその祈りは答えられた
祈りが答えられたのはいつだったのか? (使徒12章)6節をご覧いただきますと、「ヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜」とありますが、この日にペテロは殺されることになっていたのでしょう。 その夜の出来事、7節〜10節を読みますと、主の御使い、天使によるペテロの牢獄からの救出の様子が書かれています。 7節をご覧いただきますと、鎖が彼の手から外れ落ち、8節は御使いの出す一つ一つの指示にペテロは従い、9節にペテロは牢獄の外へ連れ出され、10節をご覧いただきますと、衛所二か所を無事通過し、町に通じる鉄の門がひとりでに開いたという、超自然的な神さまのみわざが、教会の祈りの答えとして現れました。11節に――
11そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、本当のことが分かった。主が御使いを遣わして、ヘロデの手から、またユダヤの民のすべてのもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」
と、ペテロは気がついたんですね。 「私を救い出してくださった」それと同時に、「ああ、教会が私のためにず〜っと祈ってくださっていたんだ」とペテロは実感したんだと思います。だから12節――
12それが分かったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家に行った。そこには多くの人々が集まって、祈っていた。
ペテロは行きつけの<マリアの家の教会>へ直行いたします。 そして教会に近づいて来た時に、あ、あの声は――ああ、みんな私のために祈ってくださっている――ペテロはそう思ったでしょう。 もうお祈りする必要はない、と思ってペテロは門の戸を叩いて、大声で言ったことでしょう。 「みんな〜、ありがとう。お祈り中、ちょっとごめん。 今ちょっとこの門を開けてくれ。ドンドンドンドン。 俺はペテロだよ〜。助かったぞ〜。 神さまが遣わされた御使いによって、牢獄から救い出されて、今ここにいるんだ。感謝しま〜す。ドンドンドンドン。 早く開けてくれ〜」 ペテロは必死になって叩いたと思うんですね。
ところが祈っていた教会の人たちは、なんとペテロが救い出されるとは信じていなかったんですね(笑)。 13節〜16節を読みますと、教会の人々の反応は、まるで喜劇のようですね。 教会の人たちはペテロのために、熱心な祈りを神にささげていたんですよ。ペテロのために。 じゃあ一体、ペテロがどうなることを祈っていたのでしょうか?(笑)
当然、何と言っても「ペテロが救い出されますように」と祈ったはずですね。 神さまを信じて祈るならば、そういう祈りをすると思います。 ペテロという人はマリアの家の教会だけでなく、エルサレム教会にとってなくてはならない重要な人物でした。 「ペテロが救い出されますように」――お祈りというのは、不可能への挑戦です。そして、神さまへの期待です。
しかし、ヘロデに捕えられたということは、「殺される」ことをもう意味していました。「殉教する」ことをもう意味していました。 2節をご覧いただきますと、「ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」 そして3節「それがユダヤ人に喜ばれたのを見て、さらにペテロも捕らえにかかった」とあります。 直前にヤコブがいのちを奪われました。 その次に狙われたのがペテロです。 捕らえられた後のペテロの情報は、教会にどれだけ伝わっていたかは分かりませんけれども、 でも、かなり深刻な状態にペテロが置かれていた、ということは想像できたと思うんですよね。
実際にペテロはどうなっていたか? 牢に入れられていました。4人一組の兵士4組、4x4=16、16人の兵士に監視されていました。(4節) その後、この前夜、二本の鎖につながれていました。(5節) 二人の兵士が両側にいました。戸口では番兵が監視していました。(6節) 牢の外には二か所の衛所があり、町に出るには鉄の門がありました。(10節) 「ペテロが救い出されますように」とお祈りはしていますけれども、このお祈りが答えられるなんて、(※力を込めて)どう考えてもあり得ない。 たとえ神さまでも、もしかしたら無理かもしれない、というような思いが心の片隅にあったのではないだろうかと思います。 「信じます、信じます」と言いますけれども、これにはものすごい信仰が必要であって、 神さまから与えられる信仰がなければ、信じることなんてできない状態ではなかったかと思います。
では、教会の人たちは何を祈っていたのでしょうか? 救出以上に祈っていたこと――それは「ペテロの殉教が神さまの栄光を現わす機会となりますように」。 現実を見据えたお祈り、厳しさの中で「もう、これしかないのかもしれない」という、そういうお祈りですね。
たとえば末期がんと闘っている方のためのお祈りって、そういうお祈りが多いのかもしれません。 「癒してください」よりも、「平安の内に苦しみなく、イエスさまに抱かれて召されますように」っていうお祈り。 神さまに委ねて、神さまの平安を待ち望む、その方のためにその平安を祈る――そういう祈りを捧げることでしょう。
