☆聖書箇所 創世記41:50〜57 50飢饉の年が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれた。オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテが産んだ子である。 51ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。 52また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。 53エジプトの地での豊作の七年が終わると、 54ヨセフが言ったとおり、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々に臨んだが、エジプト全土には食物があった。 55やがて、エジプト全土が飢えると、その民はファラオに食物を求めて叫んだ。ファラオは全エジプトに言った。「ヨセフのもとに行き、ヨセフの言うとおりにせよ。」 56飢饉は地の全面に及んだ。ヨセフはすべての穀物倉を開けて、エジプト人に売った。その飢饉はエジプトの地でもひどくなった。 57全地は、穀物を買うためにエジプトのヨセフのところに来た。その飢饉が全地で厳しかったからである。
☆説教 献児式・ヨセフ(8)苦しみの地で実り多い者とされる
久しぶりに8回目、ヨセフの物語にお話を戻すことにいたしました。 7回目のお話しをした時には、3月27日でありました。 それから受難週、イースター、そしてロシアのウクライナ侵攻、大山さんの召天、また石塚さんの召天と、ヨセフの物語から随分離れてまいりました。 およそ二か月ぶりに戻ることにいたします。
ヨセフというのは、ヤコブの11番目の息子でありました。 格別にお父さんはこのヨセフを可愛がり、異母兄弟10人のお兄さんたちに憎まれ、疎まれ、殺されかけ、奴隷に売り飛ばされる、という所からヨセフの物語は始まっていきます。
その後、エジプトで誠実を尽くして、とうとう主人のもとで財産を管理するまでに信用を得るようになります。 しかし主人ポティファルの奥さんに裏切られ、濡れ衣を着せられて、彼は牢屋に入れられます。 そこにやって来た王の料理官長と献酌官長の夢を解き明かし、元の地位に戻された献酌官長にヨセフは願います。 「私のことを覚えていてください。何かの機会がありましたら、取り計らってください。」 しかし二年もの間、献酌官長はすっかりヨセフのことを忘れていました。
ある時、王が不吉な夢を見ます。 そして、献酌官長はヨセフのことを思い出しました。 自分もあの時、妙な夢を見て、夢解き人ヨセフによって助けられたと、王さまに話をいたします。 ヨセフが牢獄から王の前に呼び出されます。 ヨセフは王が見た不吉な夢だけでなく、迫り来る危機に対して具体的な方策まで提案いたしました。 七年間穀物は祝される。その時、町ごとに備蓄するように。豊かな備蓄でありました。 そして七年の飢饉がやって来ます。
(創世記41章)50節を見ていただきますと、ちょっと50節を映しますね。いいですか。 【画面:創世記41章50節「二人の子」にピンクのハイライト、「アセナテ」に囲み線、51節「マナセ」と52節「エフライム」に藤色のハイライト】 50飢饉の年が来る前に、ヨセフに二人の子が生まれた。オンの祭司ポティフェラの娘アセナテが産んだ子である。
と言って、二人の息子「マナセ」(51節)と「エフライム」(52節)の名前が出てまいります。 飢饉の年が来る前にヨセフは、オンの祭司ポティフェラの娘アセナテと結婚して、二人の子どもが与えられた。
1)今回の説教の第一のポイントは前回の復習となります。
ヨセフはエジプトのファラオに仕えました。ファラオと言うのは、太陽神の化身です。 ファラオ自身が神です。 そんな世界で、「太陽の糧はいのち」という名前をヨセフはつけられて、 そして太陽の都ヘリオポリスの神殿の娘と結婚をします。 でもそんなことは気にかけず、彼はひたすら神を信頼して、仕事に精を出しました。
旧約聖書をず〜っと後に進んで行きますと、同じように異教社会で政府の真中にあって活躍したダニエルと三人の友人のことが出てまいります。 前回お話ししました。この四人は、ダニエルと友人三人は異教社会で活躍しながらも、異教の礼拝や価値観に殊更一線を画すという努力をした、ということが聖書に記されています。 それはもちろん神さまによって、祝福の報いとなりました。 しかし創世記のヨセフは、そんなことにはあんまり拘ってはいません。
何でも日本の社会から一線を画すという、そういう考え方が日本のキリスト教会にはないわけではありません。 恐らくそれは、そういうものの考え方は、以前太平洋戦争の時に、教会が天皇制国家主義にどっぷりと呑まれてしまった、ということに対する反省であっただろうと思います。 そうなると、鯉のぼり、雛人形、そしてこの世界のありとあらゆる行事から身を引くように、求められるような錯覚を起こします。
