☆聖書箇所 ヨハネ20:1〜18 1さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。 2それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」 3そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。 4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。 5そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。 6彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 7イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。 8そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。 9彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。 10それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。 11一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。 12すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。 13彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」 14彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。 15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」 16イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。 17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」 18マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
☆説教 イエスの弟子、マグダラのマリア ほんとによく来てくださいました。私たちは喜びでいっぱいでございます。 月に一回しかお目にかからない方もいらっしゃいますし、ほんとに教会の力というものが実際にそこにあるということを、インターネットを通してでも感じることができますのはほんとに感謝であります。 (※心から嬉しそうに、満面の笑みで語り始める藤本牧師)
聖書に出てくる女性、特に新約聖書なんですけれども、しばらく見てまいりました。 マルタが二回、妹のマリアが一回。そして今日はマグダラのマリアであります。 マグダラというのは出身地でありますから、マグダラ出身のマリアという意味です 4つの福音書ですべての十字架と復活の場面に、このマグダラのマリアが出て来ます。 今日のタイトル、正式には「イエスの弟子、マグダラのマリア」であります。
ここに来て今回、マルタ、そしてマリアという新約聖書の女性に注目している理由を分かっていただけると思うんです。 ちょっと話を逸らしますので、聞いていただきたいと思うんですが―― 聖書は新約聖書27巻ありますけれども、それを私たちは正典(せいてん)と呼び、そこに含まれていない外典(がいてん)という文書があります。 旧約聖書も同じでありますけれども、その一つに「マグダラのマリアの福音書」というのがあります。 私(藤本牧師)は読んでみました。でもほとんどその意味は分かりませんでした。
岩波書店から「ナグ・ハマディ文書」という文庫本がありますけれども、その中にも入っています。 読んでみて全然意味は分からないわけですから、なるほどこれは正典の中には含まれないなぁということは明らかでありますけれども、しかし、 初代教会が正典をまとめる頃に、もう当時の人々がきちっと読んでいた書物の中に入っているわけですね。
ナグ・ハマディというのはエジプトの村の名前なんですけれども、そこで1950年代ですかね、まとまってコプト語の写本が出たんですよね。 そのコプト語を翻訳して、もともとはシリアの辺りで書かれた文書なんだということが分かり、そして新約聖書の正規のグループとその周辺のちょっと怪しげなグループの間に流布されていた文書が見つかるわけですね。
「マグダラのマリアの福音書」の初めにこういう風に出て来ます。 弟子のペテロが、マグダラのマリアの所にやって来て、そして願うんですね。 「あなたはイエスの側にいた女性だ。さぁ、私たちが知らない知恵を、知らない真理を教えてほしい」と。 これは画期的でありまして、男性であるペテロが女性のマグダラのマリアに教えを請う、というのはちょっと考えられないわけですね。
