☆聖書箇所 創世記46章1〜4節 1イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。 2神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ、ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」 3すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。 4このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」
☆説教 元旦・聖餐式:ヨセフ(1)このわたしが必ずあなたを
新年に入りましたら、ヨセフの物語から共に学んでいく、ということをお約束してまいりました。 その最初、この元旦に見ていただく箇所は、実はヨセフの物語の一番最後、クライマックスに出て来るところであります。 ヨセフは、話が遡りますけれども、当時11人兄弟の末っ子でありました。 特別に父親によって可愛がられ、母親の違う10人の兄さんたちに妬まれ、殺されそうになります。 兄弟の一人が提案いたします。「殺すのは止めよう」。 そこでヨセフを、通りがかったエジプトに下っていく商人に、奴隷として売り渡してしまいます。 ヨセフが17歳の時でありました。
それから23年ぶり。これが創世記の46章なんです。 父ヤコブは、あの時ヨセフは獣によってかみ殺されたと思っていました。 それが生きていたことが分かり、ヨセフにこれから会いに行くんです。 父ヤコブは年齢が130歳です。 ヨセフは39歳です。
見ていただきたいのは、46章の1節、ちょっと聖書を見ていただきますね。 【画面:創世記46章1節を指差しながら読み始める】 1イスラエルは、彼に属するものすべてと一緒に旅立った。そしてベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえを献げた。
で、今日はこの1節〜4節を見ていただきますが、この4節が今年の聖句で、これがこのしおりです。 【画面:しおりが聖書の上に置かれている。書の「このわたしがあなたとともに下り このわたしが必ずあなたを再び連れ上る 創世記四十六章四節」を二回繰り返して読む。】
会いに行くというよりも、ヤコブとそれに属するすべてのもの、つまり一族郎党みな飢饉に苛まれ、その結果として、大国エジプトに引っ越すことになります。 (創世記46章)26節を見ていただきますと、こうありますね。
<創世記46:26> 26ヤコブに属する者、彼の腰から生まれ出た子でエジプトにやって来た者は、ヤコブの息子たちの妻を除いて、全部で六十六人。
遊牧民の小さな家族です。それが大国のエジプトに引っ越して行くという時に、一番長老でありますヤコブは130にして、大変な不安に駆られます。 果たしてエジプトに辿り着くことができるんだろうか?住み慣れた土地を離れて、エジプトに向かって旅をしているヤコブ。 そして1節に戻っていきますと、一緒に旅立った。 そしてベエル・シェバに来た時に、神に祈りを捧げます。 簡単に3つのポイントでお話しします。
1)このベエル・シェバという所は、ヤコブのおじいさん、アブラハムに関わる場所です。
創世記の21章を見ていただきます。創世記の21章の31節、見ていただきますか?ここに―― 【画面:創世記21章31節。「ベエル・シェバ」に赤ペンで囲み】 <創世記21章31節> 31それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。彼ら二人がそこで誓ったからである。
という風に出てまいります。 ここに(※28節29節を押さえて)アブラハムと共にアビメレクという地域の豪族が出て来ます。 アビメレクは、神がアブラハムと共におられることに恐れを抱き、アブラハムに歩み寄って、二人は契約を結びます 【27節「二人は契約を結んだ」に赤の傍線。28節全文を赤ペンで( )】 この時とばかり、アブラハムはアビメレクに「あなたの国の者たちが私たちが掘った井戸を奪った」ということを訴えます。 その奪われた井戸を私たちに返してほしい。 そして30節にアブラハムは言った。 【画面:創世記21章30節「私の手から受け」に赤ペンで傍線】 30アブラハムは言った。「私がこの井戸を掘ったという証拠になるように、七匹の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」
