☆クリスマスメッセージ 「人生を導く神」――藤本牧師 マタイの福音書の2章の1節から見ていただきたいと思います。 「人生を導く神」と題して、お話をいたします。 マタイの福音書では、クリスマスの夜の出来事は、この2章の1節で始まります。
<マタイ2:1〜2> 1イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。 2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」
登場する東の国の博士たち。「三人の博士たち」と一般的に言われていますけれども、誕生した救い主を礼拝しようと、星に導かれてやってまいりました。 短く二点でお話をいたします。
1)皆さんは今晩、何に導かれて、クリスマスイブの礼拝にやって来られたんでしょうか?
私たちは自分の中に、たとえて言うならば羅針盤のようなものがあるのか? 船は昔から、自分の居場所が分かる、目的地に必ず辿り着くことができる羅針盤を持っています。 人は人生の羅針盤を持っているのでしょうか?誰もそんなものは持っていません。 するとどうなるでしょうか? 周囲が何を考え、どうすることが周囲の承認を得られるのか、周囲の顔色を窺います。 或いは周囲の流れに任せます。 確実に自分の位置を特定し、行くべき場所へと導いてくれる羅針盤を、自分の中に持っている人などいないと思います。
東の博士たちについて記されているのは、「私たちはその方の星が昇るのが見えたので」という、この星がサインになって―― しかもこの博士たちはペルシャの占星術、或いは占星学、天文学の博士たちだったと言われていますので、星を研究していたということも関わっているのでしょう。 その輝く星に特別な意味を感じ取りました。
何かのサインを与えられて、導かれるように神のもとに来る。 皆さんの中には友人に誘われ、或いは家族に、或いは何かふとした思いで、今日初めてクリスマスイブに来られた方もおられると思います。 時に私たちにとってのサインというのは、それほどすばらしいものではないと思います。 苦悩というサイン、病というサインもあるでしょう。 コロナのように世界を一瞬にして闇の中に閉ざしてしまい、いのちが失われ、仕事が難しくなり、行動が制限され、楽しみがなくなり、ああ、人間のいのちも世界の存在もウィルスでこれほどまでに崩れていく、というサインもあるかもしれません。 でもそれが星となって、皆さんを神のもとに導くことができる、と私(藤本牧師)は信じています。
私たちに人生を舵執ることができるような、確実な羅針盤やGPSはないんですけれども、 でも神は星を上げてくださる。 私たちを神のもとへと導くために、神が昇らせてくださる星がある。 私たちがキリストの救いにあずかることができるように、ということです。
2)導かれた先に一体何があったのか?
皆さんはキャンドルサービスに導かれて来ましたけれども、このようにして導かれた礼拝の先に何があるのか? 星に導かれて生きる――それが博士たちの目的だったのではありません。 目的は、星に導かれて救い主キリストのもとに来る、そしてこのキリストを礼拝する――これが目的でありました。
ちょっと(マタイ2章)11節を見ていただきたいと思います。11節です。 <マタイ2:11> 11それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
非常に意味深な贈り物なんです。 救い主キリストの誕生に「黄金」を献げるというのは、ま、この世の中で言っても最も価値のあるものを献げるわけですね。 「乳香」というのは、特殊な樹液、植物から採った液を固めてできる、ま、お香や薬として使われる高価なものであります。
ところが三番目の贈り物の、「没薬」というのは非常に不思議です。 聖書の中に三回しか出て来ません。 *1回目がキリストの誕生で出て来ます。 *2回目、やがてイエスが十字架にかけられ、そしてその痛みに苦しむ人間を朦朧とさせるために、没薬を混ぜた葡萄酒をローマの兵士が与えようとします。 マルコの福音書の15章の23節で、イエスはそれを拒んだ、と書いてあります。 十字架の場面で出て来るのが没薬です。 *そして三番目、ヨハネの福音書の19章の39節に、十字架で息絶えたイエス・キリストのからだを、アリマタヤのヨセフとニコデモが降ろします。 そして遺体に塗り込んだのが没薬です。
つまりイエス・キリストの誕生で、三人の東方の博士たちは、没薬を持って来るんですけれども、没薬の意味が分からない。 もしかしたら彼らも分からなかったのかもしれない。 葬りのために用いられるんです。
でももしかしたら、東方の三人の博士たちは分かっていたのかもしれない。 なぜなら、旧約聖書のイザヤ書の53章にこう書いてあるからです。53章の5節に―― <イザヤ53:5> 5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
「彼」と預言されているのは、救い主、メシア、キリストのことです。 イザヤ書の53章、つまりキリストが現れる400年以上前に預言がなされていた。 やがて生まれ出るところの救い主キリストは、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために、私たちの病のために、私たちの孤独のために、私たちの矛盾と弱さとありとあらゆる困難のために砕かれる。 そしてその打ち傷によって、私たちは癒やされる。 十字架の打ち傷によって、私たちは癒やされる。
聖書の教えはこうです。 神は私たち人間を創造されました。そして神ご自身の御心を羅針盤として生きていくように私たちを創造されました。 しかし私たちは神という羅針盤を捨てて、自分勝手な思いに振り回され、神から離れて生きる道を選択し、いや私たちというよりも世界はそうなって行ったんです。 私だけの問題ではない。これは世界の問題です。 環境問題を考えても、格差の問題を考えても、或いは国と国との問題を考えてみても、神さまが世界をこのように造られたわけではない。 私たちがそれぞれ自分勝手な道を行き、そして神に背いて行った。 でも世界の(※神の?)責任ではない。私はその世界の中にいるんですね。
