☆聖書箇所 創世記41:1〜14 1それから二年後、ファラオは夢を見た。見ると、彼はナイル川のほとりに立っていた。 2すると、ナイル川から、つやつやした、肉づきの良い雌牛が七頭、上がって来て、葦の中で草をはんだ。 3するとまた、その後を追って、醜く痩せ細った別の雌牛が七頭、ナイル川から上がって来て、その川岸にいた雌牛のそばに立った。 4そして、醜く痩せ細った雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。 5彼はまた眠り、再び夢を見た。見ると、一本の茎に、よく実った七つの良い穂が出て来た。 6すると、その後を追って、しなびた、東風に焼けた七つの穂が出て来た。 7そして、しなびた穂が、よく実った七つの穂を呑み込んでしまった。そのとき、ファラオは目が覚めた。それは夢だった。 8朝になって、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。 9そのとき、献酌官長がファラオに告げた。「私は今日、私の過ちを申し上げなければなりません。 10かつて、ファラオがしもべらに対して怒って、私と料理官長を侍従長の家に拘留されました。 11私と彼は、同じ夜に夢を見ました。それぞれ意味のある夢でした。 12そこには、私たちと一緒に、侍従長のしもべで、へブル人の若者がいました。私たちが彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かしてくれました。それぞれの夢に応じて、解き明かしてくれたのです。 13そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、ファラオは私を元の地位に戻され、料理官長は木につるされました。」 14ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。
☆説教 ヨセフ(5)神が扉を開けてくださる 前回は40章の最後で終わりました。 ちょっと聖書を映しますね。40章の最後はこういう風になります。 【画面:創世記40章23節全文、緑のハイライト】 <創世記40:23> 23ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。
ヨセフは監獄で、料理官長、献酌官長の夢を解き明かしました。 そして献酌官長は解放され、料理官長も開放はされるんですけれども、王への裏切り行為が発覚し、そして命を落とします。 で最後に、献酌官長が覚えていてくださることを期待しながら、ヨセフは見送るわけです。 ヨセフは牢獄に残りながら、「行ってらっしゃいませ。どうか私のことを覚えていてください」。 「ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった」の一行で、沈黙が始まるわけですね。
で、41章の1節に、「それから二年後、ファラオは夢を見た」という所を、今日は見ていただきたいと思います。
ヨセフは兄弟の嫉妬から、殺されそうになり、命は止められますけれども、代わりにエジプトに奴隷として売られて行きます。 でもそこで誠実の限りを尽くして、ポティファルという人に仕えて、彼の家の管理を任されるようになり、 しかし、奥さんの性的な誘惑を拒んだことで、逆に濡れ衣を着せられ、そして牢獄に入れられました。 そこに王の側近中の側近、料理官長、献酌官長がある日、投獄されて来ます。 ヨセフは、この王の側近の世話をするように、牢獄で言いつけられ、
ある日、二人の顔色を見てみますと、良くありません。 事情を聴いてみますと、何とも言えない夢を見たと。 ヨセフはその夢を解き明かし、生き残る方の献酌官長にこう言っています。 聖書を見てください。14節ですね、ここです。 【画面:創世記41章14節「あなたが幸せに〜私を思い出してください」に緑のハイライト】
14あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出してください。(私のことをファラオに話して、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。) 23ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった。
という風に40章は終わっていきます。 ヨセフは、思い出してくれる日がいつ来るのか、本当に待ち焦がれたことだと思います。