しかしヨセフはそんなことは考えませんでした。 それでいて、ヨセフの純粋な働き、その優しさ、そして神さまの御心を求めるような思いと共に、神さまはいつもヨセフと共にいてくださった、ということがず〜っと書かれています。
太陽神に染まった社会で、太陽神の神殿の祭司の娘と結婚し、でもそんなことで神さまの恵みが動くわけではない。 奴隷に売られた時も、牢獄にいた時も、そして今も、 神さまは私から離れないで、私と共にいてくださる――という確信がヨセフにありました。 自分が批判されても、自分がエジプトの神殿に出入りしても、神さまは私から離れない。共にいてくださる。
そして溢れるほどの祝福がヨセフを慰めます。 前回注目した最初に生まれた子どもの名前、ちょっと聖書を見ていただきたいと思います。 (創世記41章)51節ですね。 【画面:創世記41章51節「マナセ」に藤色のハイライト、「神が、私の〜忘れさせてくださった」にピンクのハイライト】 51ヨセフは長子をマナセと名づけた。「神が、私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」からである。
つまり、「マナセ」という名前は「忘れる」というそういう意味であります。 自分が忘れたのではない。自分としては父の家のことも、自分の労苦のことも全部、その記憶から取り去ることはできない。 でも神は溢れるほどの祝福を与えてくださり、私はそれをもう執着しなくてもよくなった。
どうかこれ程までの労苦と不幸な出来事、それを払い去るほどの祝福を私たちにも与えてください。 私たちは辛い出来事ばかりを思い出します。 でも、それを思い出しては心を痛める一生を過ごしているのではなく、 そういう中でも、神さまが私たちに与えてくださる良い思い出、良い出来事によって、 私たちの悲しみ・苦しみ・怒りを拭い去る程の祝福を与えてください。 それは前回お話ししました。
2)今回注目していただくのは、二番目の子どもの名前であります。
ちょっと読みますね。(創世記41章)52節、 52また、二番目の子をエフライムと名づけた。「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」からである。
で、今日の説教はここから説教題を取りました。 「苦しみの地で、実り多い者とされる」ということです。
ヨセフの人生は――兄弟に憎まれ、疎まれ、仕えた主人の奥さんにはめられ、濡れ衣を着せられ、牢獄に耐えなければいけない。 そこに到来したチャンスさえも彼を見離し、二年間放っておかれる。 それが全部、故郷から離れ、父の家から離れ、二度と故郷に帰れず、孤独な環境で、彼はこの苦しみを体験いたしました。 そして彼の人生はものすごく上下動が多いですよね。 上下動が多いと申しますか、神さまが共にいてくださり、祝福してくださり、彼は上に上がっていくことができる。 ところが人は彼を蹴落とす。
「神さま、あなたが全能の力を持っておられ、私を愛しておられるなら、私をず〜っと上に置いておいてください」――というのは、聖書の中に、そういう人は一人も出て来ないですよ。 上にいればいる程、落ちる。 それはアブラハムの人生にしても、ヨブの人生にしても、或いはペテロでも、パウロでも、すごく祝福され上にいる時もあれば、どん底に落ちる時もある。 そして時には、人による迫害、あるいは人の悪意をもって、下に落とされてしまう。 どうしてこれほど人生に上下動があるのかな?と。 それは上下動を聖書は書いているからです。
私たちももし自分の人生を振り返って、短い手記を書くとしたならば、恐らくその上下動の部分を書くんだろうと思います。 長〜い時間をかけて上に上り、また一瞬にして下に落ち、人の下に長い間沈黙を保ち、やがて神さまが徐々に上に上げて行ってくださる。 その複雑さの中で、彼がたどり着いた結論は、「苦労の地で、私は実り豊かな者とされた」ということです。
「苦労の地」というのは、一体どういう地であったのか? それはエジプトという「異国の地」でありました。 そこに奴隷として売られてきたという「奴隷の地」でありました。 そしてエジプトは太陽神ですから、彼が考えている神さまとは全然違う世界が広がっていました。 家族から引き離され、17歳で売られて行きましたから、彼は孤独を味わった「孤独の地」です。 そして様々な努力をしながら、最後は人によって蹴落とされるわけですから、そこは「徒労の地」です。
異国の地、孤独の地、奴隷の地、異教の地、徒労の地でありながら、ヨセフは「実り豊かな者とされる」んですよね。 「実り豊かな者となった」という表現でもないですし、 「私は自分の努力によって、実り豊かな人生にとうとう到達できた」でなくて、 「神さまが、そのように私をしてくださる」という確信を、自分の子どもに(名前で)つけたんですよね?
