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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/12 ヨセフ(10)生き延びろ 創世記42:1〜17
File  
6/12a.pdf [268 KB] ダウンロード 6/12a.pdf (268 KB) - Download : 64
☆聖書箇所  創世記42:1〜17
1ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」
2さらに言った。「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」
3そこで、ヨセフの十人の兄弟は、穀物を買うためにエジプトに下って行った。
4しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちと一緒に送らなかった。わざわいが彼に降りかかるといけないと思ったからである。
5こうしてイスラエルの息子たちは、人々に混じって、穀物を買いにやって来た。カナンの地に飢饉が起こったからである。
 6ときに、ヨセフはこの地の権力者であり、この地のすべての人に穀物を売る者であった。ヨセフの兄弟たちはやって来て、顔を地に付けて彼を伏し拝んだ。
7ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」
8ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。
9かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。「お前たちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」
10彼らは言った。「いいえ、ご主人様。しもべどもは食糧を買いに参りました。
11私たちはみな、一人の人の子です。私たちは正直者です。しもべどもは回し者などではございません。」
12ヨセフは彼らに言った。「いや、おまえたちは、この国の隙をうかがいにやって来たのだ。」
13彼らは言った。「しもべどもは十二人兄弟で、カナンの地にいる一人の人の子でございます。末の弟は今、父と一緒にいますが、もう一人はいなくなりました。」
14ヨセフは彼らに言った。「私が、おまえたちは回し者だと言ったのは、そのことだ。
15次のことで、おまえたちを試そう。ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちの末の弟がここに来ないかぎり、おまえたちは決してここから出ることはできない。
16おまえたちのうちの一人を送って、弟を連れて来い。それまで、おまえたちを監禁する。おまえたちに誠実さがあるかどうか、おまえたちの言ったことを試すためだ。もし誠実でなかったら、ファラオのいのちにかけて言うが、おまえたちは間違いなく回し者だ。」
17こうしてヨセフは三日間、彼らを監獄に入れておいた。

☆説教 ヨセフ(10)生き延びろ

皆さん、今日はヨセフの10回目になります。一緒に見ていただきたいと思います。
前回ペンテコステでありましたので、一週空きましたけれども、42章の1節から始まります。

ヨセフは遡りますと、17歳の時に奴隷としてエジプトに売られていきました。
苦節13年、ヨセフがエジプトの王ファラオの前に立ち、王の夢を解き明かし、エジプトの宰相になったのは、ヨセフが三十歳の時である、と41章の46節に書いてあります。
それから七年間の豊作、七年間の飢饉が続いていきますが、その飢饉の真最中の出来事であります、42章に書いてあるのは。
ここからヨセフ物語の後半が始まって行きます。
いきなり場面はエジプトからパレスチナの父・ヤコブの家での会話へと飛んでいきます。

ヤコブの一家が住んでいたパレスチナも飢饉に覆われてしまいました。
世界にニュースが流れます。中東一帯が飢饉であるんだけれども、エジプトには食糧の備蓄があるようだと。
ということで41章の57節、一番最後ですね。「全地は、穀物を買うためにエジプトのヨセフのところに来た」と後半部分がスタートしていきます。
「全地が穀物を買うためにエジプトのヨセフのところに来た」と言いますけれども、
勿論、だれもが手に入れることができたわけではないですね。
その事実をヤコブは知っていて、息子たちに促します。
「おまえたちは、なぜ顔を見合わせているのか」と。
ちょっと聖書の個所を見てください。42章の1節、こう始まりますよね。
【画面:創世記42章1節「なぜ互いに顔を見合わせているのか」にオレンジ色のハイライト】

1ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「おまえたちは、なぜ互いに顔を見合わせているのか。」

これが今日の説教の第一番目のポイントです。「顔を見合わせて」いるというのは、「途方に暮れる」私たちであります。

1)途方に暮れる私たち

「顔を見合わせている、それだけ」と言うのは、「無策」と言う意味です。
どこを探しても、穀物はありません。
穀物を生産することもできなければ、取引もありません。

ま、私で言うならば、一番最初、駅前のローソンを探し、そして高架の下の東急ストアを見て「あ、もうないんだ」という所で、圭子(夫人)と相談し「どうしようか?」ですね。
それで、二人で顔を眺めているという状況です。
これ、早速今であるならば、検索してこの近辺に食料が手に入る場所を考えてみようと。
そしてニュースで始まるわけですよね。近隣のスーパーから穀物が無くなっていくと。
そしてこれが一体いつまで続くか分からないと。来年位までに開けてくれるのか、いやまだ来年もまだだめなのか?と。
そうすると、その内一体どれ位の死者が出るんだろうか、という所までニュースは行くんでしょうけれども、だからと言って、穀物が生じて来るわけではないです。