前回、説教のタイトルを「失望の山脈」と題してお話をしましたけれども、山を登って、その向こう側に海があると期待しながら、登っても登っても山の連続であった、というオーストラリアの探検家の話をしました。 ヨセフは待てど暮らせど、その兆候はありません。
先程、これは本当にありがたい。 私(藤本牧師)の説教を知らずして、詩篇の62篇を読んでくださいました、戸塚先生が選んでくださいました聖書の個所なんですけれども、ここにこうありますよね。 ちょっと聖書を映していただきます? 【画面:詩篇62篇5節〜8節辺り5節「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め」に水色ペンの傍線。「私の望みは神から来るからだ」に文頭に☆印と青のペンの囲み 7節「私の救いと栄光は ただ神にある」に青のペンの囲み。 8節「民よ どんなときにも神に信頼せよ」の文頭に☆印と水色ペンの傍線。「どんなときにも」に同ペンの囲み。「あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ」に赤ペンの傍線】
5 私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め。 私の望みは神から来るからだ。 8 民よ どんなときにも神に信頼せよ。 あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。 神はわれらの避け所である。
そして、神の助けと比べて、ここ(詩篇62篇)9節――
9 低い者はただ空しく 高い者も偽りだ。 秤にかけると 彼らは上に上がる。 彼らを合わせても 息より軽い。
この「低い者」と「高い者」というのは、人間の話です。 人間でどんなに貧しくとも、いや人間としてどんなに高い地位にある者も、どんなに愚かな者も、どんなに賢い者も、所詮秤にかけるとみんな上に上がっていく。 人間を全部合わせても息より軽い。 それが人間なんだという認識がダビデにあるわけです。 ですから彼は「私の望みは神から来る。」(61:5)そして「民よ どんなときにも神に信頼せよ」(61:8)とこう言っているわけですけれども、
「どんなときにも」というのは、ヨセフは牢獄の時にも、ひたすら神を信じた。 その詳しい信仰の内容というものは記されてはいません。 恐らくものすごく落ち込んだ日もあれば、失望した日もあれば、しかしもう一度、奮い立った日もあるに違いありません。
でもダビデが自分自身に語りかけるように、この祈りを繰り返したように、ヨセフも繰り返した。 「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め」(詩篇61:5)っていうのは、失望のスパイラルに落ちていくな。神を待ち望め。私の望みは神から来る。
さて、このことを覚えて、今日は二つのポイントでお話をいたします。 何とかポイントを減らすことによって、(笑)少しオンラインの皆さんに苦痛を与えることを避けるように、これから頑張っていきたいと思いますが、なかなかそうはいかないと思いますが今日は二つです。
1)機会はやって来る
必ずチャンスはやって来る――それが先程申し上げました(創世記)41章の1節に――
1それから二年後、ファラオは夢を見た。・・・
で、機会が始まっていきます。 また夢がきっかけでありました。 夢の中で、王がナイル川のほとりに立っています。 すると、つやつやとした肉づきの良い雌牛が七頭やって来て、葦の中で草を食んでいました。 しばらくすると、同じナイル川から、痩せ細った雌牛が七頭やって来て、なんとつやの良い肥えた七頭の雌牛を食い尽くしてしまいます。 そこで王は目が覚めました。
気持ちの良い夢ではなかったと思いますけれども、でも、ま、こんな奇妙な夢もあるもんだと思って、水で渇いた口を潤して、床に就いたと思います。
ところがまた夢を見ます、同じ夜に。 一本の茎によく実った七つの穂が出ていました。 そしてその後に続くかのように、しなびた東風(つまり砂漠の風)に焼けた、七つの穂が出て来ます。 そしてしなびた穂が、よく実った七つの穂を呑み込んでしまうという、これは非常にリアルな夢でありました。
起きてしまったファラオの頭の中に、この醜い痩せ細った雌牛の顔、それがもうつやつや肥えた雌牛を食べている様子が、まだ鮮明に残っています。 しなびた穂がよい穂を呑み込んでいく様子も残っています。 これは一体何の前兆なんだろう? エジプトという古代文明の大国家を担っている王が見た夢です。 何かの将来の予兆なのか?或いは自分の人生に起こる出来事なのか? どうして同じような夢を、一晩で連続で見てしまったのか?
