☆聖書箇所 Tコリント1:18〜25 18十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。 19 「私は知恵ある者の知恵を滅ぼし、 悟りある者の悟りを消し去る」 と書いてあるからです。 20知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。 21神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。 22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。 23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、 24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
☆説教 受難週の前、十字架――神の愚かさ 今日読んでいただきました聖書の個所は、十字架を語る上で、大変有名な聖書の個所ですね。 第一コリントの1章の18節、ちょっともう一回映しますね。 恐らく、このみことばが一番有名であろうと思います。 【画面:Tコリント1章18節全文に青いハイライト】 18十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
今日は説教の前半で「なぜ十字架の言葉は滅びる者たちには愚かなのか?」というお話をします。 同時に「救われる私たちには、十字架の言葉は、十字架は、神の力である」というお話をします。 そして最後に、この段落の25節―― 【画面:Tコリント1章23〜25節。23節「十字架につけられたキリスト」「ユダヤ人にとっては〜愚かなことですが、」と25節全文にオレンジ色のハイライト】
25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
という25節のこのみことばに目を留めたいと思います。 私(藤本牧師)昨日、一生懸命説教を作りましたら「ああ、これは明らかに45分超えるな」(笑)ということになってしまいまして、大幅に削りました。 削りましたけれども、少し早口かもしれませんけれども、エッセンスをお話ししたいと思います。
キリスト教を示すシンボルは、何と言っても十字架です。 教会という建物の中に、どれほど聖書が並んでいたとしても、どれほど立派な聖歌隊が用意されていたとしても、また建物自体が荘厳であったとしても、多くの人が集っていたとしても、教会をキリストの教会たらしめるのは十字架です。 ですからどんなに小さな教会であっても、どこかに十字架のシンボルは付いています。 またどんなに立派な教会堂らしき建物であったとしても、それが教会でなければ十字架は付いていません。
十字架というのは、ローマ帝国が編み出した処刑、死刑の方法でありました。 よく言われますね。フランス革命はギロチンという処刑方法を作った。 アメリカで作られたのが、電気椅子でありました。 日本は古来から打ち首、さらし首でありましょう。
こうしてあらゆる文化・時代は処刑の方法を作り出して来ました。 そしてローマ帝国が作り出したものが十字架であります。 生きたまま、裸にされて、そして十字に組まれた木に釘で打ち付けられます。 即死はあり得ません。長ければ二日三日、痛みの中で自分の体重の重さで、釘に手が裂かれ踵にひびが割れ、そして徐々に苦しみながら死んでいく、という晒し刑でありました。
●その十字架こそ、キリスト教のシンボルとする、というのは一体どういうことなのか?
1)メシアの到来を待ち焦がれていた。
旧約聖書の後半から特にバビロンの捕囚後に建てられた神殿を思い浮かべて、 イスラエルの人々は、殊更メシアを憧れるようになります。 メシア、メシアと言いますけれども、モーセの五書にメシアは出て来ません。 メシアというのは、油注がれた者――特別な使命のために神によって遣わされる救い主――でありまして、そのギリシャ語は、クリストスであります。
彼らは一体メシアに何を期待していたんだろうか? 今ヨセフを学んでいますけれども、ヨセフの一族は最終的にエジプトに住むようになります。 ヨセフがいなくなってからは、民族が増えていきます。奴隷となっていきます。 奴隷となったヤコブ・ヨセフの一族を救い出すために、神はモーセを立てて、エジプトを脱出させました。 これが旧約聖書にあって、最大の神の救いの出来事であります。 後々のイスラエルの歴史にあって、彼らの歴史の原点はいつもこの(Exodus)エクソダス・出エジプトでありました。 神は私たちをエジプトから解放し、紅海の海を二つに割って、その真ん中を渡らせ、荒野の旅路を守り、約束の地へと連れ上るという、この大きなストーリー(歴史の物語)が神の救いを表現していました。
