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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/27 ヨセフ(7)労苦を忘れるほどの祝福  創世記41:37〜57
☆聖書箇所  創世記41:37〜57
 37このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。
38そこで、ファラオは家臣たちに言った。「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」
39ファラオはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。
40おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」
41ファラオはさらにヨセフに言った。「さあ、私はおまえにエジプト全土を支配させよう。」
42そこで、ファラオは自分の指輪を指から外してヨセフの指にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。
43そして、自分の第二の車に彼を乗せた。人々は彼の前で「ひざまずけ」と叫んだ。こうしてファラオは彼にエジプト全土を支配させた。
44ファラオはヨセフに言った。「私はファラオだ。しかし、おまえの許しなくしては、エジプトの国中で、だれも何もすることができない。」
45ファラオはヨセフにツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えた。こうしてヨセフはエジプトの地を監督するようになった。
 46エジプトの王ファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは三十歳であった。ヨセフはファラオのもとから出発して、エジプト全土を巡った。
47さて、豊作の七年間に、地は豊かに実らせた。
48ヨセフはエジプトの地で穫れた七年間の食糧をことごとく集め、その食糧を町々に蓄えた。町の周囲にある畑の食糧を、それぞれの町の中に蓄えたのである。
49ヨセフは穀物を、海の砂のように非常に多く蓄え、量りきれなくなったので、ついに量るのをやめた。
 50飢饉の年が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれた。オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだ子である。
51ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。
52また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。
 53エジプトの地での豊作の七年が終わると、
54ヨセフが言ったとおり、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々に臨んだが、エジプト全土には食物があった。
55やがて、エジプト全土が飢えると、その民はファラオに食物を求めて叫んだ。ファラオは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、ヨセフの言うとおりにせよ。」
56飢饉は地の全面に及んだ。ヨセフはすべての穀物倉を開けて、エジプト人に売った。その飢饉はエジプトの地でもひどくなった。
57全地は、穀物を買うためにエジプトのヨセフのところに来た。その飢饉が全地で厳しかったからである。

☆説教 ヨセフ(7)労苦を忘れるほどの祝福

ヨセフの生涯の7番目であります。
前回ヨセフが王の夢を解いて、そして「王さま、あなたの夢は七年の豊作、そしてその後にやって来る七年の凶作を意味しています」と。
その夢を解いただけでもすごかったんですけれども、彼が出した具体的な提案に、王たちは驚きました。それが37節――

 37このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。
38そこで、ファラオは家臣たちに言った。「神の霊が宿ってるこのような人が、ほかに見つかるだろうか。」
【画面は特に出しておられませんが印の場所:創世記41章38節「神の霊が宿っているこのような人が」41節「エジプト全土を支配」42節「自分の指輪」にピンクのハイライト。39節「神がこれらすべて〜ほかにはいない」40節「おまえが〜治めるがよい」に緑のハイライト】

この神というのは、ヨセフが信じている神ではありません。
でも宗教国家エジプトにあって、これは最高の賛辞で、「これほど優れた人は他にいない」と。

そうしてヨセフは、41節「エジプト全土を支配」するようになります。
42節に王の指から指輪を授かります。
今でもエジプトの古代の展覧会に行けば、王の墓から出土された指輪とか陳列されています。
これは全部法的な文書に押される実印のような指輪です。
蝋燭のロウを垂らして、乾かない内に指輪で実印を押す、というのが当時の感覚でありますので、
王が自分の指から指輪を外してヨセフの指にはめたということは――「私のすべての法的な権威をあなたに授けた」ということです。

さて、45節からはちょっと聖書を見ていただきたいと思うんですが、こういう風になりますね。
【画面:創世記41章45節「ツァフェナテ・パネアハ」にピンクのハイライト】

ファラオはヨセフに、「ツァフェナテ・パネアハ」という名前を与えます。(45節)
「ツァフェナテ・パネアハ」というのは、<神語る、彼生きん、太陽の糧はいのち>という意味です。
ですから豊作の預言、そしてエジプトにおいては太陽神、太陽は神ですよね。
ですから必ずしもヤハウェ、アブラハムの神を指しているわけではないわけですけれども、
<神語る、彼生きん、太陽の糧はいのち>

そしてここ見ていただきます?なんとヨセフは、ここにありますね(と指で差して説明)。
【画面:創世記41章45節「オンの祭司〜与えた」にピンクのハイライト】
45・・・オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えた。・・・

