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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   6/19 戸塚伝道師:ペテロのいる風景A「あなたは人間を捕る漁師になる」 ルカ5:1〜11
☆聖書箇所  ルカ5:1〜11
1さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、
2岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。
3イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。
4話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
5すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
6そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
7そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。
8これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
9彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。
10シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
11彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景A「あなたは人間を捕る漁師になる」

今日は「父の日」ですけれども、「父の日」のお話ではなくて、今日はペテロのいる風景の第二回目を、共にみことばから見ていきたいと思います。

前回は救い主に出会う経験について、思い巡らしました。
救い主との出会いは、私たちが努力して見出したものではなくて、
ペテロのように、出会う前から私のことを知っておられたイエスさまでした。
イエスさまの方から私たち一人一人に出会ってくださり、
何の資格もない者――理由が全く分かりませんけれども――神さまは私たちに出会ってくださった。
ただ私を大事な存在として認めてくださっているがゆえに、
また私の知らない可能性をも神さまはご存じで、それをもちゃんと分かって、私たちにイエスさまは出会ってくださいました。

今日はシモン・ペテロとイエスさまとのもう一つの出会いについて、聖書から見ていきたいと思います。
この「もう一つの出会い」と申しますのは、前回とは別の出会いなのか、それれとも前回の続きとして起こった出会いなのか、よく分かりません。私にはよく分かりません。
そこで、今日の「ペテロとイエスさまの出会い」というのは、前回の出会いの続きとして起こったのではないかという立場で、聖書を読んで行きたいと思います。
「あなたは人間を捕る漁師になる」と題して、3つのポイントで聖書を読んで行きたいと思います。

1)シモン・ペテロに近づくイエスさま

シモン・ペテロを弟子にしようと、イエスさまは初めから目を付けていた、という様子が、このルカの福音書5章の1節からの記事で分かって来ます。
丁寧に読んでいきたいと思います。1節――

1さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、
2岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった(***イエスさまが小舟に目を付けられた、と説明)。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。
3イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。

ここで、二艘の舟の中で、シモンが持っている舟にイエスさまは乗りたいと言って、その船を借りて乗ったわけですね。
そして陸から少し漕ぎ出すようにと、そのシモン・ペテロにお願いしました。
恐らくイエスさまは、群衆から離れた所でお話がしたかったのかもしれません。
ちょうどその舟の上が、ま、この講壇みたいな形で、そこからイエスさまは腰を下ろしてお話をされていました。
さらに、私(戸塚伝道師)も科学的な根拠はよく分からないんですけれども、
湖の波がイエスさまの声を反射して聞く群衆に届く、その波が拡声器のような効果をもたらしたと言えるのかもしれません。
そういうようなこともイエスさまは考えて、舟の上からお話をされていたのかもしれません。

でも一番の目的はシモン・ペテロに近づくことでした。
わざわざシモンの舟を借りて、そしてシモンに陸から少し漕ぎ出すようにお願いして、そこでお話をした。
でもその後が本番でした。(ルカ5章)4節――

4話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」

話が終わった後、イエスさまはシモン・ペテロに一つの指示を出しました。
「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
シモンは答えました。(ルカ5章)5節――

5すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」

このイエスさまから指示を受けたペテロの、この心情を想像して読んで見たいと思うんですね。
「先生、私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした」――この一言、この一言の中に、私(戸塚伝道師)はペテロの思いが込められていると思います。
「網を下ろして魚を捕りなさい」と言われて、「はい、分かりました。網を下ろしてみましょう」と、単に返事をしたのではなかった。
わざわざ「夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした」というこの言葉を、ペテロは敢えて言ったわけですね。
この文章の、この一つ一つの言葉の行間に拘りながら、ペテロの心情を読み取たいと思います。

国語の授業で物語文の授業で、「この時の登場人物はどのようなことを思ったでしょうか?」という読み取らせ方があります。
その時にワークシートに登場人物の絵が描いてあって、吹き出しが描いてあって、
「この時、登場人物は心の中でどのようなことを思っていたでしょうか?
登場人物になったつもりで書きましょう」――という、そういう作業があります。
想像力を、国語の文章の叙述に即して読み取っていく。そういう授業ですね。

で、私たちも、このペテロの一言からどういうことが読み取れるでしょうか?
裏を返せば、「先生、無理です。俺たちはプロの漁師。先生、申し訳ないけれども、先生は何も分かっていませんね」と。
「深みに?――そんな深い所に魚はいません。湖の魚は。」
「漕ぎ出す?――今からですか? 先生」
「網を下ろして?――先生、もう網を洗っちゃいましたよ〜」
「魚を捕りなさい?――捕れるわけありませんよ!」(※頭を振り振り)
ペテロの心情を想像すると、そんなペテロの心のつぶやきが聞こえて来そうな気がいたします。
先生のあまりにも理不尽な指示に戸惑って、苛立っているようなペテロのつぶやきが、何か聴こえて来るかのように私には思える。
さらに想像すると、「そもそも俺は先生に、俺の舟を貸したくなかったんだ。大事にしている舟を。」