ところが、長い歴史の中で、神の民イスラエルは偶像信仰に染まっていきます。 聖書には預言書が多くあります。それを記している預言者たちは、一貫してイスラエルの民の不信仰を、神に代わって批判していきます。 エルサレムの神殿の中に、平気で他の宗教の偶像を設置するまでになっていきます。
エゼキエル書16章で神さまは嘆きます。 神さまは、イスラエルとの関係を結婚にたとえました。 わたしはあなたを見つけ、あなたを愛し、あなたと契りを結んだと。 ところが今のあなたを見ていると、遊女の方がまだましだと。 遊女が他の男を求めるとしたら、せめてそこには生きていくため、それ以外に生きていく術がないからという、だから身体を売るという言い訳があるだろう。 しかし、あなたがたはそれ以下だと。 自分から金を払って、犠牲を払って、他の神々を求めていると。 厳しい歎きが表されています。
やがて分裂した北のイスラエル、南のユダの帝国は滅ぼされます。 北のイスラエルはアッシリアに、南のユダはバビロンに滅ぼされます。 神さまの裁きでありました。 南のユダの王国がバビロンの帝国に捕られて70年経過した時に、主人でありましたバビロン帝国がメディア・ペルシャの帝国によって滅ぼされます。 それによって、イスラエルは解放されます。 そうしてバビロンから長〜い道のりを辿ってエルサレムに辿り着き、廃墟と化した都と神殿を建て直します。 これが第二の出エジプトです。
ですから旧約聖書には、出エジプトというものは二回記されています。もちろん出来事としては違います。 一回目はモーセを先頭として為されたエジプトから出て行く出エジプト。 それから数百年経った後に、今度は指導者という指導者はいませんでしたけれども、 しかしバビロンからもう一度エルサレムに戻って、二番目の神殿を建てていくという出来事であります。
ところがこの二番目の神殿、再建はされましたけれども、また都の壁は最終的に造られますけれども、 依然として国はペルシャの支配下、そしてギリシャの支配下、やがてローマの支配下と、いつも植民地のように彼らは追いやられていきます。 そのあたりからメシアの期待が高まっていきます。
メシア、すなわちこれまでイスラエルが積み重ねてきた罪を赦し、その罪の贖いをなし、ダビデの王国を再建し、周辺諸国を跪かせる王の誕生を、ユダヤの人々は待ち焦がれるようになります。
で、そのメシアの存在というのは、既に聖書に預言されていました。 イザヤ書の51章の5節をちょっと読みますね。 これで旧約聖書と新約聖書の歴史がざっと分かっていただけると思いますが、 【画面:イザヤ書51章5節「わたしの義は〜現れた」をオレンジ色のハイライト。「わたしの腕は〜期待をかける」に同色の傍線】
<イザヤ書51:5> 5 わたしの義は近く、わたしの救いは現れた。 わたしの腕は諸国の民をさばく。 島々はわたしを待ち望み、 わたしの腕に期待をかける。
第3版の訳では「わたしの義は近い」となっていました。 「わたしの義」というのは、メシアの到来です。 そしてイスラエルに対して正義をなし、イスラエルを救い出し、諸国の民を跪かせ、散り散りバラバラに散らされたイスラエルの民を再び元に戻す。わたしの義はすぐそばだ。 ――これを待ち焦がれるようになります。
また私(藤本牧師)は頻繁にダニエルを引用いたしますけれども、 ダニエル書の7章も有名であります。ちょっと見ていただけますか? 【画面:ダニエル7章13節「人の子のような方が」「天の雲とともに来られた」「人の子」に水色ペンで囲み。14節「主権と栄誉と国が〜仕えることになった」にオレンジのハイライト。13節と14節を横に弧でつなぐ同色の線】
<ダニエル7:13〜14> 13 私がまた、夜の幻を見ていると、 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。(***メシアですね、と説明) その方は『年を経た方』のもとに進み、 その前に導かれた。 14 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、 この方に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、 過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。
(※7章13節を指差して) ここに「人の子のような方」って書いてありますよね。 で、イエスさまはご自身を「人の子」と呼びました。 先程最初に見ましたイザヤ書では「若枝」という言葉が何回か出て来ます。 この「若枝」というのはメシアのことを指します。
これはエレミヤやエゼキエルにも出て来る言葉ですけれども、 このようにして預言されたメシアがいよいよやって来る、という機運が 毎年のように、十年毎のように、紀元前200年頃から高まっていきます。 実際ギリシャ帝国、ローマ帝国に反逆するような運動も、何度も起こっていきます。 こうして「メシア待望論」と言いますけれども、それが高まっていったというのが一番目のポイントです。
2)イエスはメシアなのか?