七匹の雌の子羊。で、ベエル・シェバというのは七つの井戸です。 井戸が一体幾つあったのかは書いてありません。でも七匹の子羊によって、井戸は恐らく七つあっただろうと言われています。 人生の大変な緊張の瞬間に、ベエル・シェバは出て来ます。
アブラハムも、その息子イサクも、またその息子ヤコブも遊牧民でありました。 井戸を掘り当てるということは、日常生活のいのちの源です。 井戸を掘りながら、井戸を掘りながら、羊の群れを率いて旅する、ということは人生そのものでありました。
私たちは遊牧民ではありませんけれども、実は私たちの人生も遊牧民的です。 それは場所以上に、Mさん、S君のように引っ越す場合もありますし、昨年の後半からHさんのご両親が大阪の堺市から引っ越して、同じマンションに新しく生活を始められました。
場所以上に私たちが遊牧民的であるというのは、それは私たちの人生の局面が変わっていくからです。 一人の時もあれば、家族が共にいる時もあれば、やがてまた一人の時になるんです。 そして壮健な時もあれば、病める時もあり、そして忙しい時もあれば、そうでない時もあり、大変な苦難のどん底にいる時もあれば、そこから這い出ていく時もあるんです。 でもどこに行っても、羊飼いなる神は共にいてくださり、私たちはこの方に守られ、この方を礼拝する。 この人生の難しい場面で神を礼拝するというのがベエル・シェバです。
アブラハムがそうでした。で、先程観ていただいたヤコブがそうです。 自分が一族郎党を連れて大国エジプトに旅立っていく、移住していく。 果たしてそんなことが可能なんだろうか?という時に、彼はベエル・シェバで神を礼拝いたします。 一番目がアブラハムと申し上げましたよね。
2)じゃあ、二番目のイサクを見てみましょう。
創世記の26章の25節に、二番目イサクが出てまいります。 【画面:創世記26章23節〜25節。23節「ベエル・シェバ」に赤ペンで囲み。24節「【主】はその夜〜あなたとともにいるからだ」に水色のペンで傍線。25節「イサクは〜呼び求めた」に赤ペンで傍線】
<創世記26:23〜25> 23彼はそこからベエル・シェバに上った。 24【主】はその夜、彼に現れて言われた。(***これはイサクですね、と説明)「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」 25イサクはそこに祭壇を築き、【主】の御名を呼び求めた。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべたちは、そこに井戸を掘った。
と書いてあります。 ベエル・シェバ一帯には、水脈があったんですね。 しかし年と共に、掘った井戸は奪われ、埋められ、敵によって井戸はもう一回戻されてしまいます。 すると次に来たイサクは、父親からベエル・シェバという場所について、話は聞いていたと思います。 そこに自分たちが井戸を掘り、そこで神を礼拝したということも聞いていたと思います。 でも新しく自分の手によって、もう一度祭壇を築き、天幕を張り、そこに井戸を掘るという、不思議な場所なんですね。 アブラハムはベエル・シェバの意義を息子のイサクに伝えていたでしょう。 息子イサクは、今度はヤコブに伝えていたでしょう。
代々、神が現れ、祝福を受け、さらに井戸を掘ると水が出て来て、礼拝する。 私(藤本牧師)は高津教会というものが、皆さんにとってのベエル・シェバであっていただきたいと思っています。 新しい2022年、いやこれまでもそうです。 人生の難しい場所で神を礼拝する、というのが高津教会で、アブラハムは自分の手で祭壇を築き、イサクもそうし、ヤコブもそうし、 私たちはいつも、信仰の先輩方が築いた祭壇の中で礼拝していますけれども、実は私たち自身もまたここで信仰の井戸を掘る。 そこに行きますと、神さまからの語り掛けを聞き、その語り掛けは約束を保証し、同行を保証し、私たちを祝福する(アーメン)。 格別に私たちの明日を、私たちの将来を祝福する言葉が、神のもとから聞こえてくる――それがベエル・シェバです。
