☆聖書箇所 マタイ2:7〜21 7そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。 8そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。 9博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると、見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。 10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 11それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 12彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。 13彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」 14そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、 15ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。 16ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。 17そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。 18 「ラマで声が聞こえる。 むせび泣きと嘆きが。 ラケルが泣いている。その子らのゆえに。 慰めを拒んでいる。 子らがもういないからだ。」 19ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。 20「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」 21そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。
☆説教 アドベントV・戸塚伝道師:クリスマスの涙 (※マスクを外してポケットにしまい込み、会衆に一礼して語り始める戸塚伝道師) 皆さん、おはようございます。高津教会の礼拝に良くお出でくださいました。 それからYouTubeで参加してくださっている方々も(※カメラ目線で一礼して)、おはようございます。こうして共にクリスマスを待ち望むこの聖日を心から感謝したいと思います。
クリスマスというのは、キリスト者だけのためにあるものではありません。 もし今日YouTube で初めて教会の礼拝、どんなものかなと思ってご覧になられている方がいらっしゃるでしょうか? 或いは久しぶりに教会の集会にいらしている方もいらっしゃるかもしれませんけれども。 教会員の仲間同士が内々で楽しそうに盛り上がっている、クリスマスをお祝いしている――そういう印象をもし持たれてしまった場合は、本当に申し訳なく思います。 それは私たちの本意ではありません。
クリスマスはキリスト者だけのものではない。 いやむしろ、キリスト者でない方々のためにある。 まだ一度も教会に来たことがない。一度も聖書を開いたことがない。聖書にある神さまのカの字も分からない――教会に行くことをためらっておられる方――そういう方々のために、実はクリスマスはあるんですね。 そのことを心に留めながら、ぜひこれからの短いひと時、そしてこのクリスマスの時期を共に過ごしていただきたいと思います。 そして少しでもイエスさまの福音、そしてクリスマスの意味について、ご理解いただければと心からお祈りしていることです。 今日もどうぞ最後まで、特に初めていらした方、今日どうぞ最後までおつき合いいただければ嬉しいです。
今朝はマタイの福音書の第2章の7節〜21節より「クリスマスの涙」と題して、思い巡らしをいたします。 喜ばしいクリスマスの背後に涙がある――このような切り口で、みことばを読み取っていきます。
「クリスマスの涙」の一つ目―― 1)母の涙
今日読んでいただいた聖書箇所、マタイの福音書第2章。 第2章全体は、これは東の博士たちが星に導かれて、幼子イエスさまのところへ礼拝し、贈り物を献げているシーンですね。 生誕劇の定番の一つの場面です。
思えば生誕劇、この二年間為されていない。 ほんとに寂しいクリスマスを迎えようとしています。 勿論、教会学校の先生たちは大忙しなんですけれども、あの大忙しが逆に懐かしい――そんな感じがいたします。 今日午後にはZoomの祝会があるということですが、その祝会がまさに祝されますようにお祈りいただきたいと思いますけれども、
この生誕劇の定番の一つ、しかし2章の12節から先は、これは劇にはならないですね。 ましてや、母の涙の個所はなおさらです。 2章の16節からお読みいたします。
<マタイ2:16〜18> 16ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。 17そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。 18 「ラマで声が聞こえる。 むせび泣きと嘆きが。 ラケルが泣いている。その子らのゆえに。 慰めを拒んでいる。 子らがもういないからだ。」