イエスさまは明らかにメシアとして、公の生涯に立ちました。 イエスさまもそういう自覚でありますし、そういうアピールをイエスさまご自身がなさいました。 ルカの福音書の4章の18節を見てください。ちょっと映しますね。 イエスさまが会堂に入って第一声を上げられ、ご自身の働きを開始された言葉がこれです。 (※と18節を指差しながら語られる) 【画面:ルカ4章18節「主はわたしに油を注ぎ」19節「主の恵みの年を告げるために」にオレンジのハイライト】 <ルカ4:18〜19> 18 「主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、 主はわたしに油を注ぎ、(***というのは、クリストスです、メシアですねと説明) わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 目の見えない人には目の開かれることを告げ、 虐げられている人を自由の身とし、 19 主の恵みの年を告げるために。」 (***わたしはやって来た、と言って、イエスさまは立ち上がります、と説明)。
この「主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた」という言葉は、「旧約聖書で預言されている、まさにそのメシアがわたしである」という宣言でありました。
ところが、イエスさまは病める者を確かに癒されます。 しかし弟子とするのは、漁師。果てや、取税人を弟子にします。 当時のユダヤ社会にあって、ローマ帝国に仕える取税人というのは、まさに国賊でありました――その取税人を弟子にします。 奇跡を目のあたりにして、そしてサマリアの女や、ヨハネの9章に出て来る生まれながらの盲人なども、「この方こそがメシアだ」と確信する者もいました。
ところが、大半はそうではない。特に宗教家は違いました。 イエスさまは宗教家の心の内にある偽善を見抜いて、 「あなたがたはなりふりは神を敬っているように見えるが、実は心の中は――自分自身を立てること、自分自身を優先すること、皆にほめてもらうこと――その思いでいっぱいだ。 それは白く塗られた墓のようで、外側からは白く見えても、内側は腐っている」と。 (***マタイ23章ではイエスは失望して、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」と何度も徹底的に批判されている)。 宗教家はイエスに対する批判を高めていき、やがて殺意を抱くようになります。
そうして妬みを買ったイエスは、それでもメシアとしてロバの子に乗ってエルサレムに入って行かれます。 その時、群衆は「ホサナ、ホサナ」とイエスさまをほめたたえますけれども、 その週の内に、「イエスを十字架につけろ」と、宗教家の扇動によって叫ぶようになります。 それは最悪の展開でありました。
「十字架につけろ」と。 旧約聖書では「木につけられた者は呪われる」(***申命記21:22〜23)と。 その日の内にその遺体を降ろすべきだと。 その遺体を晒しものにするということは、木につけられた者の家族、またその子孫に至るまで汚名を着せられることになる。 あなたがたはそれ程までの酷なことを、その人物に課してはいけない――という約束事があります。
無力な敗北だけではありません。 ローマの手に渡され、ユダヤ人でも恥じる十字架刑に処せられていきます。 その時周辺の者たちは馬鹿にしました、イエスさまに向かって。 「おまえが本当に救い主なら、まず自分を救え」と。 尤もだと思いますね。――「おまえが本当に救い主ならまず自分を救ったらいいではないか」 イエスの弟子たちも、何が何だか分からなくなってしまいました。 《油注がれた者、この方こそメシアだ》と確信してついて来たのに、どうして最終的なエンディングがこうなってしまうのか?ということですね。
暫くしますと、パウロのような熱心なユダヤ教徒は、キリストをメシアと信じている者たちを許すことができませんでした。 油注がれた者・メシア・キリストであるはずがない。 十字架にかかった者をメシアとする――そんな戯言に惑わされているキリスト教の人々は、ま、ユダヤ教の異端ですね。異端。
ですから最初に読みました、もう一回そこに戻りますね。 コリントの手紙の第一です。ここにございますね。 【画面:Tコリント1:23〜25節。23節「十字架につけられたキリストを」「ユダヤ人にとっては〜愚かなことですが」25節全文にオレンジのハイライト】
<Tコリント1:23〜25> 23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、 24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
