☆聖書のお話 イースターからの再出発 ――ID先生――(※教会学校教師、マスク姿で) 皆さん、おはようございます。それでは教会学校の時間を始めたいと思います。今日は幼稚園の子から高校生の子までいるので、最初の6分間は幼稚園生と小学生のために、そして残りの4分間で中学生と高校生のためにお話をしたいと思いますので、10分間一緒にお話を聞いてくれればと思います。では始めます。
●今日の話は「イースターからの再出発」という話で、マタイの福音書28章7節です。 前回みんなが教会学校で聞いた話は十字架の話でした【画面:3本の十字架が丘に建っている】。イエスさまが十字架にかかって、【画面:「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)】とこんな風に言いながら、僕たちの罪をすべて背負って、十字架にかかってくださったという話を聞きました。そして安息日を経て今日は復活のお話です。
女の人二人が【画面:女性二人が墓石の前に立つ】、墓参りに「イエスさまどうなっているかなぁ。もしかしたら汚くなってるんじゃないかなぁ、汚れているんじゃないかなぁ」――そんなことを思いながら、二人の女の人が来ました。
【画面:さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。(マタイ28:1)】こういうスタートです。 すると見に行ったら、地震が起こるんです。グワーッ、地震が起こって御使いが来ます。 その御使いは稲妻のようだったという風に書いています。怖くて、そこに「見張りだった人たちは、怖くて死んだ人のようになった」という風に書いてある位、それ位すごい御使いだったんですね。
で、こう言います。よく聞いてね。 【画面:「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」(マタイ28:5〜7)】 その後、「分かりました。じゃあ行きましょう」ということで、弟子たちのところに行こうとしているところに、 今度は御使いじゃなくて、イエスさまが来てくださるんです。そして二人にこういう風に言います。 【画面:墓の前にイエスさまが現れ、「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」(マタイ28:10)】 こういう風に言いました。
ここで二つの種類の人がいます。どんな種類だったかと言うと、番兵って言ってね、見張りだった人たちと、弟子たちの行動が二種類とも全く違うんです。 ▼先ず番兵、見張りの人は偉い人のところに行きます。 【画面:見張り2人と偉い人1人の絵】 「大変なことになった。イエスさまが復活してしまったかもしれない。これはまずい。イエスさまが神さまだったら、僕らが十字架につけたことが間違いだったという風に思われるかもしれない。そんなことがあっちゃいけない。まずい。」 偉い人のところに行きました。 そして祭司長と長老っていうんだけど、その人たちのところに行って、 「大変です。イエスさまが復活してしまいました。このままでは大変です。どうしますか。」
そしたら、この偉い人たちは会議したんですね。話し合いをしました。 「どうしようかぁ。復活しちゃったかぁ。そうだ。嘘をつこう。」 こういう風に話が流れていくんですね。 【画面:先程の3人の絵に〔嘘の情報を流した人たち〕という文がつけられる】 どんな嘘だったかと言うと、眠っている最中に――君たちはもう寝ちゃったんだと――眠っている最中に、弟子たちが来て盗んで行ったという話にしたら、墓の中にもいないし、復活したとは思わないんじゃないか?」とこう言う風に言ったんです。 嘘でしょう?本当はそうじゃないよね?だけれども、そうやって言った人たちがいました。
▼もう一つは弟子たちですよね。 【画面:弟子たちが話し合っている絵が、先の絵の上の方に出る】 弟子たちはどういう風にしたか? イエスさまが言ったことは、みんな覚えていますか? イエスさまは何て女の人たちに言ったかというと、こうです。 【画面:先程のマタイ28:10のみことばと墓の前の絵。 「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。(そこでわたしに会えます)。」(マタイ28:10)】と言いました。 イエスさまのことを信じていた弟子たちは、「ガリラヤに行きなさい」と言われて、「いやいや、復活したなんて、そんなことはないんだから、行きません」じゃなくって、 《あ、イエスさまは本当に復活したんだ。じゃあ、僕らはガリラヤに行こう》――こういう風に思って弟子たちはガリラヤに行ったんです。 【画面:弟子たちが話し合っている絵に、〔ガリラヤに行った弟子たち〕と付け加えられる】