この言葉の意義は、同じように外典の分類にある有名な「トマスの福音書」というのがあります。 皆さんの聖書の中には入っていないです。 「トマスの福音書」というのがありまして、その一場面を引き合いに出すとよく分かります。 「トマスの福音書」では、弟子のペテロがイエスさまに願うんですね。 「マグダラのマリアは女ですから、私たちと一緒に同行するのはふさわしくないと思います。マグダラのマリアを引き離してください」と。
両方の文書とも外典です。聖書ではありません。 でも非常に対照的ではありませんか。 「トマスの福音書」では――「女性であるマグダラのマリアを一行に含めないでください。ふさわしくないですから」と。 実は当時の感覚から言えば、こちらが普通です。 聖書の創世記の1章2章によりますと、「神は人を男と女に造られた」と平等に打ち出しています。 しかし旧約聖書の実際の社会にあっては、明らかに男性が優先され、女性は礼拝堂に入ることができません。 礼拝堂の前にある広場でお祈りを捧げるんですけれども、礼拝堂に入ることができない女性の立場は、私(藤本牧師)は明らかに卑しめられていたと思っています。
これは旧約聖書に限ったことではないです。 新約聖書が広がっていくギリシャ・ローマの世界も同じでありまして、ギリシャ詩人、ギリシャ哲学、道徳、すべてそうですね。 男性という者が、完全で、主体的で、理性的で、そして精神的に強い。 それに対して女性は、俗的、感情的、受動的、そして弱い。 現代はどちらかと言うと逆かな?という風に(大笑)思いますけれども、しかし当時の社会感覚というものは、もう確固たるものがあるわけですよね。
そういう中でパウロが、妻にも夫にも「キリストを恐れて、互いに従いなさい」(***エペソ5:21)という風に教えることは画期的なんですね。 「互いに従いなさい」と。 あるいは、さらにガラテヤの3章の28節でこう言いますね。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません(***このユダヤ人・ギリシャ人、奴隷・自由人、男・女というペアは全部優勢・劣勢のペアですよね。そういうペアはない。パウロは、と説明)。あなたがたはみな、キリストにあって一つだからです」と。 この場合、「一つ」は一致という意味ではないです。これは平等という意味でしょ? 優勢・劣勢のペアを三つ上げておいて、最終的に「あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって同じ立場にあります」と。
しかしながら、歴史的には男性優位社会がず〜っと続いていきます。教会の中でも。 漸く19世紀後半に、アメリカの1つの州が女性に参政権を認めますけれども、 しかし、1960年代(後半〜70年代)のいわゆるウーマン・リブ、女性解放運動に至らなければ、女性の権利というのは正式に認められないわけですし、 日本では男女雇用機会均等法というのは、随分前ですよね。(※1985年制定、86年4月施行)しかし今だに必ずしも均等ではないじゃないですか。
いいですか、そういう中で、私たちは聖書の女性を、ま、一つ読んでいる。 マグダラのマリアを考えますと、その意義がくっと上に上がって来ます。 3つのポイントで見ていただきたいと思いますが、最初の2つのポイントはルカの福音書なんですが、短くお話をいたします。
1)最初からずっとイエスの福音宣教に同行した女たち
最初に出て来るのは、イエスさまによって癒されたマグダラのマリアです。 ルカの福音書の8章の1節からちょっと読んでいきますね。ここです(※と、指で押さえながら読んで行く) 【画面:ルカ8章1節「神の国を説き、福音を宣べ伝え」2節「七つの悪霊を追い出して〜マリア」3節「多くの女たちも〜仕えていた」にオレンジ色のハイライト。】
<ルカ8章1〜3節> 1その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。 2また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、 3ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。
この2節の最初に、「悪霊や病気を治してもらった女たち」とありますから、マグダラのマリアだけでなく他の女性もそうであったに違いない。 しかしマグダラのマリアに限って言えば、「七つの悪霊を追い出してもらった」という風に始まりますでしょう。 どれほどの苦悩の人生を送って来たのか?それをイエスさまによって解決していただき、 そして1節にありましたように、「神の国を説き、福音を宣べ伝える」この一行に、お供したという言い方は、この一行と行動を共にした。 そして多くの女たちが「財産をもって彼らに仕えた」とありますけれども、勿論財産だけではなかったでありましょう。
これはイエスさまが「神の国」を説き始めた、ガリラヤ伝道の最初の頃に出てまいります。 多くの女たちがガリラヤ伝道の頃からずっと、イエスさまと一緒にいたと。 この風景はルカにとりましては――当時のお医者さんでありますけれども――非常に異様に映った。 ギリシャ・ローマの世界で、こういう光景は見たことがないという意味も含めて、彼は残しています。
