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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/5 神奈川教区合同礼拝・中村佐知先生:「この人を見ましたか」ルカ7:36〜48
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20230205中村佐知さん.jpg [117 KB] ダウンロード 20230205中村佐知さん.jpg (117 KB) - Download : 23
☆聖書箇所  ルカ7章36〜48節

 36さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
37すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
38そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
39イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。
40するとイエスは彼に向って、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」 と言った。
41「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。
42彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」
43シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。
44それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。
45あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。
46あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
47ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから、赦されることの少ないものは、愛することも少ないのです。」
48そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。

☆中村佐知先生のご挨拶

おはようございます。今朝はこうしてこの場で皆さんと一緒に愛するイエスさまを礼拝できることを心から感謝いたします。そして先程すばらしい賛美をどうもありがとうございました。すみません、もう涙ぐんでしまって(※と涙を拭く佐知さん)。あの賛美は英語ではIn Christ Aloneといって私の大好きな賛美で、思いがけず日本語で聴くことができてほんとに嬉しく思いました。はぁ〜(※と緊張しておられる様子、両手で涙を拭き、胸に両手をクロスして置き)さて、ここから気持ちを切り替えて-――

☆中村佐知先生の説教 「この人を見ましたか」

え〜、もう数か月前のことになるんですけれども、こんなニュースを見ました。
カナダのある3歳の女の子が網膜色素変性症というの遺伝性の難病の診断を受けたそうです。
これは網膜の細胞が徐々に壊死して、視野が段々と狭くなっていく、やがてほぼ完全に視力を失ってしまう病気なのだそうです。
この子のご両親には他に三人の子どもがいましたけれども、数年後なんとその内二人も同じ病気の診断を受けました。一人だけでも辛いのに、三人もこの難病に罹るとは、何ということでしょうか!

この病気には効果的な治療法がなく、病の進行を防ぐことはできません。
遅くとも中年になる頃までに、この三人の子どもたちは全員視力を失うことになると予想されました。
ご両親は子どもたちが視力を失う前に、視覚記憶(目で見た記憶)を蓄積させてあげるために、沢山の写真を見せるよう、医師から勧められたそうです。
しかしご両親は同じ見せるなら、写真ではなく、実物を見せてあげたいと思いました。
まだ見えている内に、少しでもこの世界を実際に見せて、彼らの記憶に残してあげようと思いました。

それで家族で一年間、世界中を旅行して回ることにしました。
カナダから出発して、ザンビア、タンザニア、トルコ、モンゴル、インドネシアと現在も世界各地を巡っている途中で、子どもたちはその景色、文化、人々を自分の目で見て、心に刻んでいるようです。
彼らの旅の様子はインスタグラムやフェイスブックで観ることができるそうです。

「百聞は一見に如かず」と言いますが、自分の目で実際に見ることは確かに私たちの心に大きなインパクトを与えるものです。
このご両親は子どもたちにかけがえのない体験をさせてあげていて、すばらしいことですよね。

私たちも日々色々なものを見ながら生きています。
しかし何かが視界に入っていることと、「見る」ことは必ずしも同じではありません。
なにかを捜している時に、目の前にあるのに気がつかず、「ない、ない」と捜し回ったことはありませんか?私(中村佐知さん)はしょっちゅうやるんですけれども。

イエスさまもたとえ話を語る時、預言者イザヤの「彼らは見るには見るが、知ることはなく」(***イザヤ6:9〜11、ルカ8:10、マタイ13:13〜15)という言葉を引用していました。

1)私たちは見ているのに、見えていないことが多くあるものですが、神さまはご自身を「ご覧になる神」「見る神」として顕されました。

創世記の16章にはこんな話があります。
夫アブラムに子どもを儲けることができなかったサライは、自分の女奴隷ハガルをアブラムに与え、ハガルに子どもを産ませることにしました。
サライの計画通り、ハガルはアブラムの子どもを宿したのですが、自分が妊娠したと知ると、主人であるサライを見下すようになりました。
すると、サライは怒り、ハガルをいじめました。
いじめられて辛くなったハガルは、サライのもとから逃げ出し、自分の出身地であるエジプトに向かいました。