教会の人たちもペテロのことを神さまに委ねて、腹をくくりました。 こちらの祈りが答えられることが最善であると信じていました。 「救出されることはきっと無理だろう。そしてもうぺテロは殉教する」ということを私たちは腹をくくって、神さまに委ねた。 そうすると当然、「もう恐らくペテロは救出されることはないだろう」と、そういうことを覚悟していたのだろうと思います。 だからこそ、だからこそ、16節――
16だが、ペテロは門をたたき続けていた。彼らが開けると、そこにペテロがいたので非常に驚いた。
「非常に驚いた」――もう仰天したということですね。 仰天っていう言葉を漢字で書くと、仰ぐ天と書きます。 仰天――天を仰がざるを得ない程のそういう出来事。(※上を見上げて)「ああ、神さま〜」って言う出来事ですね。 もう教会は騒然としたので、「ペテロは静かにするように手で彼らを制してから」と17節にありますように、そういう状況で制してから、 ペテロは、主がどのようにして自分を牢から救い出してくださったかを説明するわけですね。
恐らく実は自分も、救い出されているその最中のことは、現実のこととは信じられなかったのではないかと思うんですね。 だから11節にペテロは「今、本当のことが分かった」と、我に返った時に気づかされたわけです。
でも祈りは答えられました。
3)今日の聖書箇所に出て来る一人の人物に心を留めて、終わりにしたいと思います。
エルサレム教会の<マリアの家支部>と言ったらいいんでしょうか、このマリアの家の教会の、召使いであったロデさん。 13節にその名前が書かれています――「ロデという名の召使いが」とあります。 このロデさんも教会のメンバーでした。 お祈り中も何かあったらすぐ対応できるように、召使いとして――第三版では「女中」という言葉で訳されていましたけれども、女中よりも召使いの方がふさわしいのでしょう――教会の末席で待機していたと思われます。
みことばを丁寧に追っていきたいと思いますけれども、13節――
13彼(※ペテロ、に直して)が門の戸をたたくと、ロデという名の召使いが応対に出て来た。 14そして、ペテロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもせずに奥に駆け込み、ペテロが門の前に立っていることを知らせた。
ロデさんはペテロの声だと分かった。そしてお祈りを中断してもらって、ペテロが門の外に立っていることを教会の人たちに知らせるわけですね。 でも教会の人たちの反応が、15節に書いてあります。
15人々は彼女に「あなたは気が変になっている」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。それで彼らは「それはペテロの御使いだ」と言った。
「気が変になっている」――ほかの訳を見ますと、「気が狂っている」。 今では確かにこの「気が狂っている」って言葉を相手に言うことは問題発言になると思います。 しかしこう表現せざるを得ない状態が、ロデに見られたのでしょう。 恐らくこのロデさんという人は、普段はおとなしくて控えめで、黙々と仕事をする人ではなかったかと思います。 それなのに、今は気持ちが高まって別人のような興奮状態で、大声で「ペテロさんが門の前に立ってま〜す」と。 もうお祈りしていた教会の人々がびっくりして、「あら〜、ロデさんどうしちゃったの!一体。戸を開けもしないのに、なんでそんなことを言ってるの?あんた、気は確かか?変だぞ〜。ペテロが外に立っている?まさか、ロデさん、それは嘘だろう?」――ある人はそう言ったんでしょうね。
「嘘だろう?」――その「嘘だろう」という言葉に反応して、15節の真ん中に「彼女は本当だと言い張った。」 「本当だと言い張った」(15節) ペテロも「本当のことが分かった」と言っています。(11節) 自分では信じられないようなことが起こっていたのに、気がつくと「本当のことが分かった」と。 幻でも見ていたんじゃないかと思ったけれども、本当だったと。 同じくここにも、「本当だ」という言葉が書かれています。 ロデさんも「本当なんだ、夢じゃない、幻じゃないんだ」と「言い張った」とありますね。
「言い張った」――いつもならそんな言い張るロデさんではない。ロデさんらしくない。でもロデさんは言い張るわけですよ。 「みんななんで私のことを信じてくれないの?今、外にペテロさんが立っているのよ、今!」と、 何回も何回も叫ぶようにロデさんが言うもんですから、周りの人たちはロデさんをなだめようと、 「あ、ロデさん、分かったよ。分かった。落ち着いて。じゃそれは、ペテロみたいな人は、ペテロの御使いだな。」(※ペテロの御使い、守護天使ですね、と説明を入れる戸塚伝道師)。そういう風に言っているわけですね。 教会の人たちにこう言わしめてしまうほどの、いつもとは違うロデさんの言動。 私(戸塚伝道師)思いました。戸を開ければいいのに(笑)と。 そうすればすぐに分かったのに(笑)、戸を開けもしなかった。
ロデさんはなぜこれほどまでに、「ペテロは救い出されて、今門の外に立っている」と、確信に満ちた主張ができたのでしょうか? 14節にロデさんはペテロの声だと分かりました。 でも声を聞いただけでよく分かったかなぁと思います。 目で確かめたわけではない。声だけでなぜペテロだと分かったのでしょうか?