2番目の個所を見ていただきたいと思うんですけれども、今度は「十字架を見届ける」。 いいですか、 「最初からイエスの福音宣教に同行した女たち」が1番目ですね。
2)十字架を見届ける
2番目はルカの福音書の23章を見ていただきたいと思うんですが――ここに出て来ますね――23章の49節ですね。 十字架の場面でこういう風に出てまいります。ここです。 (同行するという働きは、最後まで続きます。) 【画面:ルカ23章49節「ガリラヤからイエスに〜女たちはみな」にオレンジのハイライト】 <ルカ23:49> 49しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。
弟子たちはと言えば、ヨハネを除いて、この場にはいませんでした。 自分の身の安全を考えて、みんなイエスを捨てて逃げてしまいました。
ということは、十字架の証人になったのは、ヨハネと、そしてマグダラのマリアを始め、ガリラヤからイエスに付き添って来た、同行して来た女たちであったということです。 つまり、他の弟子たちが全部逃げてしまった中、イエスさまの最大の働きであったこの十字架を、その目で証しすることができたのは、女たちだけであった。 どれほど忠実か、そしてどれほど自分のいのちを危険にさらしてでも、イエスさまの最後のこの大きな働きを見届けたかったか。
十字架だけではないんですね。 次の復活の場面、(ルカ)24章になりますけれど10節見てください。ここでも出て来ますね。 【画面:ルカ24章10節「マグダラのマリア〜ヤコブの母マリア」「ほかの女たちであった」にオレンジのハイライト】 <ルカ24:10> 10それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、(***ヨハンナも先ほどの8章に出て来ましたので、ずっと行動が一緒だったんですね、そして、と説明)ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。・・・
この女たちがイエスさまの復活の証人となります。 この女性たちはイエスさまのもとを離れませんでした。 そして十字架という最も悲惨な、最悪の事態を前にしても離れない。 弟子たちは皆去って行く中、十字架も復活も証人となって、イエスさまのもとを離れなかったのは女性でありました。
そして時間は限られていますけれども3番目、最初のヨハネの福音書の20章をさ〜っと見て、ここに描かれている非常に大きなメッセージを見ていただきたいと思います。
Oさんに、聖書の方だけをしばらく映していただいて、物語を追いかけて行きますね。
3)復活の主が最初に現れたのは、マグダラのマリアです。
【画面:ヨハネ20章1節「マグダラのマリアは墓に」「墓から石が取りのけられているのを」2節「誰かが墓から主を取っていきました」にオレンジのハイライト】
<ヨハネ20:1〜5、11〜16> ※読みながら(***)の部分で説明される 1さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。 (***ま、驚きましたね。当然、走って戻ります。 それは石が取りのけてあったということは、何か重大なことが起こったということですね。)
2それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」 (***という報告を聞きながら、弟子たちは――)
3そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。 (***走った。二人は一緒に走ったとあります)
4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。 5そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。 (***そして、身をかがめてみると、布があるだけ。イエスさまの遺体はなかった。 この出来事に驚いた二人の弟子は急いで仲間の所に帰って行きます。)
その時、11節見てください。 【画面:ヨハネ20章11節「マリアは墓の外にたたずんで泣いていた」に緑のハイライト13節「彼らはマリアに言った「女の方、なぜ泣いている」15節「イエスは彼女に言われた」にオレンジのハイライト】
11一方、(***マグダラの、と入れて)マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。 【***すると、白い衣を着た二人の御使いが、(13節に飛んで)、そしてマリアに言うんですね。「女の方、なぜ泣いているのですか」と。】
12すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。 13彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」 「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」 14彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。 (***次の瞬間、イエスが立っておられるんです。でも、まだマリアには分からない。)
15イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、そこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」 (***マリアはてっきり管理人だと思って、「誰かがイエスさまの遺体を盗んだ」と言うんですね。そしてページをめくりますと――)
【画面:ヨハネ20章16節「マリア」「先生」18節「マグラダのマリアは〜主を見ました」にオレンジのハイライト。16節「マリア」に青いペンで囲みも】 16イエスは彼女に言われた。「マリア。」(***マリアの名前を呼ぶわけです。)
さて、今の流れの中で、少し考えていただきたいと思います。 「泣いている」という表現が非常に多いです。ものすごく目立ちます。 悲しみであり、溢れ出る感情であり、 弟子たちは、ペテロとヨハネは、現場を確かめて、走ってやって来て、走って帰って行って、出来事を報告し、一体これはどういうことであろうかと言う。 でもマリアはそこに残って、泣いているんですよね。 そういう意味で、もしかしたら非常に女性的なのかもしれない。「泣く」という言葉の連続が。 でも泣くのは男性も泣きますから、泣かない時は女性も泣きませんから、これが性別的なことであるとは、私(藤本牧師)は必ずしも思っていません。
マリアは名前を呼ばれるまで「なぜ泣いているのですか」というイエスさまの声を後ろから聞いても、それがイエスさまだとは分からなかった。 勿論墓の中は暗いですから。 でも名前を呼ばれた途端、思わずヘブル語で「ラボニ」「先生」と言って、イエスさまに抱きつこうとします。
名前を呼んでくださったというのは、とっても尊いことで、 死を打ち破り、永遠のいのちであるイエス・キリストは、墓場に泣いてたたずむ私に出会って、私の名を呼んでくださる。 「主よ、どうか私の名前を呼んでください。墓場の中でたたずんで泣いている私の悩みを知り、私の必要を知って、私の名を呼んでください」 という祈りが、私たちの心の中にあるんですね。 それは全地・全宇宙を創造された神は、人間一人一人を、小さな者を、弱い者を、私のような者を、ここに集っている私たち一人一人を神は愛しておられ、名前を呼んでくださるお方ですね。
その時にマリアは気づいて、思わず「先生、主よ」と呼んで、イエスさまにすがりつこうとした時に、イエスさまはマリアに仰います。 「わたしにすがりついてはいけません。わたしは、まだ父のもとに上っていないからです」。 つまり、霊なるよみがえりのキりストなんですね。
よみがえりの主は肉体的な制限を超えておられるお方で、 聖書を見ますと、鍵がかかって閉ざされた戸をすり抜け、壁をすり抜け、トマスの心の中をすり抜け、トマスに現れておられますでしょう。 どこででもイエスさまは現れ、私たちのどんな境遇、どんな状況、どんな場所、それらに制限されることなく、世界のどこにあっても、誰に対しても、主イエス・キリストは出会うことができる。 そして往々にして、私たちの名前を主は呼んでおられる。ただ、私たちは気がつかない。 私たちは気がつかない――それが最大のテーマであります。
感謝なことは、私たちの教会には、沢山のマグダラのマリアがおられる。 教会の働きの初期の頃からイエスにつき従い、様々な犠牲をもって主に仕え、 今に至るまで、自分の生涯の最後に至るまで、その信仰を貫き通し、 どんなことがあっても、イエスのもとを離れず、様々な出来事を、その辛い出来事であったとしても、その目で証しして、自分の生涯を全うし、そしてイエスさまの復活の前にあって、 泣いている場面ではありました。絶望的な墓場でありました。洞穴の真っ暗な中でありました。 しかし主が声を出して、私たちの名を呼んでくださった時に、「あ、イエス・キリストだ」ということがすぐに分かるマリア。 そのようなマリアが私たちの教会に沢山おられることが大変感謝であります。 イエスさまは今朝も喜んでおられる。皆さんお一人お一人が、そういう存在であることを喜んでおられます。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、私の名を呼んでください。暗い墓場の中で、泣いていて、そして一体何が起こったのか、全然把握できない程悩んでいる私の名前を呼んでください。あなたは一人一人に、いかなる壁をすり抜けても、現れて私たちの名を呼んで、ご自身の臨在を気がつかせてくださるお方であります。
にもかかわらず、神に名を呼ばれていることを分からずに、私たちはただ泣いているだけなのかもしれません。でも振り返ってみると、自分の人生のあの場面でもこの場面でも、あなたによって助けられたことを思い起こします。どうか今もしそういう状況にありましたならば、お一人お一人に声をかけて、その名を呼び、あなたが側におられることを分からせてあげてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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