私たちもイサクと同じように、たとえ父親のアブラハムが掘った井戸であったとしても、それに埃もかぶり、様々な障害物が乗っかり、もう一回自分の手で新たに井戸を掘る信仰。 乾燥地帯でありながら、高津教会には、この水脈が溢れている。 争いや心配に溢れた場面で、平安を与えてくれるわけですね。
3)そして3番目に、一番最初に見たヤコブです。
(創世記)46章に戻っていただきますけれども、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフと続き、次回からヨセフを共に学んでいきたいと思います。 この三代目のヤコブ、最初申し上げましたよね。 一族連れてエジプトに引っ越す途中に、ベエル・シェバで夜を過ごす。 行き先は外国――差別や争いが待っていてもおかしくないです。 勝手が分からない――当然でしょう。 しかも大国エジプトです。 そこに引っ越して行くのは遊牧民の一族なんですね。
その不安に駆られたその晩、神は現れ、ここに書いてありますね。 2節ご覧ください。 【画面:創世記46章2節「夜の幻の中で〜ヤコブよ」に水色の傍線。3節「エジプトに下さることを恐れるな」、4節「このわたしが〜連れ上る」に水色のハイライト。「ヨセフが〜閉じてくれるだろう」に赤ペンで( )と「その手で〜くれるだろう」に赤ペンで傍線】
2神は、夜の幻の中でイスラエルに「ヤコブよ。ヤコブよ」と語りかけられた。彼は答えた。「はい、ここにおります。」
聖書の中で、名前が二回呼ばれている人物というのはあまり出て来ていません。 名前が二回呼ばれるというのは、神さまの非常に個人的な、優しい語りかけの象徴なんですね。 「サムエル、サムエル」(***Tサムエル3章) 「サウロ、サウロ」(***使徒の働き9:4、22:7、26:14) 決して数は多くない。でもヤコブはその一人に入っているんですね。 実に従順に彼は「はい、ここにおります」と答えるわけです。
3節に「わたしは神、あなたの父の神である」。 実はヤコブは、この日に至るまでに何度も神さまにお会いしているんですよ。幻の中で。神さまは何回か語りかけをくださっているんですね。 ところが改めて神さまはご自身を紹介なさる時に、 「わたしはあなたの父イサクの神である」――どうしてそういうものの言い方をなさったのか? それは想像するに、「わたしはあなたの家族をず〜っと覚えて来た。 アブラハムから、イサクから、あなたヤコブに至るまで、天から目を注ぎ、あなたの父も、あなたの祖父も、その働き、その行く道、その試練すべてをわたしは動かし、 その手に治め、育て、励まし、助けて来た神である」という。 130歳にして、改めて自分の人生に脈々と流れて来た神の恵みを、ヤコブは思い出すことになるわけですね。
私たちの人生は年を重ねる毎に、沢山のエジプトを味わうことになります。 それが病院であるかもしれません。もっと高齢になって施設であるかもしれません。 それが引っ越しであったり、或いは受験であったり、 そのような行き先が見えない不安と苦悩の中で、私たちが神に祈る時に、 神は夜、幻の中で現れてくださり、語りかけてくださったのが、「恐れるな」。 で、聖書を見てください。 【画面:創世記46章4節「このわたしが〜連れ上る」に水色のハイライト。「ヨセフが〜閉じてくれるだろう」に赤ペンで( )と「その手で〜くれるだろう」に赤ペンで傍線】
4このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」
「このわたしが、あなたとともにエジプトに下る」――1番目の約束ですね。 2番目は「このわたしが必ずあなたを再び連れ上る」 3番目は「ヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう」ということは、平安な最後をあなたは迎えるという意味です。
私たちが目を留めたいのは、1番目と2番目です。 「このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、またこのわたしが必ずあなたを再び連れ上る。」 「このわたしが」の「この」という言葉は、ヘブル語にはありません。 でも文章は強調構文なんですね。(※以下の【 】の言葉を強めて語られる) ですから、聖書の訳によっては、「わたし【自身】が、あなたとともにエジプトに下る」となっている所もあります。 「また、このわたしが【必ず】」と、これは強調構文の現れですね。
