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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   10/24 マルタ(2)「わたしを信じる者は死んでも生きる」ヨハネ11:17〜27
☆聖書箇所  ヨハネ11:17〜27
 17イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。
18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。
19マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。
20マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。
21マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
23イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
25イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
27彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」

☆説教 マルタ(2)「わたしを信じる者は死んでも生きる」

さて、今日はクリスマスに至るまで、少し聖書の女性の中から一緒に学んでいきたいと思っていますけれども、マルタを見ていただくことにいたしました。
そこで、ヨハネの福音書の11章の1節から読めばいいんですけれども、途中の17節から――
【画面:ヨハネ11章17節〜19節を指さしながら読む】
  17イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。

イエスさまを呼んで来てほしいという姉のマルタ――妹かわかりませんけれども――

19マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。

ということは、すでに葬儀の準備は終わったあたりだろうと思います。
墓に納められたということは、葬儀そのものも終わったということを示しているでしょう。そして今日の所を見ていただきたいと思います。

恐らく今日の聖書の個所は、来週が召天者記念礼拝ですから、そちらの方がふさわしかったなあという風に思いながらも、
高津教会のオンライン礼拝に一年間、ご夫婦で共に出席してくださった方が、五年間癌と闘い天に召された、ということを私つい最近知りまして、
地上で残された奥さまのためにもこのメッセージを、少し<自分の愛する者が、病んで病気になり天に召される>という視点からお話ししたいと思います。

このマルタ・マリア・ラザロの記事はヨハネの福音書ほぼ11章全部占めます。1節〜44節まで。
1節ずつ長いですから、大変な紙面を使ってヨハネはこのことを記しています。
なぜこんなに長く、なぜこんなに詳しいのか?
ま、複雑な理由は後に分かると思いますけれども、単純に言えば、病と死の問題ほど、私たちの人生で大きな問題はないからですね。
3つのポイントでお話をいたします。

1)病と死は、大変身近だということ

私たちは土の器ですから、一人で生きていませんから、いつも私たちの周辺で誰かが病気です。
今日も入院している教会家族がいますし、コロナ禍でも入退院があり、また天に召された教会家族の方がいらっしゃいます。

ちょっとこの(ヨハネの福音書)11章の2節を見ていただきたいと思うんですね。こうありますでしょう。2節の最後ですね。
【画面:ヨハネ11章2節〜3節。3節「あなたが愛しておられる者が病気です」に水色の傍線】
<ヨハネ11:2〜6>
2このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

これ、《神さまに愛されている》ということと、《今あなたは病気です》ということが並列して書かれているんですね。
これはある意味大切でありまして、イエスさまに愛されていたら、病気にかかることはない、健康でいられる、ということはありません。
神の愛を存分に受けていながら、私たちはなお病気になります。
私たちの身体もまた心も弱いものです。私たちは厳しいストレスの中で生きています。
元気であることが不思議なくらい厳しいことも多々あります。
イエスさまはラザロを心から愛しておられた。それでも彼は病気になる。
それはラザロは『土の器』(***Uコリント4:7)だからですね。

さて、マルタとマリアは急いでイエスさまを呼びに使いを出します。それほど病気は深刻だったようです。
ところがイエスさまは、6節を見てください。
【画面:ヨハネ11章6節「ラザロが病んでいると聞いてからも」に青の傍線】

6しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。

とこう言う風にあります。
二日とどまられた。すぐにイエスさまは飛んで行かなかった。
助け手は遅れます。病は進みます。そしてラザロは息を引き取りました。

イエスさまが到着した時には、もう墓に納められていて――【画面:17〜20節】
17節の最初を見ますと――「墓の中に入れられて、すでに四日たっていた」という記述がありますね。
19節、申し上げました、「大勢のユダヤ人が来て」ということは、友人や親族がこの家に駆けつけてくる。
姉妹は、家で座っていたことでしょう。
久しぶりに会う友だちは、駆け寄って、彼女の肩を抱いて、泣きじゃくります。
親戚の中には、「どうしてこうなったんだ?」と事情を尋ねるケースが非常に多かったと思いますね。
「手を尽くしても助けることはできなかったのか?」「近くの医者はどうだったのか?」
それを聞いている内に、姉のマルタはまるで自分の看病が足りなかったかのように、責められている思いに駆られます。
避けて通れない現実ですね。人の死。人生が突然転落していくような戸惑いがあります。