元プロ野球選手のイチロー選手もこだわりがありました――「自分のバットは絶対他人に触らせない。少しでも触ったバットは二度とそれを使わない」――
そういう徹底ぶりでした。
恐らくシモン・ペテロも、自分の大事にしている舟を他人に、しかも漁師でもない他人に、たとえ先生といえども、本当は貸したくなかったのではないだろうか?
様々な感情が渦巻いて来る。
「先生は何も分かっていない。俺はプロの漁師なんだ。
自分の仕事のことだったら、自分が一番よく分かっている。
素人に何が分かる(笑)。
申し訳ないけれど、そんなの無理なんだ。
自分のことは自分が一番よく分かっている。」

でもそういう気持ちを押し殺すかのように、
「でもおことばですので、網を下ろしてみましょう」(ルカ5:5)と。
恐らく半信半疑の内に、戸惑いながら、嫌々ながら、イライラしながら、先生の要求に答えたのではないだろうか?と私(戸塚伝道師)は想像いたします。
信仰的決断とは程遠いような中で語られた一言が、「おことばなので、網を下ろしてみましょう」と言うペテロの言葉です。

2)イエスさまの言われたとおりにした結果、どうだったのか?

その次の(ルカ5章)6節(〜7節)をご覧いただきますと――
6そして、その通りにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
7そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。

おびただしい数の魚が捕れた。網が破れそうになった。
もうペテロ一人ではどうすることもできなかったので、
別の舟にいた――恐らく二艘の内のもう一艘でしょうね――仲間の者たちに助けに来てくれるように、
舟の上から「お〜い、助けてくれ〜!」って、ペテロが大きな声で合図したんだと思います。
魚を二艘の舟に引き上げたらば、両方とも舟が沈みそうな位に、ガリラヤ湖の魚が捕れた。大漁の魚が捕れた。
プロの漁師にとって、絶対有り得ない大漁でした。
(ルカ)5章の9節を見ますと――

9彼も、一緒にいた者たちも皆、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。

もうびっくりするような結果が、こんなはずではないという衝撃的な結果が、そこに現れたのです。
《こんなはずではない、という結果の中に、神さまの不思議な働きかけが始まることがあります。》
(ルカ)5章の8節――

8これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」

ここにペテロの反応が書かれていますね。
「イエスの足もとにひれ伏した」と書いてあります。
舟の上ですよ。イエスの足もとにひれ伏した。
ペテロの乗っている舟に、イエスさまも一緒に乗っていたわけですよね。
そしてその舟の上で――魚がピチピチ跳ねているような、そういう舟の上で――イエスさまの足もとにペテロはひれ伏して、これは礼拝したんです、イエスさまを。
そして、「主よ」という言葉を第一声に発しています。
今までは「先生」と呼び掛けていたのに、ここで「主よ」という言葉に変わっていた。
これは前も同じですね。イエスさまに出会う前と出会った後、そういう変化があります。
そして「私から離れてください。私は罪深い人間ですから」とペテロが、心の底からイエスさまの前に告白いたしました。

ここでペテロが感じた「自分の罪深さ」とは一体何だったんでしょうか?
この時、ペテロの心の中は一体どんな状態だったのか?
イエスさまは罪のことは一言も仰っていない。
でも(ぺテロは)「自分は罪深〜い」と感じました。
なんで罪深いと感じたのか?

これも想像いたします。
目の前のこのお方は、プロの漁師が知らないことを知っている。
いや、自分のことを良く知っていたのは、俺ではなくてこのお方だった。
人生を自分の手の中にあるかのように歩んで来た、今までの自分の生き方を、申し訳なく思ったのではないだろうか?
自分はいかに的外れな生き方をして来たのではないだろうか?
それがペテロの実感した罪深さでした――「私は罪深い人間ですから」

イエスさまはすかさず、シモン・ペテロに言われました。
(ルカ5章)10節の後半ですね。

10・・・・・・イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」

マルコの福音書1章の17節の方では、別の言葉が書いてあります。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
マルコの福音書の方では、ペテロと兄弟アンデレに、イエスさまはいきなりアプローチしていますが、これはこれでまた別の物語なのかもしれません。
でも今日はそこには触れないでおきましょう。
でも「人間を捕る漁師にしてあげよう」と言って、招いている言葉が書かれています。

