☆聖書箇所 ヨハネ1:35〜42 35その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。 36そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。 37二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。 38イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊りですか。」 39イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊っておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。 40ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 41彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。 42彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」
☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景@救い主に出会う経験
皆さん、おはようございます。高津教会の礼拝によくお出でくださいました。それからオンラインで参加されている皆さん、(※カメラ目線に向き直って)今日も共に礼拝を捧げることができることを心から感謝をいたします。
皆さんのお祈りに支えられて、こうして月に一回説教する機会が与えられているということは、ほんとに感謝なことだなぁと思います。 最近思いますけれども、神学院卒業してもう5年になるんですけれども、最近感じたことは、《あ、説教するって難しいことだなぁ》ということを改めて思いました。 聖書のお話はできるかもしれません。でも説教という神さまのみことばの説き明かしというのは、なかなか難しいものだということを痛切に感じております。 しかし皆さんのお祈りに支えられてここまでご奉仕させていただいた、ということを心から感謝しながら、今日も初心に帰って神さまの恵みを共に分かち合っていきたいと思っておりますので、(※お辞儀をしながら)今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
私(戸塚伝道師)はシリーズの説教というのは、今まで2回しかしたことなくて、 一つ目も二つ目も、登場人物の心情を読み取りながら、恵みに生かされることについて思い巡らしをして来ました。 第1回目は「ヨナ書に自分を問う」というシリーズでした。ヨナと神さまとの関り方を読んで行きました。そして自分の信仰のあり方を問うシリーズでした。
2回目は「サマリア・ストーリー」と題しまして、ヨハネの福音書第4章のサマリアの女性、この女性がイエスさまと出会って、メタノイア――人生の生き方の方向転換――をした。 そのような方向転換に導かれるイエスさまのお姿を見てまいりました。
そして今回のシリーズは「ペテロのいる風景」と題しまして、聖書に登場するイエスさまの弟子ペテロの生きざまを見ていきたいと思っております。 途切れ途切れになってしまうかもしれません。また何回になるかまだ分かりません。 聖書に出て来るぺテロを、どの程度まで読み込むかによって違って来る、と思うんですけれども、 今日はその第1回目といたしまして、「イエスさまに出会ったペテロの姿」を見ていきたいと思います。 「救い主と出会う経験」と題しまして、3つのポイントで話をしていきたいと思います。
実はペテロがイエスさまに出会う前に、ペテロの兄弟アンデレが既にイエスさまに出会っていたことが分かります。 そこで一つ目のポイントは――
1)兄弟アンデレは救い主に出会った
その経緯がヨハネの福音書第1章の29節と36節にある、洗礼(者)ヨハネの言葉から始まっています。 今日お読みはしませんでしたけれども、(ヨハネ)1章の29節。
<ヨハネ1:29、36> 29その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
洗礼(者)ヨハネはイエスさまのことをこのように紹介しています。 同じく36節、洗礼(者)ヨハネは、このようにまた言っています。
36そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
この「神の子羊」という言葉ですけれども、当時の人たちはこの「子羊」という意味は聞いて分かったと思います。 罪を犯した時に捧げる身代わりの子羊のことだ。 恐らく小さい頃から旧約聖書のレビ記を読んでいて、暗記する程まで読んでいたユダヤの人たちでしたから、 恐らくこの「子羊」の意味――罪を犯した時に私たちの身代わりとして捧げる「子羊」――それが今歩いている人なんだということを、ヨハネは紹介しているということが分かりました。