「オンの祭司」というのは、<太陽の都ヘリオポリス>の神殿祭司です。いいですか。その娘と結婚し、祭司はポティ・フェラですよね。
ポティ・フェラというのは、以前出て来たポティファルと同じ名前です。
非常に良くある名前だったと考えられます。
で、このポティファルとかポティ・フェラの名前の意味は、<太陽神の賜物>という意味です。
そして結婚した娘の名前は「アセナテ」ですけれども、これは<女神ノエテに属する者>という意味です。いいですか。

すると、ヨセフが仕えることになった、支配することになった、統治することになったエジプトというのは、全くの異教国家であるということは事実ですね。
彼はその中枢に入り、エジプトの名前を貰い、その名前の中には、太陽神を思い起こさせる名前が入り、
そしてヘリオポリスの祭司の娘と結婚し、祭司の名前も祭司の娘の名前も、これはエジプトの宗教を代表していくわけであります。

今日は2つのポイントでお話しをいたします。

1)異教社会のただ中を生きるヨセフ

今日はちょっと微妙なお話をいたします。いいですか。
ダニエルと似てはいます。ダニエルも異教のバビロンに連れて行かれて、でも王に気に入られ、バビロンの名前を貰い、バビロンの政府で徴用されます。

別にヨセフは太陽神を神としていたわけではないわけですよね。
彼の名前ヨセフというのは、<主は増し加えてくださる>という意味で、
彼はヤコブの11番目の息子として最後の方に生まれますので、<なお神さまの恵みは増し加えられる>という意味で、ヨセフという大事な名前を貰ったわけです。
それをあえて、太陽神の名前に変えてもらうというのは、ヨセフの本意ではないですよね。

しかしこのヨセフが、今や太陽神ファラオのもとに仕え、
太陽神の神殿の祭司の娘と結婚し、その父親祭司の名前は<太陽神の賜物>、娘の名前は<女神ノエテに属する者>。
ということは、どっぷりとエジプト社会に定着していくわけです。

でもヨセフにとって、そんな異教社会はどうでもいいんですよね。
この感覚というのは、私(藤本牧師)はもしかしたら大切なんじゃないかという風に、学んでいて思うようになりました。
それをちょっと詳し目にお話しをいたします。

日本でしたら、神道の通過儀礼もあれば、神道ならではの考え方もありますよね。そういう風習もあるではないですか。
でも想像してください。エジプトの宰相になるということは、日本で言えば<靖国神社に行きますよね>ということですよね。
で、ヨセフはもちろん行きます、ですね。

日本の総理大臣の中で唯一だったかどうだったか――大平さんはクリスチャンでしたよね――彼は靖国参拝をします。
その時教会は色んなことを、「がっかりした」と、「クリスチャンだと思っていたのに、やっぱり靖国参拝はするんだ、と失望した」と(言いました)。

でもヨセフだったら、靖国参拝するわけですよ。
何しろ自分の人生どっぷりとエジプトの中に浸るわけですよね。
ヨセフはエジプトの宗教全体を理解し、そこに合わせていかなければいけない。
そこを変えたら、エジプトを統治することはできないです。
そこを変えるということは、ヨセフの使命ではないのです。
ヨセフの使命は、エジプトのファラオを回心させる(笑)ということでもないわけですよ。
彼はきちっと自分の立ち位置をわきまえていて、
そのど真ん中に入って行って、微動だにせず、
受け入れるものを受け入れ、誠実を尽くし、
まことの神から自分は離れず、そして社会の信頼を勝ち取って行くんですよね。

豊作の七年間の後、48節で、「エジプトの地で穫れた七年間の食糧をことごとく集めて、その食糧を町々に蓄えた」と。
町の外ではなく、町の中に蓄えたと。
七年間豊作が続くということは、エジプトの国民も行政官も、凶作がやって来る、飢饉がやって来るなんて、考えてもいないでしょうね。
豊作続きで、次から次に倉が建てられ、次から次に貯水池が掘られて、一体これ以上どうするつもりなんだ、という批判をヨセフは浴びたに違いない。
でも次にやって来る七年の飢饉を考えたならば、もうできる限りをしなければいけない。

「どうしてヨセフにそんなことができるんだ?」
「どうやら王が夢を見たそうだ。」
「王が見た夢で、そういう風にして、国の政策を決定していくのか?」
みたいな常識的な批判をする人もいたと思います。
そしてヨセフの顔を見ながら、あ、どうやら、彼はエジプト人ではない。

