☆聖書箇所 ルカ1:39〜56 39それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。 40そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。 41エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。 42そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方、あなたの胎の実も祝福されています。 43私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。 44あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。 45主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」 46マリアは言った。 「私のたましいは主をあがめ、 47私の霊は私の救い主である神をたたえます。 48この卑しいはしために 目を留めてくださったからです。 ご覧ください。今から後、どの時代の人々も 私を幸いな者と呼ぶでしょう。 49力ある方が、 私に大きなことをしてくださったからです。 その御名は聖なるもの、 50主のあわれみは、代々にわたって 主を恐れる者に及びます。 51主はその御腕で力強いわざを行い、 心の思いの高ぶる者を追い散らされました。 52権力のある者を王位から引き降ろし、 低い者を高く引き上げられました。 53飢えた者を良いもので満ち足らせ、 富む者を何も持たせずに追い返されました。 54主はあわれみを忘れずに、 そのしもべイスラエルを助けてくださいました。 55私たちの父祖たちに語られたとおり、 アブラハムとその子孫に対するあわれみを いつまでも忘れずに。」 56マリアは、三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。
☆説教 アドベントU:母マリア(2)主は私に目を留めてくださる
さて、前回「イエスの母マリア」を見ていただきました。 そして突然受けた、新約聖書における恐らく一番最初の言葉、「恵み」ですね。 「あなたは恵まれた方、神から恵みを受けたのです」という、この圧倒的な恵みを、「お言葉通り、この身になりますように」と素直に受け取っていた、マリアの美しさという話をいたしました。
マリアはそれからしばらくして、エリサベツという親類のところに行きます。 それが(ルカ1章)39節から45節まで記されています。 で、ここに話を及ぼしている時間はちょっとないので、その時に詠みました「マリアの賛歌」と呼ばれる46節から――
<ルカ1:46〜48> 46マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、 47私の霊は私の救い主である神をたたえます。 48この卑しいはしために 目を留めてくださったからです。
「この卑しいはしために 目を留めてくださったからです」という、 私(藤本牧師)は、《神が私に目を留めてくださる》という、この表現が大好きであります。
以前テレビで、有名な百貨店で、「ネクタイを売らせたら、この人に勝る女性はいない」という方の特集が組まれていました。 記録的な数のネクタイを販売できるというんですよね。 で、ニュースがその方に秘訣を聞くんですけれども、その方が(仰るには)―― 「男性のお客様がいらっしゃったら――ネクタイ売り場というのはざ〜っと並んでいますよね――その人が一番最初に手に取ったネクタイは覚えておく。それから二番目に手には取らなかったけれども、目に留まったネクタイを覚えておく。そしてもう一本、それに類したようなネクタイを揃えて、そのお客様が帰る頃に声をかけて、この三本ぐらいはお似合いだと思います(笑)、と言うと男性は必ず買います」(笑)――そういう話でありました。
不思議なもので、ま、200本300本のネクタイが重なって並んでいるんですよね。 でも不思議なことに「目に留まる」というのは、ま、多くて三本ですね。時に一本なんですよね。 それを上手に並べて、「これなんかお似合いなんですよね」と言った時に、大体その人は1本目か2本目を手にする、そして必ず買って行く、という話をしていました。
「目に留まる」というのは、不思議なことですね。 私たちはこの人生で様々なものを目にします。 でも自分の目に留まるということは、様々なことから、ある一つのことが、自分の心の中に入って来るということですね。 あるいはその事物から、まるで声でも発せられたかのように、私がその事物に向かって語りかけて来るような印象を持つわけですよね。
神さまは何億という人類のこの数の中で、この卑しい私に目を留めてくださったということを、今日の説教の第一のポイントで見ていただきたいと思います。
1)この卑しいはしために目を留めてくださった