「あなたは人間を捕るようになります。人間を捕る漁師に、わたしはあなたをしてあげますよ。」
そう言われた時、ペテロは具体的に何を言われているのかは、理解できなかったと思われます。
しかしこの時ペテロには、「自分の人生は私のものではない。イエスさまのものなんだ」という納得が与えられたのではないか?
そしてこの納得というのは、ペテロだけではなく、漁師仲間全員の納得ではなかったかと思います。
(ルカ)5章の11節には、「彼らは」という複数で書かれています。

11彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

「すべてを捨ててイエスさまに従う」程、人生の生き方の方向転換をペテロたちはここで導かれたわけですね。
漁師たちの悔い改め、メタノイア、人生の方向転換。

ここで私たちに目を向けてみます。
私たちも、「自分の人生は主のもの」という認識はあるでしょうか?
私(戸塚伝道師)はそんなに、あんまり感じたことがない、申し訳ないけれど。
日々の忙しさに追われて、かき消されがちでありますし、
いや、「神さまは自由意志を私たちに与えてくださったのだから、自由意志が与えられている以上、自分で考え、自分で決めて、自分の努力で生きていくのが私の人生ではないか?」――なんかそんな価値観に私は囚われてしまいがちではないかなぁと思うんですね。

確かに、「神さまの奴隷のように、絶対服従している」という意識はないです。
でも、ほんとに私の人生は自分のものなのだろうか?
10年前のことを振り返ってみます。
2012年6月、10年前の今頃何をしていたか、全然覚えてないですけれど、でももし記憶にある方は思い出していただければ、と思います。
10年前、その時10年前の自分は、10年後の今の自分の置かれている状況を考えることができていたでしょうか?
そのことを思う時に、「全く思い通りだった」と言う方は、恐らく一人もいらっしゃらないかと思うんです。
むしろ、「こんなはずではなかった。まさかこうなるとは思わなかった。
良きにつけ、悪しきにつけ、10年前、考えもしないようなところに今置かれている」――そういう思いが心の中にある時、
「人生は主のものだ」という納得が来るのでしょうね。

この納得というのは、様々な機会を通して与えられることがあると思うんです。
病気や怪我をした時や、躓いた時や、思いがけない災害や事故に遭った時や、試練や問題課題に取り囲まれるようなことがあった時に、
自分ではどうすることもできない、ということを実感した時に、
「ああ、人生は私のものではない。主のものなんだ」――そういう納得が与えられることがあるのではないかと思います。

3)今日の説教題ですが、「あなたは人間を捕る漁師になる」というイエスさまからのお呼び出しについて、思い巡らしをしたいと思います。

「人生はイエスさまのものだ」と納得したぺテロは、イエスさまの招きを聞いて直ぐに、「すべてを捨ててイエスさまに従った」(ルカ5:11)と書いてあります。

「すべてを捨てて」――舟と網だけではないんでしょうか?
ほんとにすべてを捨てて従ったのでしょうか?
ここには「すべてを捨てて」と書いてあります。
でも私(戸塚伝道師)は思うんですね。
「イエスさまは、捨てなくていいものを、ペテロのために、ちゃ〜んと残しておられるお方だったんだろう」と。
それは、何かと言いますと、この言葉に拘ったからです。
(ルカ5章)10節の「あなたは人間を捕るようになるのです。」という言葉。
それから、開きませんでしたけれども、マルコの福音書1章17節の「人間を捕る漁師にしてあげよう」という言葉。

「人間を捕る」「人間を捕る漁師にしてあげよう」――イエスさまのユーモア溢れるたとえの表現ですね。
「あなたを人間を捕る漁師にしてあげよう」――この「捕る」とか「漁師」とかという言葉を、あえてイエスさまが使ったということは、
《捨てなくてもいいものを、ペテロのためにちゃ〜んと残しておいた》ということの現れではないか?と思うんです。
漁師の仕事ではなくて、漁師として培ってきた《魚を大量に捕るための感覚》というのは捨てなくてもよいと、イエスさまは考えておられたのではないでしょうか?