すると、ヨセフはありとあらゆる批判をかぶったものだと思われます。
でもヨセフは微動だにしないですよね。
自分が異教社会の中でこういう立ち位置にある、なんてどうでもいい。
とても大胆です。総理大臣として合わせることは合わせていきます。
彼らの考え方も理解していきます。
この仕事のゆえに、批判は甘んじて受け取ります。
しかし自分の確信している所、自分の神からは、彼は離れないんですね。

いいですか?このヨセフのケースとダニエルのケースは、似ていると、私もこれまで似ている、と話して来ました。
でも事情は違います。
どういうことかと言うと、ダニエルの時代というのは、イスラエルの民が偶像礼拝に走り、特にバアル信仰、アシェラ信仰に走り、あまりにも走り、エルサレムの神殿の中に、異教の神々が祀られるようになってしまうわけですよ。
神さまはそれを預言者を通して忠告し忠告し、とうとう神さまのさばきが下って、海外の国が侵略戦争を始め、バビロン帝国に負けて、人々はバビロンに捕囚として連れて行かれるわけでしょう。

そこで人々はものすごく反省するわけです。
自分たちがどうしてこういう結末を迎えることになったのか?
それは偶像崇拝というものに、自分たちがはまり過ぎたと。
そこで、あのバビロンの小さなコミュニティーの中で、非常にこの偶像崇拝を全部切ってしまうというコミュニティーが生まれていきます。
そこから生まれて来るのが、パリサイ人です。そこから生まれて来るのが律法学者です。
つまり《聖書にものすごく厳格でありたい》。
なぜなら今ある自分の境遇というのは、そもそもいい加減に信仰を扱って来たがゆえであって、
《何とかして純粋であり続けよう。きよめられた信仰を自分たちがどう保てるか》ということは、つまり一切バビロンのものには触れない、という姿勢を取ったわけですよね。
そういう中で、ダニエルも、シャデラク、メシャク、アベデネゴも全部一線を画して、偶像は拝まない。
いや形だけでも拝んでくれ。いや、私たちはそれもしないと。

でもヨセフはそんなことには拘っていないんですよ。
ヨセフは太陽神の神殿の祭司の娘と結婚し、そして国家行事はすべて太陽神に関わることに彼も一緒に関わっているはずなんですね。

日本は戦後、キリスト教の靖国参拝ということに、ものすごく反対してまいりました。
これは日本の教会が取った正しい決断です。
なぜなら、日本の教会は戦争中に迫害されたわけではないです。勿論ほとんどが迫害の雰囲気でありました。
でも日本の教会は生き延びるために、何とかして天皇制国家主義に妥協してったんですよね。
ですから教会は、入った所には御真影(ごしんえい)が飾られ、そして讃美歌を歌う前に国歌が斉唱され、そして宮城遙拝(きゅうじょうようはい)をして、それから礼拝を始めるという――それは、ことごとく日本の教会は。
わずか3%位の教会が、それをせずに弾圧の中に飛び込んでいくわけですけれども、しかし伊勢神宮参拝を断る教会なんてのは有り得なかったですよ。

そこまで染まってしまった自分たちを戦後反省して、日本の国家、宗教のあり方、そして海外から入って来た宣教師にとってみれば、お寺一つ、神社一つ、全部偶像の象徴に見えるわけですよ。
彼らはそれを見たことがないから。
でも今の宣教師は違いますよね。こぞって京都に行きますよね(笑)。
京都がすばらしい(笑)と。私(藤本牧師)もそう思いますもん(笑)。京都の風情ってのはいいなぁと。風情に浸りに行くわけですよ。
京都でお寺の修業をしようと思って、宣教師は京都に行くわけではない。

でも戦後まもなくであったとしたならば、そりゃ京都にも行かないですね。
ありとあらゆる、その日本的なものを拒否していた。
それはある意味ダニエルの時代と同じで、それは拒否しなかったがゆえに、はまってしまったわけですよ。
私たちは、信仰の信念というのもありますし、時代背景というものもあるんです。

ヨセフはよく分かりますね。彼はエジプトで一人です。
そして別に彼は自分の不信仰のゆえに、エジプトに連れて行かれる、という罰を受けているわけではない。
兄弟に裏切られたわけですよね。
神さまが扉を開いてくださった、その先にあったものは、まさに太陽神、エジプトの宗教のど真ん中です。
ヨセフは平気でそこに入って行きますね。
そして合わせるものを合わせて、彼はむしろ誠実に生きて、皆の信頼を得て、神さまのご計画をそのまんま実行していくわけです。
こういう違いというのはあるんですよね。
だからヨセフもダニエルも同じだと言う。いや、実は違うんですよね。