その言葉を聞いて、37節――この「二人の弟子」というのは、洗礼(者)ヨハネの弟子です―― 37二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。
洗礼(者)ヨハネの弟子であるにも関わらず、イエスさまについて行ってしまいました。 そしてその後、イエスさまからの問いかけと弟子たちの応答が書かれています。
38イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊りですか。」 39イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで彼らはついて行って、・・・
イエスさまについて行く二人の弟子たちに、イエスさまが振り向いて、「あなたがたは何を求めているのですか」と質問した。 しかしその質問に、この二人の弟子は質問で答えています。 「ラビ(先生)、どこにお泊りですか。」 その後、イエスさまは「来なさい。そうすれば分かります。」 そのようにイエスさまは仰いました。 「来なさい。そうすれば分かります。」
先日、召されました石塚成子(いしづか・しげこ)さん、様々な証しを高津教会の文集に残しておられます。 高津教会創立60周年記念の文集、2008年に発行されましたけれども、その中で石塚成子さんはこのような証しを書かれています。ご紹介いたします。 ――故 石塚さんの証し―― ・・・神さまとの最初の出会いは家庭集会でした。(***この家庭集会というのは、YKさん・Mさんご夫妻のご自宅で藤本幸子先生を招いて開かれた家庭集会でしたけれども、と説明)徐々に教会へ導かれ、信仰の入口に迎えていただきました。でも・・・聖書とはほんとうに難しい。「先生、私分かりません」と申し上げたところ、先生は「大丈夫です。心を静かにしてこの席に座することが大切です。来ていればいつか分かるようになります」とおっしゃいました。・・・(ここまで読み終わり)
「来ていればいつか分かるようになる」――イエスさまのおことば、それは藤本幸子先生も同じ言葉を仰ったのだった。 「来なさい。そうすれば分かります」(ヨハネ1:39) この二人の弟子は、その言葉に従ってついて行くわけです。 そしてイエスさまが泊っているところを見た。(同1:39)
イエスさまが泊っている所を見て、それで終わりだった、というよりも、ここに大事な意味が込められているのではないかと思います。 イエスさまが泊っておられるところを見たというのは、 《イエスさまが留まっておられるところに、自分も身を置いた》ということではないかと思います。
幸子先生が「心を静かにしてこの席に座することが大切だ」ということの、この「座する」という言葉と繋がるのではないか? ただ泊っている所を覗いて、「はい、お終い」じゃなくて、イエスさまがどこに泊まっておられるのかという所に一緒に行って、そしてそこで色々なお話をしたんじゃないかと思います、共に座して。 そして、そこでイエスさまとの出会いがあった、とそのように思います。
なぜかと言いますと、その後、このように書かれています。 「時はおよそ第十の時であった」(ヨハネ1:39)――これは午後四時頃だった。こう書かれていて、40節――
40ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。 41彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。
「この二人の弟子のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった」と書いてあります。 ぺテロのお兄さんか弟か、それは分かりませんけれども、兄弟であった。 その兄弟が自分の兄弟ペテロを見つけて、告白しています。 「私たちは、メシア(訳すと、キリスト)に会った」と。 このように言うことができたということは、イエスさまと一緒に留まったその場所で、そしてそのところで、 《確かにイエスさまはこの二人の弟子たちに出会ってくださったのだ》という経験です。
38節では、この二人の弟子は「先生」という言葉で、イエスさまのことを呼んでいますけれども、41節では、「キリスト」「メシア」という言葉で、イエスさまのことを呼んでいます。 この方がラビではなくて、キリストだということが分かった。 「(訳すと、キリスト)に会った」という所に二つの*印がついていて、そして聖書の下の注を見ますと、**直訳「見出した」と書いてあります。 「私たちはキリストを見出した」。 この二人の弟子は、確かにこの方は単なる先生ではなくて、キリストだということが分かったということです。 アンデレは救い主と出会いました。このアンデレがシモン・ペテロに会って、そしてイエスさまのところに連れて行くわけですね。
2)ペテロが兄弟アンデレによって救い主に出会う
この様子を聖書から詳しく見ていきたいと思います。 ペテロはどのようにして、イエスさまに出会ったのか? その経緯は、出会ったというよりも《出会わされた》ということです。