神さまがヨセフを牢獄から出すために、エジプトの王に夢を見させたんですね。 ヨセフという人物は夢に習熟していました。 学問を身に着けていたわけではない。占星術の学校に行ったわけでもない。すべて独学。 独学というよりも、何も勉強していたわけではないですね。 エジプトで何とかなるような人間関係を持っていた人物でもないです。 でも神さまは二年前に、料理官長と献酌官長に夢を見させて、ヨセフに夢解きをさせて、きっかけを一つ作っておられる。 それが王が夢を見ることによって、すべて二年間忘れていた献酌官長が、思い出すんですね。 ちょっと聖書を映していただいて、長いんですが、創世記のその場面、41章の9節から読んでまいります。 【画面:創世記41章9〜14節。9節「そのとき、献酌官長がファラオに告げた」に薄いオレンジ色のハイライト。14節「ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた」「ファラオの前に出た」に同じハイライト】
<創世記41:9〜14> 9そのとき、献酌官長がファラオに告げた。「私は今日、私の過ちを申し上げなければなりません。 10 かつて、ファラオがしもべらに対して怒って、私と料理官長を侍従長の家に拘留されました。 11私と彼は、同じ夜に夢を見ました。それぞれ意味のある夢でした。 12 そこには、私たちと一緒に、侍従長のしもべで、ヘブル人の若者がいました。私たちが彼に話しましたところ、彼は私たちの夢を解き明かしてくれました。それぞれの夢に応じて、解き明かしてくれたのです。 13 そして、彼が私たちに解き明かしたとおりになり、ファラオは(***あなたさまはと言い換えて)私を元の地位に戻され、料理官長は木につるされました。」 ――今日見た最後の言葉(と付け加えて)―― 14ファラオは人を遣わして、ヨセフを呼び寄せた。人々は急いで彼を地下牢から連れ出した。ヨセフはひげを剃り、着替えをして、ファラオの前に出た。
という風に、話は流れていきます。 二年間の長〜い牢獄生活の最後、ヨセフは髭を剃り、着替えて、ファラオの前に出ます。
ヨセフ物語の最大のテーマは、「神の摂理」だと元旦の時に申し上げました。 そして摂理という言葉は、英語ではプロビデンスと言いますけれども、 プロというのは先です。ビデンスというのはビデオという言葉にありますように、見る。 神は先を見ておられる。私たちは一瞬先も見ることはできませんけれども、神さまは見ておられる。 そして神さまが先を見る時に、それは長〜い期間の先かもしれません。 しかし、どこかで何かを繋げて、神さまは今の私たちの人生を運んでおられる。 献酌官長は、二年してヨセフのことを思い出しました。
神さまは不思議なお方であります。 夢を使って、ヨセフを牢獄から出される。 しかも二年かけて、ヨセフを(牢獄から)出される。 神さまの摂理・ご計画を考える時に、様々な人生の出来事を「無駄」とか、「意味がない」と思ってはいけないんだなぁ、ということを考えさせられます。 私たちが何年も前に出会った人物、私たちが何十年も前に体験した出来事というのは、 その自分が通った試練も苦悩も、神さまはそれを長〜い目で見て、私たちの内に実らせてくださる、というのがキリスト教の信仰です。 キリスト教の信仰です(※と二回繰り返す)。
神さまはヨセフと共におられ、どこにあっても周囲の信頼を勝ち取った、というのは今迄の話です。 どこにあってもヨセフと共におられ、周囲の人々はヨセフに好感を抱いた。 でも神さまはそれだけでなく、様々な出来事を起こして、私たちに色んな人と巡り合わせて、最後、牢獄の扉を開いてくださる。
第一番目のポイントは―― 機会は巡って来る。そして牢獄を開いて、王の前に立たせてくださるのは神です。 牢獄を開いて、扉を開いて、王の前に立たせてくださるのは神です。 人生の扉を開いてくださるのは神です。
2)大胆な一歩を踏み出させてくださるのは、神です!
