☆聖書箇所 民数記27:12〜23
12ついで【主】はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。 13それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。 14ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。 15それでモーセは【主】に申し上げた。 16「すべての肉なるもののいのちの神、【主】よ。ひとりの人を会衆の上に定め、 17彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを連れ出し、彼らを入らせるようにしてください。【主】の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」 18【主】はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。 19彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。 20あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。 21彼は祭司エルアザルの前に立ち、エルアザルは彼のために【主】の前でウリムによるさばきを求めなければならない。ヨシュアと彼とともにいるイスラエルのすべての者、すなわち全会衆は、エルアザルの命令によって出、また、彼の命令によって、入らなければならない。」 22モーセは【主】が命じられたとおりに行った。ヨシュアを取って、彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、 23自分の手を彼の上に置いて、【主】がモーセを通して告げられたとおりに彼を任命した。
☆説教 神の人モーセ(48)後継者
ほぼ二年かけて、モーセの生涯から様々なことを学んで来ました。今日は「神の人モーセ」と題して48回目。別に計ったわけではないですけれど、うまくいけば50回で終わる。それを年内に終われればよしですね。来年に持ち越したらちょっと恥ずかしいかなと思いまして、私(藤本牧師)も上手にタイミングを合わせたいと願っています。
1)モーセが約束の地に入れない理由についての解釈
民数記の27章の12節から見ていただきました。モーセはイスラエルの民を率いて四十年の間荒野を旅し、とうとう約束の地に近づいた頃の出来事であります。12節を読んでいきます。
12ついで【主】はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。
その地を見よと。アバリム山というのは、最後モーセが登るネボ山の手前にあります。神さまはモーセをその山に連れて行き、これからイスラエルの人々に与える地を見よというのは――約束の地、聖書では乳と密が流れる豊かな地――モーセはこの地に入ることを夢見て四十年の間、彼はすべてのことに耐えて来ました。 そして、モーセにとって夢見た日がいよいよ来るというときに、神さまがこう仰います。
13それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。
というのは、あなたは死ぬということ――四十年間、あなたが夢見た地に、あなたは入れない。「あなたの兄弟アロンも加えられたように」というのは、アロンはすでにもうこの世を去っています。 そして四十年間、荒野でつぶやいた民の中にあなたは加えられるというのは、あなたは入れない、です。
14節にその理由が書いてあります。――「ツィンの荒野で会衆が争ったときに(水が欲しい、水を与えてくれと会衆が争ったときに)、あなたがたがわたしの命令に逆らい、わたしを聖なる者としなかったからである。」これはツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のことである。 実は14節に、「ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい」とありますので、必ずしもモーセが命令に逆らったわけではない。
ちょっと見ていただきたいのですが、民数記の20章にページを戻って見ていただきたいのですが、モーセが入らなかったのは、モーセが神さまの命令に背いたからだ、と一般的にそういう解釈をしますね。私の方で(20章)7節から(13節まで)読んでいきます。
民数記20:7〜13 7【主】はモーセに告げて仰せられた。 8「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」 9そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。 10そしてモーセとアロンは岩の前に集会を招集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」 11モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。 12しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」 13これがメリバの水、イスラエル人が【主】と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。