この「無策」と言う出来事に、私たちは人生に往々にして襲われます。
圧倒的な問題課題を前にして、互いにただ顔を見合わせるだけ、と言うのは、イコール思考停止、行動停止、話し合い停止。
お互いに打開策を考える余裕もなく、文字通り、顔を見合わせているだけで時が過ぎていく。

そう考えますと、人生毎日ほとんど無策だなぁと思うこともあります。
でも「無策」と言うのは、自分から解決策を見出す気持ちにもなれない程、現実に圧倒されていくという現状ですね。
その内お腹が空いて力が出なくなりますね。
ただ呆然としているというか、行動を起こすことができなくなる、というのがこの場面で、
お父さんは100歳を越えています。だけど息子たちに
「なんでそんなに顔を見合わせているんだ、何もしないんだ。エジプトには穀物があると聞いている」と。

2)父ヤコブが発破をかけるように言いました。

そして聖書を見てください。その次の場面ですね。2節でこういう風に言いますね。
【画面:創世記42章2節「下って行って〜買って来なさい」「生き延び、死なずにすむだろう」にオレンジ色のハイライト】

2さらに言った。「今、私はエジプトに穀物があると聞いた。おまえたちは下って行って、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう。」

エジプトは遠いですよ。外国ですもの。でもそれ位して来いと。そうもしなければ、私たちは生き延びることができない。私たちは必ず死ぬ。
というようなストーリーを、これからしばらく長く一緒に考えていただきたいと思います。
この死ぬのを待っていて、何の意味があろう。

言うなれば、言い方は厳しいかもしれませんけれども、「末期医療」というのはこういう状態ですね。
「無策」というよりも、せん方尽くしたんです。で、あとは死を待つだけなんですね。
そして本人と家族が静かに顔を見合わせ、少しでも痛みが軽減されるように願っている。
そこに祈りがあるわけでもなく、そこに希望があるわけでもなく、いのちの蝋燭が消えていくのを待つという――それは人生の体験として一番辛いですよね。
で、私たちイエス・キリストの救いを知って、永遠のいのちを知っている者は、何とかしてこの福音を伝えようとしますけれども、
しかし果たしてそういう場面になった時に、福音を伝えられるかどうかは分からないですね。
ま、チャンスはあるんですね。

お父さんは息子たちに言いました。「エジプトで穀物を売っているそうだ」と。
そう簡単にはいかないけれども、しかし、鍵となる言葉は――穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生き延び、死なずにすむだろう――「生き延びろ」ですね。

太平洋戦争が1945年に終わります。次の年の46年の帝国議会で当時の首相、吉田茂さんでしたっけ、議会で言いました。
「我が国は民主主義的平和国家建設という大事業を迎え、目前の問題としてできるだけ速やかにこのことに取り組まなければいけない。しかしもっと目前な問題として、できるだけ速やかに食糧問題を解決せねばならない。」

簡単に言えば、憲法以上に食料がない――これが日本国にとって最大の問題であり、
食糧難というのは戦前から始まり、戦後にピークを迎える食糧危機です。
この46年をさかのぼる6年前から、1940年から主食は配給制度になっていました。
終戦直後、都会の成人男性の配給量は、一日お米が或いはひえ・あわが297g、
もしさつまいも、じゃがいも、大豆が配給されれば、その分だけ配給量は減っていく、とインターネットに書いてありました。

ですから、それだけでは生活ができない。
お母さんたちは「買い出し」と言って、家に残った様々な着物や置物やそれらを持って、地方の農家を回るわけですね。
それによってかぼちゃ一つでも分けていただければありがたい。
それをまた背負って帰って来るわけです。電車に乗って買い出しに行くわけでしょう。
戦後日本の最大の問題は食糧難でありました。
でもお母さんたちっていうのはしっかりしていますよね。
ぼう〜っと家族で顔を見つめ合わせて、これから一体どうしようか、ということではない。
一人で買い出しに行って来る。一番上の子どもに「おまえが家を守れ。母さんはしばらく買い出しに行って来る」と。

溝の口に、ま、今でも少し残っていますけれども、戦後、闇市の跡というのがありました。
高津教会の初代のメンバーでありましたHさんの奥さまが、YKさんのお母さまと出会うのが、あそこの闇市ですね。
そしてY家はみな高津教会に導かれて、今に至っているわけです。

私は子どもの頃、兄弟とも「闇市、闇市」って言うんですけれども、「闇市」の言葉の意味が分からなかった。
軒を連ねた長屋のような両側ですね。真ん中に通路があって、店が全部そのまんま張り出しているわけですけれども、
木造平屋の建物で、小さな店が洋品店から肉屋・魚屋に至るまでびっしり並んでいて、
私が特に分からなかったのは、豆売りの専門店がありました、一番手前に。
良く考えてみると、戦後一番入って来て簡単に売ることができて、皆さんが望んでいたのは豆だったんですよね。
お店が無くなる最後まで、計り升で売っていたお店でありました。
私は当時「闇市」という言葉がてっきり、あのような暗い軒の、怪しげな小さな店のことを全部「闇市」と言うのかな、と思っていました。

