4/24 戸塚伝道師:復活の希望に生きる Tコリント15:50〜58 ※藤本牧師は心の友キリスト教会(横浜市青葉区)で講壇の奉仕、聖餐式も。
☆説教箇所 Tコリント15:50〜58 50兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。 52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。 53この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。 54そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。 「死は勝利に呑み込まれた。」 55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。 死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」 56死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 57しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。 58ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
☆説教 戸塚伝道師:復活の希望に生きる
今日、藤本満先生は心の友キリスト教会――こどもの国の近くにある、横浜市青葉区にある単立の教会ですけれども――そこの教会の礼拝のご奉仕をされています。 いま無牧の教会になっていまして、窪倉さんも定期的にそこでご奉仕してくださっています。どうかこの朝の礼拝が祝されるように、共にお祈りいただければと思います。
今朝のみことばは、復活節のみことば、イースターのみことばですが、「復活の希望に生きる」と題して、3つの視点で思い巡らしをしていきます。 イースターが終わっても、毎週日曜日の礼拝は、復活をお祝いしているようなものですね。 ですからイースターが終わっても、このみことばを開いて別に何の差し障りもないと思いますし、 また東方(正)教会では一週間ずれて、今日が復活節のお祝いをしています。 ですから、別に今日このみことばが、なんかこう場違いのように感じているかもしれませんが、別に気になさらなくて結構だと私(戸塚伝道師)は思います。
1)死者の復活はないという人たちがいる
コリント教会は様々な問題を抱えている教会でした。 (Tコリント)1章からず〜っと読んでみますと、教会にこんな問題があるんだというようなことが次から次に出て来るんです。 そしてその都度、パウロがそれに対する助言を、このコリント人への手紙を通して書いているわけですね。
その問題の一つが「復活はないという人たちの存在」であるということが分かります。 今日はお読みしませんでしたけれども、同じ(Tコリント)15章の12節にこう書かれています。
<Tコリント15:12> 12ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
「あなたがたの中に」ということは、教会の中に――「死者の復活はない、そしてキリストもよみがえらない」――そういうことを信じていた人たちがいたということです。 このことは何もこの当時のコリント教会の問題ではなくて、今でも「復活はあり得ない」と、そのような立場にいる教会はあるわけですね。
ある先生がこのように書いていました。 「復活を考える際にまず確認しておくべきことは、十字架刑によるイエスの死は――それをどう解釈するかはともかくとして――歴史的事実である。 しかしイエスの復活は、あくまでもキリスト教会の中で生まれた信仰である。 言い換えれば、復活という出来事を客観的に立証し得る、第三者的な証言は存在しないことを私たちは認めなければならない。」 という風に書いておられる先生がおられるわけですね。
イエスの復活はキリスト教会の中で生まれた信仰であって、歴史的事実ではないということです。 そうしますと、信仰だとしますと、信じた人だけが歴史的事実だと思い込んでいる、ということになります。 人間イエスをキリストに祀り上げるために、どうしても復活ということを言わなければならなかった――そのように考える人たちもいる。
それはイエスさまが処女(おとめ)マリアから生まれたということも、イエスさまが殺されたことを私たちの罪の贖いの代価だと、そのように判断することも全部、 人間イエスをキリストと神格化するために、そのような物語が生まれた、という風に考える人たちが今でもいるわけですね。
私たちはそういう立場には立ってないわけです。 別に論争するつもりはありません(笑)。恐らく論争しても、平行線になると思います。 かつての教会は、論争どころか、それで戦争さえ起きた。 考え方の違いで、戦争まで起きてしまったような、そういう時代もあった。 このような立場の違いっていうものは、私たちの力ではどうにもならない。 みんな本気でその立場に立って、そういう風に思って信じて、そして真面目にその立場に立って神さまを礼拝しているわけですよね。 分かっていることはただ一つ――神さまは様々な立場に立っておられる方々を許しておられるということです。 本当のことは神さましか分からないんでしょう。人間の限界や弱さなんでしょう。 でも私たちは――《イエスさまは復活した、それは歴史的事実だ》――そのような立場に立つわけです。
2)イエスさまは死者の中からよみがえった
この証言は聖書が語っています。もちろん科学的には証明はできません。 でも聖書が語っている、ということは事実です。 そしてこの聖書が歴史文書である、ということですね。 歴史が書かれている文書です。そしてその文書の中に明確に書かれているのが、この(Tコリント)15章の4節ですね。
<Tコリント15:4> 4また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
「聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた」とあります。 イエスさまは聖書に書いてある通りに、三日目によみがえられた。 記述として証言されている、明言されています。
さらに四つの福音書は、四人の記者がそれぞれの立場で歴史を綴っていますけれども、 イエスさまが復活されたという重要な点においては、すべての記事で一致しています。 みんなイエスさまが復活した、それは事実なんだ、ということで一致しています。
新約聖書からは、さらに【3つの状況証拠】が読み取れます。 @残された布切れ ヨハネの福音書の20章の6節と7節。こう書いてあります。 <ヨハネ20:6〜7> 6彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 (***これはイエスさまがよみがえった後の墓の中の様子です、と説明) 7イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
極めて具体的な記述が書かれている。 そしてイエスさまに巻かれていた布をそのままにして、身体だけが消えた状態になっている。 《布が残されていた――これは復活以外に考えられない》ことです。
A弟子たちの劇的な変化 何が彼らに変化をもたらしたのか? 何が弟子たちを確信させたのか? イエスさまを「三度も知らない」と裏切ったあのペテロが、使徒の働きで(***2章)、なんであんなにすごい説教を語ることができるようになったのか? それは《イエスさまが復活して、その復活したイエスさまに出会った》ということしか考えられないのではないだろうか?
