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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/20 戸塚伝道師:イエスは岸辺に立たれた ヨハネ21:1〜6
☆聖書箇所――ヨハネ21:1〜6
1その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
3シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
4夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。

☆説教 戸塚伝道師:イエスは岸辺に立たれた

皆さんおはようございます。高津教会の礼拝によくお出でくださいました。
今日初めて教会の礼拝をご覧になっておられる方々を、今日も特別に歓迎いたします。
春ですね。ほんとに春です。今日、教会に来る途中の帝京病院の前の桜の木、2〜3輪花が開いているのを見ました。
もうあっという間に桜、今週満開になるんではないだろうかと思いますが、そんな春の息吹を感じながら、今日も心から主の御名を崇め、この礼拝のひと時を更に持ちたいと思います。

今日もみことばに心を留めたいと思いますけれども、今日はお読みくださいましたヨハネの福音書21章1節〜6節、ここから「イエスは岸辺に立たれた」と題しまして、思い巡らしをしていきたいと思います。
3つのポイントでお話をいたします。

1)ガリラヤ湖の岸辺に立たれるイエスさま

ヨハネの福音書は20章で終わって、21章は付け足しではないだろうか?という、そういう読み取り方もあるそうですけれども、
確かにこのヨハネの福音書21章、読みますと、「あ、これはペテロのための章なんだなぁ」と思います。
ペテロのために書かれた章――イエスさまによるペテロの心の癒しが描かれている章が、このヨハネの福音書21章だと思います。
イエスさまのことを3度も「知らない」と言ってしまったペテロ。もうイエスさまに合わせる顔がない。

(ヨハネ)20章では、復活のイエスさまが弟子たちに会ってくださいましたけれども、
恐らくペテロは復活のイエスさまにお目にかかっても、もうそれどころではないような、心の状態ではなかったかと思うんです。
「もう俺は弟子としては失格だ。そうだ。漁師に戻ろう」――そういう思いで、ペテロは漁に出たのではないかと思います。
(ヨハネ21章)3節をご覧いただきますとこう書いてあります。

3シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが・・・

と続きますけれども、シモン・ペテロが「漁に行く」と、元漁師仲間を誘うわけですね。
この元漁師仲間というのが、イエスさまの弟子たちです。
(ヨハネ21章)2節を見ますと、そこにペテロの漁師仲間がどういうメンバーかが書いてあります。

2シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。

この人たちに、ペテロが「私は漁に行く」と言ったわけですね。
トマス、ナタナエル、そしてゼベダイの子――これはヤコブとヨハネですね――そして他の弟子二人、合わせて7人ですね。
みんなペテロ以外も全員、イエスさまを捨てて逃げてしまった、そういう弟子たちですね。
ですから、恐らくペテロ以外の弟子たちも同じような気持ちで、「もうイエスさまに合わせる顔がない」という、そういう思いで漁に出たのだと思いますね。

で、漁に出るわけですけれども、(ヨハネ21章)3節の後半、「小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった」と書いてあります。
漁師に戻って、「よし!」と思って漁をしたところ、何も捕れない状況。
弟子に戻ることも、もうだめだろう。でも漁師に戻ってもこの有様!
「行くも地獄、戻るも地獄」(笑)――イエスさまは復活されても、もうイエスさまに対する申し訳なさ、罪責感というものは心に残ったままではなかったか、と思うんですね。

そのような弟子たちの状況、それをじっとご覧になっていたお方。それがイエスさまでした。
イエスさまは当然のことながら、弟子たちの行動のみならず、弟子たちのそのような心の状態もよくご存じであったと思うんです。

ガリラヤ湖の岸辺に復活されたイエスさまが立たれます。(ヨハネ21章)4節――

4夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。・・・

イエスさまは岸辺に立たれる。
2000年経った今も、イエスさまは日々の生活の岸辺、私たちの毎日の岸辺に、実は立たれておられるお方なのだ。
忙しい毎日、ストレスを抱えるような毎日、失敗や人からの心ない言葉とか、またそれこそ罪責感だとか、うまくいかない状況や、挫折・失意、そういうものを全部ご存じで、
イエスさまは私たちの日々の生活の岸辺に立たれるお方だ――そう思います。

春、私(戸塚伝道師)はこの時期がすごく好きなんですね。
特にこの3月から4月にかけてのこの時期、別れと出会いの時期です。
何か特別な思いが、心の中から湧き上がってまいります。
別れの寂しさと共に、出会いの喜び。
特に教師をしていた者にとっては、別れも寂しいんですけれども、出会いも嬉しい。
なぜか?リセットできるんですね。
ああ、一年間上手くいかなかったこと、ほんとに申し訳なかったこと、失敗したこと、様々なことをリセットして、また新しい出会いと共に進むことができる。

