☆聖書箇所 創世記39:19〜40:8 <創世記39:19〜23> 19彼の主人は、「あなたの奴隷がこのようなことを私にしました」と告げた妻のことばを聞いて、怒りに燃えた。 20ヨセフの主人は彼を捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄に置かれた。 21しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。 22監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフは、そこで行われるすべてのことを管理するようになった。 23監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、【主】が彼とともにおられ、彼が何もしても、【主】がそれを成功させてくださったからである。 <創世記40:1〜8> 1これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。 2ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、 3彼らを侍従長の家に拘留した。それは、ヨセフが監禁されているのと同じ監獄であった。 4侍従長がヨセフを彼らの付き人にしたので、ヨセフは彼らの世話をした。彼らは、しばらく拘留されていた。 5さて、監獄に監禁されていた、エジプト王の献酌官と料理官は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはそれぞれ意味があった。 6朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。 7それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。 8二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」
☆説教 ヨセフ(3)【主】はヨセフとともに
今朝は創世記の39章を見ていただきます。 創世記39章、読んでいただいたのは、40章にも跨いでいます。
長崎のキリシタンの教会、安土桃山時代にロゼンゾという少年がいました。 あるクリスマスの夜、教会の前で倒れているのを、あるキリシタンに助けられて、そしてそのまんま教会で養われることになります。 そういう風に始まるのが、芥川龍之介の「奉教人の死」(ほうきょうにんのし・1918)という小説です。 大正7年に発表されました小さな短編の小説です。 「奉教人」というのは、奉ずる、キリスト教の教、そして人物であります。
ロレンゾという少年は教会で自分の素性を明かすことはありませんでした。 故郷は?と聞かれるとパライソ(天国)と答えます。 お父さんの名前は?と言われますと、デウス(神さま)と答えます。 その純粋な信仰、まるで少女のような美しい声、宣教師もまた信徒も、この少年を大切にいたしました。
3年の後に、ちょうどロレンゾが年頃になった頃、傘張りの娘と怪しげな関係にあるという噂が流れます。 神父に追及されました。ロレンゾは、きっぱりと「いえ、そんなことはありません」と答えました。 神父はロレンゾの日頃の敬虔さのゆえに、そのロレンゾの言葉を信じました。 でも暫くしますと、傘張りの娘が妊娠いたします。そして「父親はロレンゾだ」と主張いたします。
その結果ロレンゾは教会から破門され、彼は町はずれのあばら家に住み、乞食のような生活をすることになります。 石を投げられ、ばかにされ、熱病にかかり、やがて傘張り屋の娘は女の子を産みます。 ちょうど一年位経った時に、長崎の町を大火事が襲うというのが、芥川龍之介の小説の展開であります。
傘張りの家も炎に包まれました。 その娘は逃げ出しますけれども、その腕には赤ちゃんはいませんでした。 そこにロレンゾが現れます。 彼はまっしぐらに火の中に飛び込み、女の子を救い出します。 女の子を匿うように腕の中に抱えて、炎の中を出て来ました時に、彼は大やけどを負って、そして息絶える寸前でありました。
突然、傘張りの娘が神父の前に跪いて、自分の罪を告白します。 「私のこの赤ちゃんは、ロレンゾさまの子ではありません。私はロレンゾさまをずっと慕って参りましたが、あまりにも連れなく断られるので噓をつきました。」
そして焼け焦げたロレンゾの服の裂け目から、白い胸が現れます。 ロレンゾは濡れ衣を着せられました。ロレンゾは純粋な心を持った女性だった、 という所で小説は終わります。
今日の説教の第一番目のポイントは――
1)濡れ衣を着せられたヨセフ
「濡れ衣を着せられる」というのは、日本語独特の表現でございます。 私(藤本牧師)も語源をインターネットで調べましたけれども、4つ位あってどれが正しいのかよく分かりませんでした。 事件で言えば、えん罪ということなんでしょうけれども、 別に事件と言わなくても「濡れ衣を着せられる」という場面は、そんなに珍しいことではありません。 ヨセフがそうですし、また日常の私たちも往々にしてあります。