ここで考えてほしいのね。 僕らの幼稚園や小学校にもこういう二種類の人がいるかもしれません。 僕らは神さまのことを信じていて、今日ね、イースターの日なんだけれども、《イエスさまが復活した、僕らのために復活してくれた》と信じている人たち。 そして、日本にはもしかしたら、こちらの方が多いかもしれないけれども、「いや、死んだ人が復活するなんて、そんなことはないよ。いや、嘘でしょ。それを信じているだけなんでしょ?」――こういう風に思っている人たちがいるかもしれません。
さあ、私たちはどうでしょうか、どっちですか? 「復活なんてなかったよ」って言う人なのか?「復活を信じます」っていう人なのか? 僕たちの学校、小学校や幼稚園で、皆さんはそれぞれ毎日生活をしていると思うんだけれども、その中で「私は復活を信じています。今日はイースターなんだよ」って、すっごい言うのは難しいことで大変かもしれないけれども、ぜひイエスさまを信じている人たちとして、お友だちとして、学校でもそのように生活してほしいなぁと思うんです。 なので、「復活なんかなかったよ」と言わないで、弟子たちと同じように、ガリラヤへ行ったように、「僕たちも神さまを信じています。イエスさまは復活したんです」――そんな風に言えるようになってほしいなぁと思います。
●じゃ、ここから中学生、高校生です。 二つ、聖書の言葉を見比べてほしいんですね。 マタイの福音書28章の7節と10節を見てください。 一つは二人の女の人に御使いが言った言葉です。もう1回読むね。 【画面:二つの言葉が(タイトルを黄色の文字で)書き出されている。 〇御使いの言葉 「そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」マタイ28:7 〇イエス様の言葉 「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」マタイ28:10 】
さあ、この二つの共通点はどこでしょう?中学生、高校生だったら気づくかなぁ? まず一つは復活についてですね。死人の中からよみがえられた。そのよみがえられたイエスさまが目の前に現れて、「恐れなくていい。復活したんですよ」と。これが共通点に入ります。
今日、注目したい点はそこじゃないんですよ。同じ言葉を見てほしいんです。 「ガリラヤ」という言葉です。「ガリラヤ」という言葉は両方に書いてあるでしょう?なんでだと思う? ガリラヤ、好きだったから?(笑)やっぱりガリラヤは特別な場所だったからなんですね。好きだったからというのも本当にあるかもしれないんだけど、特別な場所だったからなんじゃないかなという風に思います。
ガリラヤって、一体どんな場所か、皆さん、思い出せます? 【画面:1イエス幼少期を過ごした2公生涯を開始した】 イエスさまが幼少期を過ごした所です。生まれた所ではないかもしれないけれども、幼少期を過ごした所。公生涯がスタートした所。イエスさまが伝道とかね、カナンの人に教え始めた時期ですよね。 そして奇跡を起こしたのも、このガリラヤでした。 【画面:3患いや病をいやした、奇跡を起こした、を追加】 そしてマリアたちもこの場所でイエスさまに会っています。 【画面:マリアたちもそこでイエスに出会った、を追加】 つまりこのガリラヤという場所は、主と弟子たちにとって思い出深い場所なんですね。 ですからほんとに好きだったかもしれない。 【画面:黄色の文字で、《ガリラヤは、主と弟子たちとって思い出深い原点!》と追加】 でも考えてほしいのは、原点だということです。
この時弟子たちはどんな気持ちだったと思いますか? 多分ねぇ、精神的にも、信仰的にもすごいもうぐちゃぐちゃだったと思う。ボロボロだったと思う。 イエスさまが十字架にかかる時には「そんな人知りません」と言って、全員逃げ出しましたよね。 「ずっと信じてついていきます。何があっても絶対信じてずっとついていきます」って言っていたんだけど、それができなかったんですね。 「あ、自分は裏切っちゃったんだ。だめだ、僕は。こんなボロボロな状態でもうどうして良いか分からない。」
そんな時に、復活して来たイエスさまはなんて言ったかと言うと、「ガリラヤに行きなさい」って言ってくださったんです。 どんな状態でもいいんです。僕たちの状態がボロボロだったとしても、苦しい思いで今悩んでいたとしても。 特に今新学期で新しい学年始まったばかりでしょう。もう多分不安も一杯だし、辛いことも、これからどうなっていくのかな?って不安なこともあるかもしれない。 でもそれでいいんです。
それでイエスさまは「ガリラヤに行きなさい」と言ってくださるんです。 最初の場所に戻って行きましょうよ、と。 イエスさまのこと、もう一度理解しようよ、もう一度考えようよ――そういう風に教えてくれているんですね。 だからこのイエスさまの言葉は、私たちに今日すごく刺さります。 【画面:イエス様の言葉 マタイ28:10のみことばを追加】 「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。」――僕らがイエスさまと過ごした、イエスさまのことを考えていた、あの場所に戻るように言いなさい――「そこでわたしに会えます。(黄色の文字で)」