ヨハネから聞いてイエスさまについて行った二人の弟子、そのうちの一人、シモン・ペテロの兄弟アンデレが、 ――ヨハネの福音書ではここで初めてペテロの名前が出て来ますけれども―― このペテロを、イエスさまのもとに連れていくわけですね。(ヨハネ1章)42節――
42彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」
ペテロは、その時初めてイエスさまと対面しました。 自分の兄弟に連れて行かれて、そこで出会ったわけです。 でも、この後のイエスさまの言葉を見ると、イエスさまは、出会う前からペテロのことを知っておられたということが分かります。 「あなたはヨハネの子シモンです」と、もう全部分かっていた。 ペテロは思ったでしょうね――「なんで俺のことを知っているんだろう?この人は」 そしてさらにイエスさまは言われます。「あなたはペテロ、ケファと呼ばれます。」 このケファと言うのは、下の注を見ますと、「岩を意味する語から来ている」 「ケファもペテロも、岩を意味する語から来ている固有名詞」だということが書いてありますが、岩。 「あなたは岩と呼ばれます」ということですね。
ペテロはキョトンとしていたかもしれません。「俺のこと?岩って。」 岩と呼ばれるには程遠い性格、よく考えずにすぐしゃべるし、思いつきですぐ動く――そんなペテロでしたけれども、 イエスさまは恵みによって、ペテロがどのような存在になるのか、その可能性をしっかりと見ておられた。 「あなたはペテロと呼ばれる。岩と呼ばれる。」 イエスさまはペテロの性格だけではなく、弱さも罪深さも失敗も情けなさも全部お見通しの上で、ペテロに出会ってくださいました。
42節の中に、「イエスはシモンを見つめて言われた」とありますが、この「見つめて」という言葉の中に、「ペテロの存在すべてをわたしは分かっているよ」という、そういうサインが含まれているのではないかと思うんですね。
ペテロがイエスさまをどのような救い主として認識していたのかは、今日の聖書個所ではあまりよく分かりません。 その直後のペテロの様子は書かれていません。イエスさまにどのように応答したのかも分からない。 でも恐らく《ここでペテロは、救い主に確かに出会わされた》のです。 これが《ペテロがイエスさまについて行く生涯の出発点》であったと思われます。
3)アンデレに出会い、ペテロにも出会ってくださったイエスさまは、私たちにも救い主は出会ってくださった
先程から、「出会った」という言葉でお話ししていますけれども、これは一つの霊的な経験の表現だと思います。 「イエスさまに私は出会った」――でも私たちの経験は様々な表現で証しすることができると思うんですね。 救い主に出会った――それのみならず、キリストを受け入れた。 イエスさまを心にお迎えした。信仰を持った。救われた。罪が赦された。十字架と復活の意味が分かった。イエスさまが私のために、十字架の上で身代わりとなって死んでくださったこと――それに初めて気づいた。洗礼を受けた。キリスト教を信じた。キリスト教に入信した。神さまと共に歩む決心をした。 様々な表現があると思うんです。
クリスチャンの家庭で育った方々は、こんな明確な経験はないのかも知れません。 私にはよく分かりませんけれども、もしかしたらもう生まれた時から、神さまが存在するのが当たり前で、いつの間にか洗礼を受けていて、いつの間にか信じていた――そういう感じの方も多くいらっしゃるのではないかと思うんです。
他にも、教会にいらっしゃらない方々の中にも、何となくイエス・キリストに魅力を感じるとか、イエス・キリストを信じているとか、そういうような言葉にならない経験をされている方々も恐らく沢山いらっしゃるのではないかと思うんですね。 イエスさまを信じること、イエスさまと出会うこと、もうこれはケース・バイ・ケースの経験だと思います。
でも私(戸塚伝道師)は思うんですね。 なぜキリストだったんだろうか? なぜキリストを信じたんだろうか? キリストがなぜ自分の救い主なんだろうか? 他の神さまのことを知らないまま、キリストを信じて大丈夫だったのか? でも聖書にはこう書いてあります。――「キリスト以外に救いはない」 この、今日初めてイエスさまと出会ったペテロは、やがてこんなメッセージを語る人物になるんですね。 開きませんけれども、使徒の働き4章の12節で――
<使徒の働き4:12> 12この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
と、ペテロはこのように、メッセージしているわけです。 キリスト教以外に救いはない、となると、これは排他主義になり独善主義になってしまう――「私が信じていることが100%正しくて、他はみんな間違っている」と。 かと言って、じゃ、どの神さまでもいいんですか? イエスさまも仏様も同じ救い主ですか?と言われると――「う〜ん、そうじゃない。やっぱりイエスさまです」。 このようなジレンマに陥るのは、宗教の枠組みで考えているからだと思うんです。