ハガルはどんな気持ちだったでしょうか?
主人の命令で好きでもない男性のところへ行かされ、その子どもを宿すようになったのに、
今度はそのせいで、主人にいじめられるなんて。
エジプトへの道のりは遠いし、身重のからだで、果たして無事に国に帰れるのだろうか?
主人を見下すような態度など取らなければよかった。
荒野の泉のほとりに腰を下ろしたハガルは、きっと悲しいやら悔しいやら、後悔やら不安やらで泣いていたことでしょう。

ちょうどその時、神の御使いが、ハガルのもとに現れました。
創世記16章からちょっとお読みしますね。
<創世記16:7〜13>
 7【主】の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけた。
8そして言った。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」すると彼女は言った。「私の女主人サライのもとから逃げているのです。」
9【主】の使いは彼女に言った、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
 10また、【主】の使いは彼女に言った。「わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数えきれないほど多くなる。」
(※11と12は飛ばして)
13そこで、彼女は自分に語りかけた【主】の名を「あなたはエル・ロイ」と呼んだ。彼女は、「私を見てくださる方のうしろ姿を見て、なおも私がここにいるとは」と言ったのである。
――ここまで読み終わり――

「エル・ロイ」とは「見てくださる神」という意味です。
神さまは確かにすべてをご覧になっておられました。
サライのしたことも、ハガルがサライに対して取った態度も、ハガルの気持ちも。
そしてハガルにとってどうすることが一番良いのか、ご存じの神さまは、ハガルに為すべきことをはっきりと語ってくださったのでした。

ハガルにとって、サライのもとへ帰って身を低くすることは、決して容易いことではなく、けれどもハガルは御使いのことばに従い、サライのもとに帰って、無事に男の子イシュマエルを出産しました。
そしてその子孫はお言葉通り、大いに増やされました。
異邦人の女奴隷は、当時の社会を考えるなら、誰からも見てもらえないような存在です。
しかし神さまは、彼女をご覧になったのです。

2)ルカの福音書7章には、こんな話が記録されています。

先程も読んでいただきましたけれども、もう一度繰り返しますね。
(※読み始める中村佐知さん)
<ルカ7:36〜38>
 36さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
37すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。
38そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。
――ここまで読み終わり――

ここでパリサイ人がイエスを食事に招いたというのは、今日の私たちがするように、お客さんを自宅に招いてもてなすというような、プライベートな食事の席ではありません。
むしろ講師の先生を宴会に招いて、みんなでお話を伺うというような感じだったそうです。
食卓に招かれている人たちだけでなく、イエスの話を聞きたいと思う人たちは誰でも、その場にやって来ることができたようです。
そして当時の食卓は椅子に座ってテーブルに着くというものではなく、低いテーブルを囲んで横たわるような感じでした。
ダビンチの「最後の晩餐」の絵ではみんな真っ直ぐ椅子に座っていますけれども、
この「食卓に着く」と訳されている言葉は英語で言うと、リクライニングrecliningつまり横たわるとか、もたれかかるという意味です。
当時の宴会で食卓に着く時には、足は後ろに投げ出して横たわるものだったのですね。

その場には、主催者シモンと、主賓のイエス、そして食卓に招かれた他の人たちがいます。
またイエスを見たい、イエスの話を聞きたいと思って集まって来た人たちもいたでしょう。
恐らくかなり大勢の人が集まっていたのではないかなと想像します。
そこに一人の女性が、香油の壺を抱えてやって来たんです。
そして後ろからイエスに近づき、その足下に跪いたんです。

