☆聖書箇所 創世記15章1節〜6節
1これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。 「アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。」 2そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私には子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」 3さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と申し上げた。 4すると、【主】のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」 5そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 6彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
☆説教 見上げてごらん夜の星を
明治学院のグレゴリーバンドは、日頃は礼拝の後にショート・コンサートをなさるという風に、代表の一人でいらっしゃる高津教会の加藤剛男兄からお聞きしました。加藤剛男兄は月に一回礼拝を欠席されて、このコンサート・ツアーに出掛けて行かれます。その時に必ずそう仰るのですけれども、だったら一度高津教会に来てよと(笑)、本当に高津教会に来てくださいとお願いして、今日は来ていただきました。皆さんは手弁当でいろんな教会へ出かけておられるということを聞き、本当に主のために奉仕されておられる姿に感動して讃美歌を聞かせてもらいました。
日頃は礼拝があってコンサートがありますので、自由なプログラムが組めますが、私たちも考えました。どうせコンサートをしてくださるなら、讃美歌中心に礼拝の中に全部組み入れて、そしていつも通り、ちょっと長くなるかもしれませんけれども、礼拝を終えることはできないだろうか。そうすることによって、礼拝にいらっしゃった方みながこの素晴らしい合唱を聞くことができないか。
そしてご提案を戴いたのは、日常的ないわゆる日本の歌も沢山いつも歌われるんですけれども、それをあえて省かれました。省くときに「見上げてごらん夜の星を」も省きますと仰ったので、いえいえそれは入れてください。私はそのタイトルで聖書のお話をしますので(笑)、まぁ、入れてくださいということで、前半の最後の曲がそれになりました。
東日本大震災があって、長〜い間テレビから宣伝が消えました。そして一番最初に宣伝に登場したのが、この歌でした。 なかなか良くできていたCMで、某酒造メーカーが使っていた登場キャラクターが、この歌を歌いつないでいく、そして最後に酒造メーカーのロゴが現れるという単純なモノでありました。 会社の宣伝を表に出さずに、歌手も俳優さんも女優さんも、ただこの歌をどこかで歌いながら、歌いつないでいくというような宣伝でありました。
大震災の悲惨な映像とニュース、そして味気のない政府広報で、日本全体が沈んでしまいました。ま、沈んで、当然なんですけれども、そこに、ふーっと希望の光を差し込んだのが、「見上げてごらん、空の星を」という歌でありました。
日本が、そして私たちの人生が変わってしまった、もう二度ともとには戻らないほどの打撃を受けた方々が沢山いる中で、夜空の星は変わらずに私たちを励ましていてくれる。 私(藤本牧師)はある意味、あの歌をあのように宣伝に使った人は、表彰されても良いほど、静かな元気を授けてくれたなぁと思っています。 もともとあの歌を歌っていたのは、日光ジャンボ機墜落で亡くなりました坂本九さんでありました。作詞は、普通に永六輔さんです。
聖書をちょっと見ていただきたいと思います。創世記15章の1節〜6節にこういう風に始まります。
15:1これらの出来事の後、【主】のことばが幻のうちにアブラム(***のちのアブラハムですね)に臨み、こう仰せられた。 「アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。」
短く3つのポイントでお話しますが、――
1)「これらの出来事の後」
創世記15章で、アブラハムは人生の戦いの中にいました。 そしてその非常に厳しい戦いの後というのは、なんだか、とても象徴的です。 自分の人生の局面がとても難しくなってしまったとき、それは私たちにしますと、健康が損なわれ、人生の様々な設計・計画がだめになってしまったとき、人間関係が壊れてしまったとき、大きな事件・出来事があって、人生が闇に包まれてしまうような出来事があって後、神さまは、アブラハムに現れてくださった。
