☆聖書箇所 ルカ1:24〜38 2425しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五カ月の間、安静にしていた。 26さて、その六か月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。 27この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。 28御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」 29しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。 30すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。 31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。 32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。 33神はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」 34マリアは御使いに言った。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」 35御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。 36見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。 37神にとって不可能なことは何もありません。」 38マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。
☆説教 アドベントT:母マリア(1)マリアの美しさ
これはいつも2章だと勘違いしてしまうのですけれども、1章は非常に長い。 で、新約聖書の女性を勉強して来ました。マルタを二回、妹のマリア、そして先週はマグダラのマリア、で今週がマリア、イエスの母マリアであります。
マリアを前に、本当はエリザベツのことをお話ししなければいけないんですね。 (ルカ1章)24節に「しばらくして、妻エリサベツは身ごもった」と二つの懐妊の出来事が並んでいるのが、ルカの福音書の1章であります。 それは来週にいたしまして、私(藤本牧師)はマリアの出来事から今週のアドベント第1週のお話をいたします。
天使がいきなりマリアに現れて言いました。ちょっと聖書を見ていただきたいと思います。いいですか、いきなりこう言いますね。 【画面:ルカ1章28節「恵まれた方〜おられます」29節「この言葉にひどく戸惑って」に黄色のハイライト。 30節「神から恵みを受けたのです」31節「見なさい〜身ごもって」に水色のハイライト】
<ルカ1:28> 28・・・「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
「おめでとう」というのは、挨拶の言葉ですから、日本語では「おめでとう」と訳してありますけれど、これは「こんにちは」でもいいんですね。 今日目を留めていただきたいのは、「恵まれた方」です。「神の恵みを受けた方」(28節)
これをテーマにお話をしていきますが、「しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って」(29節)という風に話は始まってまいります。
1)恵みを前にして戸惑うマリアであります。
<ルカ1:31、32、34> 31見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。 32その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
その意味するところは、マリアにはさっぱり分かりません。だけど、それ以上に
34・・・「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
と、これはもう根本的な戸惑いですね。 この一言に私たちは、もう言い知れない戸惑いと不安がマリアの心を包んだ、ということがよく分かります。 マリアはこの時、天使の言っていることが何を意味しているのか、正直な所、少しも分からなかった。 後に自分の産んだ子が十字架にかかり、三日目に復活し、天に昇り、まことの王、神の子として人々に拝まれるようになる。自分自身が「神の母」と呼ばれるようになる――そんなことは少しも分かりませんでした。 しかし、彼女の口から出た34節の戸惑い―― 「どうして、そのようなことがありえましょう。私は男の人を知りませんのに」と。
天使は何とかマリアを納得させようといたします。いいですか、聖書をちょっと見てくださいね。親類のエリサベツの例を挙げて来ます。
36見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。 37神にとって不可能なことは何もありません。
