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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/26 へブル(3)変わることがないキリスト へブル1:5〜14
File  
ベアンテ・ボーマンさんコンサート (1).jpg [38 KB] ダウンロード ベアンテ・ボーマンさんコンサート (1).jpg (38 KB) - Download : 12
☆聖書箇所 へブル1:5〜14
 5 神はいったい、どの御使いに向かって言われたでしょうか。
  「あなたはわたしの子。
   わたしが今日、あなたを生んだ」
と。またさらに、
  「わたしは彼の父となり、
  彼はわたしの子となる」
と。
6 そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。
  「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」
7また、御使いについては、
  「神は御使いたちを風とし、
  仕える者たちを燃える炎とされる」
と言われましたが、
8 御子については、こう言われました。
  「神よ。
  あなたの王座は世々限りなく、
  あなたの王国の杖は公正の杖。
9  あなたは義を愛し、不法を憎む。
  それゆえ、神よ、あなたの神は、
  喜びの油で、あなたに油を注がれた。
  あなたに並ぶだれよりも多く。」
10またこう言われました。
  「主よ。
  あなたははじめに地の基を据えられました。
  天も、あなたの御手のわざです。
11 これらのものは滅びます。
  しかし、あなたはいつまでもながらえられます。
  すべてのものは、衣のようにすり切れます。
12 あなたがそれらを外套のように巻き上げると、
  それらは衣のように取り替えられてしまいます。
  しかし、あなたは変わることがなく、
  あなたの年は尽きることがありません。」
13いったいどの御使いに向かって、神はこう言われたでしょうか。
  「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
  わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」と。
14御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。

☆説教 へブル(3)変わることがないキリスト

さて、今日はへブル人への手紙の1章を見ていただきました。5節〜14節ちょっと長いのですが、読んでいただきました。
今年になって、へブル人への手紙にテーマを設けて元旦礼拝でお話しいたしました。
それは、こうですね。2章に出て来ます――
@2:6「人とは何ものなのでしょう。あなたがこれに心に留められるとは。」
人とはいったい何ものなんだろうか、という感動。
Aそして同時に――へブル書のメインのテーマはこちらなんですけれども――イエス・キリストとはいったい何ものなんだろうか?というこの感動。

人を人間にたとえ、人の子をキリストにたとえることによって、へブル人への手紙の記者は、私たちはいったい何ものなんだろうか、そしてキリストは何ものなんだろうか?という二つのテーマをずっと追いかけていますので、その通りにご覧いただきたいと思います。

前回は1章の1節〜4節を学びました。
人とはいったい何ものなんだろうか?
《人とは神から語りかけられる存在》です。いつも神さまが私たちに語りかけてくださる。
その語りかけには、神の《通奏低音》というものが響いていて、その通奏低音というのは《神の愛》です。

その通奏低音に、時として沿うように、時として反発するような出来事が、連続するのが私たちの人生です。
しかし神の愛というおおもとのメロディーがある限りにおいて、時に沿い時に反発するような私たちの人生の音は、最終的に美しさと味わいを奏でることができるというお話をいたしました。

3回目の今日のテーマは、人の子・キリストとはいったい何ものでしょうか?ということです。
で、今日読んでいただいたところは、ざっと考えまして、よく聖書をご覧になって置いていただきたいと思いますが、
イエス・キリストと天使が、天の使いが、対比されています。
ちょっと5節読んでいきますね。
<へブル1:5>
    5神はいったい、どの御使いに向かって言われたでしょうか。
  「あなたはわたしの子。
  わたしが今日、あなたを生んだ」
と。

と――いったいどの御使いに言ったんだ?
天使、御使いが尊い存在であるということは、旧約聖書の人々も良く知っていました。
当時ダニエル書の1章を良く知っていた人は、ダニエル書1章にこういうみことばがあります。
Oさんに映していただきますね。
【画面:ダニエル12章1節「その時、〜ミカエルが立ち上がる」にピンクハイライト】
<ダニエル12:1>
1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。・・・

この天使ミカエルは、10章ではペルシャの君、ギリシャの君を倒しています。つまりペルシャの王、ギリシャの王を倒しています。
「その時」というのは、《終わりの時》です。
いよいよ終わりの時に、このミカエルが立ち上がるのではないか、という風に予告をされているわけですね。

ダニエル書には、このミカエルの他にガブリエルという天使も出てまいります。
私(藤本牧師)は天使に詳しくないので、申し訳ないんですけれども。
ミカエルとガブリエルはよく聞きますよね。

そういう前提で、先程のへブル書の1章の5節をもう一回見ていただきますと、
へブル書の記者の質問がよく分かります。
「神はいったい、どの御使いに向かって、この言葉を言ったんだろうか?」
その言葉というのは、「あなたはわたしの子、わたしが今日、あなたを生んだ」【※詩篇2:7からの引用】
というこの言葉を、どの御使いに向かって言ったんだろうか?