もしかしたら、今日皆がイースターに教会に来てくれた、というのは、「ガリラヤ」なのかもしれない。 イースターの時に、みんなが信仰の一番最初で、ここで洗礼を受けた人も沢山いると思うんだけれども、ここにやって来て、《戻って、イエスさまに会えます》っていう風に教えてくれているんです。 僕たちはボロボロでもうどうして良いか分からない――そんな時に、イースターは教会に戻って来なさい。 《ガリラヤに戻って来なさい。そこからもう一回スタートしようよ》って教えてくれています。
☆では、一言お祈りをして終わりにしたいと思います――ID先生 祈ります。天にいらっしゃいます父なる神さま、私たちの学校生活、どうか助けてください。始まったばかりで不安なことも沢山ありますし、友だちができるかもすごく心配ですけども、神さまが一緒だから大丈夫です。どうかそこでイエスさまを信じる者として、復活を信じる者として、生活ができるようにしてください。
また私たちの原点である「ガリラヤに行きなさい、そこでわたしに会えます」と教えてくださいました。今日教会に来て、神さまに、復活のイエスさまに会うことができました。神さま、どうかその勇気と希望を持って、明日からのまた学校生活に戻してくださいますようによろしくお願いします。このお祈りを主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。
☆聖書箇所 ローマ8:35〜39 35だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 36こう書かれています。 「あなたのために、私たちは休みなく殺され、 屠られる羊と見なされています。」 37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。 38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、 39高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
☆説教 イースター・聖餐式:キリストの愛から引き離すものは、なにもない
さて、聖書を見ていただきます。 一週間前の日曜日、受難週に入る日曜日でありました。同じ聖書の個所をローマ人への手紙の8章を見ていただきました。 先週、中心として見ていただいた、32節をちょっと映していただきます。 【画面:ローマ8章32節「どうして〜あるでしょうか」に緑のハイライト】 <ローマ8:32> 32私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
御子イエスを信じる者は御子とともにすべてのものを、神さまからいただく、という話をいたしました。 それは罪の赦しだけではない。必要なすべてのものを、また神さまの祝福も、力も、導きも、守りも、とこしえのいのちも、 すべてのものを御子イエスの十字架と共に受け取る。
十字架はローマの処刑方法であったという話から受難週は入りました。 イエスさまが人類の罪、私たちの罪を背負い、罪の裁きを受けてくださいました。 しかし十字架に現れたものは、罪の悲惨さ、裁きの恐ろしさではなく、究極的に十字架に現れたものは、神さまの愛でした。 私たちを愛するがあまりに、御子さえも惜しむことなく、私たちに与えてくださった神さま。 御子イエスはご自分のいのちを私たちに注ぎ出してくださった。
ところがこの大切な十字架の愛から、私たちを引き離すものがあります。 それが今日、35節見ていただきますけれども、この箇所から始まっていきます。 【画面:ローマ8章35節全文に緑のハイライト】 ちょっと映していただきますと、「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか」というこの質問がず〜っと続いていきます。(※指で左の節を39節までずらしていく) そして39節に、「そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」で閉じられています。
ですからこの箇所は、35節の「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」 その他に(38節の)「死、いのち、御使い、支配者、今あるもの、後に来るもの、力あるもの」とこう続いていくんですけれども、 【画面:ローマ8章38節「確信」「死「いのち」「御使い」「支配者」「今あるもの」「後に来るもの」39節「高いところにあるもの」「深いところにあるもの」にオレンジのハイライト」「私たちの主キリスト〜できません」に緑のハイライト】
私たちを神の愛から引き離すものは、実際にあるんだろうか?という疑問、それをパウロは投げかけています。 短く3つのポイントでお話しいたします。
1)引き離される
引き離されるということがあります。 ウクライナで戦争が始まりました。 男性は戦うために国に残らなければいけないという規定ができました。そして女性、子どもたちは何百万と国の外に逃げて行きました。 愛するお父さんと引き離された家族。 自分の大好きだった町からも、学校からも、家からも引き離されていきます。