この18節の「 」の中は、これは旧約聖書のエレミヤ書の31章の15節のお言葉から引用されています。 ここにラケルという人物が出て来ますが、「ラケルが泣いている」――これは創世記に出て来る(***創世35:19)ヤコブの妻と同じかどうか、それは分かりません。 ラマとは地名です。このラマという地でラケルが泣いている、という預言がこの時に成就したと書かれています。
この世界で、最初にキリストの誕生をお祝いしたのは、2章に出て来る博士たちだったと考えられます。 当時のユダヤの宗教理解と社会背景からすれば、東の国の博士たちは救われるはずのない外国の異教徒の人たちでした。 このような人たちに、キリスト誕生のしるし、星が示されるわけですね。 いわばキリスト者でないのに、キリストに出会ったようなものです。
ところがイエスさまは、ユダヤの国の救い主だったはずなのに、当のユダヤの人たちはそれを喜んではいませんでした。 ユダヤのヘロデ王たちは自分たちの立場が脅かされると感じました。 そして生まれたユダヤ人の王とされる、メシアであるイエスさまを排除するために、その地域にいた二歳以下の男の子たちを皆殺しにしたと、(マタイ2章)16節の最後に書かれています。 クリスマスのイメージはこの場面に心を留めると、一変いたします。
小さい子どもには話したくない、話すことができない聖書物語。 クリスマスはそういう意味では、なんと残酷な、なんと悲惨な出来事だったことでしょうか? いきなり入って来た兵士によって、わが子を突然目の前で殺される。 言わばイエスさまの誕生の身代わりとしての、二歳以下の男の子たちでした。 あまりにも理不尽なわが子の犠牲。 その親たちの言葉にならない衝撃、嘆き、悲しみ、喪失感。 号泣の叫びが家々から聞こえる、そういう状況が(マタイ2章)18節で描かれているわけですね。
ラケルは女性ですので、このラケル、母親たちの象徴的な存在である。 ここにクリスマスに流された、《母の涙》が描かれています。 勿論悲しんだのは母親だけではないでしょう。その家族の涙も多く流されたに違いありません。 クリスマスは福音です。喜ばしい知らせです。 その一方で、クリスマスはこれらの多くの母親の涙無くして語ることはできません。 クリスマスの物語には、深い深い悲しみがあるんですね。 クリスマスパーティーやディナーショーや祝会や、或いはイルミネーションやサンタクロースや様々な明るいイメージがある、その対極的なクリスマスの一面――それがこの《母の涙》です。 《母の涙》がクリスマスのイメージとは対極的な一面を物語っています。
このような表現しがたい程の悲しみと喪失感を生み出したのは一体誰でしょうか? ヘロデ王さまです。 でもヘロデ王さま以前に、まったく理解できませんけれども、 もとはと言えば、そのような喪失感、悲しみを生み出したのは神さまだったわけですね(笑)。 ユダヤ人の王としてキリストを誕生させた天の父なる神さまが、そのような喪失感、悲しみを生み出したと言っても間違いではないと思います。 しかし、このお方も涙を抱えていた、ということを想像することができます。
2)父の涙を思い巡らしてみたいと思います。
父、ひとり子なる神さまの父、イエスさまのお父さん、この父がひとり子なる神さまを大事にされている思い――それが描かれているのが、(マタイ2章)15節に書かれている一節です。お読みいたします。 <マタイ2:15> 15ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。
前後の文脈、それは省略いたしますけれども、この「 」の中に、父なる神さまの思いが書かれています。 「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたと。 「わたしの子」――父なる神さまはイエスさまを「わたしの子」、ほんとに大事にされている、その言葉がここに書かれています。
さらに同じマタイの福音書の3章の17節には、イエスさまが洗礼を受けられた時に、神さまが言われた言葉が書かれています。 <マタイ3:17> 17そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
そういう神さまの声が天から響いた。 わたしの愛する子なんだ。わたしはこれを喜ぶ。 天の父なる神さまが、子なる神さまをどれほど大事にされ、愛されているか。
そして極めつけは、ヨハネの福音書3章の16節ですね。 <ヨハネ3:16> 16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」――ひとり子をお与えになった。 ここに、父なる神さまの涙が秘められている――そう感じるのは私(戸塚伝道師)だけでしょうか? 父なる神さまのひとり子なる神さま・イエスさまを、人間の罪の贖いのために捧げてくださった。 父なる神さまの愛、そして父なる神さまの慈悲、そして《父なる神さまの涙》です。
神さまっていうお方、イメージとして色々なイメージを持たれると思うんですけれども、 しかし「神さま」って言ったらば、ものすごく恐れ多い、近づき難い、超然とされ、何があっても平然としておられるようなイメージを持ちがちなんですけれども、 でも父なる神さまも、感情を持っておられるお方だなぁと想像いたします。
