☆聖書箇所 創世記40:1〜23 1これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。 2ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、 3彼らを侍従長の家に拘留した。それは、ヨセフが監禁されているのと同じ監獄であった。 4侍従長がヨセフを彼らの付き人にしたので、ヨセフは彼らの世話をした。彼らは、しばらく拘留されていた。 5さて、監獄に監禁されていた、エジプト王の献酌官と料理官は、二人とも同じ夜にそれぞれ夢を見た。その夢にはそれぞれ意味があった。 6朝、ヨセフが彼らのところに来て、見ると、彼らは顔色がすぐれなかった。 7それで彼は、自分の主人の家に一緒に拘留されている、このファラオの廷臣たちに「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と尋ねた。 8二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」 9献酌官長はヨセフに自分の夢を話した。「夢の中で、私の前に一本のぶどうの木があった。 10そのぶどうの木には三本のつるがあった。それは、芽を出すと、すぐ花が咲き、房が熟してぶどうの実になった。 11私の手にはファラオの杯があったので、私はそのぶどうを摘んで、ファラオの杯の中に搾って入れ、その杯をファラオの手に献げた。」 12ヨセフは彼に言った。「その解き明かしはこうです。三本のつるとは三日のことです。 13三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう。あなたは、ファラオの献酌官であったときの、以前の定めにしたがって、ファラオの杯をその手に献げるでしょう。 14あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。 15実は私は、へブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は、投獄されるようなことは何もしていません。」 16料理官長は、解き明かしが良かったのを見て、ヨセフに言った。「私の夢の中では、頭の上に枝編みのかごが三つあった。 17一番上のかごには、ファラオのために、ある料理官が作ったあらゆる食べ物が入っていたが、鳥が私の頭の上のかごの中から、それを食べてしまった。」 18ヨセフは答えた。「その解き明かしはこうです。三つのかごとは三日のことです。 19三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを木につるし、鳥があなたの肉をついばむでしょう。」 20三日目はファラオの誕生日であった。それで彼は、すべての家臣たちのために祝宴を催し、献酌官長と料理官長を家臣たちの中に呼び戻した。 21そうして献酌官長をその献酌の役に戻したので、彼はその杯をファラオの手に献げた。 22しかし、料理官長のほうは木につるした。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりであった。 23ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。
☆説教 ヨセフ(4)失望の山脈 今日は会堂に、1.2.3.4.5.6.7人、スタッフを入れますともう少し行きますけれども、本当に7名の方々、格別に歓迎いたします。本当に寒い中、よく来てくださいました。 今日はマスク越しかも知れませんけれども、ぜひ大きな声で賛美歌を歌ってください。
物語は創世記の40章でございますね。 兄弟によってエジプトに売られたヨセフが、ポティファルのもとで努力をし、そしてポティファルの全財産を任せられるまで、信用を勝ち取りました。 しかし奥さんの誘惑を退けた青年ヨセフは、濡れ衣を着せられ、そして牢獄に入ります。 でもそこでも神さまは共にいてくださり、ヨセフは自分の宿命に失望することなく、神さまが共にいてくださる事実に希望の光を見い出し、真っ直ぐに生きて行きました。 やがて監獄の長の信頼を得て、彼は王の囚人の管理を任されるようになります。
そこからの出来事であります。 40章の1節に、ちょっと1節を映しますね。40章の1節からこう始まっていきます。 【画面:創世記40:1〜3】 1これらのことの後、エジプト王の献酌官と料理官が、その主君、エジプト王に対して過ちを犯した。 2ファラオは、この献酌官長と料理官長の二人の廷臣に対して怒り、 3彼らを侍従長の家に拘留した。・・・
