☆聖書箇所 ヨハネ1:1〜5 1初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 2この方は、初めに神とともにおられた。 3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 4この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
☆説教 クリスマス:光は闇に勝つ、いのちは死に勝つ
ヨハネの福音書のクリスマスの記事。 ヨハネの福音書の1節から見ていただきますけれども、何とも独特な始まり、独特な表現でございます。映しますね。 【画面:ヨハネ1:1〜5節。1節「ことば」「神であった」に黒ペンで囲み。3節「すべてのものは、この方によって造られた」に黒ペンで傍線。 4節全文と5節「光は闇の中に輝いている」に傍線。4節「いのち」「いのちは人の光」と5節「闇はこれに打ち勝たなかった」に囲み】
<ヨハネ1:1〜3> 1初めにことばがあった。(***ギリシャ語ではロゴスという、ま、知恵と言いますか、言葉と言いますか、単に人が発する言葉ではないですね。神の御思いと理解すればいいと思いますが、と説明)ことばは神とともにあった。(***のみならず、と加えて)ことばは神であった。 2この方は、初めに神とともにおられた。 3すべてのものは、この方によって造られた。(***ということは、どういうことか?それは、イエス・キリストは被造物ではなかった、ということです。イエス・キリストは神そのものであり、そしてすべての被造物はイエス・キリストによって造られた、と説明)
で、今年のクリスマスに目を留めていただきたいのは、4節であります。 <ヨハネ1:4〜5> 4この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
ヨハネの福音書で、キリストを表現する時に独特な言葉があります。 それが光、いのち、そして愛です。 この3つが、キリストを表す時に一番特徴的な、光、いのち、愛です。 今日の説教のタイトルは、この光と闇の問題、そして、いのちと死の問題。 必ず「いのちは死に勝つ。光は闇に勝つ」というお話をいたします。
1)闇の力
神が「光」であるとしたら、神を拒む世界を聖書は「闇」と表現いたします。 そしてその闇というのは、漠然とそこにあるのではありません。 力をもって私たちを閉じ込めようとします。
この闇を支配している者がいます。 エペソの2章の1節をちょっと開いていただきます。 先ほど戸塚先生に読んでいただきました。 ちょっと複雑な表現なんですが、それ程でもありませんので、見ていただきたいと思います。 【画面:エペソ2章1〜3節。1節と2節全体を黒ペンで囲み。1節「死んでいた者」2節「この世の流れ」「空中の権威を持つ支配者」に囲み。「不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」3節「不従順の子らの中にあって」「自分の欲のままに生き〜ほかの人たちと同じように」に黒ペンで傍線】
<エペソ2:1〜3> 1さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、 2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊(***サタンですね、と説明)に従って歩んでいました。 3私たちもみな、不従順の子らの中にあって(***神に背く者たちの中にあって、と説明)、かつては自分の肉の欲のままに生き(***というのは、自分勝手に生き、と説明)、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように(***ということは、みんなそうであったということです、と説明)、生まれながら御怒りを受けるベき子らでした。(***生まれながら、やがて神の裁きの前に立つとしたならば、私たちは裁かれるような罪人であった、ということです、と説明)。
この聖書の個所に明らかなように、この「闇の中」というこの世界は、「この世の流れ」と一致しています。 そしてそれは私たちだけの問題でなく、他の人たちと同じように、私たちもまた、この流れに生きています。 「神に背く私たち」のことを、みんな「不従順の子らの中にあって」と表現いたしますし、私たちは基本的に自分の人生は自分のもので、自分の好き勝手に生きていった。 これが世の流れ。しかしながら、それは世の流れではない。 その背後に神に逆らおうとさせるサタンの力が潜んでいて、この世を造り、私たちの心を支配していた。 そのサタンの力には私たちは勝てない、というメッセージが入っています。
みんながそのように生き,そしてそれが世の流れであり、しかし、そうしていながら、実はそうするようにサタンの力が私たちの内側に働いている。 そしてそうしている限り、私たちは闇の中を歩んでいるだけでなく、私たちは神の御前に死んでいると。