聖書は、キリスト教以外に救いはない、とは言っていないです。 使徒の働きの時代、人間が人々に伝えやすく纏め上げたキリスト教という宗教は、まだ存在していなかった。 「キリスト以外に救いはない」とペテロは言っている。この方以外に、救いはない。 そう考えますと、私(戸塚伝道師)はイエスさまというお方を、キリスト教という一宗教の牢獄から切り離してあげたいような気持ちになる(笑)。
特定の宗教を私たちは信じている、と皆さんが言っているかも知れない。 でもそうじゃなくて、私たちは《イエスさまを救い主として信じている》。 たとえば仏様を心から信じている方々への信仰は大切にされるべきだと思います。 でも仏様は、私の救い主ではない、と確信できるのですね。 それはなぜかって言いますと、否定できない救い主との出会いの経験から来るのです。 これはキリスト教とか、そういうことじゃなくて、私は確かにイエスさまに出会った。確かにイエスさまに私は出会った。 この後ペテロは言っていますね。 <使徒の働き4:20> 20私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」
と、使徒の働き4:20でペテロは言っています。 ペテロにとって、見たことや聞いたこととは何でしょうか? それはイエスさまの十字架――あ、十字架のそばにはペテロはいなかった。逃げちゃって。 でも復活、そして昇天、そしてペンテコステの聖霊降臨の出来事。 これは見たこと、聞いたことです。経験であり、体験であり、事実でした。 ペテロは実際にイエスさまにお目にかかったわけです。 復活のイエスさまともお目にかかっていました。
同じく私たちもイエスさま、キリストに出会いました。 それは私たちにとって、否定できない事実なんです。 なぜ仏様じゃなくて、なぜ他の神さまじゃなくて、イエスさまなのか? それは私たちがイエスさまと出会った以外の何ものでもないからです。
いみじくもパウロが、ガラテヤ書6章17節で思わず口にしました。 <ガラテヤ6:17> 17・・・私は、この身にイエスの焼き印を帯びているのですから。
「焼き印」――消そうとしても消せないもの。 「私という存在は、私の救い主イエスさまに愛されている者ですよ」っていう、 「この焼き印はイエスさまのものですよ」っていうこの印が、 (※胸や肩や顔を両手で触ってみるしぐさをして笑)――どこについているのか分かりませんけれども―― イエスさま印がじわ〜っと付いているわけです、焼き印が。 イエスさまに出会った証しですもの。 これは理屈ではありません。 《イエスさまに出会ったというたった一つの経験》が、ものを言うと思うんです。 この経験に立って、私たちは生きていく。
一般の人たちからは、どう見られているか分からない。 でも、これは宗教の枠組みを超えるものだという納得がある。 キリスト教という宗教に入ったんじゃなくて、 キリスト教という宗教を信じたんじゃなくて、 私たちはイエスさまと出会った。 気休め、思い込みだと思われるかも知れません。 でもイエスさまの焼き印を押された私たちは、 心には言い知れぬ、言葉では言い表せないような、平安、喜び、希望、そしてこうして共に礼拝を捧げたいという思い、飢え渇きがある。 現実がどんなに大変であっても、心が折れそうでも、いやたとえ折れてしまったとしても、 自分が分からなくなってしまったとしても、 イエスさまの焼き印は消すことができないものである。 イエスさまと出会ったという事実は、イエスさまの方から私に出会ってくださったというその事実は、消すことはできないのです。
ペテロのように出会う前から、私のことを知っておられました、イエスさまは。 そしてイエスさまの方から私に出会ってくださった。何の資格もないのに。 理由は分かりません。 ただ神さまに望まれてこの世に生まれた私、この私を大事な存在として認めてくださっているがゆえに、イエスさまは私たちに出会ってくださいました。 ペテロに出会ってくださったイエスさまは、私にも出会ってくださった。そして、 「もう大丈夫ですよ。わたしがあなたの救い主ですからね。 何でも言いたいことを言ってご覧なさい。聞いていますからね。」 救い主と共に歩む人生。 このお方を信じさせていただいたということを、心から改めて感謝したいと思います。 そしてこの救い主が、今もいつもとこしえまでも、私と共におられます。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、今では当たり前のように、こうしてあなたを礼拝する私たちです。でもそれはいつかどこかで、あなたを信じ、救い主に出会った時があったからです。あなたに出会う前から、ペテロのことを知っておられたように、私の弱さも罪深さも情けなさも十分ご存じの上で、私を受け入れてくださったことを感謝いたします。
新しい一週間が始まりました。今週も様々なことが待っていると思いますが、毎日、この出会いの恵みに生かされて、私の声に耳を傾けてくださるあなたと共に歩む喜びを、存分に味わわせてください。出会ってくださった救い主のお名前で父なる神さまにお祈りいたします。アーメン。
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