でも実はそうではないですよね。食糧の配給が間に合わない中、闇のルートで豆、野菜を仕入れて販売しているから「闇市」って言うわけでしょう。
つまりそこまで食糧不足で、でも生き延びるためだったら、穀物をエジプトに買いに旅をしていく――そういう勇気、そういう生命力、力強さ――それがなければ生き延びることはできない。
いや、「生き延びるためなら、何でもする」と言う位のガッツがなければいけない。

コロナが始まって一年半、二年半、皆さん、最初の年の戦々恐々とした様子を思い起こすではありませんか。
どういう病気か分からない。治療法がない。感染経路も分からない。
マスクが有効なのか、消毒がどの程度なのか。
クラスターが起こりますと、そのマスク会社の方々が、そのフロアの隅から隅まで消毒をするんですね。
あ、消毒業者は引っ張りだこだなぁということが分かりました。
しばらくしますと、有名人がコロナで亡くなり、病院に見舞いも行けない、最後に葬儀もできない。家に帰った時は骨壺だけであった。
その頃には教会もオンラインに逃げていました。

そういう中で、生活難を体験された方々もいらっしゃいますでしょう。
仕事が難しくなり、転職を強いられた方もいらっしゃいますでしょう。
いや実際にコロナに感染し、ワクチン接種で労苦をし、教会はオンラインになっていきます。
私はその年始め、コロナになる前、ゼカリヤ書から講解説教をいたしました。
でも段々、テーマをサバイブ、「生き延びる」ということに変えていきました。
私たちは生き延びる。
信仰共同体は、当時のイスラエルのように、様々に散らされていきます。
アッシリアによって散らされ、バビロンによって散らされ、でも最後は神さまは集めてくださる、というメッセージがゼカリヤ書にはあるんです。
集めてくださるだけではない。広場には、お年寄りたちがいる。でも広場には、子どもたちの騒ぐ声が聞こえる。
つまり集められた、元に戻された町には将来がある、喜びがある、という風に、ゼカリヤは預言しているわけです。
神さま、どうか散らされている私たちの信仰を守ってください。強めてください。やがて集めてください。やがて、神さま、あなたの愛が勝つ。必ずあなたの愛が勝つと言う程、私たちをお守りください、ですね。

それを信じるならば、互いに顔を見合わせているだけではいけないんです。
この二年少しの間、いやそれ以前から、皆さんの間で色々電話のやり取りがあったり、メールのやり取りがあったり、また一緒に祈ったりと、色んなことを皆さん積み重ねて来られたと思います。
しばらくお顔の見えない方にお手紙を書いてみたり――それは何とかしてコンタクトを取ろうと。
つまり信仰というものは、一人では保つことができないですよね。
ですから、共に焚火をたく仲間を私たちは見つけようとする。
策はいくらでもある。その策を講じて来ない教会もあれば、講じて来ない私のような――なんて言うんですかねぇ――ひらめきの少ない牧師もいるのかもしれない。
高津教会は恵まれていて、牧師にひらめきが少ない分だけ、皆さんにひらめきが沢山あるわけですよ。
で、皆さんは神さまの約束を信じて、生き延びるためにエジプトに下って行って、穀物を手に入れて来るんですよ。

ヨセフ物語は神の摂理の物語だと、ずっと申し上げて来ました。
摂理とは、神さまはいつも私たちの見えない明日を見ていてくださる。次なる展開をご覧になっておられる。
神さまは必ず門を開いてくださる――これが神の摂理です。
でもそれって、何もしないで、互いに顔を見合わせている私たちには、たとえ門が開かれても、その門をくぐろうとしないですね。
摂理と言うのは、所詮あなたがたは何もできない。何もしなくてもいい。神さまが先に手を回して、色々としてくださる。
いや、色々としてくださったとしても、
あなたがたはあなたがたなりに策を考え、開かれた門を勇気をもってくぐることを考えて行かなければいけない。
この場合、開かれた門と言うのはエジプトの門ですよ。
何もそんな遠い所まで、そんな危険を冒して、穀物を買いに行くのか?