2)信仰者の苦悩――特に家族の苦悩

21節をご覧ください。ここにマルタの苦悩が書いてあります。
【画面:ヨハネ11章21節「主よ。もし〜死ななかったでしょうに」を( )で括る】

21マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

「もしあなたがここにいてくださったなら、ラザロは死ななかったのに」というのが、信仰者の苦悩ですね。
私(藤本牧師)はこの気持ちは、私たちの現実そのものだと思います。

今日は、説教のメインが中村佐知(なかむら・さち)さんという、アメリカのシカゴに住んでおられる心理学者の方なんですが、随分書物も翻訳書も日本で出しておられますが、数年前にお嬢さんを失いました。
その闘病記録が「隣に座って」という題で、書物として出版されています。
皆さんもアマゾンで、「隣に座って」という書物を検索されると出て来ます。

20歳のお嬢さんがスキルス性の癌。しかも見つかった時にステージ4の宣告を受け、闘病をし、なんと11か月で天に召されてしまいます。
その闘病の記録が非常に読み易く、またお母さんと娘の苦しみが直に伝わるように書かれています。
「隣に座って」という題名は病気の間、よくお嬢さんが「ママ、隣に座って」と仰った願いから来ている、と書いてありました。
隣に座って、最後までお母さんはお嬢さんの世話をされました。

いいですか。この本の中に、マルタの苦悩がよく書いてあります。
「癌になっても助かる人はいる。完治しなくても、癌と共存しながら生きていく人もいる。死ぬにしても、安らかに眠るように亡くなる人もいる。

それなのになぜミホは(***ミホというのはお嬢さんですね、と説明)、21歳の若さで、癌の診断を受けてから1年もたたないうちに、しかもこんなに苦しみながら、死に向かって突き進んでいくのですか?

あんなに大勢の人たちが世界中で祈ってくださっているのに、癒しを確信し、ひれ伏して祈っているのに、なぜこうなってしまうのですか?私たちの祈りは、あなたの御前に何の意味もなさなかったのですか?」
――ここまで読み終わり――

これが、21節のマルタの苦悩です。
「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と。
あなたがここにいてくださりさえすれば――(***中村佐知さんの思いでありましたら、私たちの思いでありましたならば、と説明)
もしイエスさまの時代に生きていて、もしイエスさまが実際に病室に入って来てくださり、そして病める所に御手を置いてくだされば、私の娘は癒されたのに。
ああ、もはやあなたは十字架にかかり、復活し天に昇られ、今あなたは実際にその手を私たちの上に置くことはない。

もしおられたら、癒されたことを――22節見てください――
【画面:ヨハネ11章22節「今でも知って」に青い線の囲み】
22しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」

とありますよね。
だからマルタの苦悩、中村佐知さんの苦しみの訴えは、今の私たちの訴えと同じなんですよね。
「《神さまは、イエスさま、あなたの願いを何でも聞いてくださる》ということを、私は今でも知っています。
ですからもしあなたがここに来て、娘のために手を置いて祈ってくださったならば、絶対に治るということを私は今でも確信しています。
しかしあなたはここにおられなかった。来てくださらなかった。遅れた。
それがゆえに、私の兄弟は死んでしまった。」
という思いです。

3)マルタはこういう中から、最高の信仰告白を導き出します。

ちょっと聖書を見ていただきたいと思います。少し長いんですけれども読んで行きますね。
【画面:ヨハネ11章23節〜27節。23節「あなたの兄弟はよみがえります」
24節「終わりの日のよみがえりの時に」に青の傍線と「終わりの日の」に青線の囲み、
25節「わたしはよみがえりです〜死んでも生きるのです」に赤の傍線。
26節「あなたはこのことを信じますか」に赤線の囲み。
27節「神の子キリスト」に青線の囲み】

23イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
25イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

イエスさまの文章、妙に長いですよね。26節27節長いです。
「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか」と言われた時に、
マルタには、「う〜ん、信じるかと言われても?今自分はどうしたらいいんだろう?」という一つの戸惑いができたはずです。
そして27節に、最高の信仰告白をマルタは言います。ちょっと27節読みますね。

27彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」

「はい、主よ。あなたは私の救い主であることを信じています」とだけ答えたんですね。
とりあえずの答えかもしれない。
でも、マルタが導き出すことのできた最高の答えです。
「死ぬとか、生きるとか、永遠に決して死ぬことがない、とかよく分かりません。
でも、あなたが私たちの救い主であることはよく知っています」。

中村佐知さんも、最高の答えを与えられます。
お嬢さんがいよいよだという時に、ある朝、詩篇の138篇のみことばが与えられます。
これも読んでいただきたいと思うんですね。詩篇138篇の7節〜8節。
佐知さんには昨日メールで「大きく引用します」と。
「高津教会の皆さんにお会いすることができれば、どんなに幸いか」という風にお返事をいただきました。

138篇の7節を見てください。このみことばが中村さんの心に飛び込んで来ます。
【画面:詩篇138篇7〜8節。7節全部と8節「【主】は〜成し遂げてくださいます」に黒の傍線。数字8に丸】
<詩篇138:7〜8>
7 私が苦しみの中を歩いても 
   あなたは私を生かしてくださいます。(***救い主だからですね、と説明)
 私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし 
   あなたの右の手が私を救ってくださいます。
8 【主】は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。
   【主】よ あなたの恵みはとこしえにあります。
 あなたの御手のわざをやめないでください。

この8節のみことばが飛び込んで来ます。
「【主】は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。」
中村さんは、様々な訳を挙げておられました。私(藤本牧師)も調べました。色んな訳がありますね。
他の訳では、「主は私の人生のために持っておられる目的を必ず成し遂げてくださる」。

「私に関わること」というものの言い方は、ヘブル語では二通りに訳されているんですね。二通りに訳が可能なんですね。
「私の周辺の出来事をみんな整え、そして私がまっすぐ進むことができるように、主は色んなものを邪魔ものを退け、木を切り倒し、私の道を整えてくださる」と訳すこともできれば、
「主は私のために用意しておられる目的を、最後まで成し遂げてくださる。完成させてくださる」と訳すこともできるわけですね。

お母さんはそちらの訳に心が留まり、記しておられます。
「アーメン、アーメン。主はご自身がミホの人生に対して持っておられる目的を、自ら成し遂げてくださるのだ。たとえ、苦しみの中を歩んでも、主はミホのいのちを生かしてくださる。」

主イエスさまは苦しみの中を共に歩いて、生かしてくださる。
中村佐知さんがこのみことばを与えられたという事実も、マルタがこのように信仰告白しているという事実も、同じではないかと私は思うんです。
「あなたが救い主でいらっしゃいます。
あなた一人が、私たち一人一人の人生に関わるすべての救い主です。
あらゆることに、私に関わるあらゆることに、あなたの目的があり、あなたは御心のままに、それらを完成してくださいます。
たとえ私が苦しみの中を歩んでいたとしても」。
中村佐知さんはマルタと同じ信仰を告白されました。

そしてお嬢さんのミホさんは天国に召されます。
そうしてラザロは復活します。
いいですか。私たちが突き当たる所は、ここなんですよね。
同じように病む。神さまに愛されても病む。そして瀕死の状態になる。
必死になって祈る。だめであったとしたならば、
「ああ、あなたがここにいてくださりさえしたならば、きっと助かったのに」という思いを、私たちはみんな持つ。
自分の娘は天国に召され、しかし、聖書を見ると、ラザロは復活していますよね。

私(藤本牧師)はこの最後のポイントに、メッセージを強〜く感じました。
それで佐知さんから多くを学んだので、それを紹介して終わりにしたいと思います。
私たちは愛する者を天国に送ります。
しかしラザロは復活しました。
「良かったねぇ、マルタ、イエスさまを信じていて」――そういうことではないですよ。
    