ま、「神にとって不可能なことは何もありません」というのは、マリアにしてみれば旧約聖書のアブラハムとその妻・サラに神さまが仰った言葉ですから、 アブラハムが年取って、サラはもう子どもが産めなくなって、そして妊娠するという時に、神にとって不可能なことは何もない。 でもそれはあまりにも遠い昔の話で、自分とほとんど関係ない話。
若干関係があるのは親類のエリサベツでありますけれども、エリサベツにはそれでも夫がいました。 でも私には夫がいないのに、どうしてそんなことになるのでしょうか?というのは、全く分からない、戸惑いでいっぱいでありました。
天使はマリアに対して様々な説明の言葉を言っていますけれども、ただその説明の言葉というよりも、今日目に留めていただきたいのは、この言葉なのです。 ちょっともう一回見てください。
35御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
この最初の部分です――「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」。 【※藤本牧師、画面を映そうとタブレットを触っていたが、Oさんの何か助言が入りカメラの向きをぐるっと回して変えてみる。 「失礼いたしました(※藤本牧師、笑いながらタブレットを回して)、どうりで頑張っているんですけれど、なかなかうまくいかない」やっと画面がでてきて】 この言葉ですね、(※と嬉しそうに35節から読んで行く)
【画面:ルカ1章35節「聖霊が〜おおいます」、36節「見なさい」「親類のエリサベツ」、37節全文、38節「私は主のはしためです〜なりますように」に水色のハイライト。36節「今はもう六か月です」を青いインクで()でかこむ】
35・・・御使いは彼女に答えた。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」
これがアドベント第一週のみことばです。
2)で、私(藤本牧師)はこの言葉が、新約聖書で初めて、「恵みとはいかなるものなのか」ということを記した言葉だと納得するようになりました。
という話を今日は短く、あと10分ぐらいでいたします。いいですか。 マリアは天使によって「恵まれた方」と言われました。 「恵まれた方」というのは、あなたは神の恵みを受けました、という意味です。 あなたは神の恵みを受けました、ってどういうことなのか? 「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」(ルカ1:35)
皆さんの多くがイースター、ペンテコステ、クリスマスに洗礼をお受けになりましたでしょう。 そして洗礼をお受けになった日のことを、思い出してくださるとよく分かります。 洗礼の儀式が、「あ、こういうものだったのか」ということを納得されると思いますし、 洗礼を受けながら、「自分は洗礼を受けた」という感慨深さをもって帰宅される方もいらっしゃいますし、 「いや、いつもの自分だなぁ」と思う方もおられるでしょう。 でも「恵みを受ける」ってどういうことなのか? 《聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力が、神の力があなたをおおいます》(ルカ1:35)という意味です。
恵みを受けたマリアは、非常な戸惑いを抱いた。非常な戸惑いを。 私たちも、いきなり神が選んでくださった道を行くことになるわけです。 自分が選んだわけではない。 その道を行けるのかなぁ。ごめんなさい、正直、あなたが選んだのなら、行きなさいですよ。どうぞ行きなさい。 あなたが選んだのですから、失敗しようが成功しようが、どうぞあなたのご自由でございますと。 でも往々にして人生には、「自分が選ばなかったのに、この道を行くことになった、いや不思議に自分はこの道を行くことになった」という時に、 私たちは後になって、「あ、あれが神の導きか?」という風に思うようになるわけですよね。
で、もしそれが自分が選ぶことなく、不安と戸惑いに心がいっぱいになり、 そして「神の恵みって一体どういうものか?」って言われた時に、この御使いのマリアに言ったこの言葉、 「聖霊があなたの上に臨み、神の力があなたを覆います」という、この約束を心に留めていただきたいと思います。
少し脇に逸れて長い話をします。いいですか。長い話ですので、ついて来ていただきたいと思うんですけれども。 今から23年前――私(藤本牧師)昨日数えていました――アメリカのジャーナリストで、そしてキリスト教のベストセラーを出しました、フィリップ・ヤンシーという人が来日することになりました で、文字通り世界中でミリオンセラーになりました「恵みのどこがそんなにアメイジングなのか?――What’s So Amaizing About Grace?」ですね。 世界中の人がアメイジング・グレース、今日演奏してくださいましたけれども、何がそんなに驚くべきなのか? この本が日本語に訳されまして、記念講演に来日され、私が通訳を引き受けました。 未だ翻訳本が出ていないので、とりあえずこの方の考え方に頭を慣らす意味で、英語の本を取り寄せて読んでみることにしました。