私たちが体験する辛い経験というのは、もしかしたら引き離されるような経験なのかも知れません。 教会の祈祷会でず〜っと続けて祈っている人たちがいます。 古谷さんという方、病気のためにず〜っと施設に入り、そして家に戻ることができない。 そしてコロナの状況の中で家族から引き離されている古谷さん。 コロナ禍で突然奥さまを天に送り、一人になってしまった山田さん。 山田さんは一人施設にいらっしゃいます。食欲がないというのが一番大きな課題でしょうか。 石塚さんは施設から、コロナ禍で病院で手術を受けました。でもその病院で脳梗塞になってしまって、最初出て来た施設にはもう戻れない。全然違う施設に行きました。 引き離される。やっぱり家族から引き離されていますね。
コロナでしばらくお顔を見ないうちに、なんか教会が変わってしまったんじゃないだろうか、と思うこともあります。 喜ばしいのは皆さん――子どもたちの成長と未来というのはいつも教会の力です。 でも悲しいのは、お年寄の方々がもう教会に来れないんじゃないかという現実です。 そしてコロナで、今日は久しぶりにみんな集まって、楽しい笑顔を見ることができますけれども、日頃引き離されてしまったお互い。 木曜日の朝の祈祷会の面々というのは、かなりお年を召されてしまいました。 ぜひ皆さん、頃合いを見計らって、会いに来てください。そして元気な姿を見せてください。
パウロは、ローマの教会の人々に手紙を書いているんですよね。 ローマの教会から引き離されてしまっている。 そして自分は、先ほど見ました35節の「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣」――それらが神の愛から自分を引き離すんじゃないだろうか?と言うほど、 寂しい苦しい経験をしているわけです。 私たちは戦争もあれば、病気もあれば、大変な状況が山程あります。 そうでなくても年齢を重ねますと、色んな人から色んな活動から引き離されていきます。
時に一人病室にいることもあるでしょう。 あんなに元気で飛び回っていたパウロ先生。色んな人たちと会えてお話ができたのに、今は一人です。
時々ものすごい力で、私たちは引き離されます。 ですから38節に「死、いのち、御使い、支配者、今あるもの、後に来るもの」 2022年私たちは、既に3.11というあの地震・津波を体験しました。 でもその後で、熊本の地震もありました。 その後で、台風の被害もありました。 その後で、コロナという感染症がやって来ました。 その後で、もしかしたら世界大戦になるのではないか、という恐ろしい戦争の事態を今、目の当たりにしています。 「今あるもの、そして後に来るもの」っていうのは、もしかしたら私たちと私たちの家族、私たちと神さまとの関係も引き離す可能性があるかも知れない。 気がついたら、引き離す力に取り囲まれているような私たちなんですね。
2)最終的にパウロは確信に至る
ちょっと聖書を見ていただきます。この言葉(38節を指差して) 【画面:ローマ8章38節「確信」「死」「いのち」「御使い」「支配者」「今あるもの」「のちに来るもの」「力あるもの」39節「高いところにあるもの」「深いところにあるもの」にオレンジのハイライト。】
38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、 39高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
そして色んなことがありますけれども、「そのほかのどんな被造物も」というのは、神以外の存在ですね。 天使でさえ、神さまが創られた被造物ですから、神以外の存在も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはありません、という結論に至るわけです。 《十字架の愛は、神の愛は、今も、これから来るものも、どんなものも、私たちから引き離すことはできない。》 病院にいても、施設にいても、よく分かっていても、よく分からなくなってしまっても、 神の愛は私たちから離れることはない、ということです。
それと同時に、同じ神の愛の中にいる私たちを、引き離すことはない。 オンラインで皆さんも、教会にいる皆さんも、私たちは互いに繋がっています。 そしてそれが、これから共に味わう聖餐式に現れます。
3)その神の愛は、私たちにとって、最後まで残る力、最後まで生き抜く力になる、ということを覚えていてください。
いま皆さんは十分健康に恵まれ、また経済的に恵まれ、ご両親の愛に恵まれていると思います。 でもやがて時が経つにつれ、もしかしたら自分の人生で、《最後まで残っているのは神の愛だけかもしれない》という時が、必ず、必ず、やって来ると思います。 でも、神に愛されている、という十字架のこの愛は、《最後まで生き抜く力》となって、私たちのところにやって来ます。