神さまが目を留めてくださったマリアというのは、逆を言えば、誰も目を留めることがなかったマリアです。 取り柄があるわけではない。何かができるわけではない。何かを持っているという特別な賜物があるわけでもない。 でも神さまは私のことを心にかけ、目に留めてくださった、というのが、マリアの喜びなんですね。 これこそが、クリスマスの最大のメッセージだろうと思います。 私に目を留めてくださる神さま。
デンマークの哲学者にゼーレン・キルケゴール(***1813〜1855)という人がいます。 「哲学的断片」という難しい書物の中で、「なぜ神が人となってこの世界に来られたのか」ということをちょっとこう書いています。 話を膨らませると、こういうことになりますね。
ある国の王子様が、父の使いで、地方の村を訪ねることになりました。 その町の一角の貧しい地域を通った時に、王子様の馬車の窓から目に留まりました。 道を歩いていた農家の娘に目が留まりました。 その姿が心から離れなくなってしまいました。
どうしても会ってみたい。でも問題があります。どうやって会ったらいいんだろうか? 王の権威で、無理矢理彼女と会うこともできるし、無理矢理自分の思いを告白することもできるし、あるいはもっと飛び越して、無理矢理彼女を妻とすることもできるでしょうけれども、 そんなことをしたら、彼女の心は自分の方には向かない。 なぜなら、力づくでは愛は育たないからですね。
王子が馬車ごと彼女の家の前に乗り付けて、王家の贈り物を財宝でも差し出して、結婚を申し込んだところで、心を向けてくれるわけがないです。 王子が望んでいることは、彼女を自分の妻とすることではなくて、その女性が心から、自分と同じように、自分に目を留め、自分を好きになってくれることですね。 それに関して言うならば、彼の力や、社会的な立場や、財産は何の関係もないわけです。
想像するに難しいことではないですね。 王子は力と権威の象徴である王家のマントを脱ぎ捨てました。 そして一人の農夫の姿で村に入って行きます。 人々と一緒に住み、人々と一緒に仕事をし、そして彼らの関心や彼らの問題を共有し、彼らの言葉使いを身に着け、 そして時間をかけて、彼女と知り合うようになり、友だちになり、やがて彼女は王子を愛するようになる。
すべては王子が、この農家の娘に目を留めたというところから始まる。 すべては神さまが、この卑しいはしためであるマリアに目を留めたというところから始まるのが、クリスマスの出来事であり、いやクリスマスだけでなく、 主イエス・キリストが、私たちの世界に私たちと共に住み、私たちの言葉を話し、私たちの痛みを知り、私たちの思いを共有し、そして私たちの罪を担って十字架にかかってくださった。 「恐れることはありません。愛の神が身を低くしてあなたのもとに、私たちのところに来てくださったのです」――これがクリスマスのメッセージではありませんか。
こんなに自己中心で、こんなに欠けだらけで罪深い私たちに対するさばきを、その身に引き受けてくださったイエス・キリスト。 それによって、私たちは自分がどれ程罪深い存在であるのかが分かり、私たちの罪が赦され、心から神の愛に応えたいという思いが自然に湧いて来る――新しい自分の人生を考えるようになったのが、私たちですよね。
そのすべてが、主が私たちに目を留め、というところから始まるとすると、 その出来事は今年の私たちにもあるわけですね。 私たちの祈りに、私たちの問題課題に、私たちの悲しみに、私たちの信仰に、主イエス・キリストは目を留めてくださる。そして身を低くして、私たちのところに来てくださるわけです。
2)このマリアの賛歌はマニフィカートと呼ばれています。英語ではマグニフィカ―トです。
その言葉は46節です。聖書を見ていただきます? 【画面:ルカ1章46節「主をあがめ」47節全文、48節「この卑しい〜くださった」に水色のハイライト】 <ルカ1:46> 46マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
「主をあがめ」という言葉がラテン語ではトップに来ますね。 ですからマニフィカート、マグニフィカ―トと呼ばれているわけです。 「私は主を崇める」という言葉が最初に来ています。 で、今申し上げました「主が私に目を留めてくださった」というのは、「私が主をあがめる」理由ですね。理由。 「あがめる」という言葉で、マグニファイと英語では「大きくする」という意味です。 この言葉が使われていることは、注目に値します。
つまり、私たちは自分の人生で、「主イエス・キリストの生誕」ということをどれ位のサイズで考えているのか?と言えば、 それはそれは小さなサイズでしか考えてないです。 皆さんの頭の中には今週やるべきことというものがありますし、年内にやるべきことということもありますし、 そして私たちが、クリスマスのことを考えるとしたならば、勿論主イエス・キリストを信じているならば、教会のクリスマスということを考えますでしょう。 でもそうでなければ、世の中一般のクリスマスということを考えるに違いないです。 すると、クリスマスが私たちの心を人生に占めている割合というのは、ものすごく小さいですね。