この12節に「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない」という、「あなたがた」というのは、見たら「モーセとアロン」になります。 モーセとアロンが神さまを信じなかった。ではどういう風に信じなかったのかというのが一つ問題になるのですが、8節の2行目です。「あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す」。 ところが、11節でモーセは岩に命じることをせず、彼は「杖で岩を二度打った」というのが、モーセが神のことばに従わなかった、という解釈が割と一般的です。
神さまはモーセとアロンに、岩に命じて水を出すように(言われた)。しかしモーセは、ま、民のこともあって憤りのあまりに、杖を取って岩を打った。すごい勢いで打ったのだと思いますが、そこから水がほとばしり出て来た。 この行為が神さまをのみこころを損なったので、モーセは約束の地に入れなかった、というのは割と一般的な理解で、私もそういう意図で説教をしたことが一度ございました。昔、調べてみたら。
でも先週ですね、「聖化の説教」という本を出しましたけれども、その中でフリーメソジストの石黒則年先生が扱っておられて、とても説教とは思えない学究的な珍しい説教なのですが、興味深い事を述べておられて、私(藤本牧師)はこれを編集しましたので、石黒先生の意見を取り入れることにしました。
石黒先生はその説教の中で、ドイツの旧約学者でフォン・ラート(1901〜1971)という有名が人物がいますが、その人の解釈を引用しています。その人の解釈は――申命記の1章の37節を、一緒に読んでいきたいと思います。
申命記1:37【主】はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、入れない。
主はイスラエルの民のゆえに、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、入れない。」 申命記3章の26節でもモーセは同じことを言っています。私(藤本牧師)が読みますが、――
3:26しかし【主】は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして【主】は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。
というのは、約束の地に自分が入れるか入れないか、です。モーセはどうしても入りたかった。なぜならそこに入るために彼は召され、そこに入るために四十年我慢し、そこに入るために破れの間に立って来たのですから。 でも神さまは「あなたはそこに入れない。民と同じ宿命をあなたは背負うことになる」と(仰る)。
申命記を読みますと、モーセは明確に、「あなたがたのために、私をもお怒りになった」と(言っている)。つまりモーセ自身の罪深さゆえではなく、モーセが約束の地に入ることができなかったのは、モーセが約束の地を前にして死ぬということは、モーセが民の罪の身代わりとして、神の怒りをその身に受け、民とその運命を一体として自分もまた入ることが許されなかったと考えるべきではないかというのが、フォン・ラートという学者の意見ですね。
これまでご一緒にモーセを学んで来ました。私たちが徹底して学んで来たのは、破れのはざまに立つモーセです。いつでもどこでもとりなしをするモーセです。そして破れのはざまに立った時にモーセは、民の罪深さをとりなしするばかりか、自分のいのちを身代わりにして執り成しをしていた。 四十年の荒野の放浪の最後で、彼は不信仰のあまり荒野で滅んでいく民と運命を共にするという宿命を担った、という解釈の方が私(藤本牧師)も正しいのではないかと思うようになった。モーセはその宿命を背負う決意をした。
石黒先生は「それがゆえに、モーセには『主のしもべ』というタイトルが与えられた」と記しておられました。 『主のしもべ』というのは、命じられたことが理不尽であっても、納得がいかなくても、神さまが仰ったことを受け取る素直さ、謙虚さがモーセにはあった。それが故に、モーセは『主のしもべ』と呼ばれるようになった。
私たちの人生にも往々にしてあるのかもしれない。家族や、仕事場で言えば自分の部下や、自分の友人やいろんなことのその苦々しさ、苦しさ、罪深さ、理不尽さを自分もまた背負う。背負うことによって、私たちは家族と運命共同体となる。教会と一つとなっていく。 人のものは何も背負わずにわが道を行くような人は、運命共同体の中に入れないというのは、どの世界にあっても現実であると思います。
2)ちょっと話を移しますが、そうなりますと、モーセの後継者の問題です。
民数記の27章に戻ってください。モーセはこう言います。民数記の27章の16節、私が16節を読みますので、皆さんで17節を読んでください。
16「すべての肉なるもののいのちの神、【主】よ。ひとりの人を会衆の上に定め、 17彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを連れ出し、彼らを入らせるようにしてください。【主】の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」
モーセは、あなたは入れないと言われた時に、神さまにすぐこう言うのです。――もし自分が去っていくのなら、もし自分が約束の地に入ることができないなら、もし自分が指導者として降りることになるなら、お願いがあります。後継者についてお願いがあります。