ルカの福音書は彼女を「罪深い女」と記しています。
「罪深い」とは売春婦の婉曲表現と言われており、彼女の身なりなどから、そういう仕事をしている女性であることが一目瞭然だったのかもしれません。
或いは、もしかしたら彼女は、この町ではよく知られた売春婦だったのかもしれません。
大勢の人が集まる場所に彼女が入って来て、イエスの足もとに後ろから近づいた時、どれだけの人が彼女に近づき、どういう反応があったのかは分かりませんが、
ルカ福音書は、続けてこう記しています。

<ルカ7:39>
39イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。

イエスを招いたこのパリサイ人はこの女性に気がつきました。
この女性がイエスにしていること、またイエスが彼女をそのままにしていることを見たのです。
パリサイ人のこの心の声は何を示唆しているでしょうか?
先ず彼のイエスに対する態度が伺えます。
イエスが本当に預言者なら、この女性が何者か分かるはずなのに、分からないのか?本当に預言者なのか?
イエスに対する疑いや、上から目線が感じられます。
さらに「預言者や自分のように神に仕える者は、罪深い女性など拒絶すべきだ。自分に触れさせるべきではない。関わるべきではない」と思っているのが伺えます。

すると、イエスはこのパリサイ人シモンに向かって、あるたとえ話をしました。
「500デナリと50デナリの借金をしている人たちが、どちらもその借金を帳消しにしてもらったが、どちらが深く金貸しを愛するか?」という話です。

3)でも今日はこの譬え話ではなく、その次にイエスが言われた言葉に注目したいと思います。

ルカ7章44節には、こうあります。

<ルカ7:44>
44それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。・・・(※わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足を濡らし、自分の髪の毛でぬぐってくれました、と続く部分)

「この人を見ましたか?」――これは興味深い発言です。
聖書はシモンは見たと言っています。
イエスさまもシモンが彼女を見たことに気づいていたでしょう。
シモンが彼女を見て、何を考えているのかもご存じだったでしょう。
それなのに、イエスはシモンにこう尋ねたのです。
「この人を見ましたか?」

イエスはなぜこう尋ねたのでしょうか?
「この人を見ましたか?」――シモンは確かにこの女性を見ました。
彼女がしていることは、彼の目に入っていました。
しかし彼が見たものは、自分の倫理基準と、目の前の状況がその倫理基準を満たしているかどうか、ということでした。

対してイエスの目は何をご覧になったのでしょうか?
イエスはシモンに何を見てほしかったでしょうか?
この町の人たちにとって、彼女は罪深い女以外の何者でもありませんでした。
しかしイエスがこの女性を見た時、それ以上のものを彼女の中に見たのではないでしょうか?

私たちは物事を見る時、自分が学んで来た価値基準によって、善悪やよしあしを判断しがちです。
その判断に基づいて、レッテルを貼りがちです。
そしてレッテルを貼ると、それ以外のことは見えなくなってしまいます。
パリサイ人シモンにとっても、おそらくこの町の人たちにとっても、彼女は罪深い女であり、いつもそのようにしか見られることがなかったのだろうと思います。

当時の女性というのは、男性に自分の生活を依存していました。
夫に先立たれた女性は、生活の糧を失います。
生活の糧を持たない女性にとって、お金でからだを売るというのは、生きていくための苦肉の策でもありました。
この女性が未亡人だったのかどうかは分かりません。
しかし、いずれにせよ、彼女にもここに至るまでの背景があり、事情があり、一人の人間として色々な願いや、必要や、不安や、恐れがあったことだと思います。

この女性はどんな思いでシモンの家にやって来たのでしょうか?
香油の壺を抱えて、どんな思いで、イエスさまの後ろに近づき、イエスさまの足もとに跪いたのでしょうか?
どんな思いで、イエスさまを礼拝したのでしょうか?
「この人を見ましたか?」――イエスさまの眼差しの深さを思います。
彼女の痛みや苦しみや恥の思い、イエスさまのもとにやって来た彼女の勇気や切望や希望-――それらのものをイエスさまはご覧になったのではないでしょうか?
たとえ周囲から批難され、疎まれるとしても、それでも自分が持っているものを差し出して、イエスさまを礼拝したいという彼女の思いを、彼女の愛を、イエスさまはご覧になったのではないでしょうか?