この場面で「濡れ衣を着せる」という言葉を私があえて選んだのは、ヨセフはどうも上着が絡むんですよね。 上着が絡む。父ヤコブが殊更ヨセフを愛し、ヨセフに特別な上着を着せて、 兄たちはその特別な上着を着ているヨセフを見る度に妬みを起こし、最後は彼が奴隷に売られていく。 その時にヨセフの上着を引き裂いて、そこに動物の血を塗って、父親に報告するわけです。 「あなたの愛する末の(子)のヨセフは獣にかみ殺されました。」
それから二回目、見ましたね。 二回目の説教では、エジプトでポティファルの財産の管理を任されるまで、家のすべてのことを任されるまで信用を得たヨセフ。 ところがポティファルの妻がヨセフの上着を掴んで、寝床に誘います。 それを振り切って、上着を残してしまいます。 すると、「私はヨセフに襲われかけた。この上着がその証拠だ。私が大声を上げたので、ヨセフは上着を残して逃げた」と言う。 妙に上着が絡む(笑)。そして濡れ衣を着せられていく。彼はそれゆえに牢獄であるという。
そして私たちも時に全く無関係な出来事に巻き込まれ、苦い牢獄を味わう。 濡れ衣を着せられると人は落ちぶれます。人は落ち込みます。人はふて腐れます。そして人は病んでいきます。 身体だけでなく、心も牢獄に叩き込まれたような思いになります。
2)しかし、【主】は彼と共におられました。
聖書をちょっと見ていただきたいと思うんですが、39章の21節から――
【画面:創世記39章21節「【主】はヨセフとともにおられ」23節「【主】が彼とともにおられ」にオレンジ色のハイライト。21〜23まで節の数字の上にハイライトの横線をかける】
<創世記39章21節〜23節> 21しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。 22監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフはそこで行われるすべてのことを管理するようになった。 23監獄の長は、ヨセフの手に委ねたことには何も干渉しなかった。それは、【主】が彼とともにおられ・・・
という風に続いていきますよね。 この「【主】が彼とともにおられ」というこのフレーズは何回も出て来ます。 (創世記39章)2節にも出て来ますよねぇ。このポティファルの出来事――
【画面:創世記39章1〜4節。オレンジのハイライト=1節「一方」「ポティファル」2節「【主】がヨセフとともにおられたので」「彼は成功する者」4節「好意を得て」「そば近くで仕える」「主人は彼にその家を〜彼に委ねた」。水色のハイライト=3節「【主】が彼とともにおられ〜彼のすることすべてを」】
2【主】がヨセフとともにおられたので、彼は成功する者となり、そのエジプト人の主人の家に住んだ。 (創世記39章)3節に―― 3彼の主人は、【主】がともにおられ、【主】が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
「【主】がヨセフとともにおられる」というフレーズは4回出てまいります。 そして監獄でもポティファルの家でも同じで、ポティファルはヨセフの誠実な働きに感心してすべてを任せます。 奴隷として売られた家ですよ。その家の中で、彼は誠実な働きをするんですね。それを感心する(ポティファル)。 監獄の長も、監獄の中です。でもヨセフは誠実に働きます。その誠実さに感心して、監獄のすべての囚人の管理を彼に任せるようになります。
もし私たちが「濡れ衣を着せられて」云々となった時に、私たちは果たして耐えられるんだろうか?と思いますね。 これは勿論、耐えられないような出来事もあります。 これは絶対耐えられないのだろうなと、私も無理だろうなと、こう想像できることは、やっぱりえん罪で、自分が無実であるいうことが分かっていながら何十年も、ということがありますね。
以前私たちの教会は、インマヌエルの宣教師でいらっしゃいました大島先生を、この講壇に迎えたことがあります。 大島先生のご主人はジャマイカで命を失われ、そして奥さまは一人で二人のお嬢さんを育て、そして変わらずにオーストラリアと関わるようになりました。
当時オーストラリアの観光を手配した旅行社、そして10人位の一行がタイ経由でオーストラリアに入るんですけれども、タイのバンコクで自分たちの荷物が出て来ませんでした。 自分たちの荷物が出て来ないという所で、スーツケースはないし、中身もないわけですよね。 で、旅行会社の関係の人たちは、彼らに次の日に一式スーツケースを渡します。 「とりあえずこれで目指すオーストラリアに行ってください」と。