私たちは昨日ニュースで、何かキラキラの名前が流行っているという話をやっていましたね。 私(藤本牧師)もキラキラの名前ってよく分からなくて、要するに漢字とそれからその上についているフリガナが全然違うと。 天使という漢字で「エンジェル」という風に読ませる(笑)――それはまことにキラキラだなぁと思いましたね。
その反対は何かと言うと、「しょぼしょぼの名前」(笑)って言うそうなんですけれども、 私は満月の満で「みつる」ですよね。圭子は土二つで「けいこ」なんですよね。 そういう風に、「どういう風に名前を綴りますか」って言ったら、私は「満月の満です」と言うし、圭子は「土二つ」って言いますし、そういうのは、「しょぼしょぼの名前」って言うんでしょうね(笑)、キラキラの部分が全くないという(笑)。
今はもう圧倒的なキラキラの名前の時代ですよね。 自分がどういう風に子どもに名前をつけるかというのは、非常に興味深いですね。
私は昨晩、改めてMさんに、お母さんに、お尋ねしました。 「○さんという名前は、私は箴言から取ったんじゃないかなぁと思うんだけれども、一体どこだったの?」 「病室で、エレミヤのこの10章23節のみことばを与えられた」と。
エレミヤというのは非常に複雑な書物で、しかもページ数が非常に長いですよね。 よくエレミヤを読みながら、その名前を持ってきたなぁという風に思います。 それってある意味で、親が子どもに期待をして、その道を行くようにそういう名前を付けたんだろうと思うんですよね。 それはすごく考えます。
子どもは親に聞くんですよね。どうしてこういう名前なんだろうか?と。 私もよく父に聞きました。「満ってどこから取ったの?」って。 それは使徒の働き(6:5)に「信仰と聖霊に満ちた人」(ステパノ)という。 だけど、私は「満」というこの言葉の発音が好きではありませんでした。 ですから自分の名前が好きであったことは一度もないなぁというのは、親に対して申し訳ないなぁと思いますし、 信仰と聖霊に満ちているかと言えば、そうではないというのは申し訳ないと思いますし、 子どもにとっても、親にとっても、名前を付けるというのは、ものすごく意味があるんですよね。ものすごく意味がある。 ですからすごく考えるわけでしょう。
下の娘の●は、病院でアメリカの出生証明に、最初登録した名前は「愛」だったんです。 藤本愛で、もう登録が終わってたんですよね。 で、圭子は病院のベッドの中で色々考えて――前も申し上げました――教会の裏手に「焼き鳥屋、愛ちゃん」というのがあった。すぐそこに。 それで、やがて教会の人から愛ちゃん、愛ちゃんと呼ばれる度に(笑)、裏の焼き鳥屋と重なるのは良くないということで、 圭子は病院のベッドの中で、愛が●る●●という名前――当時は非常に珍しい名前でした。考えましたね。 神さまに祈りながら、自分の子どもの将来を考えながら、色々名前っていうのは選ぶんだろうと思います。
そういう風に考えますと、今日は献児式があり、そして私はヨセフが自分の二人の子どもに名前を付けた時に、 「この苦しみの地で、神さまが私を実り多い者としてくださる」という意味でエフライム(52節)。 「私のこれまでの労苦をすべて忘れ去らせる程の、拭い去る程の祝福を与えてくださる」という意味でマナセ(51節)。 これでヨセフ物語の前半が終わるんですよ。 ヨセフ物語の前半というのは、あまりにも苦しい、あまりにも辛い人生の連続であった。 しかし神さまがある時目を留め――後半もまた色々あるんです――だけどここで一つ区切りをつける。
区切りをつけた印として、これから先ヨセフの家族では、自分の子どもを呼ぶ時にマナセ、エフライムと必ず声をかけて、呼ぶ度に、なぜ自分が自分の子どもにその名前を付けたのか、ということを思い出す。 もしかしたら名前というのは、子どもにとって以上に、親にとって意味があるのかなぁという風に思います。(アーメン)
3)苦しみの地を歩みつつ、信仰は明確になっていきます。
ヨセフが最初父親に可愛がられて、特別な洋服を着せてもらい、兄たちが自分にお辞儀をするというような夢を見た時、しゃーしゃーとその夢を兄を前にしてヨセフは言うんですね。 そして憎しみを買って、(ヨセフは)エジプトに売られていきますけれども、 その頃のヨセフの記事に、彼の信仰の記録はありません。