「主を崇める」というのは、これをものすごく大きくする。 つまり心いっぱいクリスマスのことを賛美する。感謝する。 なぜなら、私のような者に神は目を留めてくださったからですね。
さて、これが前半のメッセージだとしたら、聖書を見ていただきたいと思うんですが、 【画面:ルカ1章52節「低い者を高く引き上げられました」53節「飢えた者を良いもので満ち足らせ」に水色のハイライト】 ここから後半のメッセージが展開されていきます。 52節、53節、非常によく分かりますね。 <ルカ1:52〜53> 52権力のある者を王位から引き降ろし、 低い者を高く引き上げられました。 53飢えた者を良いもので満ち足らせ、 富む者を何も持たせずに追い返されました。
ここで描かれている「低い者」というのはマリア自身ですよね。 或いはここにある「飢えた者」というのは、主のはしためであるマリア自身ですよね。
3)では「権力のある者」とか、「富む者」というのは、一体誰のことなんだろうか?ということを三番目のポイントでお話をしたいと思います。
これが後半のメッセージですね。
「富む者を何も持たせずに帰らせる」という同じ場面を、同じルカの福音書の23章から見ていただきたいと思います。 ここに富めるヘロデが出て来ます。何も持たさないで帰す。23章の8節と9節ですね。 いいですか。ちょっと聖書を見てください。
イエス・キリストが十字架のかかる前に、当時エルサレム・ユダの地方の総督でありましたローマの総督ピラトに、当時の宗教家はイエスを引き渡します。 そしてピラトは、お隣のユダヤの王さまヘロデ王のところに、イエスを一旦視てもらいに行く。 自分はこの人物は無罪だと思うけれども、あなたはどう思うか?という場面ですね。 【画面:ルカ23章8節「ヘロデはイエスを〜喜んだ」「ずっと前から会いたいと思い」「しるしを何か見たいと望んでいたから」に黄色のハイライト。 9節「イエスは何もお答えにならなかった」に水色のハイライト】
<ルカ23:6〜9> 6それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、 7ヘロデの支配下にあると分かると、(***というのは、ガリラヤはピラトの支配下ではないです、ヘロデの支配下です、と説明)イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである(***ヘロデの別荘がエルサレムにあるんですね、と説明)。 8ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを(***奇跡をと言い換えて、)何か見たいと望んでいたからである。 9それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
富めるヘロデを、何一つ持たせずに帰してしまうわけです。 少し説明しますね。
ヘロデはイエスさまを大歓迎しました。 いま読みましたように、前々から会いたいと思っていた。噂に聞きしイエスなんですね。 ヘロデの統治をしていたのは、ガリラヤが入っていますから、イエスさまの伝道、そのガリラヤ伝道のさまはヘロデの耳にも入って来ました。 彼は自分の邸宅にイエスさまを迎えて、恐らく自分から出向いてイエスを歓迎したに違いないです。 美味しいお茶の一杯でも用意をし、雰囲気をほぐすために冗談の一つでも言い、 とにかく、ヘロデは愛そうを振りまいて、イエスを大歓迎いたしました。
ヘロデは話しかけ、質問をいたしました。 しかしイエスは、ヘロデの前でじっと静かにたたずむだけで、何一つお答えにならなかった。 主はヘロデを、何も持たせないで、追い返されたのです。
なぜでしょうか?――それは、ヘロデには「富める者」のムードがあったからです。 富んでいて当然です。ヘロデは王さまですから。 しかしイエスさまが感じられたのは、財産の問題ではなく、それは心の問題です。 心の問題として、私たちは内側に「富める者」のムードというものを持っていないわけではない。 すると、イエスさまは口を閉ざして何も持たせないで追い返される。
「富める者」のムードと逆のムードをマリアは持っていました。 ですから自分自身を「主のはしため」と呼び、「なぜこのような者に神は目を留めてくださったのだろうか」と、その神全体を自分の人生に満たすかのように、「神をほめたたえる」。
「富める者」のムードというのは何でしょうか? 神の救いなんか、あってもなくてもどっちでもよい。 ヘロデがイエスさまに抱いていた関心というのは、時のブームに乗せられただけですね。
クリスマスに、クリスマスのムードに乗せられて教会に来る(笑)、という場合は多々ある。 多々ありますね。悪いことではないと思いますけれども。 クリスマスのムードに乗せられてプレゼントを買い、クリスマスの飾りつけをし、そして音楽会に行き、でもそれは全部ショーウィンドウから物を眺めるように、見てみたい、聞いてみたい、触ってみたい、知ってみたい。 でもそれに本気になるつもりはさらさらない、というのが「富める者」のムードです。