ところが、オーストラリアの税関に入った時に、麻薬犬がその臭いを嗅ぎつけて、そして彼らは税関で捕まってしまうわけですよね。 二重底になっていて、彼らのトランクには麻薬が全部詰まっていました。 恐らく一行の中の一人か二人は――というのは、二十年以上牢獄に入っています――まだ入っているんじゃないですか? 日本の大使館も掛け合って、オーストラリアに裁判をやり直すように交渉しました。 でもどんな外交努力もはねのけられて、ほとんどの方々は9年服役しました。 その中で自殺を図る人たち、その中で病気になる人たち。
そしてオーストラリアで学び、オーストラリアに重荷を持っていた大島先生や、また現地の日本人の牧師たちは、牢獄を訪ねて彼らを励まし、その中でクリスチャンになった方もいらっしゃいました。
楽しくオーストラリアを旅行しようと思って出かけて行って、バンコクで自分たちのスーツケースが出て来なくなって、「あれっ??」と思っている内に、 「いや、大丈夫ですよ。取り敢えずこれを持って出かけて行ってください」と、出かけて行った先で、 国に入るまでもなく、税関で捕まり、そのまま刑務所という出来事が、皆さんに降りかかったらどうします? 耐えられるんだろうか?と思いますよね。
皆さん、それ以降、世界中の航空会社が方針を変えましたよね。 皆さんが国際線に乗る時に、「あなたが今チエックインされる手荷物のすべてはあなたのものですね?」と全員に聞くじゃないですか、カウンターで。 それはあの時の出来事があったからですよね。 それほど世界の難しさ。そして一旦そういう風にして外国人として拘留された時に、その国がどういう扱いをするのかというのは、 あのウィシュマさんの事件(※2021/3スリランカ人、名古屋の入管施設で収容中に死亡)あれを見ていても、「ああ日本の政府って、ああいう対応しかしないんだなぁ」っていうことを私たちは心に留めるじゃないですか。
ヨセフにしてみればエジプトですよ。全然分からないエジプト。その監獄のシステムも分からない。 どうにかこうにか言葉をマスターして、そして彼はポティファルの家の管理を任されるようになった。 しかしそこで濡れ衣を着せられて、もう一回監獄に逆戻りと言った時に、もう二度と立ち直れない程のショックを彼は受けたはずなんですね。 二度と立ち直れない。一度ならずも二度も。しかも今回は監獄で、この先もしかしたら自分は死刑になるのか? まだ刑は確定しないのだったら、一体いつになったら自分は出て来ることができるんだろうか?
という中、一つだけ言えることは、「【主】が彼とともにおられた」。 そして、周りの者たちが彼を快く思うように、【主】はしてくださったんですね。 ということは、監獄の長でさえ、ヨセフに優しく語りかけるようになり、ヨセフを自分の部下であるかのように、監獄のことに関しては、囚人のことに関しては、全部ヨセフに任せるほどの信頼を得るようになった。 ということは、《ヨセフはそこで病むことはなかった》ということなんですよ。
こんな濡れ衣を――兄弟に異国に奴隷として売られ、そして奴隷先の主人の妻に濡れ衣を着せられ――自分はこの監獄でという状況で、 彼が心病まずに誠実を尽くすことができた、というのは、私(藤本牧師)はそれはそれは聖書に記されて然るべき物語だなぁと思いますよ。 それは普通にはあり得ないから。 だから私たちは、自分をヨセフに重ねたいと思いながら、実際にはヨセフのこの状況には重ねることができない程、ヨセフは悲惨な目に遭っているんです。 でも私たちもまた、これを真に受けたら心病んでしまうな、と思うような出来事に往々にして遭遇するんですね。
ヨセフ物語の一回目で確認いたしました――「神はすべてのことを働かせて益としてくださる」という――あのロマ書8章28節のみことばですね。 普通「すべてのことが」と言えば、「良いことも悪いことも人生に起こる様々な出来事」を神さまは相働かせてあなたの益としてくださる、という意味だけれども、 あのヨセフの場面において、良いことなんて一つもないですものね。全部悪いこと。
で、この場面においても、良いことは一つもない。 努力したすべてが報われずに、彼は濡れ衣を着せられて、そして去って行く、牢獄の中へと去って行くんですよね。 良いことは一つもないです。 ポティファルもヨセフにほとほと失望して、彼を牢獄に入れます。 で、ヨセフは「いや、私ではありません。私ではありません」とは、私(藤本牧師)は言わなかったように思う。 なぜならヨセフは、ポティファルとその妻との関係を、むやみやたらに傷つけたいとは思わなかったからだろうなと思います。 やっぱり良いことは一つもないんですよね。
最初の段階では父の偏愛があり、ヨセフが傲慢な夢を兄弟に話をしたりするから、彼にも若干の責任はあったのかもしれない。 しかし彼は今回、見事に悪の罠にはめられて、そして失意のどん底に叩き込まれ、彼には全く責任はない。 しかし、【主】はヨセフとともにおられた。 兄弟に、奴隷として異国に売り飛ばされたヨセフとともに、 ポティファルの妻に濡れ衣を着せられ、牢獄というどん底に落とされたヨセフとともに、【主】はおられた。
3)神さまは一体どういう時に、私たちと共におられるのか?