とあります。 1節では「献酌官と料理官」となっていますが、2節では言い直して、この二人は「献酌官長と料理官長」であったと、記されています。 ま、今でも分かっていただけると思いますけれども、古代エジプトにありまして、或いはオリエントの世界にありまして、王が一番信頼を寄せた人物は三人いました。 どこの世界でも同じだと思います。 一人は軍隊の将軍です。将軍が軍隊を率いて王座を狙ってクーデターを起こしましたら、王は殺されてしまいます。 軍隊の将は王のいのちを守ることができ、逆に王の敵となって王の命を奪うことができる王に一番近い人物であります。
二番目と三番目は同じ地位と考えていいと思います。 それが王さまに料理を出す人、その仕事の長ですね。 そして王さまにお酒を出す仕事の長。 この二人がなぜ古代において、それほど貴重な職であったのか? それは王の食事、王の飲む酒に毒を盛ることができる、すなわち、王に一番近い人物だったからですね。 料理を出す仕事の長、そしてお酒を注ぐ仕事の長は、王が最も信頼を置いていた、王宮では最高の立場です。 この二人は普通の牢獄には入りません。 (創世記40章)3節にありますように、「侍従長の家に拘留され」、そしてなんと「ヨセフがその世話をする」(4節)というのが、今日のお話であります。
ある晩、(創世記40章)5節を見ますと、この二人がそれぞれに夢を見ました。 私たちも様々に夢を見ます。 私(藤本牧師)は以前は夢を見なかった。見てたんでしょうけれども、朝起きた時には忘れていました。 年齢を重ねるにしたがって、夢で起きるということがありますね。 夢で起きますと、大変胸がドキドキして、なかなか寝つくのが難しいです。 人によって様々ですね。よく追いかけられる夢を見る人ってのがありますね。 高い所から落ちる夢を見る人ってのもありますでしょう。あるいは恥をかく夢。 私(藤本牧師)の場合多いのは、間に合わないという夢です。 間に合わない夢。夢のほとんどが何かに間に合ってないです。 正直申し上げて、すがすがしい夢――その夢を見終わって、とっても晴れやかな気持ちになった――というのは一度もないです(笑)。 夢ってなんでこんなに奇妙なんだろうと思いますね。 どこかが実在の人物であって、しかし夢の中で起こる出来事っていうのは、おおよそ奇怪で、なぜこんな夢を見たのか自分でも分からない。 よく潜在意識をもって夢を解く人たちもいますけれども、私は実は夢は何の意味もないことが多いのではないかと思います。 でもヨセフの生きていた世界はそうではありませんでした。
私(藤本牧師)は昔、インドの神学校で教えていたことがありますけれども、 お昼を神学生と一緒に食べていますと、最初の頃は自己紹介がてら、時に挨拶に来るわけですよね。 ある時一人の神学生がやって来て、「先生、自分が神学校に入学した献身の証しを聞いてください」 で、話は、夜寝ていた時に、イエスさまが枕辺に立って、そして「あなたはわたしについて来なさい」と声をかけてくださった。 「へえ〜、すごいね。イエスさまご自身が枕辺に立ってくださった、それはヤコブの天からの梯子(※創世記28:12)と同じじゃない!」と、こう驚くわけですよね。 でも2人目の神学生も、同じようにやって来て、同じような話をするわけです。 3番目の神学生も全く同じような話をすると、いい加減、これはいくら何でもおかしいと思います。 あ、こういう風にしてインド人というのは、自分の特別性を自分の中で偽って作り上げていくのかと疑いをかけるんですが、それが五人・十人と続きますと、その辺りから悟るんですよ。 「ああ、この文化の中にあって、イエスさまは夢を用いて人に語りかけるんだなぁ」ということを納得するようになるんですね。
日本の文化の中にあって、神さまが私たちに語りかけるというのは、圧倒的にみことばが多いです。 ですから神学校の入学試験の時に、「あなたの召命のみことばは何ですか」という質問がありますけれども、アメリカの神学校でそれを訊かれるということは一度もないですね。 神学校に入学する時に書類を書かなければいけませんけれども、そこに「あなたの召命のみことば」なんて書く欄さえありませんもの。 そういう意味で、神さまが私たちに語りかける方法というのは、ま、夢もあるんだなぁということは分かりますし、それだけでなく、今もなお夢を通して語りかけることも多いんだろうと思います。
さて、直接的な神の語り掛けではありませんでした。夢ですから、大変謎めいています。 3つのおポイントでお話をいたします。
1)謎めいた人生のしるしに心を留めるヨセフ
献酌官長の夢は―― 自分の前にぶどうの木があって、3本の蔓が生えていた。 この三本というのが三日後ということになるんですけれども、 やがて花が咲き、房が熟し、私の手にはファラオの杯があって、 ぶどうを摘んでファラオの杯の中に搾って入れ、 それをファラオ、エジプトの王に捧げたという夢を見たんですよね?