で、最初でものすごく躓きました。 さすがにジャーナリスト、20頁ぐらい、小説のエピソードが紹介されて、神の恵みの驚くべき豊かさを描いているんですけれども、私には全くピンと来なかったですね。 全くピンと来なかった。どんな人なんだろう?こんな話をして通訳しろと言われたら(笑)、通訳できるものではない。 そのエピソードの意味するところ、どうしてそれが神の恵みに繋がるのか?私(藤本牧師)はず〜っと分かりませんでした。
そのやたらに長い、分かり難い書き出しのエピソードはこうなんですね。 この話っていうのは、皆さんに一度したことがありますので、あ〜と思ってくださればいいんですけれども、 デンマークの作家アイザック・ディネーセンによる「バベットの晩餐会」という小説があります。 ペンネームはディネーセン(※男性)ですけれども、本名はカレン・ブリクセン、貴族の女性なんですね。
ヤンシーの本が出て、19??――アメリカで6年ぐらいに出たんですかね。 そのずっと後、1987年に映画化されまして(デンマークの)、そしてアメリカのアカデミー賞の外国語映画賞を獲りました。 舞台はユトランドの半島にある、侘しい海辺の村なんですね。 そこにルター派の敬虔なクリスチャンの二人の姉妹が、お父さんが牧師でありました。 お父さん亡き後、二人の姉妹で小さな教会を守っていました。
そこにフランス革命で夫も息子も失いました、逃げて来たバベットという女性が召使いになります。 バベットは、以前はパリの有名なレストランの料理長を務めていました。
その彼女がパリを追われて、侘しいデンマークの村の食事を、二人の姉妹のために作る。 バベッドはこの牧師の二人の娘、牧師館に住んでいるんですけれども、そこに隠れるように一緒に住まわせてもらいながら、ひたすら食事を作って仕えるんですよね。
村に何の変化もない。教会はますます侘しくなっていきます。 そんなある日、フランスからやって来たバベットが宝くじを当てるんですよ。 そして彼女はお金の使い道がない。で、考えたんですね。 自分が仕えている、自分を泊めていてくれるこの姉妹に提案しました。 お金を使って、亡くなったお父さん・牧師の生誕100年がもうすぐやって来る。 晩餐会をこの教会で開きたい。 で、小説のタイトルは「バベットの晩餐会」です。
バベットは休みをもらいまして、フランスに食材を買い出しに行くんですよね。 ところが、バベットが船で持ち込んで来たものというのは、デンマークの村の人が見たこともないような、うずらやウミガメを運んでやって来たわけです。 二人の姉妹の家は、騒然となりますよね。 姉は夢を見るんですよ。それは魔女となったバベットの料理を食べた信者が、次々に倒れていく(笑)という夢を見てしまうんですね。これはやばいと。
で、晩餐会の当日、皿や蝋燭、ナプキンがきれいに並べられ、見事なフランスの料理がご馳走が並ぶ。 誰一人食べながら「美味しい」とは言わないんです。 「料理の話は口にしない」と、みんな決めていたからなんですね。
ところが、その晩餐会に出席していた、立派な将校がいました。 ウズラのパイが出て来た時に、彼は自分が若い頃、パリの高級レストラン「カフェ・アングレ」の女料理長の創作料理を食べた。 それはいまだに鮮明に覚えている。 「まさか、それと同じ料理が、このデンマークの田舎の教会で食べられるとは思わなかった」と、こう感激して語り始めるんです。
その一言から始まって、集まって来た人たちは料理の見事な味わいを堪能するようになっていきます。 ずっと美味しい料理を食べていた。だけどその美味しい料理のありがたみというのは全然分からなかった。 美味しい料理のアメージングさというのが全く分からないで、一言もしゃべらずに料理を、招かれて食べていたわけですよね。
村人はマリアと同じです。 それはすばらしさよりも、戸惑いの方に捕らわれてしまったんですね。
そして村人の前で、将校がこんなスピーチをします。 「目先しか見えない人間は、人生の選択をしなければならない、と震えおののく。 しかし、私たちの選択など大した意味を持たない。 《神の恵みは無限にある。信頼して恵みを待ち、感謝してその恵みを受ければ良い》」と。
「あなたがたは、私たちは一人一人恵まれた人。恵みを受けた人」 「聖霊があなたがたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」 という現実が、私たちにはさっぱり分からず、戸惑いだけが先行するんですよね。
マリアはその道を選んだわけではない。いきなり天使が現れて、いきなり「おめでとう」と言われても、何がおめでとうなのかも分からない。 でも、神があなたを捕えた。聖霊があなたの上に臨んだ。神の力があなたを包む、というのは―― 《神の恵みは無限にある。信頼して憐れみを待ち望み、感謝してその恵みを受ければ良い。》
デンマークの村人にとって、料理の味わいだけではありませんでした。 先細っていく信徒の皆が、その教会の存亡をますます戸惑いを起こします。 しかし、料理を食べることによって、生き返っていくんですよね。 料理のすばらしさの中に、何とも言えない神の恵みと重なるものを見つけて、 もう恵みが、自分の人生からも教会からも、尽き果てたような状況の中で、 もしこれが神の道であるならば、この道を行けというならば、やっぱり私たちはおめでとうに値する。 なぜなら、聖霊が私たちの上に臨み、神の力が私たちを包むからですね。 自分の選択で怖れ惑うかもしれない。 でもあなたの選択なんて、ほとんど何の意味も持っていない。 あなたも恵まれた方になりなさい、です。