クリスマスは、救い主の誕生に止まりませんでした。 その誕生の目的は十字架の死であり、私たちの罪の贖い、贖罪(しょくざい)でありました。 父なる神さまは、そのために大事な大事なひとり子を私たちにお与えになった。 そこに《父なる神さまの涙》を感じます。
ゴスペルシンガーの岩渕まこと(いわぶち・まこと1953〜)さんという方がいますが、 《父の涙》と聞いて真っ先に思い出すのが、この岩渕まことさん作詞作曲の「父の涙」という曲です。 是非ネットで「父の涙・岩渕まこと」と検索いたしますと、岩渕まことさんの歌が聞けます。こんな歌詞ですね。 <父の涙> 1 心に心に迫る 父の悲しみ 愛するひとり子を 十字架につけた 人の罪は 燃える火のよう 愛を知らずに 今日も過ぎていく
2 父が静かに 見つめていたのは 愛するひとり子の 傷ついた姿 人の罪を その身に背負い 父よ彼らを 赦してほしいと
《繰り返し》(※そして、さびが、と表現する戸塚伝道師) 十字架から溢れ流れる泉 それは父の涙 十字架から溢れ流れる泉 それはイエスの愛
皆さんもご存じですよね。 (※歌い出して)♪十字架から 溢れ流れる泉 それは父の涙〜という歌ですね。 また歌っちゃいましたけれども、そういうメロディーですね。
岩渕まことさんの愛するお嬢さんは、8歳の時に脳腫瘍のために天に召されました。 その時、岩渕さんが改めて実感したことがありました。 それはお父さんである神さまが、子であるイエスさまを十字架につける悲しみ、苦しみ――それを実感したそうです。 その計り知れない、深い神さまの愛を賛美したものが、この「父の涙」でした。
それは犠牲となるひとり子を与える涙。 実は父なる神さまは、子を奪われた母たちと共に、泣いておられたのではないだろうか? 罪の中にもがく人間への、胸熱くする程の憐れみの涙。 《父なる神さまの涙》です。
勿論父なる神さまの思いと、人間の感情や愛情とは次元が違うことでしょう。 でも父なる神さまのひとり子への愛は、父親の子に対する愛と本質的には同じだと思われます。 クリスマスの出来事から始まる一連の人間の贖罪計画――そこには《父なる神さまの涙》がありました。
3)子の涙です。子の涙――子なる神さまの涙、イエスさまの涙です。
イエスさまの涙が表現されている聖書箇所を三つ捜してみました。 ▼ルカの福音書19章の41節、ローマ帝国によって滅ぼされる都エルサレムのために泣くイエスさまですね。こうあります。 <ルカ19:41> 41エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
と書かれています。都のために泣いておられたイエスさま。
▼ヨハネの福音書の11章の35節です。 死んだラザロが納められている墓へ行く途中、泣いている人たちと共に、イエスさまが泣きました。 11章の35節、聖書で一番短い節だと言われています。 <ヨハネ11:35> 35イエスは涙を流された。
明確に書かれています。子の涙。
▼へブル人への手紙5章の7節、ゲッセマネの祈りの場面が書かれています。こうあります。 <へブル書5:7> 7キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
イエスさまは、ゲッセマネの夜、大きな叫び声と涙をもって、父なる神さまにお祈りをした。イエスさまの涙。
ではクリスマスにおける《子なる神さまの涙》って一体何でしょうか? イエスさまが飼葉桶に寝かせられた時に泣いていた時は、あれは産声でしたから(笑)、涙は出なかったかもしれません。 でもそれ以前に、この地上にイエスさまが生まれる前に、恐らく人間を罪と死から救う役割を担う、覚悟の涙があったのではないでしょうか? それは受肉の涙と言えるかもしれません。
教会学校の教師を長年させていただいているせいでしょうか、私(戸塚伝道師)はお祈りする時、「イエスさま」ってお祈りする方が自然です。 「イエスさま」――「神さま」「天の父なる神さま」色んな呼びかけがあると思いますが――私はどちらかというと「イエスさま」って言った方が、なんか親しくイエスさまを前にして色んなお話ができるような気がするから、「イエスさま」って呼び掛けるんですね。
でもこのイエスさま――なぜ「さま」をつけるのかは、「救い主キリスト」だからですね。 イエス――これは人間の子どもに付けられた名前です。 イエスさま、つまりイエス・キリストなんですが、「イエスさま」って言った場合、「人の子」としての表現が強く出ているような感じがいたします。 人間となってくださったイエスさま。
しかし、このお方はイエスさま以前に、つまり「救い主キリスト」になる以前に、既に永遠の昔から「子なる神さま」であられました。 「王の王、主の主」(***Tテモテ6:15)であられる神さまが、人間となってくださった。 肉体を取って、しもべとなって、赤ちゃんとなって、この世に来られた。 このマタイの福音書の2章の7節〜21節の中に、「幼子」という言葉が、9回出て来ます。 許されるならば、後ほどこの「幼子」という所にマーカ−をつけていただければ分かると思いますが、9回も出て来ている。 人間となってくださった神さまが「幼子」という表現で、この7節〜21節の間に凝縮されて書かれている。
神さまが幼子になられた。 神さまが幼子になったということは、ミルクを吐いたり、お漏らしをしたりする神さまだっていうことですよ。いやもう神さまじゃない。人間ですよ。 (※段々声に力が入ってくる戸塚伝道師) 人間になってくださった。100%人間として成長してくださった。 神さまが人間となってくださったことを、神学用語で「受肉」と言いますね。 肉を受ける。「受肉」という二字熟語です。 「受肉」は、神さまが人となってくださった――これは福音の中心であり、キリスト教独自の視点です。
