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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/26年末感謝・聖餐式 :イエスの恵みは私に十分 第Uコリント12:1〜10
☆聖書箇所  Uコリント12:1〜10
1私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
2私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
3私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
4彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。
5このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。
6たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。
7その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。
8この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。
9しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

☆説教 年末感謝・聖餐式:イエスの恵みは私に十分
今日見ていただきたいみことばは、コリントの手紙第二の12章の9節ですね。
【画面:Uコリント12章9節。「しかし主は〜と言われました」に赤ペンで傍線。「おおうために」に水色のペンで囲み】

<Uコリント12:9>
9しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

「わたしの恵みはあなたに十分である」というこのフレーズに心を留めてみたいと思います。
二つお話のポイントを用意いたしました。
聖餐式がありますので、短めに説教は作ってあります。

1) 恵みは十分であるというのは、どういう意味なのか?

十分というのは、不足がないという意味です。欠けることがない。あらゆる場合に間に合う、という恵みです。
福音書には一万人以上の人々の空腹を、わずか二匹の魚と5つのパンで満たされたイエス・キリストの奇跡が出てまいります。
彼らの空腹を満たしてもなお余るところの恵み、そのように試練の中にあっても恵みは十分に注がれている、という意味もあるのでしょう。

しかし、実は、主のこの言葉の意味は、もっと奥深いものがあります。
それは9節をご覧いただきますと、今見ていただきましたみことばは、こういう風に続くからです。【画面:Uコリント12:9前半を指差しながら】
「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」――これは前の文章の理由を示していることになりますよね。
十分である。なぜなら、わたしの力はあなたの弱さのうちに完全に現れるからだと。
つまりきちっと読んで行きますと、神さまの恵みの、実に不思議なことが記されています。

神さまの恵みというのは、ほんの少しでも偉大であるから、あなたのあらゆる必要を満たすことができる、という意味ではないですね。
「わたしの恵みはあなたに十分である」――なぜなら、《あなたが弱い時に、あなたが苦悩の中を通っている時に、そういう時にこそ》わたしの恵みは完全に現れるから、「わたしの恵みはあなたに十分である」と書いてあるからです。

これ見ていただくと分かりますように、彼にこのことばが与えられた時に、肉体に一つのとげが与えられました。
【画面:Uコリント12章7〜8節。7節「肉体に一つのとげを与えられました」に水色の囲み、「その啓示の〜ならないように」に赤ペンの傍線。8節「三度」に赤ペンで囲み】

この時に彼は、このとげをとってください、と「私は三度主に願いました」(8節)と書いてありますよね。
すると、パウロの抱えている苦悩というのは、肉体のとげ・病気であるだけでなく、
それを繰り返し繰り返し主に訴えて、「取り除いてください」と訴えながらも、取り除かれていない現実の中で、このことばを聞いたということになります。

のみならず、10節を見ていただきますと――「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます」と。
【画面:Uコリント12章10節】
つまりパウロは、「わたしの恵みはあなたに十分である。それはあなたの人生が順風満帆な時も試練の時も、いつも十分にある」と言っているのではないです。
いや、むしろあなたが弱い時に、「弱さ」を覚えている時に、わたしの力は完全にあなたに現れる。
これは肉体的、精神的な「弱さ」もありますでしょう。
でもそれだけでない。「侮辱」「批判」周囲から来る「責め苦」。
そういう「問題・課題」がなければいいのになと思うようなことが、しばしば私たちの人生に登場しますよね。
《そういう状況で、主の恵みが完全に現れる》わけですね。

9節の後半をもう1回見ていただきたいと思うんですが、ここにこうありますね。
【画面:Uコリント12章9節後半。「おおうために」に水色ペンで囲み】
9・・・ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

弱さを誇る必要はないです。だけど、弱さを恥とはしない。
自分がなかなかしっかりしないとかですね、自分の置かれている境遇が非常に苦しいとか、色んなことが考えられるわけです。
こんなこと人に言わない方がいいとか、人には言えないとか。
私たちは、自分自身こういう問題がなければ、ずっと楽なのになぁというような事態を沢山抱えています。
でもそれをパウロは恥とはしないと、たとえ「弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難」であったとしても、私はそれを恥とはしない。
なぜなら、そのような時に、キリストの力が完全に現れるのであれば、
つまりそのような時に、キリストの力が証しされるのであれば、
私はむしろそのような時を誇ると言うのですね。