確かに福音書の記事を読みますと、復活の主に出会う前、弟子たちには福音的な信仰を持っていた人は一人もいなかったということが分かります。 「イエスさまは私たちの罪のために死んでくださって、そして3日目に復活するんだ」と告白した弟子たちは誰もいなかった、福音書の中では。 でも《その後の劇的な弟子たちの変化》を見る時に――あ、確かにイエスさまは復活したのではないか――そうとしか考えられません。
B安息日の変更 土曜日の安息日を守っていたユダヤ人の中に、日曜日を守る、《日曜日を安息日にする》そしてそこで聖餐を祝う人たちが現れるようになりました。 それはなぜか?――それは《日曜日にイエスさまが復活されたから》です。 今までのユダヤ人の習慣ではあり得ないことです。 このようなことから、《実際に復活した、と考えるのが自然ではないか?》と思うんですね。
最近、こんな本に出会いました。 「今さら聞けないキリスト教のおバカ質問」(※文春新書)。そんな題名の本です。 東京工業大学の名誉教授の橋爪大三郎さん(はしづめ・だいさぶろう、1948生、社会学者)が書かれました。 「33の質問が導く人生の道案内!」(※副題)ということで、33の質問の中の17問目に、「本当に復活するのですか?」という質問に対して、橋爪さんはこのように返答しています。一部を読みます。
――読み始め―― イエス・キリストは復活した。それはやがてすべての人間が一人残らず、死んでも復活することの約束です。神はそのように計画しているのです。イエス・キリストが復活したのに、他の人間が復活しないことがあるでしょうか?死んだら身体は滅んでしまいます。細胞は壊れ、タンパク質はバラバラになり、元の分子や原子に戻ってしまいます。なのに、自分の身体が、そして精神が、再び存在することになるなどあり得るのだろうか?あり得る。必ずそうなる。それが復活。キリスト教はそれを信じます。信じるとはまだそうなっていないけれど、そうなるに決まっていると考えることです。
なぜそう考えることができるのか?復活は二度目の創造です。一回目の奇跡によってあなたは造られた。神にはその能力があり設計図もある。あなたは(神は?)、あなたのことは何でも知っている。ならば二回目の奇跡によって、死んでしまったあなたの身体と精神をこしらえるのは、一回目と同様に、いやむしろもっと簡単なのです。というわけで、人間が神に造られたのだから、人間が復活するのは当たり前です。 ――ここまで読み終わり――
と書かれています。 あ、この方が説得力あったかもしれません。 神さまが人間を創造されたのだから、私たちが復活するのは当然。 イエスさまが復活された。だから私たちも復活する。 神さまがそうしてくださるという、そういう恵みですね。
3)イエスさまが復活されたことによって、私たちにどんな恵みがもたらされたのか?