《このような神との直接の関係を持っている、父なる神、子なる神と言えるような権威の存在を、いったい父なる神はどの御使いに与えたのか?》
という問いかけをこの手紙の記者はしているんですね。

結論は非常に単純で、それは天使ではない。
《そのような声を父なる神から蹴られたのはかけられたのは、イエスだけです》。
イエス・キリストはそのような声を、「あなたはわたしの子だ」という声を、バプテスマのヨハネから洗礼を受ける時にお聞きになりました。
「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と。
(***マルコ1:11,ルカ3:22、マタイ3:17)
その時だけじゃなく、先週の戸塚先生の説教の個所、変貌山でも、父なる神は同じように、イエス・キリストに同じ言葉をかけておられます。
(***マルコ9:7、ルカ9:35)

そこから、3つのポイントでお話をいたします。

1)そのように神に絶対的な交わりの中にあり、権威を授けられている御使いがいるのか?

イエス・キリストのみなのか?御使いにそのような存在はいるのか?
先ず第一番目に、御使いはそのような存在ではない、ということですね。
ちょっと聖書を見ていただきたいと思うんです。
最後の方で、話はぐう〜っとまた違う方向に行きますから、今の時間帯はじっくり聖書を読んで見てください。
6節にこうありますでしょう。
【画面:へブル1章6節「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」にピンクのハイライト傍線。また重ねて黄色のハイライトも】

6そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。
  「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」【※詩篇97:7の引用】

御使いは、神の長子、すなわち御子イエス・キリストにひれ伏すだけの存在ですね。
或いはその2行飛んで、
【画面:へブル1章7節「仕える者たち」に黄色のハイライト】

7また、御使いについては、
  「神は御使いたちを風とし、
  仕える者たちを燃える炎とされる」【※詩篇104:4の引用】
と言われましたが、

ということは、「御使い」と「仕える者」は同義語なんです。
すると、「御使い」というのは、一つの使命を担っていて、
それはひたすら「仕える」。神を拝する。
決定的なのは、ページを捲っていただいて、(へブル1章)14節にこういう風に出てまいります。

【画面:へブル1章14節全文にハイライト。「御使いは」と「救いを受け継ぐ〜ありませんか」までピンク、「御使いはみな、奉仕する霊であって」にオレンジ】

14御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。

《御使いの存在目的は、神に、キリストに奉仕する霊》であって、いやそればかりではない。
《救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされている》のではありませんか、っていうことは、《私たちは実は、御使いよりも偉大な存在》なんです。
御使いは《神の子どもとされたキリスト者に仕えるために派遣されている》。
御使いというのは、《派遣された者》っていう意味です。
《私たちは誰かに仕える時に、神によって派遣された者になる》。
また《天の使いは、いつでも私たちに仕えてくださる》。
私たちに特別な、この守護神なる天使がある、とは私(藤本牧師)は考えていません。
しかし天の使いは、とっかえひっかえ私たちを守ってくださる、というその信仰は聖書にしっかり教えられています。

申し上げたかったことは《御使いというのは、仕える、奉仕する霊》であって、キリストに礼拝し、神に仕え、また最終的には私たちに仕える霊であって、
《御使いは権威を帯びた存在ではない》。
ということをへブル人への(手紙の)記者は言いたいんですね。

2)その上で、もう一度1章の8節を見ていただきますが、ここへ戻ります。

ちょっと8節も、ず〜っと見てもう聖書を流しっぱなしにお願いしたいんですが、こうありますよね。
【画面:へブル1章8節「御子については」にピンクの囲み、9節「神よ、あなたの神は」に黄色のハイライト】

8御子については、こう言われました。
  「神よ。
  あなたの王座は世々限りなく、
  あなたの王国の杖は校正の杖。
9  あなたは義を愛し、不法を憎む。
  それゆえ、神よ、あなたの神は、
  喜びの油で、あなたに油を注がれた。
  あなたに並ぶだれよりも多く。」