力が現れて、「私をおおう」とありますよね――「ですから私は、キリストの力が私をおおうために・・・」(Uコリント12:9後半)
この「おおう」という言葉は、聖書にそんなに沢山出て来ません。
旧約聖書では必ず「天幕を張る」という時に使われる動詞です。
そうしますと、キリストの力が私たちを包む。
私たちはその力にくるまれて、侮辱、迫害、避難、責め苦、様々な中を通過していく。
「主が共にいてくださる」という表現よりももっと具体的で、もっとイメージ豊かな言葉がここに記されているわけです。

パウロはここで、自分自身の証しをしています。
私が弱かった時、私が何もできなかった時、私が病んでいた時、私が無力であった時に、
キリストの力が私を包み、私という人生の上に天幕を張ってくださり、私をおおってくださった。
肉体のとげは取り去られることなく、そのままでした。しかしキリストの力は完全に現れました。

いいですか、ここが大切ですね。なぜそうなるのか?
それは《十字架の原理》というのがあるんですね。
ピりピの手紙の3章で、パウロは言いますよね。
「私は十字架と一つとなる時に、復活とも一つとなる」。
【***ピリピ3:10 〜11を参考までに。
10私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。】

つまり私たちは、今日聖餐を受けて、キリストと一つになる、という聖餐を受けます。
キリストと一つになる、或いはキリストにとどまる、キリストの似姿に変えられる、というこのプロセスをパウロは一貫して表現しますね。
それは――《キリストの十字架と復活と一つとなる》。
私たちにしてみれば、いつもキリストの復活と一つになりたい。
キリストの十字架と一つになるというのは、非常に苦しい体験です。
悲しみも、また極限の努力も、忍耐も試されるような場面ですね。

でも《キリストの十字架と一つになっていなければ、キリストの復活とは一つになれない》というのは、パウロは繰り返し繰り返しこの教えを説いていますよね。
《キリストの十字架の原理》のゆえに、もし私たちが弱さを抱え、苦しみの中を通過する時に、キリストは格別に私たちのところに来てくださる。
なぜなら、キリストご自身が地上における生涯の中で、十字架という最大の試練を信仰をもって勝ち抜かれた、この世界で唯一の正しき人だからです。
この世界で唯一の正しき人に私たちは繋がり、私たちはキリストの復活とも共になる。
この世界で唯一の正しき人は、私たちの弱さに同情できないお方ではありません(***へブル4:15)。
私たちの弱さをよく知っておられ、私たちの涙をよく分かっておられるからです(アーメン)。

皆さん、今年一年間で悔しい体験もなさいましたでしょう。無理だと思うような体験もなさったと思います。
でもそういう時に、イエスさまは私たちに声をかけてくださる。
「わたしの恵みはあなたに十分である。なぜなら、あなたの弱さの中で、わたしの力は完全に現わされるからだ。」
ということは、振り返ってみないと分からないです。
その大変の中を通過している時には、私たちには分からないんですね。

2)そういう意味で、繰り返しになりますけれども、イエスの言葉をパウロはいつ聞いたのかというのは、非常に大切です。

それは12章の文脈を考えないと、ちょっと出て来ないですね。
それで1節から読んでいただきました。
12章、こういう風になりますでしょう。一番最初は――
【画面:Uコリント12章1節〜4節。2節「第三の天にまで」に赤ペンで囲み。4節「パラダイスに引き上げられて」に赤の傍線】

2私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天(***ここを4節でパラダイスと表現していますよね、と説明)にまで引き上げられました。・・・