聖書の中で、人と神の出会いは、ほとんど圧倒的に神さまからです。 私たちが立てた整然とした計画の中で、私たちは階段を上るように神さまと出会うというのではなく、神さまが階段を降りてこられて、いきなり私たちと出会ってくださる。 人生が混乱して、難しくなってしまったときに、「主のことばが幻のうちにアブラムに臨み」(15:1)、聖書のことばが私たちの心を貫いてくる。神さまが私たちと出会ってくださる。 そして、なんとも温かな声を神さまはアブラハムにかけられた。 「恐れるな。わたしはあなたの盾である。」 盾とは、私たちを敵の手から守ってくれる存在。 盾というのは、聖書の中には何回か出て来ますが、神さまは私たちに代わって敵と戦ってくださる、という表現も聖書の中にはずいぶん出て来ます。 でもそれ以上に、神さまがあなたを守ってくださる、全能の御手をもって、あなたを守るという表現の方が実は多いのです。 神さまは、瞳のようにあなたを守る、とも記されています。 私たちの体の部分として、モノが飛んでくると、人は本能的にまず自分の目を守ると言われます。(瞳は)とっても大切です。 神さまはわたしをその「瞳」のように守ってくださる。 何かあったら、まず私を、その全能の御手で守ってくださる。
2)神さまは、私たちの生涯の盾となってくださる、守ってくださるだけでなく、祝福の約束をしてくださいました。
「あなたの受ける報いは非常に大きい」(1節最後)――それはアブラハムにとっては、自分の人生と家庭が祝福されるということだでなく、子々孫々の祝福を意味していました。 それをわからせるために、神さまは、アブラハムを5節で「外に連れ出し」、そして仰います。 「さあ、天を見上げなさい。夜空の星を見てごらん」と神さまはアブラハムに仰いました。「それを数えることができるなら、数えてみよ。あなたの子孫はこのように多くなる。」 今の日本の空とは違います。満天の星、満天の星の輝きです。 何とも言えない壮大な、荘厳な、それでいて温かな星の光を見て取ったに違いありません。 私たち人間は、たとえば大海原を見て心を安らぐ、夜空の星を見て希望を抱くように、私〈藤本牧師)は造られているのかもしれないと思います。それはすべての人がそのように思うからです。
ある神学生の証しを聞いたことがあります。 教会で育って牧師になるために献身して、家を出て、東京に来た。 でもしばらくするとお母さんが病気になり、家庭が難しくなり、自分は祝福の道を進んで行ったと思ったのに、なぜなんだろうかと、いつの間にか、自分の人生に疑問を抱くようになったというのです。 本当に自分は祝福の道を歩んでいくのだろうか。 神さまが約束してくださった報いはいったいどこに行ってしまったのだろうか。
そんな折りに、神学校の校長先生の趣味が天体観測でありました。そして今日は土星の輪が見えるからと言って、天体望遠鏡を神学校の寮の屋上に据えて、土星の輪っかを見た。 見ている内にその神学生は、不思議に、自分がずっと抱いていた「なぜ」こうなってしまったんだろうか、「なぜ」こうなんだろう、神さまの祝福はいったいどこにあるのだろうか、というこだわりはどうでも良くなってしまった。
夜空の星の輝きは、何とも言えない魅力を含んでいます。 縛られた現実問題から解放されるような広がりを持っています。 「見上げてごらん。空の星を」と神さまはアブラムに仰った。 「夜空に輝く星の数ほど、わたしは、あなたの人生を祝福する。わたしの栄光をもって、あなたの人生を輝かせる」と神さまはアブラハムに仰った。 今はまだ見えない、しかしやがてわかる、豊かな人生の祝福が。
3)ここがとても大切です。6節をご覧ください。アブラハムは「神さまを信じました。」
ここで、「信じた」という動詞は、クリスチャンが日常でお祈りの最後に言う「アーメン」と同じヘブル語のことばから派生しています。 「見上げてごらん。天空の星のように、あなたの子孫を増やし、あなたを祝福しよう」と言われたとき、アブラハムは、素直に神さまに「アーメン」と言いました。 教会に初めてお出でになった方々もいらっしゃいますでしょう。 お祈りの最後に皆が揃ってアーメンというのを、どことなく異様に感じられると思います。 「アーメン」、それは少し不思議な響きです。それはヘブル語でありますので、ヘブル語のアーマンというのは、私たちにも馴染みがない。