そのお願いは大きく二つです。 @一つは、あなたが決めてください。
16節に「すべての肉なるもののいのちの神、【主】よ」――これはあなた(***神)はすべての人間を知っておられる。
モーセは頭の中に指名候補ぐらいいくつもあったに違いない。そしてその指名候補の筆頭がヨシュアだったかもしれない。 ヨシュアこそが、カレブとともに約束の地の偵察の時に、他の十人がしり込みする中、違うスピリットを持って、他の十人が征服できないという中、神さまが与えると約束しておられるなら絶対に可能だと、神さまを信じようではないかと主張した人物でありました。
エジプトから出て間もなくの時に、アマレクとの戦いを交えなければならなかった時に、モーセは山の上で祈ります。そして、イスラエルの民を戦いに率いたその指揮官はヨシュアでありました。
で、いつの間にか、ヨシュアはモーセの従者、モーセに従う者と呼ばれるようになります。 それほどイスラエルの民のことも、やり方も、モーセの心も、モーセの信仰も受け継いで来たモーセの従者、ヌンの子ヨシュアです。 しかしあえて、モーセは後継者を上げることをしませんでした。神さま、あなたが決めてくださいと(神に委ねたのでした)。
ちなみに、私たちの教団は全国に115教会がありますが、完全な任命制になっています。 任命権があるのは代表だけです。でも実際に先生方が引退するときに、何となく後継者を指名する先生もいらっしゃいます。私はそれはそれでいいかなと思っています。 あるいは後継者リストを3人ぐらい、この3人の中から(笑)一人お願いしますという先生も今までおられました。私はこの先生、この先生でお考えがあるので、あまりそういうことはしてはいけないとは思っていません。 どうぞ候補があるなら、いくらでも挙げてみてください。ただその通り行くとは限りませんよと(思っています)。
モーセは、「神さま、あなたが選んでください」と言ったのです。もし、自分が去っていくなら、もし自分が率いることができないのなら、どうかすべての肉なるものにいのちをお与えになる、すべての人間を知っておられる、あなたが決めてください(と願った)。 自分で考え、自分で創造なさって、すべての人の心の内を知っておられる神さまに委ねることが最善だとモーセは考えた。
A私の後継者は、私と同じように、羊飼いであってほしい。
17節がそうです。その人物、「彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを連れ出し、彼らを入らせるようにしてください。【主】の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください」。
羊飼いであってほしいとはどういうことか?先頭に立って出ていき、先立って入る。すべての行動を共にし、民全体にいつも目を配る。全ての敵から民を守る。モーセが求めたのは、牧会者としての指導者でありました。
ひとことで、いろんなタイプの指導者がいます。モーセが願ったのは、神さまからいただいた律法に精通している律法学者のような指導者が欲しいとは、彼は言わなかった。 モーセが願ったのは、ビジョンをいつも明確に持ち、理想を具体的に、着実に実現するような、具体性のある行動力のある人物が欲しいと言ったのでもない。 未知の世界をブルドーザーのように邪魔者を全部切り倒し、押しのけ、計画を実行する実行力のある開拓者のような指導者が欲しいと言ったのでもない。 モーセは民とともに運命を背負い、いのちを張って民を守る、羊飼いなる人物が欲しいと、羊を優しくしっかりと、そしていのちを張って牧する人を、私の後継にしてくださいとモーセは言った。
これはなかなか考えさせられます。 モーセにしてみると、これからヨルダン川を超えて、約束の地を占領するというのは戦いが予想されます。おそらく一番必要な人物がいるとしたならば、世的な考えで言えば、軍隊を統率できるような人物がほしい。 あるいはモーセは神さまから十戒の板と、出エジプト記、レビ記に記されているような詳細な、詳細な神さまのみこころの記述を受けたわけですから、その律法にどれほど精通しているか、いうなれば、イスラエルの憲法に熟知して物事を判断できるような人物が欲しいと思ったかもしれない。 あるいはモーセは徹底的に信仰の人物でありましたから、もう何が何でも神さま一本で信仰を背負うような、そういう人物が欲しいと思ったのかもしれない。
でも彼が願ったのは、自分がもし民とともにこの荒野で去っていくなら、自分の後に出て来る人物は同じように民とともに戦い、民とともに生き、民とともに死ぬような、ひとりひとりの人物を大切にするような指導者が欲しいと、後継指名をお願いしたのです。これはすごく考えさせられます。
指導者論というのは、アメリカが一番盛んだろうと思います。Servant Leadershipという言葉がありますが、キリスト教から発した言葉で、ひとりひとりに仕えるような指導者が欲しいとか、あるいは父親のような指導者が欲しいとか、社会一般的に指導者論というのは、多岐にわたって研究されています。 それはもちろん会社によって、会社の体質が違いますから、会社のトップに誰が座るかというのは、その会社の体質に一番あった人が選ばれるべきなのだろうと思いますが、でも皆さんも世間のことを考えてみてください。 ひとりの指導者が世を去っていったときに、会社の体質を全く変えるために、全く違うタイプの指導者を起用するということもあるわけです。