私たちに何にも問題がなくて、すべてが順調な時に主に感謝して、というのも確かにそうなんだろうと思います。
●で、パウロは《自分が富める時にも貧しい時にも、順調の時にも逆境の時にも満ち足りることを学んだ》(***ピリピ4:11〜12)と言ってますので、 どんな時にも物事が上手く進めば、主に感謝。物事が上手く進まなければ主に祈るという。 どちらにしろ主に信頼し、主が共におられるということを実感したんだろうと思いますが、 しかし私(藤本牧師)はパウロでさえ、(※二回強調して)パウロでさえ、 《順調な時よりも試練の時の方が、主が共におられる、ということを実感したんだろう》と思いますね。
●最後彼がローマに売られて行った時、人生最後の手紙をテモテに書きます。 それが第二テモテへの手紙(***4:16〜17)ですけれども、彼は皇帝の裁判に立たされた時に、「私に味方してくれる者は一人もいなかった。しかし、主が私と共に立ち」という風にテモテに書き送っています。 だれも私を弁護してくれる者はいなかった。しかしそういう中でも、主イエス・キリストだけは私と共に立っていてくださった、ということを意識するんですよね。
●聖書には「義人の苦しみ」というのがあります。 《主にあって正しい者は、苦しみを経験する》と。ちょっと見ていただきたいと思います。 これから先、Oさん、聖書だけを映してください。詩篇の34篇の19節ですね。 これは皆さん、良く知っておられる。ここですね、と指差しながら読む。
【画面:詩篇34篇19節。「正しい人には苦しみが多い」にオレンジ色の傍線】 <詩篇34篇19節> 19正しい人には苦しみが多い。 しかし 【主】はそのすべてから救い出してくださる。
正しい人には苦しみが多い、なぜか?――それは悪人が栄えるからでしょうね。 或いは、悪人は栄えようと必死になるからでしょうね。 「正しい人には苦しみが多い。しかし【主】はそのすべてから救い出してくださる」 これが私たちの希望です。
●第二テモテの3章の12節。見ていただきたいと思いますが、こうありますね。 【画面:Uテモテ3:12】 12キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
これも不思議なことばですね。 「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は」というのは、先程の詩篇の「正しい者は」ということであって、 別に悪いことは何一つしていないです。迫害を受ける理由がない。 ただ敬虔に生きようと、真実に生きようと、柔和に生きようと、寛容と愛に溢れて生きようと、キリスト・イエスにあって願っているだけで、サタンのターゲットになると言う。 迫害を受けるようになります、と言うんですね。
●第一ぺテロの手紙の2章の19節です。ここですね。 【画面:第一ペテロ2章19節】 <Tペテロ2:19> 19もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。
なぜか?それはイエス・キリストがそうだったからですよ。 もし誰かが不当な苦しみを受けながら――濡れ衣を着せられながら――神の御前における良心のゆえに――神の御前においては敬虔に正しくあろうとする、この良心のゆえに――ただひたすら牢獄を耐えるなら、神はその人を喜んで祝福してくださる。 なぜか?キリストは十字架にかかったからですね。
つまり私たちが「イエス・キリストの十字架の姿に似る者となるように」と言った時に、 私たちは、「濡れ衣を着せられ牢獄にいるヨセフは、ああ、自分とは遠い人だなぁ」とは思わずに、 「自分にもそういう体験がある。でも自分もそういう時に、ヨセフのように振る舞いたい」と願うならば、 《キリストの心はあなたに与えられる》。 キリストだけではない。パウロもそうだった。テモテもそうだった。そしてペテロもそうだった。 だからあなたがたもそうだ、ということが、聖書のみことばから私たちに伝わって来るじゃないですか。(アーメン)。