▼最初に彼の信仰が出て来るところをちょっと見ていただきたいと思いますが、 (創世記)39章の9節です。 ポティファルの妻から誘惑を受けた時に――見てください。 【画面:創世記39章9節「神に対して罪を犯すことができるでしょうか」にオレンジの傍線とピンクのハイライト】 <創世記39:9> 9ご主人は、この家の中で私より大きな権威をふるおうとはせず、私がするどんなことも妨げておられません。ただし、あなたのことは別です。あなたがご主人の奥様だからです。どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」
これが一番最初、神に対する信仰をヨセフが告白する場面ですね。 自分は神から信頼を受けて神の祝福を受けて来た。 それに反する行動をする時に、自分は主人の信頼ばかりではない、神から受けた信頼を裏切ることになる、ということですよね。
▼次に出て来るのは、40章の8節です。そのまんま聖書を開いていきますので、見ていただきたいと思うんですが―― 献酌官長と料理官長の夢を解き明かす時に―― 【画面:「解き明かしは神がなさることではありませんか」にピンクのハイライト】 <創世記40:8> 8二人は答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは言った。「解き明かしは、神のなさることではありませんか。・・・」
自分に与えられたチャンスですよね? しかしそのチャンスを何とか解決する力は自分にない。 だけど、自分に与えられた機会を神が用いて、私の人生をどうにかしてくださる。 神が、あなたがたの夢を解き明かす、という風にヨセフは言っています。
▼41章の25節、今度はファラオの夢を解くという時に、ヨセフはこう言いますね。 【画面:創世記41章25節「神が、なさろうとしていることをファラオにお告げになったのです」にピンクのハイライト】 <創世記41:25> 25ヨセフはファラオに言った。「ファラオの(***あなたの、と説明)夢は一つです。神が、なさろうとしていることをファラオに(***あなたに、と説明)お告げになったのです。
夢の起源は神さまです。そして、神さまの夢の解き明かし、神さまのご計画を彼は明らかにしていくわけですよね。
▼そして、「神が」「神が」と二回続けて、51節にマナセ――「神が私のすべての労苦と、私の父の家のすべてのことを忘れさせてくださった」 ▼そして52節にエフライム――「神が、私の苦しみの地で、私を実り多い者としてくださった」
このようにして、彼は苦しみの中で、信仰というものを学んで行くんですよね。 その信仰の特色は、《神という言葉が主語》になって表現されている。 つまり牢獄であろうが、エジプトの宰相であろうが、どんな人生の境遇にあっても、 神がどうにかしてくださる、という《神という主語》が彼の人生日記の中に記されている。 これを「信仰者」と言うんですよね。
私たちが人生日記を書く時に、「神が」と言う主語が一行も入って来ない日記を書くこともできます。 今日一日を振り返った時に、すべてその辛いこと、○▼さんに▼△を言われたとか、自分の人生はこうであったとか、医者の判断はこうであったとか、家族はこうだとか。 その日記の行(くだり)に、「神が」という言葉が一行も入って来ないですよね。
ヨセフは、神さまの可能性を、牢獄にあって忘れませんでした。 自分がどんなに無力であっても、神が私を用いてくださるなら、夢を解くこともできる。 自分は神の信頼を裏切ることはできない。なぜなら神は、私を信頼しておられるから。 そして実り豊かな者になるのは、人生の順調な場面ではない。 苦しみの中で実り豊かな者になって初めて、私は精錬された金のように神の御前で練られていくんだという――これが信仰者の確信であります。
☆お祈りをいたします――藤本牧師 「神が」と言う主語がヨセフの人生日記の中に何度か出てくるのを確認いたしました。そしてその日記のすべての象徴が、ヨセフに与えられた二人の子どもの名前に付けられていたことを覚えます。私たちも子どもを愛します。あるいは私たちもそういう名前をいただきました。 時にそういう出来事の中に、或いは人生の様々な出来事の中に、あなたに対する期待、あなたに対する感謝、あなたに対する祈り、訴えがきちんと入るような人生日記を書く者とさせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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