卒業式シーズンであります。ああ、卒業式、もうしばらく離れておりますけれども――
ああ、この時期、何とも言えない思いですね。
いつも体育の授業をしている体育館が、特別な場所に変わるこの時期です。
紅白幕が張られ、パイプ椅子が並べられ、そして壇の上には校旗が掲げられ、卒業式の準備が着々となされ、そして子どもたちと共に卒業式の練習をする。
やがて本番を迎える。
今「仰げば尊し」はあまり歌わないそうですね。「旅立ちの日に」――それが定番になっているようでありますけれども、教え子が巣立って行く。

私(戸塚伝道師)の最後の教え子は、今から10年前、3年1組で出会った子どもたちでしたけれども、今年高校を卒業します。
もしかして観てますか?(笑・カメラ目線で笑顔で)久しぶりです。
玉川聖学院になんと、その教え子の二人が高校3年生にいまして、先週卒業いたしました。
巣立って行く子どもたちを見送る。あ、もう戻って来ないんだなぁ。大人になってしまう寂しさを抱える。
でも、別れがあるから出会いがある。
そのような場面の岸辺にも、イエスさまは立っていてくださるお方です。

2)イエスさまはそのような弟子たちに、声をかけられます

(ヨハネ21章)5節、お読みいたします。
5イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」・・・

このイエスさまのことば、読めば読むほど深〜いです。
「子どもたちよ」「わたしの子どもたちよ」(※イエスさまではなくてパウロの言葉にはTヨハネ2:1やピレモン10、ガラテヤ4:19にも見られます)「わたしの愛する弟子たちよ」

「子どもたちよ」というこの言葉は、同じヨハネの福音書の13章33節、最後の晩餐の席で、イエスさまが使われている言葉なんですね。
<ヨハネ13:33>
33子どもたちよ、わたしはもう少しの間、あなたがたとともにいます。・・・

「子どもたちよ」――裏切ったペテロに、逃げた弟子たちに――「わたしの子どもたちよ」とイエスさまが呼び掛けてくださいます。

「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」(ヨハネ21:5)
「何も捕れませんでしたね」とイエスさまは仰らなかったんですね。
「何も捕れませんでしたね」じゃなくて、「食べる魚がありませんね」ってイエスさまは仰った。
これは、イエスさまは弟子たちと共に食事がしたかったんです。
「食べる魚がありませんね」――聖書協会の共同訳聖書、一番新しい翻訳の聖書には、ここがこう書いてありました。
「何かおかずになるものは捕れたか?」って(笑)イエスさまが仰った。
ていうことは、魚がおかず、そうすると主食はパン。
なるほど13節を見るとそうだなぁと思います。

<ヨハネ21:13>
13イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

イエスさまは弟子たちと共に食事がしたかったから、「食べる魚」(4節)という言葉を使われた。
そして最後、「ありませんね?」――空しい現状をしっかり見据えさせ、確認する言葉をイエスさまは語られています。

「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」――弟子たちの返事は素直に「ありません」。
すると、弟子たちにイエスさまはアドバイスの言葉を語られます。(ヨハネ21章)6節――

6イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」・・・

この「舟の右側」――元プロの漁師だった弟子たちです。魚がいる場所は百も承知。でも捕れなかった。
この「舟の右側」っていうのは――弟子たちが気付かなかった場所なのか?それとも今まで一生懸命捕っていた場所なのか?――それは分かりません。
「舟の右側」のこの右側というものが、何か特別な意味があるのか?象徴的な意味があるのか?
ま、解釈しようと思えば、色々な考えが生まれると思うんですけれども、
でも、この場所は、ある意味では、どうでもいいのではないかと思うのです。
大事なのは、プロの漁師の判断による「舟の右側」ではなくて、
《イエスさまの言葉による「舟の右側」ということが大事》なのです。

「その舟の右側」に網を打ちなさい」とイエスさまのお言葉が、アドバイスとして語られているわけですね。
イエスさまのこのアドバイスの言葉を聞いて、その通り、弟子たちは行動に移します。
(ヨハネ21章)6節の後半に――

6・・・そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。

「おびただしい数の魚」――大漁ですね。
プロの漁師が一晩中、網を打ってもかからなかった舟の右側に網を降ろすと、大漁の魚が捕れた。
イエスさまの言葉の通りにしたらば、そのようになった。