ですから私たちも、ま、たとえば私の母なんかは戦争中の人間ですし、三重県の出身で、そして伊勢神宮参拝を唯一しなかった美濃ミッションの出身ですから、日本的なものをものすごく嫌いました。
私(藤本牧師)にとって、それほど嫌う対象ではない。
私は小学校の修学旅行で、ちょうど喘息で桑名に疎開していましたので(転地療養で)、行った先は伊勢神宮でした。
母に「お参りするなよ」とは言われましたけれども、みんな修学旅行の遠足の一行が行くわけですから(笑)、私だけ行かないわけにはいかないですよね。ですから私は行きました。
拝礼もせず、私はポ〜っと見ていました。お土産を買って楽しかったなぁと思って帰って来ました。
「ああ、そんなんでいいんじゃないの」と言っているのはヨセフですね。

逆にダニエルは、もうありとあらゆるものを気をつけておかないと、私たちはそもそも偶像に染まったがゆえに、今この境遇にあると言う。
やがてそれが頑ななまでに、汚れたものを全部排斥して、社会から孤立していくパリサイ人を作っていくんですね。
イエスさまは《汚れはあなたの外にあるのではない。あなたの心のうちにある》と。
あなたがどこどこの神殿に行ったからと言って、あなたの心が汚れるわけではない。
《もっと自分の内側にある傲慢、自分の内側にある怒り、自分の内側にある妙な拘り、自分の内側にある人を蹴落とすその勢い、そうしたものをよく考えなさい》と仰ったんですよね(アーメン)。
そう思うと、私はこのヨセフの大胆に異教の中で生きている姿というものに、少しの味わいと言いますか、気持ちよさを感じます(アーメン)。

さて、二番目にこれで最後なんですけれども、この言葉を見ていただきたいと思います。
【画面:41章51〜52節を読む。51節「マナセ」と52節「エフライム」にピンクのハイライト】

2)溢れるほどの祝福がヨセフを慰める

<創世記41:50〜52>
 50飢饉の年が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれた。オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだ子である。
51ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。
52また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。

で、今日心を留めていただきたいのは、「マナセ」です。
《神は忘れさせてくださる》という意味です。
「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」というのは、一体どういうことなんだろうか?
それは溢れる程の恵みをくださったからです。

ヨセフにしてみれば、自分を裏切った兄弟たちの顔は一日として忘れたことはないです。
あの牢屋の苦しみ。牢屋に叩き込まれた濡れ衣。
二年間忘れられて、思い出してもらえなかった悲しみ。
エジプトの宰相となってからも、労苦の連続であったと思いますよ。
そしてエジプトの宗教、それに慣れるだけで精一杯だったこのヨセフですよね。

そういう労苦すべてを、忘れる程の祝福を神さまはくださったということ。
で、今日はT君が来てくださいましたけれども、私(藤本牧師)はここのところ、ヨセフと、新年度で新しい世界に新しいチャレンジに向かって行く方々にメッセージをして来たつもりであります。
慣れるのにヨセフと同じように、一年、ま、一年とは言わず、3か月、半年はかかるのかもしれませんね。
でも慣れます。そして慣れた向こう側に待っているのは溢れるほどの祝福で、自分の苦労を懐かしむ程の余裕のある自分が、やがて半年先にそこにいるんだ、ということをイメージしてください。
神さまは、私たちの労苦を忘れさせる、と言うよりも、《忘れる程の祝福を与えてくださるお方》である。

☆お祈りをして終わりにしたいと思います。――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、ヨセフはたった一人エジプトであなたに仕えました。周囲の習慣も、信心深さも、行事もすべて太陽神とファラオでありました。批判されるばかりのエジプトの宰相。しかもエジプト人ではないヨセフ。でも彼はものともしませんでした。あなたが共にいてくださるのであれば、私たちもものともしません――そんな勇気と力を与えてください。

そしてどうかこれまでの労苦と不幸な出来事、或いはこれから私たちを待ち受けている労苦と大変な出来事、それらを拭い去る程の祝福を与えてください。私たちはついつい大変な出来事を予想して不安に陥ります。それでもそんな私たちの悲しみ・苦しみ・怒りを拭い去る程の祝福を思い描くことができるように、あなたはアブラハムを呼び出した時に、「わたしはあなたを祝福する」(***創世記12:2〜3)という一言をもって呼び出して行かれました。アブラハムは、従順にその祝福を信じて出ていきましたが、私たちはみなアブラハムの子どもです。どうか私たちを強めてください。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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