以前、私の孫がカトリックの幼稚園に通い始めた頃に、お祈りを習ってきました。 習ってきたお祈りを一生懸命、親に教えている。どんなお祈りなの?一生懸命親に教えている動画が送られてきました(笑)。 翔太は教えようと思っているのですけれども、なかなか思い出せないので、しばらく沈黙なのです(笑)。 そして最後に、「父と、子と、聖霊との御名によって、アーメンって言うんだよ」って、父親に教えていたのです。 「父と、子と、聖霊との御名によって、アーメン」――カトリックはそうです。 プロテスタントは、「イエス・キリストの御名によって、アーメン」です。
翔太の送られてきた動画は、ま、こんなこと言いますと、爺バカ(大笑)か、ま、確かにそれにすぎないんですが……。 しばらくしますと、カトリック幼稚園特有の、十字を切るんですね。そしてお祈りの最後に、私たちプロテスタントの人間はしませんけれども、(右手を上下、左右に動かして)「父と、子と、聖霊の御名によって、アーメン」とお祈りが変わっていました。
「アーメン」というのは、真実に、その通りに受け取る、「神さまが約束してくださった祝福をそのまま信じます」、とっても素直な思いで、神さまに向かって心を開いて、「私はあなたの子どもになります」「あなたが仰る罪の赦しを私は受けたと信じます」と受け取ることです。
そして時に、当時のアブラハムのように、神さまから受け取るのは祝福だけでなく、試練であったり、闘いであったり、それをじ〜っと待っている忍耐であったり(するのですが)、でもそれらすべてを愛をもって最善をなしてくださる神さまを信頼して「アーメン」と受けます。
「あなたを愛する」「あなたを祝福する」「あなたの罪を赦す」「あなたをわたしの子どもとする」「あなたに神の国を相続させる」と仰る神さまの約束を、子どものように素直に「アーメン」と言って、神さまを信頼する者を――6節の後半を見てください――「主はそれを彼の義と認められた。」 「義と認める」というのは単純に言いますと、最高の「よしっ!」。 神さまはそんなアブラハムを「よしっ!あなたはわたしの愛する子どもだ。あなたからわたしの民を作る」と最高の「よしっ!」をアブラハムは神さまから受けたのです。
教会に今日いらっしゃった皆さまに、一つ提案があります。 それは教会のお祈りの最後に、みんなで「アーメン」と言うときに、ちょっと言ってみたらいい。 それが言えるなら、自分は神さまの愛を信じ、聖なる神さまの御前で、最高の「よしっ!」をいただくことができる神さまの子どもであると思うようになったらいいです。 つぶやくような自分の祈りかもしれない。切なる嘆願かもしれない。でも最後に「アーメン」と言ってみる。 そしてできるなら、そのアーメンの前に「イエスさまのみ名によって」というのを付けるといい。
それは私たちのような、神さまのみ前に祈る資格もなければ、またその祈りに耳を傾けてもらう資格が全くない存在でありますが、そんな私たちの存在を、イエス・キリストは十字架に背負い、十字架にかかってくださった。 ですから私たちがイエスさまの名前を使って――そしてイエスさまは「わたしの名前を使いなさい」と仰った――あなたがたが祈るときにわたしの名前を使いなさい。 あなたの祈りは誠に言葉になっていないかもしれない。小さな素朴な祈りかもしれない。また祈る資格のないものかもしれない。しかし、わたしの名前を使って祈りなさい。
その時に十字架の恵みを受けてアーメンと言った時に、あなたは神さまに最高の「よしっ!」を戴くことだ。 「よしっ!あなたの祈りは確かに聞いた」と神さまは仰ってくださる。 そのようにして、自分の内にある信仰の芽を育てようではありませんか。
教会にいらっしゃることがまず第一歩です。でも同時に、教会の中でなされる祈りの最後に、ご自分も「アーメン」と声を合わせてみましょう。それが信仰の芽を育てていく方法です。 小さく一言お祈りをいたします。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、今朝礼拝に参りました私たちの心の内には、願いがあります。人には言わない願いもあります。全能の愛なる神さま、あなたに願いを抱かない人は一人もいません。でもどのようにして祈ったらいいのか、わからないのが私たちであります。
ですから、ただひたすら自分の心の中にある様々な願い事を、ぶつぶつとあなたの御前にお話をしてみて、そして最後に「主イエス・キリストの御名によって」と、あなたの十字架を仰いで、そして自分の祈ったことが心から真実なものであり、そして真実にあなたは受け取ってくださると信じて、「アーメン」と言う信仰をいつも大事に続けられるようにしてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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