イエスさまの言葉には力があります。
イエスさまのみことばの力に依り頼んだ時に、私たちは思ってもみなかった新しい可能性の扉が開かれていくわけですね。

3)イエスさまは、私たちにも言葉を語っておられるお方

今は復活のイエスさまは目には見えません。
もう一人の助け主、聖霊によって、イエスさまは語られます。
イエスさまはいつでも、私たちの日々の生活の岸辺に立って、語ってくださるお方。
で、この(ヨハネ)21章の1節〜6節まで読んでまいりましたけれども、
ここで重大なことに心を留めたいと思うんです。

岸辺に立たれていたイエスさま、弟子たちに声をかけられ、アドバイスのみことばを語られたイエスさま。
しかし、このイエスさまを弟子たちには「イエスであることが分からなかった」と4節に書かれています。
この時、弟子たちにとって、岸辺に立っていた人が、大事なアドバイスの言葉をくれた人が、イエスさまだとは分からなかった。初対面の見知らぬ人でした。
イエスさまとも知らずに、その初対面の見知らぬ人が、この一連の言葉を語ってくださってるわけです。

なぜイエスさまだと分からなかったのか?それこそ理由は分かりません。
それでも、この弟子たちはこの見知らぬ人の言う通りにいたしました。
イエスさまだとは分からぬまま、そのまま、言われた通りにした。
救い主じゃない。あの先生じゃない(笑)。弟子たちにとっては、見知らぬおじさんが岸辺に立っていて、そして声をかけてくださった。

私たちの日常生活に、岸辺に立たれるイエスさまは、もしかしたらこのような姿で立たれ、語られているのではないだろうか、と思うんですね。

この春新年度4月から、新しい出発をされる方々が沢山おられると思います。
弟子たちのように、初対面の見知らぬ人たちの中にいきなり立たされて、戸惑うことが沢山あると思います。
私(戸塚伝道師)はこう見えても、人見知りが激しいんですね。
自分でよく分かっています。当然、人見知りが激しい者は教師にも向いていないし、牧師にも向いていません。
でも神さまはここまで助けてくださっている。
でも新しい環境がものすごく、私(戸塚伝道師)苦手です。

でも、見知らぬ人たちが沢山いる、そういう状況の中で、その中にイエスさまがおられることがある(笑)。
そのイエスさまのような人(笑)、ま、所謂いい人ですよね、いい人は必ず私のそばにいて、声をかけてくださる。
「食べる魚がありませんね」と――ほんとにお困りですよね?何かお手伝いすることありますか?お困りのことはないですか?――声をかけてくださる。
その人はイエスさまではありません。でも神さまは、そのような人を備えていてくださる。
イエスさまは、そのような方を通して、励ましを与えてくださり、大切なことを教えてくださり、様々なことに気づかせてくださる。
そして新しいチャレンジを示されることもある。
それは私たちにとって、「舟の右側」を示してくださる、チャンスでもあるかもしれません。

私ごとばかりで恐縮ですけれども、教師時代イエスさまは、私が受け持つ子どもたちを通して語ってくださいました。
「舟の右側」を示してくださった。あるいは保護者のクレームを通して、同僚の忠告を通して、イエスさまは語ってくださった。
聖書からではなかった。説教からでもなかった。
そのようにイエスさまが備えてくださった方々が、私に語ってくださった。
それはイエスさまだった。

時には行動に移してみることが、新しい世界の恵みの世界への入り口になるかもしれません。
まさかイエスさまが語っておられるとは知らずに、何人かの方々が語ってくださり、励ましてくださり、教えてくださっている。
戸惑う時、不安な時、失敗した時、そういう時こそ、イエスさまは直ぐ近くの岸辺に立って、今も語ってくださいます。
この春、新しい出発をされる方々に、特別な神さまの祝福がありますように。

☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、あなたは私たちの置かれている様々な状況をすべてご覧になられ、疲れや不安を覚える私たちの、失意のどん底にいる私たちの人生の岸辺に、いつの間にか立っていてくださるお方です。
そしてしばしばあなたは、あなたとは分からない見知らぬ方々を通して、大切なことを語ってくださることを感謝いたします。

イエスさま、二千年前ガリラヤ湖の岸辺に立ち、あなたの弟子たちになされたように、どうか私たち一人一人にとっての「舟の右側」を示し、まだ知らない可能性に網を打たせて、さらなる恵みの世界へと導いてください。
格別にこれから新しい環境でスタートされる方々に、あなたの確かな導きと助けがありますように。救い主であられるあなたのお名前でお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2022.03.20 - 19:17
LAST UPDATE: 2022.03.21 - 11:40

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