で、もう一度(3節でも)、「私はこのような人を知っています」と言いながら、それが自分であったことが分かってくるわけですね。
もし私たちがワープロを打っていたら、あんまり繰り返し繰り返し、「肉体を離れてであったのか、肉体のままであったのか」としつこく書きませんし(笑)、校正するかもしれません。
でもパウロは、その場でコリントの教会に宛てて手紙を書いているわけですね。
最初は「ある人」で始めたわけですよ。でもこれは明らかにしておいた方がいい。
それは自分のことなんですよね。
それは人前に誇ることができるような出来事であった。それを誇ってごう慢にならないように神さまは肉体にとげを与えてくださった。
という展開になっているわけですよね。

誇ることができるような体験、ま、単に幻を見た、ということではないと思います。
「天に引き上げられた」という経験のゆえに、特殊な知識も霊的な力も与えられたんだろうと思います。
ですからパウロの言い方ですと、このような体験は、その人物に「特殊な霊的な人」と周囲に評価されるような資質が与えられ、うっかりするとごう慢に陥るような、特別に祝福された出来事であった、という風に記していますね。

ところが彼の人生を支え、彼の人生の旅路の指針となるようなイエスさまのすばらしい言葉――「わたしの恵みはあなたに十分である。なぜなら、あなたが弱い時に、私の力は完全にあなたのうちに現れる」――この言葉を聞いたのは、第三の天ではないんですよ。
パウロが人生の指針となるような、私たちにとって非常に慰め深いイエスさまの声を聞いたのは、彼が栄光ある、人に誇れるような、成功を収めたと言える程の霊的な体験の中で聞いたのではない。
むしろ病の中で、「それを取り去ってください」と願いながら一向に叶わない、悶々とした格闘の中で、パウロは「わたしの恵みはあなたに十分である」という直接的な声を、イエスさまから聞いたんですね。
すべてがうまくいっている時ではない。
特別な祝福を受けた時でもない。
人生の旅路で、最も苦闘している中で、私たちは聞くのですね。

コロナと格闘してまいりました。
これは教会にとっても大きな痛手でありますが、たとえて言うならば、小学生がどれほど我慢してきたのか?
感染者が家庭に出た時に、どれほどパニックになったのか?
医療従事者、看護師さん、病院勤めの方、お医者さんがどれほど苦労を払ってきたのか?
また世界がどのような状態にあっても、変わらずに仕事に行かなければいけない職種の方もいらっしゃいますよね。
介護の方がどれほど注意を払ってきたのか?
どんなに注意を払っても難しかったケースも私(藤本牧師)はあるに違いないと思います。
ですから、私はこの年の最後を締め括るにあたり、やはりこの言葉を選ばざるを得ませんでした。
こんな年でも、主の恵みは私たちに十分であった。
それは主の力は弱さのうちに完全に現れるからである。
ですから私は、キリストの力が私をくるむために、つつむために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ります。
というのは、「弱さを恥としません」ですね。

以前、聖クリストフという、旅の守り神になっている聖人についてお話をしたことがあります。
聖クリストフのペンダントはヨーロッパでは普通に売られていまして、
私(藤本牧師)昨日Amazonで調べたんですが、0.7cm位の直径のものが1500円位、2.5cm位のものが4000円位で、ま、普通の合金ですので、きっと中には純金のものもあるに違いないと思いますが、

聖クリストフの図柄がレリーフされています。
どのペンダントもペンダントトップと言いますか、チェーン付きのトップですが、全く同じ図柄ですよ。
それは、足を取られそうになる激流の川を、聖クリフトフが渡っている。
そして杖を握って踏ん張っているクリフトフなんです。
よく見ますと、そのクリストフの肩に幼子が載っています。
その図柄がすべてのペンダントにあって、ヨーロッパでは巡礼の旅に行く時には、これをお守りとして、「この聖人は旅行の聖人である」と言われて来たわけですよね。

聖クリストフという人物については、あまり明確に分かっていません。
聖、つまり英語で言いますとSaint〜、列聖されるというのは特別なことで、
ま、普通ですと殉教するか、特別な奇跡をしないと・・・
一番最近になって列聖された人物はマザーテレサですよね。
そう簡単に列聖はされないんですが(笑)、聖クリストフはある伝説のゆえに、列聖されているわけです。