そしてそんなイエスさまの眼差しは、皆さんの多くにとっても、実は馴染みのあるものではないでしょうか?
イエスさまはこの女性をご覧になったのと同じ眼差しで、私やあなたのこともご覧になってくださいました。
私たちが自分のエゴや野心や、生き辛さや孤独の中にいた時、イエスさまは私たちをご覧になり、手を差し伸べてくださいました。
そして私たちが自分でも気づいていなかったような、空虚や切望を私たちの内にご覧になり、そこに触れてくださいました。
最初にイエスさまに出会った時だけではありません。
イエスさまは今なお、私たちに日々愛と慈しみの眼差しを向け続けてくださっています
痛みや喪失感の中で、悲しみや不安に押しつぶされそうになる時、主は私たちをご覧になり、私たちの気持ちを分かってくださいます。
混乱している時、疑いを感じる時、絶望する時も、主は私たちをご覧になり、励ましや導きを送ってくださいます。
主は「エル・ロイ」――見てくださる神だからです、

徳永進さん(***1948〜ノンフィクション作家、医師)という、幾つものエッセー集を出しているお医者さんがいます。
彼はホスピスケアで有名な方で、沢山の死と向き合って来られました。
徳永医師は、「臨床の現場とは、一つの言葉、一つの正しい言葉だけで割り切れるものではない」と言いました。
臨床とは、患者を実際に診察することです。理論や学説で物事を記述するのではなく、生身の人間と実際に向き合い、相手を見ることです。
医師が病気を診断し、治療するためには、ガイドラインやマニュアルが必要になります。
ガイドラインやマニュアルは診断の基準を明確にし、ふさわしい治療方法を提示します。
そこには正しさ、正確さが求められます。

徳永医師は、そんな医療の世界を「一語(いちご)」の世界と呼びました。
「一語」、一つの言葉の世界ですね。
「しかしながら、臨床現場で患者を目の前にすると、一語では言い切りたくても言い切れない場面に何度も出くわす」と徳永医師は言います。
たとえば末期がんの患者に、苦しい副作用のある抗がん治療を続けるのか、それとも痛みのコントロールに集中するに緩和ケアに移るのか?
末期の患者は、「早く死にたい」と「まだ生きていたい」という二つの思いを、右手と左手に持っています。
末期の患者を介護する家族も、「もっと生きていてほしい」と「早く楽にしてあげたい」と矛盾するかのような二つの思いが交錯しております。
「臨床現場では正解が一語で表されることは滅多になく、往々にして相反するような二つの言葉、二語が必要になる」と徳永医師は語ります。
一語だと効率が上がり、迷いは消える。しかし一語で表そうとすると、肝心の人間が消えて行ってしまう。
患者のベッドサイドは豊かな二語の世界なのに、医療者は今まで何度も一語の世界の落とし穴に転落して来た。

これは信仰生活にも当てはまる部分があるかも知れません。
パリサイ人のような人たちは「聖さ」や「正しさ」という一語を追求した人たちでした。
現代の私たちも、「罪か罪でないか」「聖書的かそうでないか」、その一点で物事を判断しがちかもしれません。
でも、誤解しないでくださいね。私は罪でもいいじゃない、聖書的でなくてもいいじゃない、と言いたいのではありません。
全然そういうことではなくて、ただ福音書の中のイエスさまを見ていると、
イエスさまは、私たちが聖書的、理想的と思う判断基準とは、異なる視点を持っておられるように思うんです。
イエスさまが律法学者やパリサイ人に疎まれたのも、そのせいではなかったでしょうか?
イエスさまというお方はいつも人と向き合い、いわば臨床現場におられるお方でした。
だから一語で言い切れる正解とは異なる何かを、それとは異なる視点を、人々に教えようとされていたのかもしれません。