(ルカ1章)30節に「恐れることはない」です。 「恐れることはない」っていうのは、恐れでいっぱいですよね。 あなたが選んだ道ではない。神があなたを選ばれた。だから恐れることはない。 《神の恵みの力は無限にあり、そして神の恵みがあなたを包む。》
こうして、私たち生身の人間というのは、信仰を抱いて、神に向かって心の窓を開けることができる。できるんですよ。 勿論、閉ざしたままにすることもできるんですよね。 《生身の人間に与えられている最大の可能性というのは、最も大切なことです――それは神に信頼して前に進むこと》です。 はい、主よ、あなたは必ず私に納得を与え、私を助けてくださいます。
美味しいと分かっていた食事。でもありがたいとも、美味しいとも、驚きだとも一度も言わなかった。 でも実は、今自分が味わっているこの道は、大変なありがたさと驚きに溢れていて、それが試練もあれば曲がり角もあるかもしれない。 でも「聖霊が私たちの人生を包む時に、聖霊は私たちから離れない。神の力が私たちを包み、私たちはいかなる試練も曲がり角も乗り越えて来たではないか」と、だ〜れも口にしない。
怖れと戸惑いで、同じ食事をしているんですけれども、誰か一人が言葉を発する。 私たちの会員であるならば、S姉が今年洗礼を受けられ、あれ程の障害を持ち、そして股関節の手術をした後、二回もう一回手術をされた。 あの姉妹の願いは、「どうしても今年のクリスマスは教会で迎えたい。どうしても。」
Tさんも今年洗礼を受けましたよね。 どうしても、Tさんには教会でクリスマスを迎えていただきたい。 勿論オンラインでも、一向に恵みは同じです。 オンラインで見たほうが、この蝋燭が少し太く見えるかもしれない(笑)ですよね。 ここへ来たら、えらい細い蝋燭が飾ってある(笑)じゃないかと。 家にいらっしゃったほうが、大きな声で賛美歌を歌えるかもしれないですね。 それでも私たちの気持ちは、お迎えしたいという思いがあるわけですよね。
3)その時、マリアは神の驚くばかりの恵みに対して、38節にこう言いました。 (※私たちが取るべき態度を表明) 【画面:ルカ1章35節「聖霊が〜おおいます」、36節「見なさい」「親類のエリサベツ」、37節全文、38節「私は主のはしためです〜なりますように」に水色のハイライト。36節「今はもう六か月です」を青いインクで()でかこむ】
38マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、み使いは彼女から去って行った。
もうこの言葉ですね――Let it be unto meです。 ビートルズのポールマッカートニーの。ここから取ったわけですよね――Let it be unto me.どうぞあなたのお言葉通りにこの身になりますように。
私たちが選んだ道ではない、私たちの人生というのは。 マリアが選んだ道ではない。 バベットの晩餐会に招かれた村民のように、戸惑いに包まれ、何を食べさせられるのか、戦々恐々としている中、 自分の行く道は、自分の運命は、自分の将来は?と疑問ばかりですね。 でも神さまがあなたを選んでその道を行かせる、というのなら、マリアは遜って、 「お言葉通り、この身になりますように」と言う。
これがマリアの美しさです。マリアが何と言っても美しい。 聖書に出て来る他の女性よりも、多分当時の習慣から言えば、マリアは12歳超えて暫くだっただろうと思われますね。 マリアが描かれている時に何が美しいかというと、それはもうこの素直な信仰ですね。 「あなたのお言葉通り、この身になりますように」と。 で、この美しい信仰、この美しさを、私たちはず〜っと保っていくんですよ。 どんなに年を重ねても、信仰が美しい人はやっぱ美しいです。 男性であっても美しい、そのようになりたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」(ルカ1:35)。「恵まれた方よ。おめでとう」(同1:28)と、神さま、あなたは私たちの人生を取り上げて、ある道に行かせようとされます。それが自分の決断でこうなった、なんて傲慢な思いを抱くことがありませんように。なぜなら、私たちの能力、私たちの決断に信頼したところで、大したことにならないことは、私たちはよく分かっています。
一生懸命暗中模索しながらも、もしある方向に行くとしたならば、これこそが神さまが私のために選んでくださった道だ、という日頃からあなたの導きを求め、もし進み行くなら、それがあなたが選んでくださった道だと信じて行くことができますように。
その時、様々な障害があって、道を変更する場合もあるでしょう。忍耐を強いられる場所もあるに違いありません。しかし聖霊が私たちの上に臨み、神の力が私たちを覆っているならば、「どうぞあなたのお言葉通り、この身になりますように」(同1:38)と素直な信仰を私たちに与えてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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