ユダヤ人にとっては、メシアが呪われた者になるということはあり得ない。 ギリシア人にとっても、それはスターリオンに乗って、雄々しく戦車を率いるローマ皇帝は王と呼ぶにはふさわしいですね。 しかし女性や病んで癒された者たち、また道端で物乞いをしていた者たちを引き連れて、エルサレムに入って来る――そんな者がキリストである、と言うことは、まことに愚かなことに過ぎないわけですね。
パウロはそれを確信して教会を迫害していきました。 しかしそのパウロに大逆転が起きるというのが、3番目のポイントです。 1番目のポイントは、旧約聖書の後半以来、(イスラエルの民は)メシアを待ち焦がれていた。 2番目のポイントは、そのような期待の中でやって来たイエスさまは、ご自身を油注がれた者・クリストスと呼び、しかしその方は本当にメシアなんだろうか?いや、そんなはずはない、とパウロは確信して教会を迫害したんですね。
3)大逆転です。
十字架がスキャンダルであって、誇ることも益することも何一つない。 そんなことは常識でありました。 そしてこの常識が大逆転を起こして、パウロは変わります。 なぜ変わったのか?それは復活のイエスに出会ったからです。 十字架にかかって、そのまんま終わり、と思っていたパウロが、復活のイエスに出会って、復活のイエスは―― 「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか?」 と優しく語りかけ、 「とげのついた棒を蹴ることは痛くはないのか? あなたはそのようにして、神さまに無茶苦茶に反抗するけれども、最終的に傷ついているのはあなたではないか?」 と呼び掛け、そしてパウロは愕然としてしまいます。
イエスはパウロの人生、常識、考え方を変えてしまわれました。 十字架に掛けられたイエスは、つまずき、愚かさそのものだった。 それが変わりました。つまり十字架の意味が分かったんですね。 この方は私たちの罪を担い、私たちの罪を贖うための犠牲の生贄となり、 この方が私たちの罪を背負って十字架にかかることによって、 私たちの罪の債務証書を十字架の上に釘づけにされた。
ま、表現は色々でありますけれども、少なくとも言えることは―― この方が十字架にかかったのはご自身の罪のためではない。 私たちの罪のために十字架にかかった。 そして死に至るまで、徹底的に父なる神の御心に従われた。 それゆえに、神はこの方を死者の中からよみがえらせ、天の御国に迎え、ご自身の権威の座に着かせられた。
というのが、以前学びましたピリピの2章に出て来ます「キリスト賛歌」ですね。 十字架と復活のイエスを信じる者を、神のいのちに神はよみがえらせてくださり、その者に圧倒的な味方となってくださる、ということがパウロには分かったわけです。 十字架のイエスを信じる者は、罪許され、神の子どもとなり、神の国の相続人とされ、この方の主権の中を私たちは生き、そして私たち自身も、私たちの境遇も、実は誇ることは何にもない、まるで十字架のような存在かも知れない。 でも、私たちがそのような中でイエス・キリストに従って行く時に、私たちを復活させてくださり、「イエスの十字架と一つとなるなら、私たちもまたキリストの復活と一つとなる」ということをパウロは確信しました。
私たちはパウロと同じ、大逆転の祝福の中を生きているんですね。 そしてその祝福を一言で表現しますと、この25節になると思います。 ちょっと聖書を見てください。 【画面:Tコリント1章25節全文にオレンジのハイライト】 <Tコリント1:25> 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
難しい言葉のように聞こえますけれども、 人がどんなに知恵を集めたとしても、それは神の愚かさに満たない 人がどんなに力を強くしても、神の弱さにも満たない。 それが最終的にパウロが得た結論でありました。 イエス・キリストを信じるというのは、そういう地平に私たちは立って生きている、ということです。
環境が変わって格闘される子どもたち、皆さんも多いと思います。 状況が変わってしまいますと、その中に詰まっている、ま、成功もあるでしょう、失敗もあるでしょう。私たちの能力の限界もあるでしょうし、私たちの計画の未熟さもあるでしょうし、私たちの置かれた事情や困難、そして疲れ、焦り、弱さ――そういうものがギュ〜ッと凝縮されていくんですよね。 私たちはとうとう疲れ果ててしまう、消耗してしまう。
でもそれをすべて合わせても、神の愚かさには届かない。 つまり、神の祝福はそれらすべてを覆っても、なお余りあるということです。 私たちの小さな成功、愚かな失敗、わずかな能力、そして愚かな計画、困難な事情、疲れ、焦り、弱さ、そのすべてを合わせても、神の愚かさにも届かない。 ということは、神の愚かさは圧倒的な祝福となって、あなたの状況を包み込むことができる。 ま、もうちょっと簡単に言いますと、神はあなたの人生のごみ溜めから宝石を作り出すお方なんだと。 聖霊の息吹一つで、私たちはよみがえることができる。