先程のシーンを再現してみたいと思います。 「みんなありがとう。お祈り中ごめん、開けてくれ〜」 ドンドンドン。ペテロは叫びます。 「俺はペテロだ。助かったぞ〜。神さまが遣わされた御使いによって牢獄から救い出されて今ここにいるんだ。感謝しま〜す。早く戸を開けてくれ〜。」 そしたらば、中からつっかけの音がして、その音をペテロは聞いたんでしょう。 「あ、そこにいるのはロデさん、俺だよ、俺。正真正銘のペテロだよ。すまない。すぐ戸を開けてくれませんかねぇ。ロデさん、そこにいるんでしょう?」とペテロはロデさんの名前を呼んだんではないかと思うんです。
ロデさんは、「ペテロは私の名前を呼んでくれた。」 ロデさんもペテロが救い出されたとは信じられなかったかもしれません、その声を聞いても。教会の人たちもそうでしたから。 しかし「自分の名前を呼んでくれた。私を知っている、ああ、これは本当だ。やっぱりペテロさんだ」 もう見て確かめる必要はない」と思って、門を開けもせずに、喜びのあまり駆け込んだのではないだろうか?
この想像はあながち間違ってはいないと思います。 マリアの家の教会のメンバーの内、この時、聖書に名前が出て来るのはたった二人――ペテロとロデです。 ロデという名前の意味はバラの花という意味があるそうですけれども、 聖書の人物からすれば、ロデというのは知名度はかなり低いと思われます。何位ぐらいなんでしょうね、知名度は?
召使いの女性の名前が聖書に記された。 当時女性の地位は男性に比べて低かったと言われています。 しかもこの教会はマルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家にありました。 女性が家庭を教会として開放していた。 恐らくこのマリアはロデを召使いとして雇ったのでしょう。 召使い、社会的立場は弱いでしょう。それでも教会で働いていたのは幸いだったのかもしれません。
そんなロデさんの記録が(使徒12章)13節から15節に残されたのです。 ロデさんも自分の名前が2000年後までも、世界中の人たちに読まれるようになるとは思ってもいなかったでしょう。 しかもたった一箇所13節に「ロデという名の召使い」という、この分厚い聖書のたった一か所の、たった二文字のカタカナです――《ロデ》。
なぜ?名前を出す必要があったのか? 私(戸塚伝道師)は名前が残る程の存在だったからではないかと思うんです。 教会の召使いロデさんは、神さまの奉仕者として、この時神さまに用いられたのです、大切なメッセージを伝えるために。 そのメッセージは、《ペテロは確かに救出されました。いま門の外に立って、私たちの祈りが答えられたことを知らせるために、門をたたいています》というメッセージでした。 ロデさんはこの時、計らずも《ペテロが生きて再び戻って来たことを証しする》人となりました。 弱い立場にある人が、教会の中心となって用いられたひと時でした。 しかも自分から進んでしたことではなくて、教会の人たちとの関わりの中で、成り行き上そう導かれたのです。 それは神さまからの恵みです。
ちなみにイエスさまが復活したことを弟子たちに最初に伝えたのも、女性の人たちでした。 私たちも自分では意識しない内に、神さまに用いられていることがもしかしたらあるかもしれません。 ロデさんのように劇的な場面は少ないことでしょう。 場所も教会とは限りません。家庭でも仕事においても学校においても、さらには人に道を聞かれる時とか、落とし物を拾って交番に届けるような時でも、或いはもっと目立たない所で何かに気づかされて行動する時も、もしかしたら試練や弱さの中にある時でさえ、そんな私を何らかの形で用いてくださることがあり得ると、そういう風に導かれることがあるかもしれません。 普段は大したことなんかできない。でもここぞという時、神さまは私たちにこう言われることがあるかも知れません。 「わたしの願いを聞いてほしい。今の状況でこのことをやれる人を捜したところ、あなたにお願いするしかなかったのですよ。わたしが責任を持つからやってくれませんか?」 そういう神さまの言葉です。
この神さまの声に成り行き上、結果的にお従いしたのが、ロデさんでした。 激しい迫害の中で身を寄せ合うようにして祈っていた教会、そこにロデさんがいました。 大事な場面で神さまに用いられた、この一人の女性の名前を、この朝心に刻みたいと思います。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師 神さま、あなたのみことばを通してこの朝、マリアの家の教会メンバー、ロデさんの姿を思い巡らすひと時が与えられました。感謝いたします。教会の片隅にいたロデさんが、ペテロ救出の良い知らせを人々に伝える役割に導かれたように、私たちも今週いつか、どこかで、誰かに、何らかの形で、あなたの恵みを届ける存在であらせてください。また私たちの教会の様々な祈りにも答えてくださいますように。救い主イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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