3)なんと穀物を買い付けに行ったヤコブの十人の息子たちは、ヨセフに出会います。

ヨセフには兄たちが分かりました。しかし兄たちはヨセフが分かりません。
ちょっと42章の7節から読んでいきます。もうこれだけで十分だと思います。
【画面:創世記42章7節「見知らぬ者のように〜彼らに言った」9節全文、11節「私たちは正直者です」、13節「もう一人はいなくなりました」にオレンジ色のハイライト、15節「お前たちを試そう」に同色のハイライトで囲み】

<創世記42章7節〜17節>(※)は藤本牧師の説明の言葉
7ヨセフは兄弟たちを見て、それと分かったが、彼らに対して見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで彼らに言った。「おまえたちはどこから来たのか。」すると彼らは答えた。「カナンの地から食糧を買いに参りました。」
8ヨセフには兄弟たちだと分かったが、彼らにはヨセフだとは分からなかった。
9かつて彼らについて見た夢を思い出して、ヨセフは言った。「お前たちは回し者だ。この国の隙をうかがいに来たのだろう。」
10彼らは言った。「いいえ、ご主人様。しもべどもは食糧を買いに参りました。
11私たちはみな、一人の人の子です。私たちは正直者です。しもべどもは回し者などではございません。」
12ヨセフは彼らに言った。「いや、おまえたちは、この国の隙をうかがいにやって来たのだ。」
13彼らは言った。「しもべどもは十二人兄弟で、カナンの地にいる一人の人の子でございます。末の弟は今、父と一緒にいますが、もう一人はいなくなりました。」
(※と言うのがヨセフですよね、彼らがエジプトに売ったんですから、と説明)
14ヨセフは彼らに言った。「私が、おまえたちは回し者だと言ったのは、そのことだ。
(※というのは、最初から正直にものごとを言ってないだろう、あやしい、で、次の言葉です、と説明)
15次のことで、おまえたちを試そう。・・・
(※と言って、ヨセフは彼らに一つの課題を出します、それはまた後に見ていただきますが、ちょっと週報を見ていただいて、この絵をご覧ください、と絵を説明する藤本牧師)

こういう感じですよ。
週報の裏(※左横の空いたスペース)に刷りました。
【添付のPDFの週報の裏面をご覧ください】
一枚の絵が載せてあります。
オーエン・ジョーンズと言う方がヨセフ物語を前部絵にしているんですけれども、
ヨセフがファラオと同じように、エジプトの宰相だとして、ここにいる十人の息子たちはほとんどが懇願し、残りの三人は後ろで下を向いて胸に手を当てています。
それは少なからず反省の思いがあるんですね。
自分たちが弟をエジプトに売ったから、今エジプトでこういう言いがかりを付けられ、物事が難しくなろうとしているんだ、ということを痛感するわけです。
「おまえたちを試そう」――それは怪しい者であるのか、真実に穀物を買いに来たのか、それを試そう、と言う意味ですけれども、
しかしこれからの展開にあって、この言葉には奥があります。
それは、彼らはかつてヨセフを殺そうとして、最終的にエジプトに売り渡したことを真実に後悔しているのかどうかが試される。

つまり、神さまの摂理の道を行こうとする時に、
@互いに顔を見合わせて悶々としているのはダメです。
A生き延びるために苦労してエジプトに下って行く必要がある。(※行動を起こす必要がある。)
B神さまの摂理の道を行こうと思うなら、試される。
特に試されるのは、神の祝福を受けるかどうか、受ける用意があるかどうかを試される。
自分の罪深さを本当に悔いているかが試される。
自分の能力の乏しさ、自分に使命感があるのか、覚悟はあるのか、試される。
そのすべてにおいて、神の憐れみにすがる信仰があるかどうか、試される。
試されずして、摂理の道を行くということはないですね。
自分の愚かさを悔いて、空っぽになって神さまの憐れみを受ける用意があるかどうかが試される。

で、それを私たちは、これから見ていただきます。
今週もしも私たちが八方塞がりの状況であったならば、ああなるほど、自分たちは互いの顔を見合わせて、そしてそれだけで終わっていくんだなと。
誰かが声をかけて――「遠いエジプトに下って行け」と。「そうでもなければ、生き延びることはできない」。
「一気に転職までしてしまえ」とか、私たちにとってはものすごくハードルが高いチャレンジをパッと出して来るんですよね。
それに飛びつく必要はないです。でも私たちは考える。
もしそれが神さまが開いてくださる道でならば、私たちはそれを行こうという、勇気を奮い立たせる。
でも出て来るのは、行ったら必ず私たちは試される。試されることによって、私たちは人間的に成長し、信仰が豊かになっていく。
初めて神さまの祝福を受けるのにふさわしい者へと変えられていくということを、これから先見ていただきたいと思います。

☆お祈りをいたします。――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、今日も感謝いたします。私たちはまさに、ヨセフに穀物を買いに行くヤコブの息子たちのようです。自分たちに落ち度があり、そして自分たちの為して来たことに悔い改める思いがあり、しかしそのまんま動かず、でもあなたは不思議にその悔い改めを形に現わす機会を与えてくださり、勇気をもって開いてくださる道を行くなら、試されながらも必ず生き延びていく。どうかそんな力を、勇気を、私たちに与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2022.06.12 - 20:14
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