イエス・キリストを信じるって、どういう地平に立って私たちは生きているんだろうか?と思いますよね。 十字架の話をしまして、この世から見れば、それはローマ帝国の極刑に過ぎない。 この世から見れば、自分の愚かさも、つまずきも、その十字架のようなものであって、誰もそれに心をかける者はいないかもしれない。 しかし神は慈しみの目をもって、私たちの愚かさを、私たちの失敗を、私たちの疲れ切った状況を見ていてくださる。 神の大能の力が私たちを守っていてくださる。 私たちにとって、「なんでこんなことが」と思える無意味であり、損であると思ったことを「益」と変えてくださる。 そういう神の絶対的な祝福の中を、私たちは生きているというのは、なかなか実感できるものではないですよ。
パウロは明確にそういう私たちに言うんです。 「滅びる者にとっては愚かであるかもしれないけれども、救われる私たちにとっては神の力だ」と。 神の力があなたがたを覆う。だから決して負けてはいけない。 あなたがたが一番必要なことは、熱心に自分の人生、自分の仕事、自分の生活の計画を練ることではない あなたがたが一番しなければいけないことは、「十字架を胸に刻む」――これが難しいんですよ。
難しいから、イエスさまは簡単な方法を教えてくださった。 それは「主の祈り」を祈りなさい、ですね。 私(藤本牧師)はもっと簡単な方法を、皆さんにお教えします。 女性であれば、十字架のネックレスの一つでも、お買いになったらいかがですか? そして何かあった時に、十字架のネックレスをぐっと握る。
私たちはプロテスタントですから、「十字を切る」(※十字を切って見せながら)ということをしないですよね。 以前に申し上げたことがありますけれども、孫が年少で幼稚園に入った時に、カトリックの幼稚園でしたから、孫がいつも食事のお祈りをしてくれる時に、十字を切ってくれるんですよね。 するとおじいちゃん、おばあちゃんも家族みんな一緒に十字を切って、「ああ、これ割といいなぁ」(笑)と思うようになりました。
十字を切るというのは、十字架の恵みをこの身に刻む、という意味ですよ。 ですからパウロのように、十字架が滅びる者には愚かであり、そしてユダヤ人には躓きであるかもしれない。「でも救われる私たちには、神の力だ」と、十字を切ればいい。 短く、十字を切ればいい。 「主の祈り」を祈る余裕がなければ、非常に辛い時に、十字架のネックレスをぎゅっと手に握ればいい。 そしてたましいの壁に刻む言葉がある――それが、「十字架は救われるわれらには神の力だ」。
パウロはこんなに忌まわしい、呪わしい、愚かなものはないと信じていたんですよね。 それが大逆転を起こして、神の力だと言い切ることができる。 恐らくパウロも、迷ったことが何度もあるに違いない。 でも救われる度に、なるほど十字架こそが私たちの救いであり、私たちは今この世界に生きているということを、彼は確信したんです。 十字架のエールを自分に贈る。 皆さんに贈ります。 厄介な仕事に直面している時に(笑)、思わず十字を切って、そして「主の祈り」を唱えて、そして取り掛かってみたらいかがでしょうか? 世にあっては、私たちのベストを揃えても、神の愚かさに全く満たない。その程度の存在。だったら、神の愚かさを私たちの心に刻む方がはるかに有益である、ということは私たちの確信すべきところだと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、受難週を迎えようとしている私たち。しかし毎年のように、日本は年度替わりでありますので、様々な挑戦へと乗り出していく皆さんのことを覚えます。そうでなくても、病と闘いながら苦悩している方々がおられます。そうでなくても、自分の置かれた状況に心身共に疲れ果ててしまっている方々がおられます。
どうしようもない肉体的なこのマイナス面を、一体どうしたらカバーすることができるだろうかと、パウロのように悩みながらも、「わたしの恵みはあなたに十分である」(***Uコリント12:9)という声を聞くことのできたパウロを思い浮かべます。どうか私たちに力を与え、「勝ち得てなお余りある」(***ローマ8:37)と仰ったあなたの祝福をほんの少しでも味わわせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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LAST UPDATE: 2022.04.04 - 15:21 |
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