料理官長の夢は―― 自分の頭の上に、枝で編まれた3つのかごが重なっていた。 一番上のかごに、ファラオのための食事がぎっしり盛ってあった。 ところが鳥が来て、全部それを食べてしまった、という夢なんです。
考えていただきたいと思うのですが、これは夢だけではないんですね。 私たちにも、謎めいた人生のしるしになるような出来事があるものです。 たとえば健康診断の数値というのがそういうものですね。 皆さんも血液検査をする時に、腫瘍マーカーって入れません?私(藤本牧師)は大体入れます。 ま、男性ですと、この年齢ですと、前立腺とかですね、或いは肺がんとかですね、腫瘍マーカーを入れるんですけれども、 この前、健康診断で言ったら、お医者さんが「何を入れたいんですか?」って言われて、 「え、そんな区別できるですか?」(笑)って。 私は「腫瘍マーカー入れてください」って言った時に、一つかなぁと思ったら、「3つにしますか」「4つにしますか」みたいな質問を訊かれて(笑)、 「え、それって、場所によってマーカーの種類が違うのかぁ」と「ま、先生のお勧めのやり方で結構です」という言い方をしたんですけれども。 あのマーカーの数値って、一体どれ位実際を語っているのかって、これは人によって様々に見解がありますよね。 皆さんのお話を聞いても、「マーカーの数値が高いのに何ともない」という人もいれば、或いは「低いのに色々あった」というお話も聞きますし、でも一つの指標になることは間違いないんでしょう
或いは私たちの人生にいきなりやって来る転勤とか、私たちの人生で経験する受験の結果とか。 謎めいた結果というのは、やっぱりあるわけですよね。
ここに出て来る献酌官長や料理官長のように、それらの出来事が人生をどのように展開させていくのか、彼らはその夢を見た本人として非常に不安になったわけです。 ヨセフは7節で二人の様子を見ながら尋ねます。 【※創世記40章7節「なぜ〜尋ねた」はオレンジのハイライト付き】 「なぜ、今日、お二人は顔色がさえないのですか」と言う。 これは非常に心優しい質問です。一言でいえば「大丈夫ですか?」です。
先週の祈祷会で、顔は映ってなかったんですけれども、出席されたお一人の方に 私(藤本牧師)は「最近いかがですか?」という質問をいたしました。 そしたら、「よく分からないんですけれども、職場の仲間の二人が、大丈夫?あまり表情がないよ、という風に言ってくれた」と。 その方のために、戸塚先生がお祈りをしてくださいました。
表情がないということは、仕事に色々と追い込まれて、自分に蓋をしているような状況ではないかと、ご自分で仰っていました。 ありがたいことは、一緒に仕事をしている仲間に、「大丈夫?」と尋ねてくれる人がいるということですよね。 これは幸いなことです。傍にいるから、「今日は顔色が良くないね」ということが分かる。
献酌官長と料理官長は、ヨセフという付き人に恵まれていた。 そしてヨセフは真実な人で、そして自分が世話をしているこの二人、その顔色に至るまでよく観察していたということですね。
私たちはヨセフのように心優しい人になり――お節介な人になってはいけないと思いますけれども――心優しい人になり、またヨセフのような人に恵まれていると思います。
2)二人に寄り添い、また夢の内容を聞き、そして相談に乗るヨセフ
40章の8節を映しますので、見てください。 【画面:創世記40章8節。「解き明かしは、神のなさる〜話してください」にオレンジのハイライト】 8二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」
ヨセフは私たちも物語で学びましたよね。 少年時代に二度ほど奇妙な夢を見ました。 それを不用意に話したことで、兄たちから嫉妬を買い、それはそれは愚かでありました。 でも今はかなり違います。 彼は二人の人物に寄り添うように、「私に話してください」「どんな夢なんでしょうか?」
ヨセフは夢を解き明かすんですね。 献酌官長の夢というのは、ぶどうに三本の蔓が生え、花が咲き、実が熟し、王の杯に葡萄酒を注ぐと(いうもの)。 あなたは解放されて、献酌官の仕事に戻りますと。
ところが料理官長の夢は残念でありました。 3つのかご、すなわち三日の後に、あなたは呼び出されて、木に吊るされますと。 そして鳥があなたの肉をついばむでしょうという、夢の結果です。 まぁ、ヨセフですね。私(藤本牧師)だったら、絶対に真意は分かっていても話しませんよ(笑)。 こんな夢の解き明かしはないだろうと思いますけれども、ま、こういう大胆さがあったから、彼はやがて王の夢を解き、エジプトの宰相になることができたわけですよね。
でもここに、私たちに通じる大切な言葉が出て来ます。 (創世記40章)8節の「解き明かしは、神がなさることではありませんか」です。 「神がなさることではありませんか」。 ですからヨセフは相談に乗れるわけです。 ですから私たちは「顔色が悪いですね。大丈夫ですか?」と尋ねることができるわけです。 私の相談の答えは何にもならないかもしれない。 でも「解き明かしは神のなさることです」と言うことは、それは謎めいた話に神の力を与え、 謎めいた話のゆえに、出来事のゆえに、悩んでいる人のために祈ることができるのは、私たちだから、 私たちは「大丈夫ですか?」と訊くんですよね。
往々にして考えます。人の顔色が悪かろうが、普通は踏み込まないものですね。 面倒臭い話が絶対返って来ますもの。 顔色が悪ければ悪いほど、面倒臭い話が返って来ますよ。 一時気分が悪い位でしたらいいですけれども、人生がとっても難しい状況だったら、あ、こんな話、聞かなければ良かったなと思う程、私たちは控えるじゃないですか。