(エペソ2章の)1節をもう一回見ていただきますと、 「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり」という、「死んでいた」という表現が出て来ます。 つまり、私たち人間というのは、誰もがやがて死を迎えるだけでなく、そしてその死を越えて、永遠の死へと裁かれるだけでなく、 今現在、神に背を向けて自分の好き勝手に生きている私たちは、神の御前に死んでいる者である、ということです。
2)ところがですね、これがクリスマスの喜びです。(エペソ2章)4節を見てください。
【画面:エペソ2章4節「その大きな愛のゆえに」にピンクのハイライト】 <エペソ2:4> 4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
というこの一言で、すべてが変わっていきます。 確かにこの世界には暗闇があるでしょう。 私たちの内側に罪深い問題があるでしょう。 私たちを包む不安、或いは疑い、私たちを包む人生の困難、病、様々なことがあるでしょう。 でもそれはこの一言で、すべて変わっていく。 「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、」あなたは変わる。 あわれみ深い、あわれみ豊かな、神のその大きな愛のゆえに、私たちは変わっていくわけですね。
闇は光を嫌いました。 最終的に闇は光を十字架にかけます。 光を嫌い、むしろ自分の心の中にある闇を愛する者は、最終的に光であるイエス・キリストを十字架にかけるわけです。 それが闇の奥(深い罪)深さですね。 もし私たちの心に闇があるとしたならば、それは私たちの言葉、私たちの行動になって表に出るでしょう。 しかし闇の根本は、神に背を向け、それを拒む私たちの姿勢であります。
それでも光は闇の中に輝き続ける。 それでも、あわれみ豊かな神の愛は、私たちの人生に輝き続けるという。
私たちは自分の不出来を良く知っています。 今もってこの闇の中に引き込まれそうになってしまう、片足も片手も突っ込んでしまう自分自身を知っています。 信仰、信仰と言いながら、あっという間に、闇に包まれてしまう自分も良く分かっています。 でも同時に私たちは、《あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、私たちを守ってくださる》ということもよく知っています。
闇の力、闇の支配者――それは単にこの世界に災害があり、病があり、この世界に死があり、この世界に非常にわがままな者たちがいて――人間関係も、また国と国の関係も、露骨に闇の中にある。 貧困、戦争、災害――いや、そういう問題だけではない。 闇の支配者は私たちを神から引き離そうとして、私たちの心の中に働き、私たちを様々に縛っていく。 しかし、神の大きなあわれみのゆえに、私たちはその闇から光へと移され、光は闇に負けることなく、私たちの心に輝いている、ということですね。
一番目は闇の支配についてお話をしました。 二番目はそれでも闇は光には勝てない。光は闇に圧倒されることはない。 三番目に光とはいのちです。これで最後ですね。
3)光とはいのちです
4節を見ていただきたいと思いますが、先程のヨハネの1章の4節ですね。 この「光」とは実は「いのち」だと。 【画面:ヨハネ1章4〜5節。4節全文と5節「光は闇の中に輝いている」に黒ペンで傍線。4節「いのち」「いのちは人の光」5節「闇はこれに打ち勝たなかった」に囲み】
<ヨハネ1:4〜5> 4この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
私たちを照らす、この光というものは、いのちそのもの。 イエス・キリストはいのちそのものであります。
先程申し上げましたよね――ヨハネの福音書でイエスを描く時に、独特な言葉がある――それが「光」「いのち」「愛」。既に「光」と、それから「愛」は申し上げました。 真ん中の「いのち」です。いいですか?
クリスマスの光は決して大きなものではありません。 イエス・キリストは馬小屋で生まれ、飼葉桶に寝かせられ、 しかしこの小さないのちに死が打ち勝つということはない、ですね。
いのちというのは、イエス・キリストそのものがいのちである限り、 それはどんなに小さくても、今日洗礼を受けて与えられた小さないのちであっても、 決してサタンは打ち勝つことはできない。
16日の木曜日の明け方に、Nさんの家族の所にCちゃん、女の子が生まれました。 コロナの年によく頑張ったなぁと思います。 最後の最後までお母さんが迷っていたことは,ワクチンを受けるかどうかですね。 ワクチンを受けたのは、妊娠8ヵ月位だったでしょうか?それ位まで迷いました。 やがて1月にKさんの所にも生まれます。 いのちが誕生するのは、家族の喜びであり、教会の喜びです。
それだけでなく洗礼も同じように、いのちの誕生です。 Tさん、Sさん。H君、Iさんのお母さま、YJさんの所のMさん。 神の子どもとして、いのちの誕生を迎えるという、この小さないのち。 洗礼によって、自分の内に与えられるいのちというのは、決して大きなものではない。 イエス・キリストが馬小屋で生まれたように、小さな小さないのちです。 しかしながら、死は絶対にこのいのちに打ち勝つことはできない。 サタンの支配、サタンの権威を持ってきたとしても、私たちの内側に、洗礼によって生まれた新しいいのちは輝き続けるということなんですね。