彼の仕事は川の渡し守でありました。
つまり川激流を渡って行く時に、ま、多摩川で言えば渡し舟ですよね。
あるいはそこを渡らせてくれるような人物、渡し守がいたわけです。
ある日、聖クリストフは少年に依頼されて、向こう岸に連れて行ってくれと言われて、少年を背負っていくわけですよね。
そうしますと、どんどんどんどん少年が重たくなっていくんです。
いつもでしたら、軽々とこの位の男の子でしたら運べるはずが、彼は必死になってこの重〜くなった少年を抱えて、背中に載せて、支えにしている太い杖で踏ん張りながら、水をかぶりながら川を渡り切るんですよね。

クリストフが振り返って見ますと、渡った先で、なんと渦を巻くような激流がそこにあった。
川の中に入る時には、それほどの流れと思っていなかった。
でも渡った向こう側で、あ、こんなに厳しい流れを自分は渡って来たんだと。
その時彼は悟るんですよね――肩に載っていたあの少年の重みがなければ、自分は完全に流されていたに違いない。
クリストフは少年を運んでいなければ、守られていなければ、自分は流されていた。
キリストの恵みというのは、こういうものなのかもしれないですね。
【クリストフは「少年を運ばなければ、守らなければ」と必死でした。
 しかし逆に不思議にも、自分が背負っている、自分が抱いていると思った少年キリストに守られていた、ということです。】

私たちは2022年に踏み出そうとしていますけれども、こちら側から見れば、なんか普通に流れていく2022年です。
しかし、そのようにして踏み出した途中で、こういう激流が私たちを襲うのか、というような経験をきっとするんだろうと思います。
そういう時に、私たちは苦難の重さを感じます。
でも、実はその苦難の重さの中に、祈りの力もありますけれども、キリストの十字架の恵みそのものが私たちを覆い包むことによって、私たちは激流に足を取られずに渡り切ることができる。
私(藤本牧師)はそういう意味で、この聖クリストフの図柄のペンダントはものすごく好きです。
人生そのものだなぁと思います。

パウロが人生の旅路の指針となるみことばを、この時聞いたように、私たちも同じようにして聞きます。
主イエスの降誕を祝ったばかりでありますけれども、この幼子イエスを肩に載せ、いや、この方の十字架にわが身を浸す時がやがてやって来る。
私たちが苦難に遭う時ですね。
イエスさまは――十字架にかかられたイエスさまは――必ずその力を完全に現わしてくださいます。
結局のところ病は取り去られなかった。結局のところ、弱さも侮辱も、苦悩も迫害も困難も同じであった、

パウロは言うんですね。
でも私は主の恵みを誇りとする。私の力ではない。
誇るとしたら、むしろ私の弱さを誇る。
なぜなら、その中に主の力が完全に現わされているからですと。

苦難の川を渡っている時には、助けてください、と私たちは叫びます。
当然叫びます。でもその叫びは希望ですね。希望。
今この時、主の恵みは十分とは思えなかったとしても、十分だったと感謝する時が必ずやって来る、と主イエスに信頼し、
私たちは心から祈りながら、やって来るであろう激流を前に、川を渡ろうとするわけです。
そして時が来れば、必ず納得します。

主の十字架の恵みにあずかる者は、必ず主の復活の恵みにも共にあずかることができる。

☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、年末最後の礼拝、このように多くの方々と共にあなたを賛美し、一年を振り返り、あなたの恵みが私たちの上に十分であったことを、悟る機会を与えてくださいましたことを心から感謝いたします。確かに苦悩の一年、二年、いやその苦悩はもっと長い間続いているのかもしれません。
でもこの言葉を思い起こす時に、パウロも同じように、地上における肉体的、精神的苦悩の中を、行けば行く程味わっていった彼が、いつもこの言葉によって励まされ、《主イエス・キリストの恵みは、私の弱さに完全に現わされる》ということを信じていたように、私たちもまたこの言葉に支えられて、2022へと踏み出すことを許してください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆聖餐式  (※「聖日説教」でご覧になれます。)


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