パリサイ人シモンの家にやって来たあの罪深い女も、イエスさまの目には、「罪深い」という一語で割り切れる存在ではなかったのだろうと思います。
「この人を見ましたか」というイエスさまの言葉は、あの女性のことも、そしてパリサイ人シモンのことも決して批難するものではなく、
むしろ黒か白かの一色に塗りつぶされた、一語の世界の基準で彼女を見るのではなく、
もっと複雑だけれど、もっと優しくもっと豊かな世界へと、私たちを招くものなのかもしれません。

今よろしければ目を閉じて、パリサイ人シモンの家で行われていたイエスを囲んだ宴会の場を想像してみていただけますか?
横たわって食卓を囲むイエスさまと、シモンとほかの客人たち。そしてイエスさまの話を聞くために集まって来た町の人たち。
その大勢の人たちの中から、イエスさまの後ろにそっと近寄り、イエスさまの足に香油を注ぎ、泣きながら自分の髪の毛でその足をぬぐう女性。
そしてイエスさまを礼拝するその女性を見る、イエスさまの眼差しを想像してみてください。

その眼差しを通して注がれる愛を、優しさを感じてみてください。
そして同じ眼差しがあなたにも注がれているのを感じてみてください。
その眼差しは、私たちをさばき、罪に定めるものではありません。
私たちを、聖いか聖くないか、正しいか正しくないかで、選り分けるものでもありません。
その眼差しは私たちを「神の愛」と、イエスさまだけが与えることのできる「平安」と「豊かないのち」へと招き入れるものです。

あなたが今どういう状況の中にいるのか、私には分かりません。でもこのことは分かります。
イエスさまは、今日あなたのことも見てくださっています。
そして、あなたを見てくださるこのお方は、もしかしたらあなたにも今「この人を見ましたか?」と優しく問いかけておられるかもしれません。
あなたも誰かを見るようにと、招いておられるかもしれません。
「この人を見ましたか?」――イエスさまの愛は、私たちもまた愛する者となるよう招きます。

イエスさまが私たちを見てくださる眼差しは、私たちも同じ眼差しで他者を見るようにと招きます。
あなたは誰を見るように招かれていますか?
あなたには存在が見えていなかった人かもしれません。あえて目を逸らしていた人かもしれません。或いは意外と身近な人かもしれません。
私たちにはこの世界のすべての痛みや苦しみを見ることはできませんが、
それでも神さまが私たちの人生の中に送ってくださった誰かのことを見るようにと、
イエスさまは今、私たちを招いておられるかもしれないです。

☆それではお祈りします――中村佐知先生

私たちを見てくださる主イエスさま、あなたの御名を賛美いたします。あなたが私たちにもその愛の眼差しを注いでくださっていることを感謝します。あなたの眼差しは私たちを癒し、救い、慰め、解放し、そしてあなたと共に歩む人生へと、私たちを招いてくださいます。あなたの眼差しはあなたのくださる平安と豊かないのちへと、私たちを導いてくださいます。そして私たちがあなたのその愛に満たされ、そこに根ざす時、私たちもまたあなたと同じ眼差しで自分自身を、周囲の人たちを、そしてこの世界を見る者となるように、変えられて行きます。

ああ、イエスさま、あなたの目は今日この世界に、何をご覧になっているでしょうか?(※感極まって涙の中村佐知先生)あなたがご覧になっているものを、私たちもまた同じ眼差しで見ることができますように。そしてそこに見るものに応答することができますように。

今朝ここに集っておられるお一人お一人を、また配信でご覧になってくださっているお一人お一人を、そして皆さんが集っておられるそれぞれの教会を、主イエスさま、あなたがこれからもどうか祝福し導き続けてください。尊き救い主イエスさまの御名によってお祈りいたします。アーメン。

☆それではオンラインを切ってしまう前に、佐知先生に拍手を送りたいと思います。
今日は私たちのために来てくださってありがとうございました。(※拍手に立って深くお辞儀をする中村佐知先生)

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