私(藤本牧師)は、今日はここに目を留めて説教を終わりにしたいと思います。 申し上げていますように、130歳のヤコブ、かなり痩せていたと思います。 遊牧民として生きて来たので、痩せて腰も曲がり、足腰も弱り、妙にしわが濃く、肌も日焼けして、苦労が刻まれていたと。 やがてエジプトに行った時に、ヤコブはエジプトのファラオの前に立ちます。 その時に、「私の人生は苦労ばかりでした」とファラオに言っているように、まさに苦労ばかりの人生だったのでありましょう。
130歳の不安な晩に、ベエル・シェバで神さまはヤコブに現れますよね。 でも実は一番最初若い頃に、神がヤコブに現れたのも、ベエル・シェバの近くの荒野でした。 そこをヤコブは「ベテル」という「神の家」という名前を付けます。 兄エサウを裏切って、イサクから長男の権利を横取りしてしまった、そのエサウの怒りから逃れるためにヤコブは実家から去ります。 そして母の兄弟の、自分にしてみれば遠いおじさんのもとに、これから十数年生きていくことになります。 兄を裏切り、父は死に、愛する母のもとを離れ、果たして母(方)のおじさんの所に辿り着けるか? 辿り着いたところで、そこでやって行けるのか?という十代の青年のその不安ですね。
その夜、神さまが初めて現れます。 その聖書の個所を見ていただきたいと思うんですが、(創世記)28章の15節です。 【画面:創世記28章15節全文に水色の傍線】 17歳のヤコブに神さまが語りかけた言葉―― <創世記28:15> 15見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
17歳の時に神さまが初めてヤコブに現れて、ヤコブに語りかけた言葉は、これ28章の10節を見ますと、ベエル・シェバのそばなんですよ。 <創世記28:10〜11> 10ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。 11彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。・・・
と夜寝ている時に、神さまは現れてくださるわけです。 すると、アブラハムにとっても、その息子イサクにとっても、またその息子ヤコブにとっても、またヤコブの若い時も(17歳)、ヤコブが歳を取った(130歳)、同じようにベエル・シェバに来る度に、彼らは何とも言えぬ不安を抱きながら、神に祈るんです。 その度ごとに、不思議な程、同じ約束を神さまからいただきます。 「あなたがこれから行く道において、わたしはあなたと共に下っていく。このわたしが共に下っていく。そして、あなたを必ず連れ上る。」 最終的には、主イエス・キリストは私たちを天の御国に連れ上ってくださるんです。 でもそれが成し遂げられるまで、わたしはあなたを離れない。あなたから離れることはない。
4節で「このわたしが」「このわたしが」と二回繰り返して訳されている、という話をいたしました。 私(藤本牧師)は「このわたしが」と聖書が言っている、この言葉っていうのは《神の迫り》だと思っています。 つまりアブラハムも、イサクも、ヤコブも二回とも(若い時と年老いて)、 不安に満ちたエジプトに踏み出す時に、彼らは自分たちの信仰を新たにするかのように祭壇を作るんです。
私たちは今日聖餐の恵みにあずかります。 契約の神がここに現れ、私たちは自分たちの信仰を新たにするように迫られる。 それは「2022年様々な出来事があるでしょう。 でもこのわたしがあなたと共に行く。そしてこのわたしが必ず、あなたを連れ上る。 わたしの約束は、あなたから離れることがない。」 これが元旦のみことばであり、元旦の聖餐式であるということを心に留めていただきたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、あなたはいつも私たちの心に迫っていてくださいます。あなたに祈るだけ祈り、あなたの迫りに答えない者ではなく、私たちが祈った時にあなたは必ず平安の言葉をかけてくださる。そしてその平安の言葉を《受け取ることができる信仰》をお与えください。そのような信仰を、今日この場で更新することができますように助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式
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