(創世記41章)8節にこうありますよね。 【画面:創世記41章8節「心が騒ぎ」に薄いオレンジ色のハイライト。9節「そのとき、献酌官長がファラオに告げた」に同じハイライト。】
8朝になって(***夢を見た、その次の朝ですね、と説明)、ファラオは心が騒ぎ、人を遣わして、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せた。ファラオは彼らに夢のことを話したが、解き明かすことのできる者はいなかった。
エジプトには夢を解くことを生業にしている人々というのは沢山いたはずです。 占星術、それから呪法師という風に聖書では訳していますけれども、所謂「占い」という問題だけではないですね。 何しろ紀元前2500年に、クフ王から始まって三代の王のピラミッドが今もなおギザに建っているではありませんか。 ギザの三大ピラミッド、そしてスフィンクスというのは、紀元前大体2300年〜2700年の間という風に言われていますよね。 ヨセフが売られて行ったのは、紀元前2000年と言われています。 その頃に売られて行ったということは、ヨセフはギザのピラミッドもスフィンクスも見ているはずですね。
そして天文学の研究をし、ナイル川の治水という土木も発達し、ピラミッドの建築も現代の一級の科学者が分析しても、その成り立ちが分からない程の古代文明の知恵というものが、そこにあったわけですよね。 そして占星術が発達したのは、すべてナイル川の水位、そして月の満ち欠け、そうしたものを研究するために、つまりエジプトはナイルで潤っていたんですよ。
そして(ファラオが見た夢は、何となく想像はつきます。) 豊かな雌牛も、醜い痩せ細った雌牛もナイルから上って来ていますでしょう? そして実り豊かな穂も、貧しい穂も同じようにナイルから生えて来ますよね? 牛は上がって来て、また穂は出て来るということは、働きと時間の経過がそこにあるということの事実でありましょうし、 両方ともナイルにかかっているということは、これは天候或いは天文学に左右され、ナイル川はエジプトの農業のすべてを担っていますので、
《あ、これから豊かな年月と、その後に貧しい年月が来るんだろうな》というようなことは、私(藤本牧師)はエジプトの呪法師、占星学の方々は分かっただろうと思います。 なぜナイルなのだ?なぜ豊かでその次が貧しいのか?なぜ七という数字があるのか?なぜすべてがナイルから上がって来るのか? おおよその想像はついたのではないかと私は思います。
でも誰も、それを正面から明確に告げる者はいませんでした。 なぜならそんな勇気を持っている人は一人もいないからですね。 もし間違っていたら、彼らの首が飛びます。 もし間違っていたら、彼らの首が飛ぶ――これは、ヨセフにとっても同じなんですよ。
ところがヨセフは大胆な一歩を踏み出します。 それが前回同様に、この言葉にかかります。聖書を見ていただきますと―― 今日ちょっと読むのを避けましたが、16節ですね。 【画面:創世記41章16節「私ではありません。神が」に薄いオレンジ色のハイライト。】
16ヨセフはファラオに答えた。「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」
「私ではありません。神があなたの夢を解き明かしてくださるのです」ですね。 この言葉があるがゆえに、この信仰があるがゆえに、ヨセフは大胆な一歩を踏み出すことができました。 間違ったら首が飛ぶ。おおよその見当はついていても、絶対に口には出さない。 そういう中で、ヨセフだけが大胆に言えたのは、 「いえ、私ではありません。神がそれをしてくださるからです」。 (これが、ヨセフが大胆にその第一歩を踏み出して行けた、その理由です。)
来週から年度替りに入ります。 皆さんの中にも進学される子どもたちもいれば、卒業する学生さんもいるでしょう。 社会人になる方々もいらっしゃれば、S君のように遠いカリブ海に引っ越した方、S君がこの教会で一番大きなチャレンジを背負うことになるんですよね。 いきなり南の島の英語の学校に放り込まれるんですから(笑)。 Sちゃん頑張って。お祈りしていますから頑張ってね。いいですか?