ペテロの漁師としてのこれまでの人生は、捨てるものではなくて、今後の弟子としての働きに生かされるものではなかったか?
漁師の経験は、無駄にはならなかったのではないだろうかと思うんですね。
確かに、ペテロは後に大量に人間を捕ることになるわけです。
使徒の働きの2章の40節〜41節。開きませんけれども、そこで実現するわけですね、ペンテコステの日に。
「ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし・・・」と書いてあります。

<使徒の働き2:40〜41>
40ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
41彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。

一人や二人ではありません。大勢の人々が、ペテロが打ったみことばの網にかかって救い出されるわけですね。
大漁の魚のように――舟は沈みませんでしたけれども――教会が迫害で沈みそうな程多くの人々が、イエスさまを信じるようになった。
「人間を捕る漁師になる」とイエスさまが仰った、漁師としての感覚、獲物をリサーチするその感覚を、イエスさまはちゃ〜んと用いられるわけですね。

最後に考えてみたいことがあります。
「あなたを人間を捕る漁師にしてあげよう」の「あなた」というのはペテロだけではない。私たち一人一人がそうです。
私たち一人一人に語っておられる――「あなたも人間を捕る漁師になるのです」と。
「人間を捕る」――それは人々をイエスさまのところにお連れする。
でも、それは決して献身して牧師になることとは限りません。
イエスさまのお呼び出しというのは――ま、難しい言葉で召命(しょうめい)と言いますけれども――特別なことではないんです。
イエスさまに出会った人すべてに、イエスさまからのお呼び出しが与えられている。
「あなたは人間を捕る漁師になりますよ。人間を捕る漁師にしてあげますよ」
「捕る」っていうのは、人の心を捉える、恵みを届ける。
人を救いに導く、というような大それたことはできないかも知れない。
でも《イエスさまの愛を、恵みを届けるということだったらば、できるかもしれない》。
今置かれている立場、与えられている役割、自分にできることって一体なんだろうか?他の人のために何か生かせることってあるだろうか?
ある方は病気になって何もできない。でも病院のベッドの上で何ができるだろうか?
自分の得意なこと?自分のキャラクター?自分の趣味?
自分しかできない生き様――それを通して、イエスさまの恵みが、どのようにすばらしいものかを知らせることってできないだろうか?
イエスさまはそれを願っておられるんだと思うんですね。

お許しをいただいてご紹介しますけれども、「天の窓」先々週配られました第60号(※2022/06/05発行)に、AKさんの「神から与えられたものを使いたい」という題名の文章が書かれていました。
人間を捕る漁師なんて無理。私にはできない――確かにそうだと思う。
でもイエスさまは、私たち一人一人にこのように語っているのではないか?とAさんは書かれています。

「パンは幾つありますか?行って見て来なさい。」「あなたにパンは幾つありますか?行ってみて来なさい。」
「無理ですよ。イエスさま、無理です。」(※手を振りながら語る)
「パンは幾つありますか?行って見て来なさい。」
Aさんは、そういう文章を書いて、この言葉で締め括られていますけれども、その後のお祈り、Aさんのお祈り、こう書かれていました。
「天の父なる神さま、私たちが置かれている環境は一人一人異なりますが、神さまはすべての人に証しとなるもの、証しとなることを与えられます。それぞれの場所で、神さまの証しをすることができますように、どうか私たちの証しを祝してください。アーメン。」

ああ、最初から無理だと言ってはいけないんだ。
私ではない。人の心を捉えるのは私ではない、神さまなのだ。
神さまが私たち一人一人を通して、事を行ってくださる。
そのために必要なものを、全部神さまが備えてくださっている。
だから「人間を捕る漁師にしてあげよう」とイエスさまが仰っている。
「人間を捕る漁師になりなさい」とは仰ってない。「してあげよう」と。
全部イエスさまの方で準備して、必要なものを前部揃えて、物や時を前部備えて、「人間を捕る漁師にしてあげよう。」
「あなたも、あなたもできますよ、あなたもできますよ。行って見て来なさい。行って見て来なさい。
大丈夫です。あなたにできることがあるんですよ」とイエスさまは仰る。

罪深い私です。それでも私の人生は自分のものではなく、イエスさまに生かされているもの。
だとするならば、私たちの救い主イエスさまのすばらしさを現わすために、与えられている私の人生を、毎日の歩みを、イエスさまに使っていただきたい、そう願います。
今イエスさまから私に、どのようなことをお願いされているでしょうか?

☆お祈りいたします――戸塚伝道師

愛するイエスさま、私もペテロと同じく罪深い人間です。私の知らないことをすべてご存じのあなたの前で、まるで私が自分のことをよく分かっているかのように、我が物顔で振舞っているようなことが、もしかしたらあるかもしれません。しかし、「こんなはずではなかった」と思われる、《有り得ない出来事を通して、私の人生はあなたのものであることに気づかせて》くださいますから感謝いたします。

ペテロはあなたにすべてをお任せして、人間を捕る漁師に変えられ、その人生が用いられました。同じく私たちも日々の生活において、あなたにいただいたいのちを《あなたの恵みのすばらしさを証しするために、使い切る》ことができますように、助けお導きください。そのためにこのような者に、具体的に何ができるかを、今週もことあるごとに示してくださいますように。あなたのお名前で天の父にお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2022.06.19 - 21:11

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