それは、《私も復活する》ということですね。 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と、ヨハネの福音書11章の25節に書かれています。 「わたしを信じる者は死んでも生きる」――まさしく身体の復活です。
高津教会の墓地に行きますと、その墓碑(墓石?)に「復活」という言葉が刻まれています。 「復活」――この中には沢山のお骨が入っているけれど、やがて私たちはその方々も含めて、みんな復活するんだ――そういう信仰を込めて「復活」という言葉が刻まれているわけですね。
どんな身体なのでしょうか、復活した後? コリント人への手紙第一の15章の40節に、「天上のからだ」とあります。 「天上のからだ」――「地上のからだ」と対比されて書かれている、この「天上のからだ」。 いま私たちが持っているのは、「地上のからだ」。でもここには「天上のからだ」と書かれています。 更に42節から――
<Tコリント15:42〜44> 42死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、 43卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、 44血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。・・・
「朽ちないもの」「栄光あるもの」「力あるもの」「御霊に属するからだ」――実際にどんな身体を神さまからいただくのでしょうか? 言葉による表現の限界を感じます。 一体何歳ぐらいの身体を神さまからいただくのでしょうか?――もちろん健康な身体でしょう。 でもどんな身体なのでしょうか?――復活してからの、それはお楽しみなのかもしれません。 死に対する勝利。そしてそのような身体が与えられる。
最後にもう一つの恵みを見て終わりにしたいと思います。 コリント人への手紙(第一の)15章の一番最後、58節にこう書かれていますね。 <Tコリント15:58> 58ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。・・・
「ですから」――この言葉で始まっています。 この(58節の)前は、《キリストは復活した。私たちも復活する。死に対する勝利が与えられる》ということが、ず〜っと書かれている。 その一番最後に「ですから」という言葉で、この一節が組み込まれているんですね。
<Tコリント15:58> 58ですから、私の(愛する)兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
何か突然現実に戻っているような感じですね。 「堅く立って、動かされることなく」――《死者の復活はある》と信じて――「いつも主のわざに励みなさい」とパウロは書いています。 「いつも主のわざに励みなさい」という時には、「主のわざ」というのは、コリント教会の人たちにとっては、主のご奉仕のことでしょうね。
しかし、この「励みなさい」という所に小さな*が付いていて、その下(※欄外の注)を見ると、ほんとに小さな字で*直訳と書いてあって、「満ちあふれなさい」という言葉であるということが分かります。 そうしますと、「いつも主のわざに満ちあふれなさい」というのが、この聖書の本来の意味であるということが分かります。 「主のわざに満ちあふれる」ということは、神さまが私たちのためにしてくださること。 《神さまが私を通して為されていること――それに満ちあふれなさい》ということです。
私たちの毎日の生活を振り返ってみますと、《主のわざに満ち溢れさせてくださっている――それが神さまだ》ということです。 なかなか意識していません。ああ忙しい、ああ大変だ。もうそれでバタバタしているような、そんな毎日かもしれない。 でもあれもこれも全部、主のわざに満ち溢れさせてくださっていることなのだ――このことをじっくり味わう時を一分でも持ちたいなと思います。 「いつも主のわざに満ち溢れなさい」。なぜなら、主のわざに満ち溢れているなら、「自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているからです」(58節)。
それは私たちがいま様々な労苦を体験している。 その労苦というのは、復活した後の生活で、生かされる。プラスになる。無駄にならないということはそういうことです。 私たちは復活したら、神さまの国で何をするんでしょうね? 普段あまり意識していません。でも復活したら、一体私たちは何をしているんだろうか? 聖書には詳しいことは書いていません。分からないことがほとんどです。 でも私たちの労苦が無駄にならないで、それが生かされるような何かをしているのではないかと思います。
もう二年前になりますけれども、2020年の1月3日に、ピアニストの工藤真史さんが召されました。 高津教会にもお呼びした工藤真史(くどう・まふみ)さんです。(※結婚後伊藤真史さん、讃美動画のギター演奏でおなじみの伊藤真嗣さんの兄と結婚され、高津の近隣にお住まいでしたので、礼拝にも時にはご夫妻で。日本イエス教団工藤弘雄牧師はお父さま) 工藤真史さんはがんになられ、がんと共生しながら一進一退の中にあって、その中でなお 「ほとばしるいのちの輝きを奏でるピアニストとして、私は生きたい」 ということで、ピアニストとしてのご奉仕をされました。 二枚のCDをリリースされましたけれども、 「それは作品ではありません。私が生かされている記録を残すためなのです」 と仰っていました。
工藤真史さん、復活したら何をしているか? 労苦が無駄でないとするならば、私は復活したら恐らくピアノを弾いているのではないかと思う。 神の国にピアノがあるか(笑)、それは分からない。 でも労苦が無駄でないということは、そういうことだと思う。
いま私たちが様々な労苦をしている。でもそれが必ず生かされる時が来る。 もちろん地上生涯の間で生かされる場合もあるでしょう。 でも復活したら、今の労苦が全部報われて、全部プラスに変えられて、 「いや、それは死んでからのことですか?」――そうじゃない。 私たちの毎日の生活の、神さまから与えられている恵みによって、毎日やっている大小の様々なわざは全部、復活後にプラスとなって私たちに返って来るんですね。
私たちは今どんな労苦を抱えているでしょうか? それは復活したら――この労苦は決して無駄ではなかった。却って必要なことだった――それが分かる日がやって来る。 私たちはこのことを今から信じている。だからこそ、主のわざに満ち溢れる恵みが私たちに与えられています。 このような《スケールの大きな復活の希望》を抱いて、今週も共に歩んでいきたいと思います。
☆お祈りをいたします――戸塚伝道師 イエスさま、あなたの復活によって、私たちも復活が約束されていることを感謝いたします。私たちが抱えている大小様々な労苦は、私たちが復活した後も決して無駄にならず、生かされることをありがとうございます。どうか今これらの苦労のただ中に、労苦のただ中にあなたのわざを満ち溢れさせてくださいますように。そしてあなたによって与えられた、驚くべき復活の希望をもって、この一週間も歩ませてくださいますように。復活のイエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
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