ヘロデはイエスさまに何か癒してもらいたい、何か解決してもらいたい、自分の心の中にある不安や悩みをどうにかしてもらいたい、という思いは全くない。 自分の人生はそれで充分満足なんですね。 でもこれ程までに噂になっていたイエスの奇跡を、この目で見てみたい。 おおよそ何でも自分のものになるヘロデですから、ヘロデにしてみれば、イエスさまが奇跡の一つでもなさるだろうと思って期待していたんですけれども、 イエスさまは、そのような「富める者」のムードを持っている者を、「何も持たさないで帰してしまわれます。」(ルカ1:53)
おおよそキリスト教の神学、16世紀以降、宗教改革以降、ま、カトリックも含めてなんですけれども、 一番多くの影響を与えた書物――薄っぺらい書物です――トーマス・ア・ケンピスの「キリストに倣いて」という書物があります。
トーマス・ア・ケンピスというのは、当時の神学者のように修道士ではありませんでした。 修道士ではなくても、世の中一般で生きている私たちも、同じように自分の人生を神にささげ、敬虔に生きることができる、という運動の中心にいた人物でした。 つまり一般の信徒なんだけれども、神に仕え、神に感謝し、神を賛美する。そして神の御心通りに生きることができる。 そして、「キリストに倣いて」という書物を書きました。 その一文を読んで終わりにいたします。ちょっと聞いてくださいね。
――「キリストに倣いて」一文読み始め―― 「たとえどんなに美しくすばらしい知恵に富んでいても、どんなにすばらしい知識の宝庫を持っていても、あるいは敬虔で信仰深くて大きなキリスト教の働きに関わっていても、それゆえにうぬぼれるならば、そんな思いはない方がよろしい。」 ――ここまで読み終わり――
どんなに敬虔で、どんなに信仰のことが分かっていても、それをもって誇るようになるなら、それをもって人を蹴落とすようになるなら、そのような知識は持っていない方がよろしい。
たとえどんなに失敗しても、もう本当にこの人の前で顔を上げられないような、恥ずかしいような失敗をしたとしても、それを思う度に胸がうずくような失敗であったとしても、そのために心砕かれ遜るなら、そして謙虚に生涯生きていくなら、そちらの方がはるかにすばらしいです。
悲しみも試練も、苦悩も涙も、それをもって心砕かれるなら、それをもって遜るなら、それは幸いそのものです。
私(藤本牧師)は先週間違えて、ここの布(※講壇布を押さえて)を緑にしました。で、昨日紫に変えました。 これがキリスト教のアドベントカラーです。カトリック教会でもプロテスタント教会でもアドベントカラーは紫です。 それは悔い改めの色なんですね。
神がこのような貧しいはしために目を留めてくださったと、 私たちの知識や能力や賜物がどんなに大きなものであったとしても、それは神の御前に何の価値もない程小さなもの。 でも、その小さな賜物を、神はあなたに与えてくださった。 でもその小さな賜物と共に、もっと大いなる救い、主イエス・キリストをあなたに与えようとしておられる――それがクリスマスですよね。
そしてその恵みを受けるならば、あなたの賜物は神の栄光のために用いられ、 あなたの貧しさは神によって祝福され、それは地の塩、世の光として輝くようになる。
一番大切なのは、主イエス・キリストという恵みを前にして、心砕かれ遜る。貧しくなる――そうなる者に主は沢山の宝を持たせて帰す。 どんなにあなたが貧しくても、《所詮キリストなんて私の人生に何の関わりもない》という態度で来るならば、何も持たせずにあなたは帰される。
格別にクリスマス、マリアに倣って「貧しい者」のムードであるべきです。 ヘロデやピラトのようでなく、 敬虔でありながら、パリサイ人や道徳家のようではなく、 目の見えない物乞いのバルテマイのように、「主よ、私をあわれんでください。私の祈りを聞いてください」、 マリアのように「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった。私こそは幸せ者です」と祈ることができますように。
☆共にお祈りを捧げます――藤本牧師 主イエスさま。 私のたましいは、満たされているようで実は飢え渇いています。 私は弱い者です。 私は自分の知恵を駆使しても、明日のことを知ることはできません。 様々なことに努力すればする程、自分の限界を嫌という程見せつけられます。 この身体も、この人生も、自分のものでありながら、思うように動くなんてことはほとんどありません。 ですから主よ、私を哀れんでください。 この弱い貧しい私に目を留め、私の祈りに答えてください。 私にはあなたに以外の神なく、あなた以外に信頼できる対象はありません。 そのことを一歩一歩、一日一日アドベントを過ごして行く度に、私たちを低くし、 この人生において、あなたをほめたたえることができるようにしてください。 イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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