ジェームズ・ドブソンというクリスチャンの心理学者がいます。こんな話を記しています。 心理学者でありますから、沢山のカウンセリングをして、沢山のカウンセリングの本を書いています。 ステラ・ソーンホープという夫人が、ご主人を癌で亡くして迎える最初のクリスマス。 そのクリスマスを明けて、ドブソン先生のカウンセリングに来て、こんな話をしたというのが本の中に書いてあります。
ご主人を数か月前に亡くして、その年のクリスマス。 ツリーに飾りつけをする気持ちにはなれなかった。 一切のクリスマスらしさというものは、やめたと言うんですね。 ツリーは地下の倉庫に眠ったまま。色々出して来るのも一人では大変。 そしてクリスマスそのものも面白くない。
ある日の午後、ドアのベルが鳴って、宅配の青年が箱を持って立っていました。 青年は「ここにサインをください」と紙を出して来ました。 「いいわよ。一体何の荷物なの?」
青年はニコッと笑って、そして箱のふたを開けました。 出て来たのは、むくむくの金色の毛をしたゴールデン・レトリバーの子犬です。 「生後6週間、って聞いています」と言って、ステラさんに渡してくれました。
青年は子犬と一緒に、封筒を取り出して、言いました。 「この贈り物は、亡くなった旦那さんからですよ。ここに全部書いてあります。」 手紙には色々書いてあったそうです。
おばあさんは子犬を抱えて、ソファーに座って、封筒に入っていた手紙を読んでみると、亡くなったご主人がこう記していました。 「おまえが寂しがると思って、今年のクリスマスプレゼントは、この子犬だよ」と。
その時、台所に点けていたラジオから、クリスマスの讃美歌が自然と流れているのに気がついた。気がついた。 ずっと流れていたんですけれども、耳に入って来ることはなかった。でも気がついた。 外を見ると、前の家の周りに、きれいなイルミネーションが沢山飾ってあるのが目に入った。 その途端、ステラ夫人の暗闇に光が差し込んで来て、今までのふさぎ込んでいた気持ちがパッと明るくなったと言うんですね。 ステラ夫人は、子犬に言ったそうです。 「さあ一緒に地下室に行って、クリスマスツリーを出して来よう。 我が家もクリスマスの飾りつけを出して来ようか」と。
「しかし憐れみ深い神は、その愛の大きさのゆえに」(エペソ2:4)、と言って私たちの人生に入って来られます。 それは小さな光、小さないのちかも知れない。 でもその瞬間、私たちの気持ちは、《そこに沢山の喜ばしい出来事があったにもかかわらず、見えなかった。そこに讃美歌が流れていたにもかかわらず、それが耳に入らなかった》という暗闇から解放されて、一筋の光が私たちの心の中に射し込んで来る。
ドブソン先生はこの夫人の体験からこんな味のあることを記しています 「いのちは死よりも強い」という壮大な真理を、神さまは一筋の光を不思議な方法で、私たちの心に届けて、教えてくださるお方だと。 不思議な小さな方法で、神さまは「光は、いのちは、死よりも強い」という壮大な真理を私たちの心に届けてくださる。
日常の小さな出来事かも知れません。赤ちゃんの笑顔かも知れません。人から受けた親切かも知れません。 今日、65年ぶりにSさんが高津教会に、Iさんお姉さんと共に来てくださったという、とてつもない事実。 オンラインで繋がっていながら、今日初めてYさんやTさんが来てくださった。 久しぶりにMaeさんや、Matuさんのお顔を見ることができた。 Sさんが洗礼を受けて初めてのクリスマス、どうしても教会で迎えたいと、一生懸命リハビリに励んで今日来ることができた。 その小さな事実が、あ、なるほど憐れみ豊かな神は、その大きな愛のゆえに、私たちの人生に入って来てくださる。 (※その小さな出来事を通して、私たちは神さまの壮大な真理に気がつかされるのです。) いのちがどんなに小さかろうが、光がどんなに小さかろうが、闇も死もそれに打ち勝つことはできないと。
☆お祈りして終わりにいたしましょう。――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、オンラインの方々と共に、今日のこのクリスマス礼拝を守ることができた恵みを心から感謝いたします。みんなが力を合わせた讃美動画も観ることができました。浜田さんの美しいクリスマス賛美を、力強く勇気をもって、信仰が奮い立つかのように聴くことができました。このようなクリスマスを私たちに与えてくださいましたことを、心から感謝いたします。
今日遠くからお出でになったSさん(ご高齢姉妹方)お三人を、あなたが健康をもって祝福してくださり、無事に2022年も3年も4年も5年も強めてくださいますように、よろしくお願いいたします。24日のイブの晩のコンサートも祝福してください。洗礼を受けたH君、また鳥取のMさんの上に、あなたが格別な恵みを注いでください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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