一つ話をして終わりにします。 私たちにとってトランペットと言えば、きっとAちゃんだろうと思います(Aちゃんの方を見て笑って)。 バイオリンと言いますと、イタリアのパガニーニという沢山のバイオリンの曲を作曲し、その技術も演奏法も、パガニーニがバイオリンを変えたと言われています。 このパガニーニには、幾つもの話が残っているんですよね。 この話を私(藤本牧師)は一回したことがあるんですけれども、今日もう一回させていただいて、その他の話とも加えていただきたいと思うんですけれども――
ある日、彼はオーケストラと共に、バイオリン協奏曲を、みんなの前で弾いていました。 突然、一本の弦がピー¬ンと音を立てて切れ、バイオリンから惨めにだらんと垂れ下がってしまいます。 一瞬赤くなった彼の額から、汗がほとばしり出てきます。 すぐに傍にいた第一バイオリニストが、自分のバイオリンを差し出す構えをします。 でもパガニーニはパッと目をやっただけで、それを受け取ろうとはしませんでした。
そしてもう一本の弦が弾け飛んでいく。 暫くすると、もう一本。合計三本弾けて、バイオリンから弦が垂れていきます。 バイオリンには弦が4本ですから、残るは1本。 でも彼はたった一本の弦で、バイオリン協奏曲の自分の担当を最後まで弾き終え、
それが終わりますと、観衆は総立ちになって拍手し、「ブラボー!」の声援を送るわけですね。 彼は総立ちになった観衆を抑えて、座らせて、まさかアンコールはないだろうという所――
ところが、パガニーニは弦が三本切れてしまったバイオリンを高く掲げて、アンコールをやるぞと、指揮者に合図を送った時に、 指揮者は、観衆の方を向いて、「パガニーニと弦一本!」と叫んだという話が残っています。 彼は一本の弦で最後の曲を美しく弾くんですよね。 そして実際パガニーニの曲には、弦一本で弾くという曲があります。
最後まで切れない弦というのが、パウロにも、私たちにもある。 様々なものが私たちから奪っていく。 私たちは様々な幸せから、力から引き離されていく。 しかし最後まで切れないもの――それはキリストの愛、キリスト・イエスにある神の愛だ。 ということをパウロは確信しています。 そしてその愛がある限り、私たちは自分のいのちを生き抜くことができますし、 もしかしたら、パガニーニのように、自分の人生を美しく弾き抜くこともできると思います。 神の愛は私たちから離れない。 そしてその愛が、イエス・キリストを十字架、墓、死から復活させ、キリストを天の高い所、神の右の座に座らせられた。 パウロはそれを見ながら、やがて同じ復活に自分もあずかることができるのは、 御子をさえ惜しまず、そして御子を復活させた、神の愛に私もあずかることができるということを信じているからですね。
今日この場で聖餐式の恵みに直接にあずかれない人たちもいらっしゃると思います。 特に洗礼を受けてない子どもさんたちもそうでありましょう。 でも聖餐式の中にいる時に、《キリストを信じる者はみな同じ恵みにあずかる》ということを堅く信じてください。 イエスさまは仰いましたでしょう。ヨハネの福音書の6章の37節で、イエスさまは―― 「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(※第三版) 「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(※新改訳2017版)
辛いことがある度に教会学校を思い出し、辛いことがある度に聖餐を思い出し、教会に来てください。 オンラインの礼拝にあずかってください。 「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」と言ったイエスさまの愛を力に、私たちは最後まで生き抜いていくということを、 お年寄りの方々、施設や様々な記憶さえも失ったお年寄りの方々にも、同じ恵みが届いているということを心から確信いたします。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 恵み深い天の父なる神さま、あなたの愛は私たちから離れることはない。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(第三版、ヨハネ6:37)と仰いました。ですから、洗礼を受けている者も受けていない者も、ここにいる者も、オンラインの方々も、みな同じようにあなたのところに来ます。ですから同じ恵みを、私たちに授けてください。愛する主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式 ――説教の前後は「聖日説教」でご覧になれます――
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LAST UPDATE: 2022.04.17 - 21:37 |
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