もう《御使い》は分かったと。では、《御子について》はどう言われているんだろうか?
へブル人への手紙の1章はここ(***5節を指して)もそうですし、ここ(***6節を指して)もここ(***7節を指して)も、全部詩篇の引用なんです。
(⇒すべて※に該当節、【 】で記載済み)

つまり御子について、詩篇がどういう風に引用しているかということを、へブル人への(手紙の)記者は証明しているわけですけれども、8節ですね。

※ここからは、【詩篇45:6〜7までの長い長〜い引用】です。
これをちょっと一気に読んでいきます。

8御子については、こう言われました。 
  「神よ。
(***この神よ、という言葉は御子よ、という意味です、イエス・キリストよ、と説明)
  あなたの王座は世々限りなく、
  あなたの王国の杖は校正の杖。
9  あなたは義を愛し、不法を憎む。
  それゆえ、神(***キリスト)よ、あなたの神(***父なる神)は、
  喜びの油で、あなた(***キリスト)に油を注がれた。
  あなたに並ぶだれよりも多く。」

キリストに油を注がれた、というこの「神」という言葉が二回出て来るために、ものすごく厄介な詩篇45篇、そしてこのへブル人への手紙なんです。
このように1節の中に「父なる神」と「イエス・キリスト」が二回同時に「神」と呼ばれている個所は他にないんですね。
こういう箇所から、《イエス・キリストはまことの神である》という結論を、やがて新約聖書をキリスト教は導き出し、
私たちはそれがゆえに、聖書の民ではないんです、私たちはキリスト教です。
私たちは徹底して、キリストを神とし、キリストにひれ伏し、キリストに仕え、キリストを愛する民、それをキリスト教徒と言います。
  
【画面:へブル1章10〜11節「あなたははじめに〜衣のようにすり切れます」にピンクのハイライト】

10またこう言われました。
(***これまた長いんですが、ず〜っと読んで行きますね。
※10節からは【詩篇102:25〜26からの引用】なんです。)
  「主よ。
  あなたははじめに地の基を据えられました。
(***キリストが、ですよ)
  天も、あなたの御手のわざです。
11 これらのものは滅びます。
  しかし、あなたはいつまでもながらえられます。
  すべてのものは、衣のようにすり切れます。
12 あなたがそれらを外套のように巻き上げると、
  それらは衣のように取り替えられてしまいます。
  しかし、あなたは変わることがなく、
  あなたの年は尽きることがありません。」

この言葉――「すべてのものは、衣のようにすり切れていく」(11)というこの言葉に、今日は注目したいと思います。
地の基を据えられ、天もまた神の御手のわざであり、キリストが天地を創造されたということが記されています。
11節の最後に「すべてのものは、衣のようにすり切れる」、或いはその一つ前に(※ページを戻して)「これらのものは滅びます」とありますよね。

天地万物は全部滅びていく。ましてやこの世にあって、70年80年の齢。
最近元気になって、80年90年の齢であったとしても、これもまた滅びていく。
そのお父さん、お母さんを一生懸命、涙と共にお別れしたあなたも、近々滅びます。

私と家内は自分たちの子育てが終わって、しばらくしたら親の介護が入り、親の介護が入ったら、今度は自分たちが老い、なんかず〜っと、ず〜っと(笑)段々下り坂なんだなぁということを実感するようになりました。
その間に骨を折ったり、色んな病気を抱えたり、私たちが「その着物のように擦り切れ」というこの言葉を、皆さん、どういう風に実感されるんだろうかなという風に思います。

昨日、私(藤本牧師)は圭子(夫人)に「これで何人目になるのか、分からなくなっちゃった」と。
コロナ禍に入って13人目ぐらいは数えていたんです。全部で17か18なんですけれども、葬儀を行ったのは。その中の二回は葬儀を行いませんでした。
しかしその二回とも、教会員が非常に密でありましたので、色んな連絡のやりとりを取りました。
中には一週間、連絡のやりとりがあった方もいらっしゃいます。
でも僅か3年間で、今年多くないか?と思いながらも、振り返ってみると、ま、年平均して3人は亡くなっている。そう考えると、割と多いなぁと思います。

強調されるべきことは、この(へブル1章)11節と12節で二つあるんです。
一つは、すべてのものは滅びますが、しかも「衣のように擦り切れて滅ぶ」というのが、このものの言い方ですね。