神さまが人となられた。100%人間として成長してくださった。 神が人となられたということは、この私のようになられたということです。 勿論罪と汚れや咎は別として、それ以外のすべてを経験してくださっている方で、すべてをご存じの方です。 それは子なる神さまにとっては、人間となることでさえ凄いのに、私のようになってくださるということは(※力を込めて)どんなに辛い苦しみでしょうか。
そして既に生まれた時から、贖罪の子羊としての十字架を負わされている、という悲しみがクリスマスの時点からあった。 勿論赤ちゃんのイエスさまは、そんなこと自覚されてないでしょう。 でも物心ついた時から、父なる神さまからそういう語りかけを日々受けていたに違いありません。 それが《子の涙》です。《御子の涙》。 どんなに辛いことだったでしょうか、神さまにとって人となることは、私のようになってくださったことは。 そして私のために十字架にかかって、悶絶の苦しみの中で、いのちを捨てられたことは。
その涙は私たち人間を、胸焦がすような憐れみで包む、慈悲の涙でした。 日本人にとっては「愛」と言うよりも、「慈悲」と言った方がピンと来るかもしれません。 慈悲――慈しみ、悲しみ。悲しむという言葉が入っている漢字ですね、慈悲は。 慈悲――そこにイエスさまの生きざま。涙そのものを感じます。 イエスさまは「悲しみの人」(***イザヤ53:3)と呼ばれていました。 イエスさまは私たちの涙をご存じのお方です。
(日本福音)ルーテル東京教会の牧師先生、関野和寛(せきの・かずひろ)先生という方がいます。 現在はアメリカの病院のチャプレン(病院聖職者)、主にコロナ病棟や精神病棟で人々のたましいに寄り添う働きをしておられる先生ですけれども、型破り牧師と言われている方ですね。 理不尽に苦しむ人々と関わって、矛盾だらけの聖書に食らいついて、神さまと本音で向き合っておられる姿勢が注目されている牧師です。 何冊か本を出していますけれども、その中に「天国なんてどこにもないよ」という本があります。 この本のプロローグに書かれている関野先生の文章を紹介して、終わりたいと思います。
関野先生はこんな文章を書かれています。 ――読み始め―― (※視聴しただけで、戸塚先生は原稿はありませんので、本の通りではないだろうことをお断りいたします) イエスは馬小屋のような場所で、ホームレスのように生まれた。 そしてすぐにいのちを狙われ、エジプトに亡命したイエスは難民でもあった。 現実を見れば明らかなように、神も、イエスも、この世界を救えない。変えることもできない。 戦争だってなくならないし、社会構造もちっとも良くなりはしない。 だが神は、誰かの中に宿っている。 ホームレスのように生まれ、難民にさえなったイエスは、今日も、そのような人々と共に苦しんでいる。 そのような人々の中にこそ、神はいる。
大工出身の庶民であるイエスが、苦境の旅で出会い、愛したのは、病人、税金取りや娼婦、社会的に軽蔑された人々だった。 イエスは輝かしい天国などにはいない。 遥か彼方、雲の上の天国から、この滅茶苦茶な世界を見下ろしている神なら、私は絶対に信じない。 けれどもイエスは降りて来る。 一番低い所、誰も届かないほど低い場所に落ちて来てくれた。 そして最後は妬まれ、大切な人々に裏切られ、十字架刑でいのちを奪われた。 私はそのようなイエスの姿に神を見る。
そしてこのイエスは、あなたが病で絶望している時、一緒に病気になっている。 あなたが馬鹿にされ軽蔑されるような時、イエスも一緒に嘲られている。 誰にも絶対理解されない絶望の中にあなたがいる時、ずたずたでボロボロにされたイエスだけが、あなたの痛みを理解している。 そしてイエスは今日もいる。人を妬み、妬まれ、人を傷つけ、傷つけられ、そして人を見下す、こんな卑しい私の中にも、イエスがいる。 ――ここまで読み終わり――
喜ばしいクリスマスの背後に涙があります。 幼子たちの母の涙、天の父の涙、そして御子の涙。 これらの涙ゆえに、たとえ私たちが涙の中を歩むとも、本当の喜びと安らぎへの道が開かれました。 そしてこのクリスマスの涙は、今年のクリスマスが終わった後でも、すべての人の救いのために流され続けていく恵みの涙です。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師 神さま、私たちをこの私を救うために、母たちは、天の父は、御子は、どれほどの涙を流されたのでしょう。それでも神さま、あなたは私たちを憐れむあまり、人となってこの世に来てくださいました。すべての人の救い主であられるイエスさま、今も私たちに寄り添い、共に涙を流しておられるお方、ありがとうございます。どうぞ私たちを恵みの道へと導いてください。また、あなたの慈悲の思いに一人でも多くの方が触れられ、救い主と出会いますようにと祈ります。
今日の礼拝のひと時を感謝いたします。今年ならではのクリスマスの恵みを、さらに待ち望む一週間でありますように。愛するイエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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