モーセが願っていたのは、どんな指導者でも結構です。あなたが決めてください。でもその指導者は、物ではない、教えでもない、自分の信念でもない、とことん民とそのいのちを共にする人物がほしいと(いうことです)。
そして18節にですね、(と20節まで読まれて)
18【主】はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。 19彼を祭司エルアザルと全会衆の前に立たせ、彼らの見ているところで彼を任命せよ。 20あなたは、自分の権威を彼に分け与え、イスラエル人の全会衆を彼に聞き従わせよ。
と神さまはヨシュアを選ばれます。
3)さて、戻りまして3番目に最後に考えていただきたいことは、16節、17節のことばは、モーセの祈りです。
いのちの神、【主】よ。ひとりの人を選んでください。いのちの神、主よ。その人物が牧者でありますように。モーセは必死で後継者のために祈ったのです。
ローマ教皇の選挙がこの前ありまして、以前はローマ教皇が死ぬか、今回は辞任で(選挙があった)珍しいケースで、そのあと、全世界の枢機卿が選挙するコンクラーベという変わった名前ですが……。 皆さんよく知っておられる、あのミケランジェロが最後の審判の絵を描いたシスティナ礼拝堂にこもって選挙するのですね。選挙結果がわかると、システィナ礼拝堂の煙突から(***白い色の)煙が上がって、バチカン広場に集まって来た方々が歓声を上げる。コンクラーベのコンとはラテン語で”ともに”という意味です。クラーベというのはラテン語で”鍵”という意味です。
このコンクラーベという言葉がいわゆる教皇選挙に用いられるようになったのは、通説では1268年です。当時教皇クレメンス4世が亡くなりました。それで選挙すべきは18名の枢機卿だったのですが、これがイタリヤ派とフランス派に分かれて3年間決まらないのです。 当時のフランシスコ会の総長でありましたボナヴェントゥラ(1221?〜1274・イタリヤ人神学者、枢機卿)が進言して、枢機卿たちを城に閉じ込めてしまい、鍵をかけて外部との関係を一切断たせて、城を兵隊で取り囲むのです。で、鍵とともに彼らは次の教皇を選ぶ、ですからコンクラーベということになるわけです。
そうして城を取り囲み、食事はパンと水だけだったそうです。他の食事が外から入ることはない。18名の選挙人たちはこれまで3年間言い争って来たのが、断食のような状態で、パンと水だけで祈った。どんなに考えたとしても、どんなに論じたとしても、どんなに相談したとしても、最後は主にひたすら祈るだけです。
私たちの教団の総会もそうです。私たちの教団では、かつて加藤兄、大山兄が総会で代議員を務めたことがありましたが、教職の代議員が25名、信徒の代議員が25名で選出されます。代表候補が3名選ばれて、単純に紹介されて、そこには3名の演説もアピールもありません。やがて記名投票が始まって、集計されている間、雑談一つない、挨拶もない。多くの方々はじ〜っと眼を閉じて祈っているだけです。それは投票の結果として、主ご自身が次の後継者を与えてくださる、主ご自身が一人を定めてくださる、あなたの働きのために、私たちのために、どうか選んでください(という気持ちの表れでしょうか)。
これから先、高津教会の牧師が変わることがあるなら、どうかどこかで心の隅に、このモーセの祈りを覚えて思い出していただきたい。そして祈るのです――あなたが決めてください。ひとりの人をあなたが定めてください。そしてどうかその人物が牧者でありますように。 教会の建物のことでもない。教会の将来像のことでもない。教会をどれほど大きくするか、そんなことを考えるのでもない。民とともに、先立って出て行き、先立って入る。連れ出し、彼らを入らせるように。 そして、あらゆる敵から身を挺して守り、もし教会に罪深い事があるならば、その人物が自分のいのちを差し出してでも神の御前にとりなすような『主のしもべ』を与えてください、と私たちが祈ることができるなら、私たちもまたモーセのような従順さが表れ、私たちももまた『主のしもべ』と呼ばれるようになるのです。
☆お祈り
すべての肉なるもののいのちの神、【主】よ。ひとりの人を会衆の上に定め、彼が彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを連れ出し、彼らを入らせるようにしてください。【主】の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。 (民数記27:16〜17)
恵み深い天の父なる神さま、執り成しにとりなして来たモーセは、最後、民とともに宿命を背負い、約束の地に入ることはできませんでした。四十年間、ただ約束の地だけを目指して進んで来たモーセは、あなたの命令を飲み込み、それ以上言うことをしませんでした。まさに、『主のしもべ』。
私たちにとってもこの人生、理不尽なことがたくさん起こりますし、私たち自身も納得できないことはたくさん私たちの前にはだかりますが、どこまでもあなたに従順でありますように。そしてどうかこの教会をお守りください。この教会にいつも牧者を与えてください。 この教会を一つにし、そしていつでも天の御国に向かって一人も漏れこぼすことなく、一人もつまずき倒れることなく、みな一つとなって天の御国に上る群れとさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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