(※このあたりから非常に熱弁をふるい、右手左手で頂点なる山を段々大きくして描きつつ、神学的になる藤本牧師)
つまりこうやって読んでいきますと、話の頂点がラザロの復活にあるかのように見えるんですよね。
そしてその手前に、マルタの苦悩とマルタの信仰があって、そしてイエスさまに必死ですがって、ラザロが復活したというところに、話の頂点があるかのように思えるわけですよね。

でも実際ヨハネの福音書の中で、ラザロの復活というのは別に話の頂点ではないです。
話の頂点は、私たちを愛するがあまりにご自分のいのちをお捨てになって、十字架におかかりになり、いのちを投げ出した《キリストの十字架》が話の頂点です。

そしてさらに頂点がありまして、最後まで従順であった《御子イエス・キリストを父なる神が復活させる》というのが、さらにそこにある頂点です。

いや、実はもう一つ頂点がありまして、《イエス・キリストは復活の初穂》であって、《イエス・キリストを信じる者は決して死ぬことがなく、とこしえのいのちを持つ》というのがもっと大きな頂点ですよね。

そのもっと大きな頂点のために、ヨハネはこの部分を書いているんです。
つまりヨハネの読者というのは、よく分かっているわけですよ。
マルタも死んだよね。マリアも死んだじゃない。ラザロも死んだよね。
あれは(※復活は)あの時の出来事だよね。
イエスさまはきっとこの出来事を起こしたのは、このご自身の復活の力の予兆として、一つの小さな小さな前兆として、この出来事をお起こしになった。
しかし、それはもはや既にイエス・キリストの十字架の後ろの方に隠れていて、
話のメインは《キリストの十字架と復活》、そして《キリストを信じる者たちの十字架と復活》というところに、ヨハネの時代は話は移っているわけですよね。

ですからイエスさまの言葉も非常に長いです。非常に長い。
最後は「わたしを信じますか?」(ヨハネ11:26)という投げかけでイエスさまの言葉は終わっていますでしょう?
ヨハネの福音書の20章の31節をちょっと見ていただきますか?
ここにヨハネの福音書が書かれた目的というものを、あえてヨハネは記しています。
20章の31節ですね。ここです。
【画面:ヨハネ20章31節。「これらのことが書かれたのは」に青のペンで囲み。「あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」に青の傍線】
<ヨハネ20:31>
31これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

神の子としての永遠のいのちを得るためである。
私がラザロの記事を記したのも、マルタとイエスの応答の言葉を記したのも、
全部、あなたが信じるためであり、また信じてイエスの名によっていのちを得るために、私はこれらを記した。
頂点はラザロ(の復活)にあるのではない。
頂点は《キリストの十字架と復活》にあり、さらに言うならば、
頂点は《主が私たちの初穂となって、信じるすべての者が復活にあずかる》ということを描くために、ヨハネはこういう書き方をしているんですよね。

やがてマルタとマリアが、ラザロが死んだ時も同じように、愛する者たちは悲しんだと思います。
で、イエスさまはおられないのですよね。
でも彼らは悲しみを超えて、希望を実感していたはずです。
なぜならイエスさまは仰った「信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11:25)ということは、
もう地上生涯で彼らは味わい、イエスさまの出来事で味わい、
そして自分の仲間である多くの多くの信仰者たちが、次々と殉教で殺されたとしても、
また病で亡くなったとしても、寿命で亡くなったとしても、
永遠のいのちにあずかって天国に帰って行った姿をみ〜んな見ているから、
イエスさまの「わたしを信じる者は死んでも生きるのです。わたしはよみがえりです。いのちです。あなたはそれを信じますか」(ヨハネ11:25〜26)と言った時に、
このみことばを読んでいた人たちは、
「はい、私たちは信じます」とみ〜んな言うことができたんだろうと思います。