でもヨセフは大胆に「どうしたんですか?」と尋ねているのは、彼は祈ることができるからですね。 夢の解き明かしができるか、できないか、それは私たちにはそんな無責任なことはできないでしょう。 でも私たちでさえ、その方のために祈ることはできる。 良いアドバイスはすることができないかもしれないし、その言葉を聞いた時に返す言葉がないということも多々あるに違いないです。 でも私たちでも「夢を解き明かす方は、神です」と、「あなたの人生の謎めいた出来事に、力を与えてくださるのは神さまです」と、申し上げることができるわけですね。
3)またしても、捨て置かれるヨセフ
(ヨセフは)解放されるであろう献酌官長にこう言いました。 夢の解き明かしの後で、14節―― 【画面:創世記40章14節「あなたが幸せに〜思い出してください」に緑色のハイライト】 14あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。
「あなたが幸せになったとき」というのは、あなたが解放されたときに。 もう一回大切な王に近い立場に戻るのですから、どうかその時に私を思い出してください。
ところが、この長〜い物語の最後、23節ですね 【※画面:創世記40章23節全文に緑色のハイライト】 23ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。
で終わるわけですね。 またしても捨て置かれるヨセフです。
ここから先二年間、ヨセフは孤独に待ちます。二年間。 ま、ここから先10年間という場合もあるかもしれません。
イギリス人で初めてオーストラリアを探検したハミルトン・ヒューム(***1797〜1873)という探検家がいます。 彼は大陸のちょうど真ん中位シドニーから入って、そして南に南下した時にどうなるのか、今で言うならばメルボルンへ向かうわけですよね。 途中延々と山脈が連なるわけですから、今は彼の名前を取って、その山脈をヒューム山脈と呼んでいます。 次から次へと続く峰の数々に行く手を阻まれて、一行はもと来たシドニーへ戻ろうと挫折をいたします。
その時、隊長ヒュームが一行を説得して言います。 「あそこに今までに登ったことがない程一層高い山がある。あの山に登ろう。 あそこの上に立てば、海が見えるはずだ。 そして戻って来て報告しよう。我々はあの山の先を見て、海が見えた、と報告しよう」と。
一行は最後の力を振り絞って、とうとう山頂に立ちました。 そしてそこから先見えたものは、海ではなく、ただ一面の山、山、山、そして谷。延々と続く山脈でありました。 探検家のハミルトン・ヒュームはその山脈にMount Disappointment、失望の山脈という名前を付けます。
あそこにまで辿り着けば、必ず海が見えるはずだ。 辿り着いてみたら、延々と続く山脈しか見えなかった。 またもダメだった、という失望ですね。 いつここから出られるか分からない。 どんどんそのチャンスが延長されていくように見える。 いや、チャンスは全く来ないかも知れない。 そう考えると、ヨセフの心の中に冷た〜い暗〜い鉄格子ができてもおかしくない程、彼は辛いところを通過しているんです。 いま通過しているんです。
ヨセフの生涯の中で、忘れることができなかった二年――これ程しんどい時期はなかったに違いない。 「あなたが解放されたときに、幸せになった時に、その幸せのおこぼれで結構ですから、どうか私のことを思い出してください。」 ところが、彼はすっかり忘れた。
今朝、私たちは、私(藤本牧師)は、そのような二年間、或いはそのような五年間・十年間を通過している方のために、祈ります。 夢を解き明かしてくださるのは、神である。 だとしたら、私たちはその神にお願いして、その期間が狭まるように、その期間を耐えられるように、その期間にあって様々なことを学ぶことができるように、その試練の期間が明るい期間となることができるように、お祈りしたいと思います。
☆お祈りいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、人に頼るということは、何ともか細いものであります。あなたを信じてあなたに頼りながら、あなたが共におられるということを信じつつも、その答えがなかなか出ず、牢獄のような世界からなかなか解放されない、ということもままあるに違いありません。それはまさにヨセフの人生を潰す程の重さでありました。
しかし、あなたはヨセフと共にいてくださり、決してヨセフのことを忘れず、ただヨセフを待たせ、ヨセフに力を培い、きっとヨセフは自分の人生の中でこれ程までに信仰を培われたという日々はなかったに違いありません。もし同じような体験を私たちがしているなら、私たちの人生の内にもあなたの力を注いでください。助けてください。守ってください。そして何よりも、「人ではなく、わたしに信頼しなさい」という声をかけてください。「必ずきっかけを作って、あなたを牢獄から出す」と私たちに語りかけ、希望に希望を繋ぐことができるように、失望の沼から、失望の山脈から、失望の森の中から私たちを引き出してください。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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