大きなチャレンジを前に、みんな腰が引けますよね。 エジプトの呪法師も研究者もみんな腰が引けた。 しかしヨセフは大胆に、「私ではありません。神が・・・」と言って一歩踏み出して行くんですね。 ですから私たちが、新しい学校に行こうって、その最初の登校日というのはものすごくドキドキすると思います。 でも私たちは、自分に小さいながら言い聞かせる。 「私ではありません、神が私をこの学校に導いてくださったのです」と。
辿ってみると、私がこの学校に行くようになったきっかけはあるんですね。 たとえば文化祭に行ったとか。良い先輩に出会ったとか。お父さんがその近くで働いていたとか――色んなきっかけがあるんですよ。 でもそのすべてのきっかけは、どこかで神さまがそのきっかけを起こしてくださり、そして @神さまが扉を開いてくださった。 A大胆に行くことができるのは「私ではありません。神が」なのですね。
これは両方のバランスだと思ってください。 つまり私が、「私ではありません」というその思いが20%減って、「私も頑張ります」という20%入りますと、「神が」という部分が20%減ります。 で、私たちはいつの間にか「私が」が80%で、「神が支えてくださる」が残りの20%になっていくんですよ。 ですから、緊張する場面であればあるほど、自分の能力の無さ――自分を越えたチャレンジを受ける日であればある程――ヨセフのように大胆に、「100%私にはできません」と、 「でも、100%神がどうにかしてくださいます」(と言えるようでありたい)。 これを心に刻み、これを信仰の軸として、大胆なチャレンジを引き受けることができるのが私たちです。
皆さん、どの季節が一番心に色んなものが去来するのか?って、人によって違うと思うんですけれども、私(藤本牧師)は年度末がいちばん去来します。 それは、自分で振り返って考えてみると、ま、別れがあり出会いがありというのがあるんでしょうけれども、私はそうではなくて、環境が変わるということがものすごく苦手です。ですから進級にしろ、あるいは進学にしろ、環境が変わって踏み出す時に、すごく不安な時期を過ごすんですね。
ヨセフは二年、ま、嫌な環境とは言え、牢獄に慣れてしまった。 そして髭も十分蓄え――へブル人だから余計だと思いますけれども――しかも彼は牢獄の囚人の管理をしていましたから、それなりに居心地のいい二年間を過ごしたのかもしれない。 それがいきなり呼び出されて、髭を剃られ、洋服を着替えさせられ、そして王の前に立つんですよね。 そして、その時初めて、夢の話を聞かされるんですよ。 初めて大胆なチャレンジを、「おまえにできるのか?」と言わんばかりに迫って来た時に、彼は「私ではありません。神がファラオの夢を解き、あなたの安全を守ってくださいます」と言うことができた。 というみことばを胸に秘めて、皆さん、3月4月と大胆に踏み出して行こうではありませんか!
☆お祈りをいたします。――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、扉はどんなに開けようと思っても開きませんでした。でも考えてみますと、二年前の出来事がそのきっかけとなり、神さま、あなたご自身がヨセフの扉を開けてくださいました。そのようにして今の私たち、一体何に直面しているのか分かりませんし、どんな状況に閉じこもっているのかも分かりませんが、あなたは扉を開けてくださるお方である。
でも扉の先にヨセフを待ち受けていたのは、ヨセフの力ではどうすることもできないチャレンジでありました。でも彼は「私ではありません」と言って、あなたに信頼しました。どうかこの信仰を私たち一人一人に与えてくださり、私たちが新しい世界に踏み出そうとする時に、「この扉を開けてくださったのは神である」という確信を持ち、なおかつ「私にできないことを、神は可能とさせてくださる」という信仰をもって、年度替りを越えていくことができるようにお助けください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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