T姉のご主人保(たもつ)さんは、散歩中に脳梗塞になられ、救急車で入院、ICU、割と状況はいいのではないか、ということでしたけれども、必ずしもそうではなくて、言葉は出ることはできませんでした。
一か月以上経って施設に転院され、そこでコロナになってまた入院。
最後は昨年の年末に「看取りに入ります」と病院に言われ、年を越してご自宅で看取りませんかと。
色々体制を整えて、痰の吸引、様々なことをご自宅で練習され、そしてご自宅で看取り、約三週間で天に召されました。
毎週水曜日にタブレットを使って、祈祷会があります。
そこにT姉は、わざわざ自分のタブレットをお父さんの顔に向けて、お父さんの顔を私たちに見せてくださいました。
一週間ごとに、あ、目の光が戻ったなと思いますけれども、また、お痩せになったなとも思います。
看取りは確実にやって来ているんだなということを実感しながら、共に一緒にやりました。

T武(たけし)さんは、腎臓透析ギリギリの線をこの五年やって来ました。
いつも年に何回か、電話で連絡するんですね。
去年の夏ぐらいに、「高橋さん、とうとう年貢の納め時ですね」と。「とうとう年貢の納め時です」と。
それは彼は、腎臓が片方ないんですね。
もう一つの腎臓が調子が悪いわけですから、いよいよ尿毒素が身体に回って行くという段階で、脳に回り、肝臓に回り、非常に難しい状況になってしまいました。
しばらく病院で。病院では年末に同じように「看取りに入りました」と仰いました。
でも何とかそこを頑張って、奥さまが看護婦さんですから、家に連れ帰り、そして家で看護されることになりました。
私はそこに二回お訪ねして、そしてお祈りをしました。

「看取る」ってことは尊いことです。しかし大変なことですね。
それは愛する家族が、元気なお父さんが、その「衣のように擦り切れていく姿」を時々刻々と見なければいけない。
痰の吸引や点滴という作業が大変なばかりでなく、その時々刻々と「衣のように擦り切れていく姿」を、その目で見なければいけないというのは、私(藤本牧師)は辛いなぁ、自分にはできないなぁということをつくづく感じました。

牧師として冷静に見ているようでありまして、冷静な判断を皆さんにいつもお伝えします。
「一週間以内かも知れません。その時にはここにすぐ電話をして、葬儀の予定はこういう風になります」ということを色々お話をいたします。
でも、段々私も10回ぐらい越えた位から、へたり始めました。
どうしてこんなに多いんだろうとか、どうして会えないだろうとか。

Tさんの場合はiPadを通して、最期お祈りができましたけれども、もっと手を置いて、最後の聖餐ができて、この方をきちっと整えて天国に送り出すことができたらいいのになと思いながらも、次から次になかなか伺えない形で天に召されて行くわけですよね。
それがもう数えるのがばかばかしい程人数が増えて行きますと、やっぱりなんだかんだ言って、私のような鈍感な者でも、精神がへたるんだなぁということを実感したのが先週でございました。

しかし(へブル人への手紙1章)11節、12節でもう一つ強調されていることがあります。
「すべての人は、万物は、衣のようにすたれる」というのが一つです。
でももう一つ強調されていて、それはイエス・キリストは――11節の2行目――
「イエス・キリストはいつまでもながらえる」という言葉。
それから12節の3行目――
「とこしえに変わることがありません」「あなたは変わることがない」
ついでに、(へブル)13章の8節を、皆さんご覧になってください。有名な言葉で――
「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」

「キリストは永遠なるお方であって、私たちのように人としてこの世に来られましたけれども、しかし永遠の支配者として、今この世界に君臨しておられます」
というのが、新約聖書のど真ん中にあるメッセージです。
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
でも私たちは着物のように擦り切れていきます。

すると、最後のポイントですけれども、明らかなメッセージが出て来ます。
3)私たちは滅びても、滅びない。

例外なくすべてのものが、着物のように、衣のように擦り切れていきます。
元気であっても、詩篇90篇では70年80年、今の時代であるならば、80年90年であるでしょう。

ところが、信仰というのは、このイエス・キリストに繋がることです。
《信仰というのは、このイエス・キリストと一つになること》です。
この永遠なる方と交わりに入れられ、私たちは父なる神を「天のお父さま」と呼ぶことができるわけですよね。
父なる神の家には、私たちのために部屋が沢山用意されています、とイエスさまは仰いました(***ヨハネ14:3)。
あなたにはすでに居場所が与えられていて、(神は)御使いを送って、私たちの人生は守られているんだ、ということを聖書は伝えています。
イエスさまは仰いました。
「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(***ヨハネ6:37)
「だれでもわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。」(***ヨハネ11:26)
「わたしは復活です。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(***同25)
片方で衣のように擦り切れていく人生がありながら、《イエス・キリストに繋がっているなら、私たちはとこしえにキリストと共に立つことができる》と言う。