<ラザロが死んだのに、主イエス・キリストのいのちによって復活した>という出来事は、私たちの真実な希望の証しです。
私たちの愛する者は死んだのではない。神の国へと移され、永遠のいのちにあずかっている。
つまり「わたしを信じる者は死んでも生きる。永遠のいのちにあずかる」(ヨハネ11:25)というイエスさまの声は、悲しむマルタのためにあるのではない。

むしろヨハネは<私たちのために>この言葉を残しているのではないかと、私(藤本牧師)は思うようになりました。
人がこの世を去る時は、神によって定められているのでしょう。
時として、残酷なほど早いのでしょう。
ヒゼキアのように祈りを尽くして訴えましょう。
でも分かってほしい。イエスを信じる者は死んでも生きる、ということを分かってほしい。
永遠に生きる。ラザロに加えられたイエスのいのちの力は、あなたにも及ぶんだと。

中村佐知さんの本は最後こう記しています。ちょっと読んでいきますね。
――ここから読み始め――
私はこの地上でミホと会えなくなるのは嫌だったので、癒やしを求めて祈りました。しかし、彼女が癒やされることなく召されたからといって、ミホが死や病に「負けた」わけではありません。

死が勝利に呑まれるのは(キリストの復活によって)、病が癒やされることによってではなく、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着ることによると聖書はいいます【第一コリント15章(54節)】。
・・・私たちの朽ちるからだは、遅かれ早かれみな死んで地に返ります。・・・けれども、今はこのからだを失っても、やがて朽ちないからだ、永遠に生きるからだ、栄光のからだをもってキリストと共によみがえらされます。そしてもはや病も苦しみもない、すべてがあるべき姿に回復された世界に生きるようになることを、聖書は約束しています。

もし私が泣いているのを見ても、どうか心配しないでください。私は大丈夫ですから。私には希望があります。だから安心してイエスさまの腕の中で泣くことができます。今はただ泣きたいのです。

そしてこのような悲しみの中でも私たちといつも共にいてくださり、復活と神の国の希望を、そして残された者たちに明日から生き続ける希望と力を与えてくださる主に感謝します。
――ここまで読み終わり――

という文章を読んだ時に、私は思ったのです――ああ、ここにマルタがいると。
マルタの信仰ですよね。
イエスさまに伝えたかったこと。そしてヨハネはイエスさまの言葉を、マルタへの言葉ではなく、実は私たちへの言葉としてヨハネは残している。
イエスを信じる者に、イエスは神のいのちを注いでくださる。
「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、わたしを信じますか」――これがヨハネが伝えたかったことです。
私たちの周りに沢山のマルタがいる。
そのマルタの言葉に、マルタの姿に、そのマルタの生きていく姿に、私たちもまた励まされ、復活の主のいのちの力がどれほど強いか、私たちもまた心に刻んでいきたいと思います。ありがとうございました。

☆お祈りいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、オンラインの最中でまた一人召された方がおられたという話を聞きました。でもその最後の一年、ご夫妻で高津教会の礼拝を守っておられた。暑さの中で看取ることも大変でございましたでしょう。でも闘病五年間、良く頑張られました。ミホさんの場合は11カ月でございました。あれから私たちは元気な中村佐知さんのお姿も拝見することができました。

そこかしこにいるマルタ、そのマルタにあなたはいつもみことばを与えてくださり、強めてくださり、苦しみの中を歩んでも、「わたしはあなたとともにいて、あなたを生かす。そしてあなたの人生にわたしが与えたところの目的をすべて成し遂げていく」と、人一人のいのちの尊さを、あなたはどのような形にあったとしても用いて使って、そして小さな麦として、やがて大きな収穫を得ることができるようにしてくださいます。

考えてみますと、ラザロの復活は小さな復活でありました。イエスさまの復活も大きな復活のように思えますけれども、しかしそれはあくまでも初穂にすぎません。やがて私たちはみな同様にして、くぐっていく死という経験、そして復活という希望溢れる体験へと私たちを一つにして導いてくださいますようによろしくお願いいたします。

このような書物を残された中村佐知さんの上に、あなたの豊かな慰めと力づけが今日もありますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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