主が私たちと共にいてくださる。 奴隷に引き渡される場面でも、信用を失って、そして濡れ衣を着せられ、牢獄に叩き込まれる場面にあっても、主は共にいてくださる。 《神は私たちの人生に働く(※力を込めて)圧倒的な力として存在》しておられる。 《圧倒的な力として、私と共にいてくださる》。
私たちの人生に働く様々な力ってあるんですよ。 それはたとえて言うならば、不慮の事故ってあるじゃないですか。不慮なんですよね。 自分は意図してないんです。 健康であろうと自分の身体を気遣いながら、病むというのは、自分の外から何か分からないけれども、働いて来た力じゃないですか。 一生懸命大学を受験し、或いは会社を受け、なかなか道が開かれない。 どうして道が開かれないのか、自分でも分からないって、それはあなたのせいじゃないからですね。 そういう時代なのかもしれないし、会社はそういう状況なのかもしれないし。
そういう中で、私たちはなぜ門が開かれないか?という時に、私たちは自分の心を牢獄に閉じ込めてしまう。 でもその時に私たちが気づかなきゃいけない、一つのことがある。 それは、《私に降りかかる様々な力の中で、最大の力は神の力》だということですよ。 最大の力は神の力。
◎創世記の40章に戻っていただきます。
少し長く話してしまいましたので、これ以上進みませんけれども、ちょっとだけ。 来週赤坂先生を迎え、その次は戸塚先生の説教の番ですので、しばらく間が空きますので、この40章のここだけは見ておいてください。
【画面:創世記40章1節〜4節を指差し、解説しながら読む】 <創世記40:1> 1これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。
王は(献酌官と料理官を)監獄に叩き込んで来た。その時、「ヨセフが監禁されているのと同じ監獄で」(3節)、なんとヨセフが彼らの「付き人」(4節)になるわけですね。
「これらのことの後」(1節)という、今度一緒に見ていただきます。今日は読んでいただいただけですけれども。 その場面というのは、大きな神さまの力、ほんの1ミリだけ、その御手の小指が動くという所です。 で、実は40章でまだ何も解決しません。全然解決しません。解決はその数年後です。 でも神さまの小指のほんの1ミリでも動きかける瞬間が、あったというその事実。
そりゃ皆さんの人生にも私の人生にもあるわけですね。 その時に、「あ、神さまの御手が1ミリ動いたんだ」と認識するか、しないかです。 認識しないというのは、自分の人生に及ぶ最大の力である神を、自分は認めないということですね。 それは残念です。とっても残念です。なぜなら、私たちの人生はこれから何度も牢獄に入る。 その度ごとに、《一番強いお方が私と共にある、という自覚がなければ、私たちはただ病んで行くだけ》でしょう。 そういう意味で、《ヨセフはここで訓練を受けている》わけですよね。 そういう意味で、私たちもまた訓練を受けている時期が、何度もやって来るというのが、ペテロの自覚、パウロの自覚ではなかったでしょうか?(アーメン)。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、あなたが見せてくださったパウロは、「私はキリストの十字架と一つになることによって、何とかしてキリストと共に復活に達したい」(***ピリピ3:10〜11)と――何とかしてキリストと共に復活に達したい――それが私たちの願いであります。
そのためには、何度となくキリストの十字架と一つになることを学ぶということは、何度となく苦しみを通るという意味ではなく、《何度となく苦しみの中で、共にいてくださるイエス・キリストを信じ、イエス・キリストによってこのたましいが守られている、ということを実感すること》です。
主よ、私たちのたましいは脆いものです。どうか私たちを守り、私たちを助け、励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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