必ず火葬式の前に読むみことばがあります。
ちょっと解り難いですけれども、聞いてください。3節から読んでいきますね。
<第一ペテロ1:3〜4>
3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
 
「ベッドで寝ている私たちは着物のように擦り切れていきます。
でもあなたの本当のいのちは、朽ちることも、汚れることも、消えていくこともなく、天に蓄えられているのです」
ということを、私たちはやっぱり味わわなければいけない。
ですから、この世の死、この世の虚しさに溺れるのも良しです。
この世の虚しさに溺れない人っていうのは、よっぽど頭が悪いんだろうと思います。
これほど虚しく、これほど多くの方が亡くなり、これほど罪深い世界です。
でも頭の良い私たちは、それを貫きながら、変わらぬイエス・キリストを見ていくんです。
そしてそのキリストに、この生涯をかけていくなら、私たちの人生の土台は擦り切れる着物の上ではなく、変わらぬキリストの上に立つことができる。

シェリー・チェイプンという女性がいました。
もう亡くなっていますけれども、末期がん(患者)を中心に伝道していました。
彼女自身が末期がんで、2年半前から医者に「9か月以内のいのちです」と言われているんですけれども、その後既に2年半生かされている。
合計、末期がんと言われて5年生かされている人物なんですけれども、彼女は末期がん病棟を巡って伝道するんですよね。

どういうメッセージを伝えるのか、考えますよね。
自分自身爆弾を抱えていますから、同じ境遇の人を励ますことができる、ということはよく分かります。
9カ月の宣告だったのに、二年半生きているわけですから、神の恵み、神の力づけ、神の奇跡というメッセージも想像しますけれども、
しかしシェリー・チェイプンのメッセージはそうではありませんでした。

彼女は書いてあります。
「私が末期の宣告を受けた時、はじめ、一日を最大限に生きようと思った。
やり残したことの後悔が無いように、一日で三日分ぐらいを精一杯に生きました。
でもそんなことは長続きしませんでした。
私は癌の宣告を受けてしばらくして、貴重な人生にとって、一時的なものと永遠的なもの、滅び去るものと滅び去らないものとの区別をすることを学びました。
そしてそれ以来、私の足は滅び去るものの上には据えてはいけないことを学びました」
というメッセージを持って、彼女は末期病棟を訪ねて行くわけですよ。

私たちは滅び去るものの上に足を置いているんですよ。
財産、名誉、業績、知識、誇り、恥、弱さ、罪深さ――私たちが感知できるものは全部滅び去るものです。
衣のように擦り切れるような人生であるのに、健康であるのに、ここまで成し遂げることができたということを誇りに思い、きっとこれによって、世界中の人は私のことを覚えているだろう――ま、ノーベル賞でも獲ったら、覚えているかもしれません。
しかしノーベル賞を獲った人のことでさえ、私たちはネットで調べてみない限りは、名前さえも思い出せないではありませんか。

基本的に私たちはこの擦り切れた着物を着ながら、擦り切れる人生の上に立っているんですよ。
そこで絶望してしまって、涙を流して、しかしキリスト者は違うと。
昨日も今日も決して変わることのないイエス・キリストの上に足を載せることによって、私たちのして来たことも、考えて来たことも、信じて来たことも、とこしえの世界へとキリストは私たちを連れて行ってくださる。

T武(たけし)さんもT保(たもつ)さんも、そのようにして、先週、着物はどんどん擦り切れ、いのちはなくなり、
しかしその足は擦り切れない、とこしえに変わらないキリストの上に立ち、新しい世界へと旅立って行かれました。

☆お祈りをいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま。あなたはこのようにして私たちの教会に、多くの天に召される方々を備えてくださいました。にもかかわらず、時に家族の者たちは苦労しますけれども、私たちは、あ、お歳だなぁ、世代が変わって行くなぁという時の流れを感じるものです。しかし実際、私たちの人生でさえ、明日のことも分かりません。もしかしたらT保さんが外に散歩に出たきっかけに脳梗塞で倒れたように、私たちも倒れるかも知れません。その途端に私たちの衣は、擦り切れていくことでありましょう。

でもどんな場面であっても、一生懸命仕事をしているこの一週間であったとしても、私の足はただ主イエス・キリストの上にある、ということをしっかりと自覚することができるようにお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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