キリストはお生まれになった時から十字架を目指しておられました。 それが神の計画であり、神はキリストの十字架が、私の罪と背きのために、私の絶望と不安のために、私がうちに持っている怒りと疑いのために、私の欺きと裏切りのために、イエス・キリストを十字架につけられた。 ああ、《この方の死は私の罪のためにある、と信じてこの方を受け入れる者を神の子どもとしてくださる》というのは聖書すべての教えです。 私たちはイエス・キリストを信じることによって、赦しと平安を与えられ、聖霊という強力な羅針盤を与えていただくんですね。
何かに導かれてここに来た。導かれた先に、賛美すべてに込められていましたように、イエス・キリストとその十字架があり、改めて《神の救いと十字架は私のためにある》――そのことを喜ぶのがクリスマスです。 そのことを喜ばずしてクリスマスを過ごすことができない、と私たちは考えているわけですね。
心理学者の河合隼雄(かわい・はやお、1928〜2007)さんが「心の処方箋」という本の中で、こんな話を記しています。 小さな乗り合いの釣り船が、夕方強い潮に流されて、そして岸も見えない沖に流されていったそうです。 釣り人たちは必死に何とかしようとするんですけれども、いつの間にか日が沈んでしまい、周囲は闇となってしまい、どちらの方向に頑張ればいいのか、さっぱり分からない。 しかも曇りで、月明かりもありませんでした。 みんな必死で船の灯りを捜し、自分の灯りをかざして助けを求めて叫びます。
その時乗っていたある人物が、「みんな、光を消せ」「光を消せ」と言うんですね。 光が消えました。周囲は真っ暗です。 すると段々暗さに目が慣れて来て、そして真っ暗な海の遠〜くの方に、近辺の街の灯りがうっすらと見えてきた。帰る方向が見えてきた。
自分が様々な意味で持っている光というのがあります。 それが情報であったり、常識であったり、或いは財であったり、人の相談であったり、自分の判断であったり。 そういう灯りを一旦消さない限りは、暗闇の向こう側にうっすらと映っている神の光を、私たちはなっかなか見ることができないです。
様々な意味をもって、皆さんは今日のクリスマスイブ礼拝にいらっしゃったと思います。 でももしその背後に、このコロナの苦しみのような、先行き不安定で、自分自身の存在も軽く、一年間沢山の苦労を抱えて来たという方であればある程、 2022年の向こう側に見えてくるうっすらとした神の光の灯りが分かる。 そういう方であればある程、分かる。
三人の博士たちは苦労して旅を重ねて来ました。 そして最後、幼子キリストの前に跪き、自分たちが持って来た宝を献げ、その宝の中には十字架を指し示すような葬りの宝も入っていました。 彼らは「ここに救い主あり」と跪いて礼拝し、キリストの下で自分の重荷を降ろして、キリストに守られて生きるのです。
良くキャンドルサービスに来てくださいました。 「メリー・クリスマス!」という言葉――ほんとに良きクリスマスを過ごされますように、明日も含めて心からお祈りしています。 この年を良い形で閉じられ、そして来年また一歩二歩と進んでいこうではありませんか。 でもそのためには、《まず私たちは自分の灯りを消して、そして神が私たちに与えてくださる、うっすらとした光に目を向けていく》――というのは一体どういうことなのか? それは、《今日のこのクリスマスイブの礼拝は私のためにある、と納得する》ことです。 自分の意志でこのクリスマスイブ礼拝に来たのではない。 神が何らかの形で星を上げてくださり、私をこのクリスマスイブの礼拝に導いてくださった。 そしてこれから祈る祈りに心を合わせて、「アーメン」と言ってくださることです。 祈りは私たちを神の世界に取り込みます。 そして私たちの想像では計り知ることができない平安を、神は私たちの心に与えてくださいます。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、イエス・キリストの誕生の時に、あなたは星を上げて博士たちを導いてくださったように、一体あなたは私たちにどのような星を上げてくださったのでしょうと、しばしこの一年間の自分、また今日の自分、今の人生のあり方を、もう一回考えることができますように。 そして私たちは何の気なしにYouTube のチャンネルを点けたわけではない。あなたが導いてこの24日、日本においては平日でありますけれども金曜日の夕べ、あなたに礼拝を捧げる思いを与えてくださいました。 私たちはあなたの御前において、十字架を仰ぎながら、あなたはまさに私たちの罪のために、私たちのこの存在のはかなさのゆえに、私たちの病のゆえに、ご自身のいのちを十字架の上で投げ打ってくださり、その打ち傷によって私たちは癒やされると(納得しました)。
今までイエスさま、あなたが遠い存在であったのかもしれません。しかし今日のこの日から、あなたが私たちの傍にいてくださることに気がつくことができますように。 イエスさま、あなたは誕生に際して、「インマヌエルと呼ばれる。その意味するところは、『神、われらと共にいます』」(***マタイ1:23)という名前を受けて、この地上に生まれてくださいました。 私たちが十字架を見上げる時に「神、われらと共にいます」――《私は決して一人ではない。神のいのちと神の光、神の愛と平安に支えられている》ということを実感することができますように、どうか聖霊を私たちの心に及ばせ、あなたの愛を注いでください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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